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  • 人生には目的がありますか
    目ざめよ! 1992 | 4月22日
    • 人生には目的がありますか

      「『わたしたちはなぜ生きているのだろう』という疑問は,人間が避けて通れない最も重要な疑問である。……無意味な死を見てはきたが,人生には意味があると私は信じている」。

      ナチの強制収容所を生き延びた有名な作家,エリー・ウィーゼルは上のように述べました。ウィーゼルは,ライフ誌が提起した,「わたしたちはなぜ生きているのだろう」という質問に対する多くの回答者の中の一人でした。彼は最悪の生活状態を目にしましたが,それでも人生には意味があるということを確信していました。

      しかし,すべての人がそう思っているわけではありません。タクシーの運転手,ホセ・マルティネスは同じ質問に対してこう答えています。「死ぬために生きているんだよ。寿命がきたら死ぬ,それだけさ。おれはタクシーの運転手だけど,釣りもするし,女の子とデートもする。税金も払うし,読書も多少はする。それから,ばったりと死ぬための用意をする。……人生なんてすべてまやかしさ」。ホセにとって,人生には意味も目的もなさそうです。

      驚いたことに,教育を受けた人たちの中にも,先ほどの作家よりむしろこのタクシー運転手と同様の意見を述べた人がかなりいたようです。進化論者のリチャード・E・リーキーとロジャー・レーウィンは共著書,「起源<オリジン>」の中で次のような考えを持ち出しています。「おそらく人類という種はひどい生物学的失敗作にほかならず,自分たちと,自分たちをとり囲む世界との調和を保って繁栄する限界を通り越して,進化してしまったのにちがいない」。少なくとも彼らにとって,人生は意味のないものです。

      同様に,進化論者のスティーブン・ジェイ・グールドはこう述べています。「我々が存在しているのは,ある風変わりなグループの魚の特異なひれの構造が陸生生物の足に変化したからであり,……25万年前にアフリカに現われた小さくて弱い種が,これまでなんとかうまく生き延びてきたからである。我々は“もっと高尚な”答えを希望するかもしれないが,そのような答えなど存在しない」。グールドにとって,人生とは意味のない偶然の所産なのです。

      グールドが言ったことは,少なくとも一つの点においては正解でした。彼が提出した答えよりも,“もっと高尚な”答えを実際に希望している人は少なくないからです。多くの人は悲劇に見舞われると,11歳のジェイソンと同じように考えます。この少年は幼い友達の死についてこう書いています。「友達のキムがガンで死んだとき,僕はお母さんに,もし神様がキムをたった6歳で死なせるつもりだったのなら,どうして生まれさせたりしたの,と聞きました」。ジェイソンは,人生には目的があるはずなのに,自分の幼い友達の悲しい死はその目的にそぐわないようだと本能的に感じたのです。

      この疑問の重要性

      人生に目的があるかどうかを知るのは重要なことなのでしょうか。それは単なる哲学的な疑問ですか。それとも,あなたに関係のある疑問でしょうか。この問題について深く考えることなく人生を過ごした人は大勢います。もしホセ・マルティネスの言うことが正しいとすれば,そういう人たちの生き方は賢明だったということになるかもしれません。

      しかし,もしエリー・ウィーゼルの言うことが正しく,人生には確かに意味があるとすれば,当然わたしたちはそれが何であるかを探し出す努力をすべきです。そうしなければ,生きるというすばらしい経験の中の最も肝心なものを逸することになります。それは,美術館の中を絵を見ずに通り過ぎる,あるいはレストランで食事の注文をせずに席に着いているようなものです。

      どうすれば人生に目的があるかどうかを知ることができるのでしょうか。次の記事では,この問題の解決に役立つ幾つかの事実を検討します。

  • 目的の探求
    目ざめよ! 1992 | 4月22日
    • 目的の探求

      チャールズ・ダーウィンの時代以来,生物学者たちは,進化の結果としての生命には基本的に目的はないという理論を受け入れさせようとして,非常に大きな圧力をかけてきました。しかし,その理論を本能的に拒む人も少なくありません。生まれたばかりのかわいい赤ちゃんを見つめる若い夫婦は,その新しい生命に目的がないと信じることに困難を覚えるでしょう。二人にとって,赤ちゃんは奇跡であり,人生を豊かにする驚くべきものなのです。

      科学者たちの中にさえ,生命を意味のない偶然の所産とは考えない人もいます。なぜでしょうか。アメリカーナ百科事典が言う,「生物に見られる非常に高度な複雑さと構造」のためです。同百科事典はさらに,「花,昆虫,ほ乳類を詳しく調べてみると,各部位が驚くほど精密に配列されている」と述べています。

      その複雑さと見事な構造 ― それはどんなに簡単な造りの生物にも見られる ― を念頭においた南アフリカの科学者ロー・アルバーツ博士の言葉がケープ・タイムズ紙に引用されていました。「私は単に生命は偶然に発生したという考えを受け入れるよりも,神は存在するという考えを受け入れるほうに,より大きな知的満足を覚える」。生命体の化学的組成について,英国の天文学者バーナード・ラベル卿はこう書いています。「最小のたんぱく質分子の一つが形成されるようになる事態が偶然に生じる……確率は,考えられないほどに低い。……事実上ゼロに等しい」。

      天文学者のフレッド・ホイルも同様の論調でこう書いています。「正統派の生物学の体系全体は,生命が無作為に生じたという考えをいまだに保持している。だが,生化学者たちが畏敬すべき生命の複雑さについて多くのことを発見するにつれ,生命が偶然の所産である可能性は,完全に度外視できるほど微小なものであることが明らかになっている。生命が偶然に生じたはずはない」。

      これは何を意味しているでしょうか。生命が偶然に生じたのでなければ,設計されて生じたに違いありません。もしそうであれば,生命には設計者がいたに違いありません。しかもそれは並の設計者ではないはずです。『わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られています』という詩編作者の表現はまさに適切です。(詩編 139:14)しかし,このことは人生の目的の有無について何を教えているでしょうか。

      人間も設計をして物を作ります。ジェット機,製油所,発電所その他,複雑さの異なるものを無数に作ります。それでも,そのような複雑なものを理由もなく設計し,作ることはありません。何を作るにも目的を持って作ります。

      人間が作ったものはいずれも,畏怖すべき生物の複雑さには及びもつかないのですから,生き物の設計者は確かに何らかの目的を持って生き物を創造されたはずです。人は「くすしく造られ」たが,導きのないままに放置されているという考えほど理屈に合わないものはありません。

      目的の探求

      わたしたち人間が本能的に人生の目的を求めるという事実は,創造者が一つの目的を達成するために人間を創造されたということを強力に裏づけています。心理学者のギルバート・ブリムは人間が本能的に目的を求めるということについてこう述べています。「多くの人は自分を成長させる機会ややりがいを職場に見いだす。しかし,それができない人々は,他のところに特別なやりがいや達成感を求める。例えば,減量すること,左足下がりの斜面で6番アイアンを使うショットをマスターすること,形のよいオムレツを作ること,ハンググライダーや未知の食べ物に挑戦するという冒険を行なうことなどがそれである」。精神科医のビクター・フランクルは,「人生に意義を見いだそうとする奮闘は,人間に動機づけを与える主要な力である」とまで述べています。

      人々が定めた人生の目標を幾つか調べてみましょう。

      何が人生に目的を与えるのか

      ある十代の少女は,自分の人生の目的について尋ねられてこう答えました。「わたしの夢は,すてきなマンションに住んで,すてきな車を持って,すてきな男性と一緒に車に乗ること。そうなるためにがんばってるの。わたし,自分第一主義なのよ。自分が幸せになることならいいけど,社会全体のためになることなんかご免だわ」。これは自己本位な考え方だと思われるのではないでしょうか。確かにそのとおりですが,残念ながら,このような態度を持つ人は少なくないのです。

      しかし,物質と快楽を追求するだけで,人生を意義あるものにしたいという欲求は満たされるでしょうか。そうはいきません。快楽を唯一の目標にしても,快楽は満足感を与えてくれません。快楽を人生の主な目標にする人は大抵の場合,古代のある裕福な王が権力と富を用いて当時経験できた様々な快楽を追求した時に抱いた感想を心の中で繰り返す結果になります。その王が到達した結論に耳を傾けてください。

      「わたしはまた,自分のために銀や金を,そして王たちと管轄地域に属する特殊な財産をためた。わたしは自分のために男の歌うたいや女の歌うたいたち,また人間の子らの無上の喜び,つまり淑女,淑女たちをも設けた。……見よ,すべてはむなしく,風を追うようなものであ(った)」― 伝道の書 2:8,11。

      多くの人は仕事に,あるいは価値ある目標と思える事柄を達成する目的で精神力や体力を使うことに満足を見いだします。しかし,しばらくすると,人生に目的を持ちたいという欲求は,仕事によっては完全には満たされないことに気づきます。“投資会社の花形”と評されたピーター・リンチは,自分の人生に何かがひどく欠けているという重大な点に気づいたとき,もうかる仕事をやめてしまいました。何が欠けていたのでしょうか。家族との絆です。リンチは自分の気持ちを正直に語りました。「仕事は大好きだったが,何のためにこんなことをしているんだろう,という結論に達したのだ。これは私だけに限ったことではない。死に臨んで,もっと多くの時間を事務所で過ごせばよかったと言う人などいたためしがない」。

      ですから,人生の目標を考えるにあたって,「仕事を持つことも夢の一つです。でも,一番大切な夢は,幸せな家庭を持つことだと思います」と言った十代の少女は,ある程度の平衡を示していたことになります。確かに家庭は人生に意義と目的を与えます。一人の若い主婦は言いました。「私は幼いころから,親になることは人としての生まれながらの義務,また人生の目的の一部だとみなしていましたし,そのことに疑問を抱いたこともありませんでした」。

      人生の目的を他の事柄に求める人もいます。知識の追求に人生の目的を見いだす人たちもいます。その中には,生命は無意味な偶然によって生じたと唱える科学者たちも含まれるでしょう。進化論者のマイケル・ルーズはこう書いています。「我々には知識欲があるので,獣より優れている。……我々の最大の欲求と義務は,蓄積された過去の知恵を我々の熱意や業績と共に子供たちに伝えることである。……知識の探究および成功は人間性の顕著な特徴の一つを成す」。

      一つの主義のために活動することに人生の目的を見いだす人もいます。そのような人たちは珍種の動物を保護するために働いたり,汚染や環境破壊と闘ったりします。思いやりのある人々は子供たちの権利を擁護し,ホームレスや貧しい人たちのために活動します。あるいは,麻薬中毒のまん延を防ぐことに力を注ぎます。そのような人々が良いことを数多く成し遂げることもあり,そうした活動によって彼らの人生は目的のある豊かなものになります。

      ざ折と失望

      しかし,人間は目標を追求する場合に,たとえそれが価値ある目標であっても,しばしば行き詰まりに遭遇するということを認める必要があります。子育てに多くの愛情と努力を注いだ親が,事故,犯罪,病気,麻薬中毒などで子供を失うことがあります。あるいは,子供たちが大きくなって,現代社会の自己本位の精神に染まり,親の愛に報いようとしないこともあります。

      環境改善のために無私の気持ちで活動する人々は,商業上の利害や他の人たちの無関心のために目標を達成できない場合が少なくありません。貧困者の状態を改善するために働く人々は,その仕事の膨大さに圧倒されてしまいます。仕事に充足感を覚えている人は,定年退職になると落胆します。知識を追求することにすっかり満足している研究者は,未解決の問題をたくさん残したまま死期が近づくと,焦燥はざ折感に変わります。一生を費やして財産を蓄えた人は,最後にはそれを他の人に残さなければならないことに気づきます。

      先ほど引用した古代の王はそのようないら立ちをこう表現しています。「わたしは日の下のここでのわたしのすべての骨折りと労苦とを憎むようになった。わたしはその実を後継者に残さなければならないからだ。わたしの後を継ぐのはどのような人間なのだろう。その人は他人が手に入れたものを相続するのである。その人が賢い者か愚か者か,だれが知ろう。それでも,その人はわたしの骨折りと技量のすべての実の主人となるのである」― 伝道の書 2:18,19,新英訳聖書。

      では,この至極もっともな言葉が暗示しているように,結局のところ人生には目的はないのでしょうか。人間が追求する様々な目標は,多くの人の寿命である70年か80年,あるいは90年の人生を無事に終えるための支えにすぎないのでしょうか。それ以外には,そうした目標は基本的には無意味なのでしょうか。そうではありません。実は,それらの目標は,わたしたちの造りについて非常に深遠な事柄を示していますし,実際,人生には確かに非常にすばらしい目的があるということの証拠なのです。しかし,その目的はどうすれば見いだすことができるのでしょうか。

      [7ページの図版]

      知識を追求することに人生の意義と目的を見いだす人もいる

      人間は目的もなく複雑なものを作ることはない

      [クレジット]

      NASAの写真

  • 人生の真の目的
    目ざめよ! 1992 | 4月22日
    • 人生の真の目的

      友達の作業場を訪問したところを想像してみてください。友達はちょうどある仕事を終えたところです。あなたは大変興味を引かれます。見事なできばえで,形も魅力的です。ところが,どんなに考えても,何に使うものなのか分かりません。どうすれば分かるでしょうか。もちろん,それは友達に尋ねればよいことです。喜んで教えてくれるでしょう。

      では,人生の目的はどうすれば見いだすことができるでしょうか。「命の源」であられる神に尋ねてみるのはいかがですか。(詩編 36:9)どうすれば尋ねることができるのでしょうか。幸いなことに,神は聖書をとおしてわたしたちに語っておられます。神は信仰の厚い人々を用いて,わたしたちが理解できる方法でご自分の考えを記述させました。実際,人生の目的は非常に短い言葉で表現することができます。つまり,わたしたちは神について学び,神のご意志を行なうために生きているのです。聖書はこう述べています。「すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」― 伝道の書 12:13。

      あまりにも単純に思えますか。しかし,実際には単純なことではありません。神について学び,神のご意志を行なうために生きているということには,すばらしい,そして深遠な意味が含まれているのです。

      神の最初の目的

      神が人類に対して最初に何を意図しておられたかを学べば,人生の目的を一層よく理解できるだけでなく,前の記事で挙げた幾つかの事柄が今日の多くの人の人生にある程度の意義と目的とをもたらす理由が分かります。

      聖書は人間の創造についてこう述べています。『次いで神は言われた,「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造ろう」』。(創世記 1:26)ですから,人間は神に似た者となる可能性を持つものとして,知恵,力,義,愛を含め,神が持っておられる顕著な特質を有するものとして造られました。では,新しい知識の探究や,精神力または体力を刺激する活動などに充足感を覚える人がいるからといって,それは驚くべきことでしょうか。また,多くの人が他の人を援助することを満足のゆく人生の目的としているのは意外なことでしょうか。決してそうではありません。そうしたことを行なうのも,わたしたちが創造された目的の一部だからです。

      聖書の記録はさらに,人間に対して,地球上の他のすべての生き物,つまり「海の魚と天の飛ぶ生き物……地の上を動くあらゆる動く生き物」を監督する責任が与えられたことを示しています。(創世記 1:26)したがって,今日でさえ動物を自分の身辺に置いて,一緒に遊ぶことに満足を覚える人が多いのも不思議ではありません。中には,絶滅の危機に直面している種を保護するために懸命に働くことや,動物愛護運動を行なうことなどを,動物に対する自分の責任と考えている人もいます。

      人間は,『地を従わせる』ようにとも命じられました。(創世記 1:28)この命令は何を示唆していたのでしょうか。人々が自分の利益だけを考えて無責任に地球を開発し,ついにはその豊かな資源を枯渇させ,大気を汚染し,海にも陸にもごみをまき散らすという意味でなかったことは確かです。むしろ神は,「エデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置(く)」ことによって,地を従えるための手本を示されました。(創世記 2:8)このエデンの園は,地球がどのような場所になるべきかを示す原型でした。エデンの園は,わたしたちが住むこの惑星に関する神の目的をよく表わしていました。

      聖書はこう説明しています。「さらに,神は[最初の男と女]を祝福し,神は彼らに言われた,『子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ』」。(創世記 1:28)神は人間が子供を生んで,地球の住人を増やすことを望んでおられました。神は最初の男女を引き合わせ,事実上まさしく最初の結婚式を執り行なわれました。(創世記 2:22-24)結婚や家庭が,多くの人の人生に意義や目的を増し加えるのも不思議ではありません。

      人生にはこのような可能性があった

      聖書を研究すると,神が意図しておられたのは,アダムの家族が増え,アダムとその子供たちがエデンの園の境界を広げて,ついには地球全体に人が満ちることであったことが明らかになります。そして従えられた地球は楽園になるのです。人間は地球の豊かな資源を自分たちの益のために用いるとはいえ,責任を持ってそれを用いることになっていました。人間は地球の略奪者ではなく,地球の管理人になる予定でした。今日見られる地球の破壊は神のご意志に反しており,破壊に荷担している人々は人生の目的に逆行しているのです。―啓示 11:18。

      聖書の初期の記録からさらに学べることは,人間が死ぬのは神のご意志ではなかったという点です。わたしたちの最初の親が死んだ理由は,神への不従順以外にはありませんでした。(創世記 2:16,17)不従順になった二人はもはや人生の目的を遂行していなかった,つまり神のご意志をもはや行なってはいなかったのです。それで,単に二人が死んだだけでなく,彼らから不完全さを受け継いだ子孫全員が死に屈従させられました。(ローマ 5:12)しかし,人間はもともと死ぬようにではなく,永遠に生きるように意図されていました。自分が一生をかけた仕事が死によって途中で終わることを考え,いら立ちを覚える人が多いのは恐らくそのためです。

      神の目的を遂行する

      人類と地球に関する神の最初の目的は変わっていません。神は今でも,地球を楽園にして完全な人類を住まわせることを意図しておられます。しかし,わたしたちの最初の親の失敗による悲惨な結果を克服するため,神は数々の取り決めを設けなければなりませんでした。今日神のご意志を行なうことには,神のこれらの取り決めすべてに調和して行動することが含まれます。幸いなことに,聖書は神の目的が漸進的に果たされることを示しています。

      神は聖書の最初の書の中で,アダムとエバがご意志を行なわなかったために生じた害をすべて取り除くために到来する「胤」について語られました。(創世記 3:15)クリスチャン・ギリシャ語聖書(“新約聖書”)の中には,イエス・キリストがその「胤」として現われたこと,罪のない人生を送られたこと,敵の手にかかって死なれたことなどが書かれています。イエスの死は実際にはわたしたちのための犠牲であって,その死は,アダムとエバが失ったとこしえの命をわたしたちが再び得るための道を開いたのです。(ヘブライ 7:26; 9:28)ですから聖書は,『だれでも彼に信仰を働かせる者は滅ぼされないで,永遠の命を持てるようになる』と述べているのです。―ヨハネ 3:16。

      それだけではありません。イエスは死後,不滅の霊者としてよみがえらされ,今では神の天の王国の王として支配を行なっておられます。間もなくその王国は人間の営みを管理する新しい世の社会をもって,現在地上にある政府に代える行動に出るでしょう。聖書の預言はこう約束しています。「その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます」― ダニエル 2:44。

      その後この王国は,地球に楽園を回復し,人類を完全の域にまで引き上げるという喜ばしい活動を監督します。聖書は死者が復活することさえ述べており,それらの人々も人類に対する神の壮大な目的の一端にあずかる機会を持つことができます。(使徒 24:15)それから,次のすばらしい約束が成就します。「柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう。義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」― 詩編 37:11,29。

      個人的に益を受ける

      地球に関する神の壮大な目的の成就から個人的に益を受けるには,まず神を知るようにならなければなりません。イエス・キリストはこう言われました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)どうすればそれができるのでしょうか。身の周りの世界,つまり星空などの創造物を観察することによって,神について幾らかのことを知ることができます。(詩編 19:1)しかし,わたしたちはことに聖書をとおして神について ― またみ子イエス・キリストについて ― 学ぶことができます。神のみ名や特質を学び,神が人類のために行なってこられた事柄を詳しく知るようになります。そういう知識を得ると,神を愛し,神とみ子に対して深い親近感を抱くようになります。

      神を知るようになると,神のご意志を行ないたいという願いを抱くようになります。わたしたちはイエスが教えられたとおり,「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」と祈ってきたかもしれません。(マタイ 6:10)人生の真の目的 ― それは人に真の満足をもたらす ― は,神のご意志と調和して生活することなのです。

      しかし,神のご意志を行なうことには何が含まれるでしょうか。アダムとエバにとって,それには動物界を監督し,地を従わせ,地を完全な子孫で満たすことが含まれていました。今日,神のご意志を行ないたいと思うなら,イエスの贖いの犠牲について学び,それに信仰を働かせなければなりません。そして,イエスの手本に倣って,他の人々に『神の王国の良いたより』を伝えなければなりません。―マタイ 24:14。

      神のご意志を行なうことには敬虔な特質を身に着けることも含まれます。ですから,わたしたちは神が憎まれる事柄をよくわきまえ,例えばうそをついたり,盗みや有害なうわさ話をしたり,怒りをぶちまけたりすることのないようにします。同時に,神が好まれる特質 ― 愛,喜び,平和,親切,善良さなど ― を学び,神の聖霊の助けを得てそれらを培います。(ガラテア 5:19-24)とこしえの命を得たいと思うなら,神がとこしえにわたってご自分の近くに置いておきたいと思われるような人になる必要があります。確かに,神について学び,神のご意志を行なうなら,他の何ものからも得ることのできない人生の目的と意義を得ることができます。

      大きな変化をもたらす

      人生の真の目的を見いだすと人の生活に大きな変化が生じるということを,世界中の幾百万もの人々の生活が物語っています。ウェインの例を考えてみましょう。ウェインは最初の妻に先立たれ,打ちひしがれていました。その土地の牧師から慰めを得ることができなかったウェインは,ボランティア活動に没頭しました。米国在郷軍人会の指導者を務め,政治団体に入って活躍しました。その後再婚しましたが,波乱ずくめの結婚生活でした。ウェインも妻も生活の導きとなるものを何も持っていませんでした。

      ところがある日,ウェインは聖書を手に取って読み始めました。3か月で読み通し,こう言いました。「やっぱり思ったとおりだ。人生には目的があり,死後にも命の希望があるんだ」。ウェインは妻に,「聖書にしっかり従っている人たちを見つけて,その人たちと交わるべきだ」と言いました。その後間もなくエホバの証人に会い,彼らと話し合ったところ,神のご意志を行ないたいという彼らの願いはますます強くなりました。ウェインと妻は自分たちの命を神にささげ,家庭生活は大きく好転しました。

      長老派教会の宣教師の家庭に生まれたスーザンは,本当に世の中の役に立つことに人生を費やしたいと思っていました。原子力の危険に関する講義を聞いたスーザンは,これこそ最も大切なことだと確信しました。それで大学をやめ,自分の時間をすべて,原子力問題について人々に教えることに費やしました。21歳の時には,大規模な核エネルギー反対集会の進行調整役を務めました。後にエホバの証人の訪問を受け,聖書が述べていることを聞きました。やがて人生の真の目的を見いだしました。人間が地球を破壊していることを今でも心配してはいますが,スーザンは神が王国によってこれらの問題を解決されることをはっきりと理解しています。ですから,そのことに信仰を置くよう人々を援助しています。

      マリーエルは世が提供するものを楽しむことを人生の目的にしていました。彼女は専門職に就きました。パーティーや麻薬を含め,米国カリフォルニア州ロサンゼルスで流行するものは何でも追いかけました。しかし聖書の研究を始めて神を知り,神に仕えるようになると,そうしたことがいかに空しいものであるかを理解しました。今では神の目的に調和した人生を送っているので,以前よりはるかに充実した生活を送っている,とマリーエルは言います。

      人生の真の目的を学ぶことによって自分の人生を豊かなものにした人の数は,毎日何百人という割合で増加しています。愛情深い天の父のご意志を行なうことによって人生の真の目的に調和した生き方をすれば,確かに大きな変化が生じます。それには,あなたの人生全体を良い方向へ変化させる力があるのです。本誌は,あなたがこの問題についてご自分でお調べになることをお勧めします。そうされるなら,ご自分の人生に一層の充足感を覚えられることでしょう。

      [9ページの図版]

      命の与え主は目的を持って人類を創造された

      [10ページの図版]

      神は地球を楽園にして,完全な人類で満たすという目的を放棄しておられない

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