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すべてのものを新しくする ― 予告されていたとおりにものみの塔 2000 | 4月15日
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13,14 (イ)「新しい天と新しい地」という表現について,他のどんな例を考慮すべきですか。(ロ)この時点で,ペテロの預言に特に興味をそそられるのはなぜですか。
13 要点を見落とさないでください。ここでは聖書の解釈を試みているのでもなければ,古代の歴史をただ一瞥しているのでもありません。そのことは,「新しい天と新しい地」という表現が用いられている別の箇所に進むと分かります。ペテロ第二 3章のその箇所を考慮すると,わたしたちの将来の関係していることが理解できるでしょう。
14 使徒ペテロがこの手紙を書いたのは,ユダヤ人が故国に帰還してから500年以上も後のことでした。ペテロはイエスの使徒の一人としてキリストの追随者たちに手紙を書いています。キリストはペテロ第二 3章2節で「主」として触れられています。4節でペテロが「約束された[イエス]の臨在」について述べているため,その預言は今日,非常に時宜にかなったものとなっています。豊富な証拠の示すところによれば,第一次世界大戦以降,イエスは,神の天の王国で支配者としての権威を有しておられるという意味で臨在しておられます。(啓示 6:1-8; 11:15,18)そのことは,ペテロがこの章で予告した別の事柄を考えに入れると,特別な意味を帯びてきます。
15 「新しい天」に関するペテロの預言は,今日どのように成就を見ていますか。
15 ペテロ第二 3章13節には,「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」と記されています。天におられるイエスが「新しい天」における主要な支配者であることは,すでにご存じかもしれません。(ルカ 1:32,33)しかし,他の聖句によれば,イエスだけが支配するのではありません。イエスは,使徒たちと使徒たちのような他の人々が天に場所を占めることを約束されました。ヘブライ人への手紙の中で,使徒パウロはそうした人たちのことを「天の召しにあずかる人たち」と呼びました。そしてイエスは,このグループに属する人々がご自分と共に天の王座に座るであろうと言われました。(ヘブライ 3:1。マタイ 19:28。ルカ 22:28-30。ヨハネ 14:2,3)要点は,ほかの者たちもイエスと共に新しい天の一部として統治するということです。ではペテロは「新しい地」という語によって,何を伝えていたのでしょうか。
16 どんな「新しい地」がすでに存在していますか。
16 古代における成就,つまりユダヤ人の故国への帰還の場合と同様に,ペテロ第二 3章13節の現代における成就には,新しい天による支配に服する人々が関係しています。今日,そうした支配に喜んで服する幾百万もの人々がいます。その人々は,新しい天の教育プログラムから益を得ており,聖書に収められている,新しい天の律法に従おうと努めています。(イザヤ 54:13)それらの人たちは,あらゆる国籍,言語,人種の人々から成る一つの世界的な社会を構成するという意味で「新しい地」の基礎となり,統治する王イエス・キリストに服して共に働きます。意義深いのは,あなたもその一人になれる,ということです。―ミカ 4:1-4。
17,18 ペテロ第二 3章13節の言葉が,将来に目を向ける理由を示している,と言えるのはなぜですか。
17 話はこれで終わったとか,これ以上詳しく将来を洞察することはできない,と考えてはなりません。それどころか,ペテロ第二 3章の文脈を調べると,前途に重大な変化の控えていることが読み取れます。ペテロは5節と6節でノアの日の大洪水について,すなわち当時の邪悪な世界を終わらせた洪水について書いています。7節では,「今ある天と地」つまり支配層と民の両方が「不敬虔な人々の裁きと滅びの日」のために留め置かれている,と述べています。この聖句から,「今ある天と地」という表現が,物質宇宙ではなく,人間と人間による支配を指していることを確認できます。
18 続く部分のペテロの説明によると,来たるべきエホバの日には大規模な清める業が行なわれ,13節に述べられている新しい天と新しい地の到来が可能になります。同じ節の最後に,「そこには義が宿ります」とあることに注目してください。これは,今後,大きな変化が生じて必ず事態が改善されるという意味ではないでしょうか。これによって,まさに新しいもの,つまり人間が今よりも生活を楽しめる時代に対する期待が高められるのではないでしょうか。この点を理解できるとすれば,聖書の予告に対する洞察を得たことになります。そうした洞察を得ている人は比較的少数です。
19 「啓示」の書は,どんな背景の中で,今後到来する「新しい天と新しい地」のことを述べていますか。
19 さて,もっと掘り下げてみましょう。ここまでで,「新しい天と新しい地」という表現が出てくるイザヤ 65章と,もう一つの箇所ペテロ第二 3章に注目しました。次に取り上げるのは啓示 21章です。聖書中のこの部分にも,いま考慮している表現が出ています。この場合も,背景を理解することが助けになります。2章前の啓示 19章では,ひとつの戦争が生き生きとした象徴的な言い回しで描写されていますが,それは反目し合う国家間の戦争ではありません。一方の側にいるのは「神の言葉」です。それがイエス・キリストを指す称号であることはご存じでしょう。(ヨハネ 1:1,14)イエスは天におられます。そして,この幻の中ではイエスがご自分の天軍と共におられる様が描かれています。だれを相手に戦うのでしょうか。19章によると,それは「王たち」と「軍司令官たち」,そしてさまざまな階級の人々である「小なる者と大なる者」です。この戦いには,来たるべきエホバの日,つまり悪の滅びが関係しています。(テサロニケ第二 1:6-10)その先の啓示 20章の冒頭部分は,『悪魔またサタンである初めからの蛇』が取り除かれることについて述べています。これで啓示 21章を考慮する準備が整ったことになります。
20 啓示 21章1節は,どんな著しい変化が前途に控えていることを示していますか。
20 使徒ヨハネは,まず,興奮を誘うこのような言葉を述べます。「わたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない」。イザヤ 65章とペテロ第二 3章でこれまでに見た事柄によれば,この言葉は,文字通りの天や,地球とその水の深みが取り替えられる,という意味でないことは確かです。20章までで明らかなように,邪悪な人々とその支配は,目に見えない支配者であるサタンもろとも取り除かれます。確かに,この約束は,地上の人々が関係している新しい事物の体制について述べています。
21,22 ヨハネはどんな祝福について確証を与えていますか。涙がぬぐい去られるとは,どういう意味ですか。
21 この点については,このすばらしい預言を調べてゆくと確証が得られます。3節の終わりには,神が人と共にいて,神のご意志を行なう人々に恵み深い関心を向けられる時のことが述べられています。(エゼキエル 43:7)ヨハネは4節と5節で続けてこう述べています。「神[エホバ]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである。そして,み座に座っておられる方がこう言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』。また,こう言われる。『書きなさい。これらの言葉は信頼できる真実なものだからである』」。何と励みとなる預言でしょう。
22 少し立ち止まって,聖書が予告している事柄を味わってみましょう。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださ(る)」とあります。ここで言う涙は,感覚器官である目を潤す普通の涙であるはずはありませんし,喜びの涙であるはずもありません。神がぬぐい去ってくださるのは,苦悩,悲嘆,失望,痛み,苦悶などのゆえに流される涙なのです。なぜそう断言できますか。それは,神のこの驚くべき約束において,涙をぬぐい去ることと,『死も嘆きも叫びも苦痛ももはやない』こととが結びつけられているからです。―ヨハネ 11:35。
23 ヨハネの預言は,どんな状態が終わることを保証していますか。
23 これは,がんも脳卒中も心臓発作もなく,死さえなくなっているということではないでしょうか。だれでも,愛する人を病気や事故や災害で亡くしたことがあるのではないでしょうか。ここで神は死がなくなることを約束しておられます。このことからすると,その時に生まれるかもしれない子どもたちは,成長して年を取り,やがては死を迎えることを余儀なくされるのではありません。さらに,この預言によれば,年を取ると多くの人がかかるアルツハイマー病や骨粗鬆症,子宮筋腫や緑内障,そして白内障さえ,もはやない,ということになります。
24 「新しい天と新しい地」は,どんな点で祝福となりますか。次に何を考慮しますか。
24 死や老化や病気がなくなれば嘆くことや叫ぶことも少なくなる,とあなたも思われるでしょう。とはいえ,ひどい貧困や児童虐待,また人の育ちや皮膚の色による抑圧的な差別などはどうでしょうか。今日よく見られるそうした問題が続くとすれば,嘆きや叫びから解放されることはないでしょう。ですから,「新しい天と新しい地」のもとでの生活は,現在悲しみをもたらしているそれらのものによって損なわれることはありません。何と大きな変化でしょう。
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新しい世 ― あなたはそこにいますかものみの塔 2000 | 4月15日
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2 あなたが心待ちにしている事柄にはどんなものがありますか。
2 前の記事では,聖書が「新しい天と新しい地」について予告している四つの箇所のうち,三つを調べました。(イザヤ 65:17)それら信頼できる予言の一つは,啓示 21章1節に記されています。続く数節には,全能の神が地上の状態を大きく好転させる時のことが述べられています。神は悲嘆の涙をぬぐい去ってくださいます。人が老齢や病気や事故で死ぬことはもはやありません。嘆きも叫びも苦痛も過去のものとなります。何と喜ばしい見込みでしょう。ですが,そのような時が来ることを確信できるのでしょうか。その見込みは,今わたしたちにどんな影響を与えますか。
確信を持てる理由
3 将来に関する聖書の約束を信頼できるのはなぜですか。
3 啓示 21章5節の続く部分に注目してください。そこには,天の王座に座しておられる神の,「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」という宣言が引用されています。神のこの約束は,国家のどんな独立宣言よりも,現代のどんな権利規定よりも,人間が抱く将来のどんな夢よりも勝っています。これは聖書の中で,「偽ること(が)できない」とされている方による,完全に信頼できる宣言です。(テトス 1:2)自分はこの申し分のない見込みに胸をはずませ,神を信頼しているので,話はここまでで十分だと思われたとしても,それは理解できます。しかし,ここで切り上げる必要はありません。わたしたちの将来について学ぶべきことはもっとあるのです。
4,5 すでに考慮したどんな聖書預言は,前途にあるものに対する確信を強めてくれますか。
4 新しい天と新しい地に関する聖書の約束について,前の記事で確認した事柄を振り返ってみましょう。イザヤはそのような新しい体制を予告し,その預言はユダヤ人が故国に帰還し,真の崇拝を復興した際に成就しました。(エズラ 1:1-3; 2:1,2; 3:12,13)しかし,イザヤの預言が指し示していたのはそれだけだったのでしょうか。決してそうではありません。イザヤの予告した事柄は,遠い将来に,もっと壮大な成就を見ることになっていました。なぜそのような結論に達するのでしょうか。ペテロ第二 3章13節と啓示 21章1節から5節に記されていることが根拠となります。これらの聖句では,世界規模でクリスチャンに益をもたらす新しい天と新しい地に注意が向けられています。
5 初めに述べたとおり,聖書は「新しい天と新しい地」という表現を4回用いています。そのうちの三つをこれまでに取り上げ,励みとなる結論に到達しました。聖書は,神が悪を除き去るだけでなく,苦しみの他の原因も除き去り,その後,約束された新しい体制において人類をさらに祝福なさることをはっきりと予告しています。
6 「新しい天と新しい地」に言及している四つ目の預言は,何を予告していますか。
6 では,「新しい天と新しい地」という表現が用いられているもう一つの箇所を調べてみましょう。イザヤ 66章22節から24節です。「『わたしの造っている新しい天と新しい地がわたしの前に立っているのと同じように』と,エホバはお告げになる,『あなた方の子孫とあなた方の名も立ちつづける……』。『そして,必ず新月から新月,安息日から安息日へと,すべての肉なる者がわたしの前で身をかがめるために入って来るであろう』と,エホバは言われた。『そして,彼らは実際に出て行き,わたしに対して違犯をおかしていた者たちの死がいを見つめるであろう。それらについた虫は死なず,その火は消されず,それらはすべての肉なる者にとって必ず嫌悪の情を起こさせるものとなるからである』」。
7 イザヤ 66章22-24節はこれから成就を見ると結論すべきなのはなぜですか。
7 この預言は,故国に再び定住したユダヤ人たちに適用されましたが,さらに別の成就もあります。その成就は,ペテロの第二の手紙や「啓示」の書が記された時よりも後代に生じるはずです。それらの書は将来の『新しい天と地』を指し示しているからです。わたしたちは,新しい体制におけるその壮大で完全な成就を待ち望むことができます。心待ちにすることができる状態を幾つか考えてみてください。
8,9 (イ)神の民はどんな意味で「立ちつづけ」ますか。(ロ)エホバの僕たちが「新月から新月,安息日から安息日へと」崇拝を行なうという預言には,どんな意味がありますか。
8 啓示 21章4節には,もはや死はないと述べられています。イザヤ 66章の聖句もそれと調和しています。22節から分かるとおり,エホバは新しい天と新しい地が一時的な,限られた期間だけのものではないことをご存じです。さらに,神の民も存在を保ち,神の前に「立ちつづけ」ます。神がご自分の選んだ民に対してすでに行なわれた事柄は,わたしたちの確信の根拠となります。真のクリスチャンは悪意に満ちた迫害だけでなく,根絶を図る狂信的な企てにもさらされてきました。(ヨハネ 16:2。使徒 8:1)しかし,ローマ皇帝ネロやアドルフ・ヒトラーなど,神の民の非常に強力な敵たちでさえ,神のみ名を担う,神に忠節な者たちを根絶やしにすることはできませんでした。エホバはご自分の民の会衆を存続させてこられました。ですからわたしたちは,エホバが今後も会衆をずっと立ちつづけさせてくださるという確信を抱くことができます。
9 同様に,新しい世における真の崇拝者たちの社会,つまり新しい地の構成員として神に忠実を示す者たちも,個々に立ちつづけます。万物の創造者に清い崇拝をささげるからです。その崇拝は時折ささげるもの,あるいは思いついたようにささげるものではありません。モーセを通してイスラエルに与えられた神の律法は,新月で区切られる月ごとに,また安息日で区切られる週ごとに,特定の崇拝行為をするよう要求していました。(レビ記 24:5-9。民数記 10:10; 28:9,10。歴代第二 2:4)それで,イザヤ 66章23節は,神の崇拝が,来る週も来る月も,定期的かつ継続的に行なわれることを示しているのです。その時には,無神論や宗教上の偽善は存在しません。「すべての肉なる者が[エホバ]の前で身をかがめるために入って来る」のです。
10 新しい世が邪悪な者たちによって損なわれることは永久にない,と確信できるのはなぜですか。
10 イザヤ 66章24節は,新しい地の平和と義が脅かされるおそれはないと確約しています。邪悪な者たちが新しい地を破滅させることはありません。前途には「不敬虔な人々の裁きと滅びの日」が控えているという,ペテロ第二 3章7節の記述を思い起こしてください。最期を遂げるのは不敬虔な人々です。罪のない人が害を被ることはありません。人間の戦争で往々にして生じるように,軍人より民間人の死傷者数のほうが多い,ということはありません。偉大な裁き主は,ご自分の日に生じるのは不敬虔な人々の滅びであるという保証を与えておられます。
11 イザヤは,神と神の崇拝に背を向ける人々が将来どうなることを示していますか。
11 生き残る義なる人々は,神の預言の言葉が真実であることを目の当たりにするでしょう。24節は,「[エホバ]に対して違犯をおかしていた者たちの死がい」が神の裁きの証拠になる,と予告しています。イザヤの用いた生々しい言葉遣いは衝撃的に思えるかもしれませんが,歴史上の事実に即しています。古代エルサレムの城壁の外にはごみ捨て場があり,時には,普通に葬るには値しないとみなされた,処刑後の犯罪者の死体も捨てられました。a そこでは,ごみもそれらの死体も,虫と焼き尽くす火により,やがて食い尽くされてしまいます。イザヤの用いた比喩表現は,違犯をおかす者たちに対するエホバの裁きの結末を描いているようです。
神が約束しておられるもの
12 イザヤは,新しい世での生活について,さらにどんなことを示唆していますか。
12 啓示 21章4節は,来たるべき新しい体制には存在しない幾つかのものについて述べています。しかし,その時には何が存在するのでしょうか。どんな生活になるのでしょうか。それを知るための信頼できる手がかりはあるのでしょうか。確かにあります。イザヤ 65章には,エホバがそのような新しい天と新しい地を最終的な意味で創造される時,もしわたしたちがエホバの是認を得て生きられるなら経験できる状態が,預言的に描写されています。新しい地において永続的な場所を祝福として与えられる人たちが,年を取ってやむなく死を迎える,ということはありません。イザヤ 65章20節は,このように確約しています。「数日しか生きない乳飲み子も,自分の日を全うしない老人も,その場所からはもはや出ない。人は百歳であっても,ほんの少年として死ぬからである。罪人については,その者が百歳であっても,その身の上に災いを呼び求められるであろう」。
13 イザヤ 65章20節は,神の民が安全を享受することをどのように確約していますか。
13 この言葉は,最初にイザヤの同国人に成就した時,その地の赤子は安全であるということを意味しました。かつてバビロニア人が行なったように,敵が来襲して乳飲み子をさらって行ったり,働き盛りの男たちを殺したりすることはありませんでした。(歴代第二 36:17,20)来たるべき新しい世において人々は安全で,安心して暮らし,生活を楽しむことができます。神にあえて反逆する人は,生き続けることを許されません。神はその人を除き去られるでしょう。反逆的な罪人が100歳であるならどうでしょうか。終わりのない命を得ることと比べれば,その人は「ほんの少年として」死ぬことになります。―テモテ第一 1:19,20。テモテ第二 2:16-19。
14,15 イザヤ 65章21,22節に基づいて,あなたは報いの多いどんな活動を心待ちにすることができますか。
14 イザヤは,故意に罪をおかす人がどのように除き去られるかに焦点を合わせるのではなく,新しい世に行き渡る生活状態を描写しています。その光景の中に自分を置いてみてください。まず目に浮かぶのは,身の回りの事柄かもしれません。イザヤはその点を21節と22節で取り上げています。「彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである」。
15 建設や園芸の経験がない方には,イザヤの預言からして,いろいろと教育の機会があるようです。では,有能な指導員が,それもおそらく近所の親切な人が快く手を貸してくれるとしたら,あなたは喜んで学ぶでしょうか。家には,熱帯のそよ風を満喫できるように,ブラインド付きでガラスのない大きな窓があるのか,それとも,はめ込まれたガラス窓から四季の移り変わりを眺められるのか,イザヤは述べていません。家は雨や雪が流れ落ちるよう,屋根に勾配を付けますか。それとも,住む場所の気候に合わせて,中東の家のような平屋根にして,その上で家族が食事や団らんを楽しめるようにしますか。―申命記 22:8。ネヘミヤ 8:16。
16 新しい世では満ち足りた生活がずっといつまでも続くという期待を抱けるのはなぜですか。
16 そうした詳細な点を知ることよりも,自分自身の住まいが持てる,ということのほうに意味があります。それはあなたの家なのです。今のように,あくせく働いて家を建てても結局ほかの人が恩恵を受ける,ということはありません。イザヤ 65章21節には,あなたは園を設けてその実を食べるとも記されています。明らかにこれは,全体的な状況を要約した言葉です。つまり,自分の努力を通して,労苦の実である深い満足を得るということです。「木の日数のよう(な)」長い人生にわたって,そうすることができます。それはまさに,「すべてのものを新しくする」という描写に合致します。―詩編 92:12-14。
17 親の立場にある人にとって,どの約束は特に励みとなりますか。
17 お子さんのいる方は,次の言葉に心を打たれることでしょう。「彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである。そして,彼らが呼ばわる前に,わたし自身が答え,彼らがまだ話しているうちに,わたし自身が聞くことになる」。(イザヤ 65:23,24)あなたは自分の経験を通して,「騒乱のために産み出す」ことの苦しみを知るようになったでしょうか。子どもたちは,親や周りの人たちに騒乱をもたらすような問題を引き起こすことがあります。それらの問題を逐一取り上げるまでもないでしょう。それに関連して言えば,わたしたちは皆,親が自分の仕事や雑事や楽しみに夢中になり,我が子と過ごす時間をめったに作れない,ということも目にしています。それとは対照的に,エホバは,わたしたちの必要とすることを聞き届けてその必要を満たすだけでなく,そうした必要を見越すことさえすると確約しておられます。
18 新しい世で動物から楽しみが得られると期待できるのはなぜですか。
18 新しい世でどんな楽しみがあるかを考えながら,神の預言の言葉が描写している光景を思い描いてみてください。「『おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇に関しては,その食物は塵となる。これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない』と,エホバは言われた」。(イザヤ 65:25)人間の画家たちは,その光景を絵に描こうとしてきました。しかし,これは単に芸術的な想像をたくましくして作り上げた架空の光景ではありません。これは現実となるのです。人類社会に平和が行き渡り,それと調和して動物との平和ももたらされます。多くの生物学者や動物愛好家たちは人生の盛りの時期を費やして動物を研究していますが,研究できるのは数種類,あるいは一つの種か品種だけです。それとは対照的に,動物が人への恐れに支配されないなら人間がどれほどのことを学べるか,考えてみてください。そうなれば,森やジャングルに生息する鳥や小さな生き物にさえ近づくことができます。それらを観察し,研究し,楽しむことができます。(ヨブ 12:7-9)それも,人間や動物から危害を被ることなく,安全にそうできるのです。「これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない」とエホバは言われます。現在,わたしたちが見たり経験したりすることとは何という違いでしょう。
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