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  • 有意義な人生のかぎは何か
    ものみの塔 2007 | 11月15日
    • 有意義な人生のかぎは何か

      ケニーは一流の証券会社に勤め,高級な外車を乗り回し,大都市の一等地にペントハウスを所有していました。スカイダイビングの腕はプロ級で,数千メートル上空から急降下するスリルを味わっていました。充実した人生でしたか。ウォールストリート・ジャーナル紙(英語)によれば,ケニーはこう言っています。「45歳になったが,人生の当てがない。……むなしい人生だ」。

      エリンは努力を重ねてアイススケーターとして成功を収め,スターの座を手に入れました。念願の名声を手にしたエリンはこう語っています。「しかし,予期していたあの幸福感は一体どこにあるのでしょうか。私はひどい孤独を感じただけでした。私もついには年を取ってしまうのでしょうか。経済的に安定していても,生きることがただこれだけのものなら,生活はかなり空虚なものになるでしょう」。

      巧みな色使いで知られた秀男は,芸術のために生きました。妥協したくないので自分の作品を売ることはせず,98年間の生涯を閉じる間際に大半を美術館に寄贈しました。美の探究に一生をささげたのです。それでも満足しておらず,自分の芸術を完成させるには永遠の時間が必要だと考えていました。

      他の人々を助けることに打ち込む人もいます。米国ハリウッドの大手映画会社の副社長だった人もその一人です。この人は,有名人との交友があり,高級住宅地に住んでいました。休暇でカンボジアを訪れた際,プノンペンのカフェで食事をしていると,一人の少女が物ごいに来ます。1㌦と飲み物をあげると,その子は喜びました。しかし次の晩も,その子は同じ場所で物ごいをしています。この人は,単なる施し以上のものが必要なことを悟りました。

      1年後,意を決して仕事を変えることにしました。娯楽産業での仕事を辞め,カンボジアの貧しい人たちの援助を始めたのです。寄宿舎と食事付きの学校を設立しました。しかし,ジレンマに悩む日々が続いています。自分が成し遂げていることに喜びや満足を感じる一方,対処すべき問題が増大するばかりで落胆や挫折感を味わっているのです。

      ここで取り上げた4人は全員,自分が何のために生きているか分かっていると思っていました。それでも,努力を重ねてついに目標を達成した時,むなしさを感じたのです。では,あなたは何のために生きていますか。人生で何を一番大事にしていますか。今の生き方を後悔することはない,という確信がありますか。

  • 有意義な人生を送るには
    ものみの塔 2007 | 11月15日
    • 有意義な人生を送るには

      多くの人が,お金やお金で買える物のために生きています。また,名声を得るために生きる人や,自分の芸術を極めるために生きる人もいます。他の人々を助けることに生涯をささげる人もいます。とはいえ多くの人は,自分が何のために生きているのか,なぜ存在しているのかを知りません。

      あなたはいかがですか。自分が存在している理由を真剣に考えたことがありますか。人々が追い求めている幾つかの事柄について,それが本当に達成感や満足感をもたらすかどうかを確かめてみるのはいかがですか。どうすれば有意義な人生を送れるのでしょうか。

      金銭や趣味の占めるべき位置

      聖書は,伝道の書 7章12節でこう述べています。『金が身の守りであるように,知恵も身の守りである。しかし知識の利点は,知恵がそれを所有する者たちを生きつづけさせることにある』。金銭は有用です。生活してゆくにはお金が必要です。家族を養う責任があるなら,なおさらです。―テモテ第一 5:8。

      趣味など,お金を使って楽しめる事柄のない生活は考えにくいでしょう。キリスト教の創始者イエス・キリストは,頭を横たえる所もありませんでしたが,ときおり上等の料理やぶどう酒を味わいました。さらに,高価な衣服を身に着けるのを控えたりはしませんでした。―マタイ 8:20。ヨハネ 2:1-11; 19:23,24。

      とはいえ,イエスは楽しみを追い求めるために生きたのではありません。優先すべき事柄を正しく見極めていました。イエスは,「満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じない」と述べてから,ある富んだ人の例えを語りました。その人は大豊作の時に次のように考えます。「どうしようか。作物を集める場所がないのだ。……わたしの倉を取り壊して,もっと大きいのを建て,そこにわたしの穀物と良い物をみんな集めるのだ。そして自分の魂にこう言おう。『魂よ,お前にはたくさんの良い物が何年分もためてある。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ』」。この人の考え方はどこが間違っていたでしょうか。例えはこう続きます。「神は[その富んだ人]に言われました,『道理をわきまえない者よ,今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,あなたの蓄えた物はだれのものになるのか』」。この人は作物を蓄えましたが,死んでしまい,ため込んだ物を楽しむことはできませんでした。イエスは結びに,聴衆に次のような教訓を与えます。「自分のために宝をためても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」。―ルカ 12:13-21。

      お金が必要なのは確かです。人生には楽しみ事の占める場所もあります。とはいえ,金銭も趣味も人生の最も重要な事柄ではありません。神に対して富むこと,つまり神の恵みを得られる生き方をすることこそ,何にも増して追い求めるべき最も重要な事柄なのです。

      名声を得るのは重要か

      名声を得るために生きる人も大勢います。名を揚げて他の人の記憶に残る存在になりたいと願うのは,必ずしも悪いことではありません。聖書は,「名は良い油に,死ぬ日は生まれる日に勝る」と述べています。―伝道の書 7:1。

      死ぬ日は,いわば人の全生涯の記録が書き終えられる日です。良い事柄を成し遂げた人にとって,死ぬ日は,何の記録も持たずに生まれた日よりもはるかに勝っています。

      聖書の「伝道の書」を記したのはソロモン王です。ソロモンの異母兄弟アブサロムは名を成したいと思いました。しかし,後世に自分の名を伝えてくれるはずの息子が3人とも早死にしたようです。アブサロムはどうしたでしょうか。聖書はこう述べています。『アブサロムは,一本の柱を自分のために立てたが,それは“王の低地平原”にある。彼は,「わたしにはわたしの名を記憶にとどめるための息子がいない」と言ったのである。それで,彼はその柱を自分の名前で呼んだ』。(サムエル第二 14:27; 18:18)現在,この柱の跡すら見つかっていません。アブサロムは,父ダビデの王位の簒奪を企てた悪名高い反逆者として,聖書を研究する人たちに知られているだけです。

      今日,多くの人が何らかの業績によって人々の記憶に残る存在になろうと努力しています。ころころと好みが変わる人々からの栄光を求めているのです。そうした名声はどうなりますか。「ナルシシズムの文化」(英語)という本の中で,クリストファー・ラッシュはこう述べています。「成功が若さや容姿や目新しさによって大いに左右される現代,栄光は以前にも増してはかないものとなっている。世間の注目を得ている人は,それを失うのではないかと絶えず気をもんでいる」。その結果,多くの有名人が麻薬やアルコールに走り,往々にして命を縮めています。名声を求めるのは不毛なことなのです。

      では,だれからの良い評判を得るべきなのでしょうか。エホバという神は,ご自分の律法に従う人たちについて,預言者イザヤを通してこう述べておられます。「わたしはわたしの家で,わたしの壁の内側で,彼らに記念物と名を……与えよう。わたしは定めのない時に至る名を,断ち滅ぼされることのない名を彼らに与えるであろう」。(イザヤ 56:4,5)神への従順ゆえに神に受け入れられる人たちは「記念物と名」を得ます。その名は「定めのない時」まで神の記憶にとどめられるので,彼らは断ち滅ぼされません。聖書が得るよう勧めているのは,このような名,創造者エホバのみ前における良い評判という名です。

      イザヤが預言していたのは,忠実な人たちが地上の楽園で永遠の命を受ける時のことです。その楽園における「永遠の命」こそ「真の命」,神が人間を創造した時に意図しておられた命です。(テモテ第一 6:12,19)はかなくて満たされない人生を送るよりも,永遠の命をとらえようと努めるほうがよいのではないでしょうか。

      芸術や人道主義 ― 十分ではない

      多くの芸術家は,作品の出来を高めて,自分の芸術を完成の域に到達させたいと願っています。そうするには現在の命は短すぎます。前の記事に出てきた芸術家の秀男は,90代になっても自分の腕を磨こうと努力していました。芸術家は,自分の作品に満足できるレベルに達したとしても,その時には若いころほど多くの作品を生み出すことはできないでしょう。しかし永遠の命があったらどうですか。芸術を完成させる無限の可能性があるのではないでしょうか。

      人道主義を追求する生き方については何と言えますか。困窮している人たちに目を向け,私財を投じて援助するのは褒めるべきことです。聖書は,「受けるより与えるほうが幸福である」と述べています。(使徒 20:35)他の人の福祉に関心を払うなら,大きな充実感が得られるでしょう。とはいえ,一人の人が生涯をささげたとしても,どれほどのことが行なえるでしょうか。わたしたち人間が他の人の苦しみを軽減するためにできることには限りがあります。そして,どれだけ物を与えたとしても,大半の人がないがしろにして満たさずにいる基本的な必要を満たすことにはなりません。それはどんな必要でしょうか。

      生まれつきの必要を満たすことが不可欠

      イエスは,山上の垂訓と呼ばれる有名な教えの中で,生まれつきの基本的な必要について次のように述べています。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(マタイ 5:3)ですから聖書によれば,真の幸福は,富や名声,芸術や人道主義には依存していません。むしろ,自分の霊的な必要,つまり神を崇拝するという必要を満たすことに依存しているのです。

      使徒パウロは創造者を知らない人たちに,創造者を探し求めるよう勧め,こう述べています。『[神は]一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからです』。―使徒 17:26-28。

      まことの神を崇拝するという必要を満たすことが,人生の真の幸福を得るかぎです。この霊的な必要を満たす人には,「真の命」を得る見込みもあります。テレサの例を考えましょう。テレサは,アフリカ系アメリカ人の女優として初めて1時間の連続ドラマの主役を演じ,アメリカのテレビ史に名を残しました。しかし,間もなくそれらすべてを後にします。なぜでしょうか。彼女はこう語りました。「神の言葉の助言に従うことこそ最善の生き方であると私は確信しています」。テレサは,性や暴力を売り物にする連続ドラマへの出演によって神との関係が損なわれることを望まなかったのです。彼女は大衆の前から姿を消しましたが,新たな生き方から真の満足を得るようになりました。全時間の奉仕者として,神の王国の良いたよりを宣べ伝え,他の人が神との良い関係を持てるよう助けたからです。

      女優を辞めるというテレサの決定について,以前の仕事仲間は次のように語りました。「がっかりしました。彼女がせっかく手にしたものを手放すのを見たくなかったのです。でも,彼女はもっと大事なもの,もっと良いものを見つけたようです」。テレサが亡くなった後,同じ人はこう語りました。「彼女は幸せでした。人生にそれ以上のものは望めません。どれほどの人が,自分は幸せだと言えるでしょうか」。神との関係を生活の中で第一にする人は,命を失うとしても,王国の支配下での復活というすばらしい見込みがあります。―ヨハネ 5:28,29。

      創造者は,地球と人類に関して目的をお持ちです。そして,あなたがその目的を理解して地上の楽園での永遠の命を楽しむことを願っておられます。(詩編 37:10,11,29)今こそ,天と地の創造者エホバについて,さらにエホバがあなたのために意図しておられる事柄について学ぶべき時です。その知識を得られるよう,お近くのエホバの証人は喜んでお手伝いいたします。ぜひ,エホバの証人と連絡をお取りになるか,この雑誌の発行者に手紙をお寄せください。

      [5ページの図版]

      イエスの例えに出てくる富んだ人の考え方はどこが間違っていたか

      [7ページの図版]

      地上の楽園での永遠の命を楽しみたいと思いませんか

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