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  • 私は信仰によって,脳外科手術に立ち向かうよう助けられた
  • 目ざめよ! 1990
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目ざめよ! 1990
目90 4/22 21–24ページ

私は信仰によって,脳外科手術に立ち向かうよう助けられた

「左目の奥に腫瘍があります」。神経科医のスチュワート先生のこの言葉に,私は自分が夢でも見ているのではないかと思いました。しかしそれも,「ご家族と連絡を取ってすぐに入院する必要があります」という先生の言葉を聞いたとき,悪夢に変わりました。

私は気が動転しました。そんなことがあるはずはありません。私は元気でした。健康な22歳の女性に脳腫瘍ができることなど,どうしてあり得るでしょうか。私は,先生の言うとおりなら自分が定めた進路を進めなくなると思い,その言葉を否定していました。私はエホバの証人で,その前日の朝,ブルックリンにあるものみの塔協会の世界本部で3か月間働くようにとの電話を受けたばかりでした。それは私が願い,祈り求めてきたことでしたから,その朝,眼科医に診てもらうために家を出たときにはこのうえなく幸福な気持ちだったのです。

ところが29時間たった今,その気分はすっかりなくなってしまいました。腫瘍があることは間違いありませんでした。私は発射管から発射されようとしている魚雷のように,MRI(磁気共鳴映像装置)の中に閉じ込められて50分間じっとしていました。私は,閉所恐怖症の気があるので,中にいる時間が長くなればなるほど居たたまれない気持ちになってゆきました。それで,落ち着けるように祈り,王国の歌をハミングし,聖句を繰り返して口に出して言ったところ,気持ちが楽になりました。それから間もなく,フィルムを持って神経科の診察室へ戻りました。そのフィルムから腫瘍の大きさが大きめのオレンジぐらいになっていることが分かり,医師から厳しい宣告を下されました。私はただちに入院しなければならないのです。先生は両親に電話をするため部屋を出てゆかれました。

私の決定に妥協の余地はない

先生は戻って来られると,「ご両親はこちらに向かっています。あなたはエホバの証人であることを話してくれませんでしたね。私たちは話し合う必要がありそうです。この手術にはどうしても輸血が必要です」と言われました。

「話し合うことなど何もありません。決定はもう下してあるんです。血液は一切使わないでください」と私は言いました。

「それでは,ご両親がおいでになった時に話し合いましょう」。

私は首を横に振り,「いいえ,そのことでは妥協の余地はないのです」と言いました。

両親は到着して,血に関する私の立場を支持してくれました。その神経科の先生は私の決定を受け入れ,その決定を尊重してくれそうな医師がいると言われました。そこで私たちは脳神経外科医のH・デール・リチャードソン先生と会うことになりました。

1988年9月29日,木曜日の夕方,私たちはリチャードソン先生の診察室を訪れ,先生にお会いしました。その後数か月の間,リチャードソン先生は私たちの生活の中でとても重要な特別の存在になりました。リチャードソン先生はすでにスチュワート先生から話を聞いておられ,血に関する私たちの立場をご存じでした。

先生はこう言われました。「血管の密集した部分を切開することになります。腫瘍は矢状静脈洞(脳の主要な血管)を囲んでいますが,どの程度なのかは切開してみないと分かりません」。

「危険な状態になる可能性があることは分かっていますが,たとえそうなっても血液は使っていただきたくありません」と,私は言いました。母と父は,自分たちの立場も私の立場と同じであることを確証してくれました。リチャードソン先生の目には涙が浮かんでいました。後で知ったことですが,先生にも二人の息子さんと一人の娘さんがいらっしゃるのです。

「皆さんの信条には同意しかねるところもありますが,お申し出は尊重しましょう。無血手術の場合,成功率は70%です。ご理解いただきたい点ですが,1回の手術で腫瘍を完全に摘出することはできないかもしれません。これほどの腫瘍ですと,手術を二,三回行なわなければならないことも珍しくありません」。

手術に備える

私は10月2日,日曜日に入院し,月曜日と火曜日の二日がかりで二つの手術前処置を施されました。まず腫瘍を養う血管を突き止め,次にその血流を減少させるのです。火曜日には一日中友人たちからの電話があり,夜には幾人か訪ねてきてくれました。みんな,次の日に何があるか知っていましたが,その場の雰囲気は陽気で楽しいものでした。

その晩はすぐに寝つきました。しかし真夜中ごろに目が覚め,不安になってきました。それはよくありませんでした。私は幾つかの「ものみの塔」誌の記事の朗読カセットテープをかけました。朝5時半に看護婦さんが入って来て,私の落ち着いた,そしてしっかりした様子に驚いていました。そのすぐあとに二人の親友が駆けつけ,その後ろには父が立っていました。彼らが私に別れのキスをしようとした時に私は,「めそめそしちゃだめよ」と言いました。

手術の準備は階下で始まり,私は注射を打たれ,そして髪を剃られました。私は横たわったままエホバに,「サタンがいつも勝つわけではないことを実証するよう助けてくださり,ありがとうございます。今日であれ,あるいは新しい世においてであれ,私は目を覚ますことを知っております。どうか,すぐに目覚めさせてください」と祈りました。車付きの寝台で手術室に運ばれると,フィルムを調べているリチャードソン先生の姿が見えました。

「おはよう,ベテル。どう? よく眠れた?」と,先生が言われました。

「私は大丈夫です。先生こそよくお休みになれたかどうか心配です」と私は答えました。

それから麻酔科医のロナルド・ペース先生が私の顔にマスクをかけ,息を深く吸って数を逆に数えるようにと言われました。私の待つ番は終わりました。

手術後の回復

次に気がついたのは,とても寒いということでした。私は麻酔薬によって引き起こされた混迷の中から抜け出そうともがきました。それは15時間ほど経過した,水曜日の夜10時10分のことでした。父は私を元気づけるため,集中治療室の中にいました。私は自分の精神機能に支障がなかったかどうか気になり,「お父さん,私を試してみて」と言うと,次々に足し算を始めました。「2足す2は4,4足す4は8,……」。512まで数えると父が,「おいおい,早すぎて付いてゆけないよ」と言いました。母は精いっぱい私を抱き締め,弟のジョナサンは野球の決勝戦の最新情報を教えてくれました。

リチャードソン先生のお話では,腫瘍は80%摘出されたということでした。先生は疲れきっておられるように見えました。13時間半も専門技術を駆使した後でしたから,それも無理のないことです。後になって知ったのですが,リチャードソン先生は父に,「危ういところでした。矢状静脈洞に達したとき,多量の出血があったのです。止血できたのは幸運でした」と言われたそうです。とにかく,手術をもう1回,もしかすると数回行なわなければなりません。「髄膜腫[私のものと同種の腫瘍]の患者の中には,3年ないし5年ごとに手術しなければならない人もいます。腫瘍を完全に取り除くことができない場合もあります」と先生は言われました。

私はこれを聞いて打ちひしがれてしまいました。クリスチャンの全時間奉仕をしながら生活するという私の希望は粉々に砕かれてしまったのです。私は泣き出し,今にもヒステリー発作を起こしそうでした。父は母と私に腕を回し,祈りはじめました。それはまるで,完全な平穏というマントで包まれたかのようでした。「一切の考えに勝る神の平和」に包まれたのです。(フィリピ 4:7)神のこの平和に包まれるのを感じたという人の経験談を読んだことはありましたが,どんな気持ちなのだろうと思っていました。でも,この時には私にもそれが分かりました。あの夜を再び繰り返したいとは思いませんが,あの経験から学んだことはいつまでも大事にしてゆきたいと思います。

私は入院中に,神の王国と地上の楽園での永遠の命という自分の希望について大勢の人々に話しました。「エホバの証人と血の問題」の小冊子を20冊と,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を5冊配布しました。退院するまでに,330枚のお見舞いカードと多くの方からの電話に加え,花や色とりどりの風船をいただきました。そうしたことから本当に勇気づけられ,世界的な兄弟関係に対する認識が一層深まりました。

私は1988年10月16日に退院しました。その日は朝から良い天気でしたが,久々に外の陽光と新鮮な空気に触れた私には,とりわけすばらしい天気のように思えました。空はいつもより青く,芝生の緑はずっと鮮やかに見えました。そのとき思ったのは,全地が楽園となった時には何もかも本当に美しいに違いないということです。もはや戦争も飢えも汚染もなく,脳腫瘍もないのです。清らかな地球がついに実現するのです。

葬式を取り決める

12月になって,もう一度リチャードソン先生に診ていただきました。腫瘍は大きくなりかけていました。実行可能な処置は外科手術だけで,手術は早ければ早いほど良いということです。私にとってこの二度目の手術は文字通りの壁,自分の進路に立ちはだかる巨大な障害物のようでした。それで,「豊かな平和は[神の]律法を愛する者たちのものです。彼らにつまずきのもとはありません」という詩編 119編165節の言葉を何度も考えました。これによって気持ちが楽になり,近づく二度目の手術は,壁というよりもハードルくらいに思えてきました。しかしもしものことを考えて,ものみの塔協会の世界本部にいる親しい友人に手紙を書き,そうなったときには私の葬式を行なってくださいと頼みました。(後で知ったことですが,父もこの兄弟に同じお願いをしていました。)

1989年1月31日,私は再び入院しました。ある面では以前より楽でしたが,危機感は前よりも高まっているように思えました。今度こそ腫瘍の残りを摘出できるのでしょうか。それとも,後日また手術をしなければならないのでしょうか。先生方は本当に優しく接してくださいました。

入院手続きをしていると,前回の麻酔科医のペース先生が来てくださり,書類手続きがすべて終わるまで1時間ほど共にいて,その後スーツケースを病室まで運んでくださいました。リチャードソン先生は,「あなたを自分の家族の一員のように扱いましょう。わたし自身がしてもらいたいようにあなたを扱いましょう」と言ってくださいました。そこには,冷たい事務的な態度はありませんでした。私は,温かな信頼感を抱いて医師たちの優しい世話に自分をゆだねることができました。

この時もまた,多くの方々がお見舞いの電話やカードをくださり,最初の試練の時に近くにいて助けてくれた親しい友人たちが,私を励まし,笑顔を保たせようと再びやって来てくれました。その日の夕方は,おしゃべりをしたり,笑ったり,盤上ゲームをしたりしながら過ごしました。

再び元の生活へ

翌朝早く,看護婦さんが来て注射を打ちました。作用が強く,回復室に戻った時には時間が全く経過しなかったかのような気がしました。今回の手術は10時間ほどで,前回ほど長くはかかりませんでした。私が目覚めたときに家族と共に受けたあいさつは,一番すばらしい強壮剤でした。リチャードソン先生は微笑みを浮かべながら,腫瘍は全部摘出できたので,完全な回復が期待できる,と話してくださったのです。そのあと,先生は私の包帯を替えながら,「ベテル,僕たちはこういう形で会うのはもうやめなきゃいけないね」と言って私を笑わせました。私たちはエホバと,この優秀な医師たちに心から感謝しました。

私は多くの人に話しかけ,神の王国に関する書籍や小冊子を以前よりもたくさん配布しました。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本は,リチャードソン先生に1冊プレゼントしました。その書籍の見返しにはこう書きました。

「命を救っていただいたお礼を言う必要が生じることなど,めったにあるものではありません。先生はそのような感謝の言葉を何度となく受けてこられたに違いありませんが,私と家族の者にとって先生のしてくださったことは,本当に大きな意味を持つものでした。この気持ちをぜひお知らせしたいと思います。先生にとって読書のために割ける時間は限られているとは思いますが,将来エホバの証人の患者を扱われるときのために,私が信じていることの根拠を理解していただくのに,この本がお役に立てばと思います。愛と感謝をこめて,ベテル・リーベンスバーガー」。

私は二度目の手術の8日後に退院し,その夜に王国会館へ行きました。2か月後には車の運転を始めました。エホバの証人としての全時間宣教も再開しました。1989年の8月には,ポーランドで開かれたエホバの証人の歴史的な大会に出席することもできました。

今や再び元の生活に戻ったのです。

[22ページの囲み記事]

母親の回想

あの夜,ベテルは父親と一緒に聖書研究に参加しました。私は非常に取り乱し,どうすることもできませんでした。私はくずおれ,寝室まで連れて行かれました。翌朝はもっとひどい状態でした。落ち着きを取り戻すことができず,泣きはじめました。夫はき然として,「わたしたちはベテルのためにしっかりした明るい態度でいなければいけないんだ」と言いました。それから夫は両腕に私を抱き,短い祈りをささげ,自分たちと今後のことをすべてエホバのみ手に託し,これからの数日を切り抜ける強さを求めました。腕に注射されたかのように,私は縫いぐるみの人形のような状態から,支えになってやれる母親へと変化しました。―ジュディス・リーベンスバーガー。

[23ページの囲み記事]

父親の回想

娘のベテルは,かなり年がいってから授かった神の賜物でした。私たちはおとぎ話に出てきそうな仲の良い家族でした。ベテルがまだ赤ん坊のときから,何でも一緒にしてきました。野に咲く花を見るときは,一緒に野原にしゃがみこんでエホバ神の芸術的センスについて学びました。雪だるまも作りました。非常に深遠な事柄も,ばかげたことも話し合いました。床に就く前には,着心地のよいパジャマ姿で母親と私の間にぴったりと寄り添う娘と共に,ひざまずいて祈りました。私たち親子は,お年寄りや困窮している人々を一緒に訪問しました。遠い国々からの仲間の証人たちを迎えるときには抱擁しました。宣教者たちや,イエス・キリストの足跡に倣って神に仕えている非常に献身的な人たちを家に招いてもてなしました。同じ信仰を持ち,同じ楽園の夢を抱いてきました。ベテルは成長して,人々を愛する子,また人々から愛されたいと願う子になりました。家族としての私たちの生活は,これまでずっと素朴で楽しいものでしたが,伝道の書がすべての人に臨むと述べている,「時と予見しえない事柄」が私たちにも臨みました。ある日突然,この大きな医学的ジレンマがその暗い陰を投げかけたのです。何の前触れもなく,人間の最大の敵である死という恐ろしいものが,私たちの前に現われたのです。―チャールズ・リーベンスバーガー。

[24ページの図版]

二度目の手術を直前に控えた,ベテルと両親

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