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    「来て,私の弟子になりなさい」
    • 第3章

      「私は……謙遜」

      イエスが子ロバに乗っている。沿道にいる人たちが歓声を上げたり,ヤシの木の枝を振ったり,道路に外衣や木の枝を敷いたりしている。

      「あなたの王がやって来る」

      1-3. イエスがエルサレムに入った時の様子はどういうものでしたか。拍子抜けした人たちもいたと考えられるのはどうしてですか。

      エルサレムは沸き立っています。特別な人が来ると聞いたからです。都市の外では沿道に人が集まり,その人を歓迎しようと待ち構えています。ダビデの王権を受け継いでイスラエルを治める人だといううわさもあります。ヤシの木の枝を振っている人たちもいれば,道路に外衣や木の枝を敷いて迎えようとしている人たちもいます。(マタイ 21:7,8。ヨハネ 12:12,13)どんなふうに姿を現すんだろうとわくわくしていたことでしょう。

      2 華々しい登場を期待していた人たちもいたに違いありません。過去にそういう例があったことを知っていたからです。例えば,ダビデの息子アブサロムは自分が王だと宣言し,兵車に乗って50人の護衛と共にやって来ました。(サムエル第二 15:1,10)ローマの支配者ユリウス・カエサルはもっと派手で,ローマのカピトリヌスの丘まで凱旋行列を率いた時,ランプ台を背負った40頭の象を従えました。そうした人たちよりはるかに偉大な人物が,今エルサレムにやって来ようとしているのです。群衆が十分に理解しているかどうかはともかく,やって来るのはメシアであり,史上最も偉大な人です。でも,やがて王になるその人が姿を現した時,拍子抜けした人たちもいたかもしれません。

      3 兵車や護衛は見えませんし,象どころか馬もいません。イエスは普通のロバに乗って現れます。a イエスもロバも,豪華に着飾ってはいません。ロバの背には,高価なくらではなく,弟子たちが掛けた外衣があるだけです。イエスほど重要ではない人たちがいかにも大げさな行進をしたのに,どうしてイエスはそんなにつつましくエルサレムに入ることにしたのでしょうか。

      4. メシアである王がエルサレムに入る時の様子について,聖書の中でどんなことが予告されていましたか。

      4 イエスは次の預言の通りにしていました。「大いに喜べ。エルサレムよ,勝利の叫びを上げよ。あなたの王がやって来る。救いをもたらす正しい王だ。謙遜で,ロバに乗っている」。(ゼカリヤ 9:9)この預言によれば,いつかメシアが神に任命された王としてエルサレムの人々の前に現れることになっていました。その方は,ロバに乗って来ることからも分かるように,素晴らしく謙遜な方なのです。

      5. あなたはイエスの謙遜さのどんなところに感動しますか。イエスのように謙遜になることが大切なのはどうしてですか。

      5 謙遜さはイエスの際立った魅力の1つで,イエスがどれほど謙遜だったかを考えると感動します。前の章で考えた通り,イエスだけが「道であり,真理であり,命です」。(ヨハネ 14:6)人類史の中で,神の子ほど重要な人物は誰一人いません。それなのに,イエスには傲慢さのかけらもありませんでした。不完全な人間はうぬぼれたり人を見下したりしがちですが,イエスの弟子になるにはそういう傾向と闘わなければなりません。(ヤコブ 4:6)傲慢さはエホバにとって不快なものです。ですから,イエスのように謙遜になることはとても大切です。

      イエスは昔から謙遜な方

      6. 謙遜とはどういうことですか。メシアが謙遜さを示すとエホバが予告できたのはどうしてですか。

      6 謙遜とは,自分を低く見ることで,誇ったり人を見下したりしないことです。心からの謙遜さは,言動や人との接し方に表れます。メシアが謙遜さを示すとエホバが予告できたのはどうしてでしょうか。自分の謙遜さの手本に,子であるイエスが完璧に倣っていることを知っていたからです。(ヨハネ 10:15)イエスが実際に謙遜に行動するのも見ていました。どんな例があるでしょうか。

      7-9. (ア)ミカエルはサタンと論じ合った時,どのように謙遜さを示しましたか。(イ)クリスチャンはどのようにミカエルに倣って謙遜さを示せますか。

      7 「ユダの手紙」に興味深い出来事が書かれています。「天使長ミカエルは,モーセの体のことで悪魔と意見が分かれて論じ合った時,あえて断罪することも悪く言うこともせず,『エホバがあなたを叱責されますように』と言いました」。(ユダ 9)ミカエルとはイエスのことです。地上に来る前,また天に戻った後,天使長としての役割を果たすイエスはミカエルとも呼ばれています。b (テサロニケ第一 4:16)では,ミカエルがどのようにサタンに接したかに注目してみましょう。

      8 サタンがモーセの体を使って何をしたかったのかは書かれていませんが,何か良からぬことを企んでいたに違いありません。モーセの遺骸を人間に崇拝させようと思っていたのかもしれません。ミカエルはサタンに悪いことをさせまいとしつつも,見事に自分を制しました。サタンは明らかに間違っていましたが,ミカエルはサタンと論じ合った時点ではまだ「裁くことを全て」委ねられてはいなかったので,エホバ神に任せるべきだと考えました。(ヨハネ 5:22)天使長として大きな権威を持っていましたが,出しゃばろうとはせず,謙遜にエホバの裁きを待つことにしたのです。謙遜さだけでなく,自分の限界をわきまえて慎みも示しました。

      9 エホバがユダを導いてこの出来事について書かせたのはどうしてでしょうか。残念なことに当時,謙遜ではないクリスチャンがいたからです。その人たちは傲慢な態度で,「理解してもいない事柄をことごとく悪く言って」いました。(ユダ 10)不完全な人間は,簡単に誇りの気持ちに毒されてしまうことがあります。例えば長老団の決定など,クリスチャン会衆内で何か理解できないことにぶつかったとき,私たちはどう反応するでしょうか。いろいろな事情を全て知っているわけではないのに,不満を持ったり批判的になったりするなら,謙遜さが欠けているのかもしれません。ぜひミカエルに倣って,神から権威を与えられていないのに裁くようなことがないようにしましょう。

      10-11. (ア)イエスがエホバに言われた通り地上に来たのは,どれほどすごいことですか。(イ)どのようにイエスの謙遜さに倣えますか。

      10 イエスがエホバに言われた通り地上に来たのも,謙遜さの表れでした。大きな変化を受け入れなければならなかったからです。イエスは天使長であり,「言葉」としてエホバの代弁者も務めていました。(ヨハネ 1:1-3)「神聖さと栄光に満ちた,[エホバ]の高大な住まい」である天で暮らしていました。(イザヤ 63:15)それなのに「全てを捨てて奴隷のようになり,人間になりました」。(フィリピ 2:7)イエスにとって,人間になるとはどういうことだったか考えてみてください。イエスの命はユダヤ人の処女の胎内に移され,9カ月後にイエスは無力な赤ちゃんとして生まれました。貧しい大工の家で,よちよち歩きの幼児,少年,若者へと成長していきました。自分は完全な人間でしたが,ずっと不完全な人間の両親に従っていました。(ルカ 2:40,51,52)非常に謙遜でなければできないことです。

      11 私たちもイエスのように謙遜になって,人から見下されるような仕事でも快く行えるでしょうか。例えば,私たちが神の王国の良い知らせを伝えても,多くの人は無関心で,ばかにしたり悪感情をぶつけてきたりすることもあります。(マタイ 28:19,20)それでもこの仕事を諦めずに続けるなら,人の命を救えるかもしれません。たとえそうならなくても,謙遜さについて多くのことを学べて,主人であるイエス・キリストにしっかり付いていくことができます。

      イエスは地上にいた間も謙遜だった

      12-14. (ア)人から称賛された時,イエスはどのように謙遜さを示しましたか。(イ)イエスはどのように謙遜に人に接しましたか。(ウ)イエスの謙遜さがうわべだけのものではなかったことが,どんなことから分かりますか。

      12 地上で伝道した間も,イエスは最初から最後まで謙遜でした。常に天の父が賛美され,たたえられるようにしていました。イエスは知恵の表れた言葉を語り,驚くような奇跡を幾つも行い,人格も立派だったので,たびたび人から称賛されました。でもその都度,自分ではなくエホバに人々の注意を向けました。(マルコ 10:17,18。ヨハネ 7:15,16)

      13 人への接し方にもイエスの謙遜さが表れていました。イエス自身が,自分は仕えてもらうためではなく仕えるために地上に来たとはっきり言っています。(マタイ 20:28)イエスはいつも温和で,周りの人に理解を示しました。弟子たちにがっかりさせられても,叱りつけたりはせず,辛抱強く教え続けました。(マタイ 26:39-41)自分たちだけになれる静かな場所で休もうとするのを群衆に邪魔された時にも,追い払ったりせず,時間を取って「多くのこと」を教えました。(マルコ 6:30-34)イスラエル人ではない女性から娘を癒やしてほしいとしつこく頼まれた時には,初めのうちは癒やすつもりがないことを伝えていましたが,腹立たしげに拒んだりはしませんでした。その女性が素晴らしい信仰を持っていることを見て取ると,願いを聞き入れました。この出来事については第14章でも取り上げます。(マタイ 15:22-28)

      14 イエスはあらゆる場面で謙遜でした。「私は温和で,謙遜……です」と言った通りです。(マタイ 11:29)イエスの謙遜さは,単なる礼儀作法のようなうわべだけのものではなく,心からのものでした。そんなイエスだからこそ,謙遜さについて弟子たちに教えることを大切にしていました。

      謙遜であるよう弟子たちを教える

      15-16. イエスは,自分の弟子は国々の支配者とどのように違っているべきだと教えましたか。

      15 イエスの使徒たちはなかなか謙遜になれなかったので,イエスは何度も教えなければなりませんでした。例えばある時,ヤコブとヨハネは母親を通して,神の王国で高い地位に就けてほしいとイエスに頼みました。イエスは慎み深くこう答えました。「私の右また左に座ることは,私が決めることではありません。その場所は,そこに座る者たちのために,天にいる私の父によって用意されています」。ほかの10人の使徒たちは,ヤコブとヨハネがしたことを聞いて憤りました。(マタイ 20:20-24)イエスはどうするでしょうか。

      16 イエスは全員を優しくたしなめ,こう言いました。「あなたたちは,国々の支配者が威張り,偉い人たちが権威を振るうことを知っています。あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず,1番でありたい人は奴隷でなければなりません」。(マタイ 20:25-27)使徒たちは,「国々の支配者」がどれほど高慢で野心的で自己中心的かを見て知っていたことでしょう。イエスの弟子は,そうした権力欲の強い圧政者のようであってはなりませんでした。謙遜でなければならないのです。使徒たちは教訓を学んだでしょうか。

      17-19. (ア)イエスは亡くなる前の晩,使徒たちに謙遜さを教えるためにどんな印象的なことをしましたか。(イ)イエスはどんなことをして,最も印象に残る仕方で謙遜さについての教訓を与えましたか。

      17 すぐに正しい考え方ができるようにはなりませんでした。イエスが謙遜さについて教えたのは,この時が最初でも最後でもありません。以前に,誰が一番偉いかについて使徒たちが言い争った時,イエスは幼い子供を彼らの真ん中に立たせて,子供のようにならなければいけないと教えました。高慢で野心的で上下関係を気にしがちな大人のようであってはいけないということです。(マタイ 18:1-4)そのように教えたのに,イエスが亡くなる前の晩になってもまだ使徒たちはなかなか謙遜になれないでいました。それでイエスは,さらに印象的な教え方をします。拭き布を腰にくくって,当時の召し使いが客にしたように使徒たち一人一人の足を洗ったのです。イエスを裏切ろうとしていたユダの足さえも洗いました。(ヨハネ 13:1-11)

      18 イエスは伝えたかったことを強調し,「私はあなたたちのために模範を示しました」と言いました。(ヨハネ 13:15)では,使徒たちはこれでついに教訓を学んだでしょうか。何と,その晩の後刻,またしても誰が一番偉いかについて言い争いました。(ルカ 22:24-27)それでもイエスは辛抱し,謙遜に教え続けました。その後,最も印象に残る仕方で教訓を与えます。「苦しみの杭に掛けられて死ぬことを受け入れたのです」。そのようにして「謙遜さを示し,死に至るまで従順でした」。(フィリピ 2:8)イエスは神を冒瀆した犯罪者というレッテルを貼られ,屈辱的な死に方をすることになりましたが,それを受け入れました。それで,イエスは完全で究極の謙遜さを示したと言えます。エホバが創造した全ての者の中で,際立った手本です。

      19 イエスが自分の死によって謙遜さについて教えたことが,使徒たちにとって忘れられない教訓となったようです。謙遜さがいかに大切かが,忠実な使徒たちの心に深く刻まれました。聖書によると,使徒たちはその後何十年も謙遜に奉仕しました。では,私たちはどうでしょうか。

      あなたはイエスの手本に倣いますか

      20. 自分が心から謙遜かどうか,どうしたら分かりますか。

      20 パウロは私たち一人一人に,「キリスト・イエスと同じ考え方をしてください」と勧めています。(フィリピ 2:5)私たちはイエスのように謙遜でなければなりません。自分が心から謙遜かどうか,どうしたら分かるでしょうか。パウロはこう言っています。「対抗心を抱いたり,自己中心的になったりしてはなりません。謙遜になり,自分より他の人の方が上だと考えてください」。(フィリピ 2:3)ですから,大切なのは他の人をどう見ているかです。自分よりも上で,大事な人だと考える必要があります。あなたはそうしていますか。

      21-22. (ア)クリスチャンの監督が謙遜でなければならないのはどうしてですか。(イ)謙遜さを身に着けていることはどんな態度に表れますか。

      21 イエスの死後かなりの年月がたった後も,ペテロは謙遜さの大切さについて考えていました。そして,クリスチャンの監督たちに,エホバの羊に対して威張ったりせず,謙遜に務めを果たすようにと教えました。(ペテロ第一 5:2,3)責任を与えられているからといって,誇ってはなりません。責任がある人ほど,心から謙遜になる必要があります。(ルカ 12:48)もちろん,監督たちだけでなく全てのクリスチャンにとって,謙遜であることは重要です。

      22 ペテロは,一度は断ったのにイエスが足を洗ってくれた夜のことを決して忘れなかったに違いありません。(ヨハネ 13:6-10)クリスチャンたちに宛てた手紙の中でこう書いています。「皆が,人と接する上で謙遜さを身に着けてください」。(ペテロ第一 5:5)「身に着けて」という表現は,召し使いが仕事をするために前掛けを身に着ける様子を連想させます。イエスも膝を突いて使徒たちの足を洗う前に,拭き布を腰にくくりました。イエスに従う私たちは,神から与えられるどんな割り当てもつまらない仕事だなどとは考えません。私たちが心から謙遜であることは,あたかも前掛けを身に着けているかのように,皆にはっきり分かるようであるべきです。

      23-24. (ア)傲慢にならないように注意すべきなのはどうしてですか。(イ)次の章を学ぶと,謙遜さに関するどんな見方が間違っていることが分かりますか。

      23 傲慢さは人をむしばむ毒のようです。高い能力がある人でも,傲慢だと神にとって役に立たない存在になってしまいかねません。エホバがぜひとも一緒に働いてほしいと思うのは,能力があるかどうかに関わりなく謙遜な人です。私たちが日々キリストの歩みに付いていき,謙遜になるよう努力するなら,素晴らしい報いがあります。ペテロはこう書いています。「神の力強い手の下で謙遜になってください。そうすれば,神はやがて皆さんを重んじてくださいます」。(ペテロ第一 5:6)エホバは全面的に謙遜だったイエスを確かに重んじ,高い立場を与えました。謙遜であろうと努める私たちにも喜んで報いを与えてくださいます。

      24 残念なことに,謙遜な人は弱い人だと思っている人たちもいます。その見方が間違っていることは,イエスの手本から分かります。イエスは最も謙遜な人でありながら,最も勇気ある人でもあったからです。次の章ではイエスの勇気について考えます。

      a この出来事について取り上げたある資料によると,ロバは「みすぼらしい生き物」であり,「貧しい人たちがよく使う,のろまで頑固な荷役動物で,見た目もあまり良くない」とされています。

      b ミカエルがイエスだと言える理由について詳しくは,エホバの証人の公式ウェブサイトjw.orgの「聖書Q&A」にある「天使長ミカエルとは誰のことですか」という記事をご覧ください。

      イエスの弟子として考えたいこと

      • 自分がしたことを自慢したくなるとき,イエスの手本にどのように倣えますか。(マタイ 12:15-19。マルコ 7:35-37)

      • イエスに見習って,多くの人には気付かれないとしてもクリスチャンの仲間のためにどんなことができますか。(ヨハネ 21:1-13)

      • 今の世の中で成功して注目されたいという気持ちになるとき,イエスのどんな考え方に倣うといいですか。(ヨハネ 6:14,15)

  • 「見なさい,ユダ族の者であるライオン」
    「来て,私の弟子になりなさい」
    • 第4章

      「見なさい,ユダ族の者であるライオン」

      兵士を含む殺気立った群衆の前で,イエスが堂々と名乗り出ている。使徒たちが離れた所から見ている。

      「それは私です」

      1-3. イエスにどんな危険が迫りましたか。イエスはどうしましたか。

      大勢の男たちがイエスを捜しています。剣やこん棒を持っていて,兵士もいます。悪意の塊となって夜のエルサレムの通りを突き進み,キデロンの谷を渡ってオリーブ山に向かいます。満月なのに,たいまつやランプも持っています。月が雲に覆われて,道を照らす必要があったのでしょうか。それとも,イエスは暗がりに隠れているに違いないと思ったのでしょうか。1つ言えることとして,イエスは恐れて身を潜めているだろうと思っている人は,イエスのことを何も分かっていません。

      2 イエスは危険が迫っていることを知っていますが,逃げも隠れもしません。群衆が近づいてきます。先頭にいるのは,信頼する友だったユダです。ユダは恥知らずにもイエスを裏切ります。偽善的なあいさつと口づけをして,この人がイエスだと他の人たちに知らせます。それでもイエスは落ち着いています。男たちの前に進み出て,「誰を捜しているのですか」と尋ねます。男たちは「ナザレ人イエスだ」と答えます。

      3 武器を持った群衆が迫ってきたら,大抵の人は恐ろしく感じるでしょう。この時の男たちも,イエスはおびえるだろうと思っていたかもしれません。しかし,イエスはおじけづくことも,逃げることも,自分が誰なのかをごまかすこともしません。「それは私です」と言います。イエスがあまりに落ち着いて堂々としているので,男たちは驚いて後ずさりし,地面に倒れてしまいます。(ヨハネ 18:1-6。マタイ 26:45-50。マルコ 14:41-46)

      4-6. (ア)神の子は何と呼ばれていますか。どうしてですか。(イ)イエスはどんな3つの分野で勇気を表しましたか。

      4 とても危険な状況だったのに,イエスがそれほどまでに冷静でいられたのはどうしてでしょうか。一言で言うと,勇気があったからです。勇気は,リーダーに期待される資質の中でも上位に挙げられます。そして,イエスほどの勇気を示した人はこれまで誰もいません。前の章で学んだ通り,イエスはとても謙遜で温厚でした。そのため,「子羊」と呼ばれています。(ヨハネ 1:29)しかし,勇気もあったので,聖書の中で全く別の呼び方もされています。「ユダ族の者であるライオン」と呼ばれているのです。(啓示 5:5)

      5 ライオンはたびたび勇気と結び付けられています。あなたは雄のライオンの成獣と向かい合ったことがありますか。あるとしても,ライオンは動物園の囲いの中などにいて,危害を加えられる心配はなかったことでしょう。それでも,間近で見て思わずたじろいでしまったかもしれません。鋭い目つきの迫力あるライオンを見ていると,何かを恐れて逃げ出すことなどないように思えます。聖書にも,ライオンは「野獣の中で最も力強く,何ものからも逃げない」と書かれています。(格言 30:30)キリストはそのライオンのように勇気があったのです。

      6 では,イエスがライオンのような勇気をどのように表したか,3つの分野を考えてみましょう。イエスは真理を擁護し,公正を貫き,反対に立ち向かいました。私たちも,たとえもともと勇敢でないとしても,イエスに見習って勇気を示せます。どのようにそうできるかも考えていきましょう。

      イエスは勇敢に真理を擁護した

      7-9. (ア)イエスが12歳の時にどんなことがありましたか。緊張しても無理はない,どんな状況でしたか。(イ)イエスは神殿の教師たちの前でどのように勇気を示しましたか。

      7 「うその根源」であるサタンが世の中を支配しているので,真理を擁護するには勇気が必要です。(ヨハネ 8:44; 14:30)イエスは年若い頃から真理を擁護していました。12歳の時,エルサレムでの過ぎ越しの祭りの後に両親とはぐれたことがありました。マリアとヨセフは3日間,必死にイエスを捜し,ようやく神殿で見つけます。イエスはそこで何をしていたのでしょうか。「教師たちの真ん中に座り,話を聞いたり質問をしたりして」いました。(ルカ 2:41-50)この出来事についてもう少し考えてみましょう。

      8 歴史家たちによれば,著名な宗教指導者たちが祭りの後も神殿にとどまり,広いポーチで人々を教えていました。その教師たちの足元に座って,話を聞いたり質問したりできたようです。その人たちは高い教育を受けていて,モーセの律法だけでなく,長い年月の間に付け足されてきた多くの複雑な規定や伝統についてもよく知っていました。もしあなたがそのような教師たちに囲まれたとしたら,どう感じると思いますか。緊張したとしても無理はありません。わずか12歳だったらなおさらです。年が若いと気後れしがちです。(エレミヤ 1:6)学校の授業でなるべく目立たないようにする子もいます。恥ずかしい思いをしたりばかにされたりしたくないので,先生に指されないようにするのです。

      9 しかし,イエスはそうではありません。博学な教師たちの真ん中に座り,恐れずに鋭い質問をしています。それだけでなく,聖書によると「イエスが話すのを聞いていた人は皆,その子の理解力と答えにとても驚いて」いました。(ルカ 2:47)イエスが何を話したのかは聖書に書かれていませんが,当時の宗教指導者たちの間違った教えに同調するようなことは言わなかったに違いありません。(ペテロ第一 2:22)いつも神の言葉の真理に沿って意見を言ったことでしょう。それで聞いていた人たちは,その12歳の少年の洞察力や勇気に驚いたのです。

      若い姉妹が「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」の本を先生に見せながら話している。

      多くの若いクリスチャンが勇気を出して,自分の信じていることについて話している

      10. 現代の若いクリスチャンたちは,イエスのように勇気を示してどんなことをしていますか。

      10 現代の多くの若いクリスチャンも,イエスのように勇気を示しています。もちろんイエスと違って完全な人間ではありませんが,年若い頃から真理を擁護しています。学校や近所で会う人たちに上手に質問し,話してくれることをよく聞いて,敬意を込めて真理を伝えています。(ペテロ第一 3:15)そのようにして,クラスメートや先生や近所の人たちがキリストの弟子になれるように助けてきました。そうやって勇気を示している若い人たちを見て,エホバはとても喜んでいることでしょう。そのような若者は聖書の中で,爽やかで魅力的な露に例えられています。(詩編 110:3)

      11-12. イエスは大人になってからもどのように勇敢に真理を擁護しましたか。

      11 イエスは大人になってからも繰り返し勇敢に真理を擁護しました。まず,これから宣教を始めようという時に,恐ろしい相手に立ち向かわなければなりませんでした。力強い天使長ではなく生身の人間として,エホバの敵の中で最も強力で危険なサタンと相対することになったのです。サタンは聖書の言葉を自分の都合のいいように解釈しようとしましたが,イエスはそれを論破しました。そして,「離れ去れ,サタン!」ときっぱり命じて,その邪悪な敵を退けました。(マタイ 4:2-11)

      12 イエスはその後も,聖書の言葉の意味をゆがめようとする人たちがたくさんいる中で,天の父の言葉が正しく伝わるように奮闘しました。当時も現代と同じように,宗教指導者たちは間違ったことばかり教えていました。それでイエスは彼らをとがめ,「自分たちが伝える伝統によって神の言葉を否定している」と言いました。(マルコ 7:13)その宗教指導者たちは一般の人たちから尊敬されていましたが,イエスは恐れることなく彼らを「目が見えない案内人」や「偽善者」と呼んで非難しました。a (マタイ 23:13,16)このイエスの勇気ある手本に,私たちはどのように倣えるでしょうか。

      13. 私たちがイエスと全く同じようにできないのはどうしてですか。それでもどんな素晴らしいことができますか。

      13 私たちはイエスと違って人の心の中を見ることはできませんし,裁く権限もないので,イエスと全く同じようにはできません。それでも,イエスに倣って勇敢に真理を擁護できます。例えば,多くの宗教が神や,神が願っていることや,神の言葉である聖書について間違ったことを教えていますが,そうした教えが正しくないことを示せます。そのようにして,サタンのうそによっていわば暗闇に包まれた世の中で光を輝かせるのです。(マタイ 5:14。啓示 12:9,10)間違った教えのせいで恐れを感じたり,神について誤解したりしている人たちに真理を伝え,爽やかな気持ちになれるよう助けることができます。イエスが言った通り人が「真理によって自由にな[る]」のを見ることができるのは,本当に素晴らしいことです。(ヨハネ 8:32)

      イエスは勇敢に公正を貫いた

      14-15. (ア)イエスはどのように「公正とは何かを国々に明らかに」しましたか。(イ)イエスはどんな偏見を意に介さず,サマリア人の女性と話しましたか。

      14 聖書の預言によると,メシアは「公正とは何かを国々に明らかにする」ことになっていました。(マタイ 12:18。イザヤ 42:1)イエスは地上にいる間にそのことに着手しました。勇気を持っていつも人々に公平に接しました。当時の世の中には聖書の教えに反する偏見や敵意がはびこっていましたが,そうした考え方に流されたりはしませんでした。

      15 ある時イエスは,スカルの井戸の所でサマリア人の女性と話しました。それを見た弟子たちは驚きました。当時ほとんどのユダヤ人はサマリア人をひどく嫌って避けていたからです。それは昔からあった根深い感情でした。(エズラ 4:4)さらに,女性を見下すラビたちもいました。彼らが作って後に書物にまとめた規則によると,男性は女性との会話を控えるべきでした。女性に神の律法を教える価値はないということもほのめかされていました。特にサマリア人の女性は汚れていると見なされていました。でもイエスは,公正とは程遠いそのような偏見を意に介さず,不道徳な生活を送っていたサマリア人の女性を人目もはばからずに教え,自分がメシアであることをその女性に明かすことさえしました。(ヨハネ 4:5-27)

      16. 周りの人が偏見を持っている場合,クリスチャンに勇気が必要なのはどうしてですか。

      16 あなたは偏見を持つ人と一緒にいたことがありますか。そういう人は人種や国籍の違う人をばかにするような冗談を言ったり,異性について失礼なことを言ったり,貧しい人や立場の低い人を見下したりするかもしれません。キリストの弟子はそのような心ない見方に同調したりせず,自分の心から偏見を取り除こうと懸命に努力します。(使徒 10:34)こうした面で公正であるには,勇気が必要です。

      17. イエスは神殿でどんなことをしましたか。どうしてですか。

      17 イエスは,神の民や崇拝の清さを守るために闘った時にも勇気を示しました。宣教を始めて間もない頃にエルサレムの神殿の境内に入った時,商人や両替屋がそこで商売をしているのを見てがくぜんとし,怒りを感じました。それで,その貪欲な人たちを神殿から追い出しました。(ヨハネ 2:13-17)宣教期間の終わりが近づいた頃にも同じようなことをしました。(マルコ 11:15-18)そのようにすれば敵をつくることになると分かっていましたが,イエスはためらいませんでした。どうしてでしょうか。イエスは子供の頃から神殿を自分の父の家と呼び,心からそうだと思っていました。(ルカ 2:49)そこで行われる清い崇拝を汚すような不公正を見過ごすことなどできませんでした。そういう熱い思いがあったので,勇敢に行動できたのです。

      18. 現代のクリスチャンは会衆の清さを守るためにどのように勇気を示せますか。

      18 現代のキリストの弟子たちも,神の民と崇拝の清さを守りたいと強く願っています。仲間のクリスチャンが重大な罪を犯したことを知ったなら,見て見ぬふりはしません。勇気を出してその人と話し,その件が確実に会衆の長老たちに伝わるようにします。(コリント第一 1:11)長老たちは,神との絆が弱まっている人を助けるだけでなく,会衆の清さを守るために必要なことを行います。(ヤコブ 5:14,15)

      19-20. (ア)イエスの時代にどんな不公正が見られましたか。多くの人がイエスにどんなことを期待しましたか。(イ)キリストの弟子が政治や暴力に関わらないのはどうしてですか。神の民はどんな立派な行動で知られていますか。

      19 では,イエスは世の中のあらゆる不公正と闘ったのでしょうか。当時の世の中にはほかにもいろいろ不公正なことがありました。イエスが生まれ育った国は外国に占領されていました。ローマ人は強力な軍隊を駐留させてユダヤ人を抑圧し,重い税を課し,宗教にも干渉しました。ですから,イエスに政治を変えてほしいと多くの人が願ったのも不思議ではありません。(ヨハネ 6:14,15)でも,イエスは政治に関わろうとはしませんでした。それには勇気が必要でした。

      20 イエスは,自分の王国はこの世界のものではないと説明しました。そして,政治問題に関わるのではなく,神の王国の良い知らせを伝えることに専念するよう,手本によって弟子たちに教えました。(ヨハネ 17:16; 18:36)群衆が自分を捕らえにやって来た時には,正しい行動について大切なことを教えました。その時ペテロはとっさに剣を振るい,1人の男性にけがを負わせました。ペテロの気持ちも分かります。神の子が無実だったにもかかわらず捕らえられようとしていたのですから,正当防衛だと考えたのでしょう。でも,イエスはこう言いました。「その剣をさやに収めなさい。剣を取る人は皆,剣で滅びます」。この言葉は,現代に至るまでイエスの弟子たちが守るべき指針となっています。(マタイ 26:51-54)当時のキリストの弟子がそのように平和を大切にするには,勇気が必要でした。今でもそうです。現代の神の民は,戦争や大虐殺や暴動が起きてもクリスチャンとして中立を保ちます。他のさまざまな暴力行為にも関わることはありません。そのような立派な行動は,まさしく勇気の証しです。

      イエスは勇敢に反対に立ち向かった

      21-22. (ア)イエスは最大の試練に立ち向かう前にどのように力をもらいましたか。(イ)イエスはどのように最後まで勇敢でしたか。

      21 エホバの子は,地上で厳しい反対に遭うことをかなり前から知っていました。(イザヤ 50:4-7)実際,地上で何度も命を狙われました。そして,ついにこの章の冒頭で取り上げた出来事が起きます。そのような危険な目に遭いながら,イエスが勇気を持ち続けることができたのはどうしてでしょうか。群衆が捕らえに来る前に,イエスが何をしていたか思い出してください。エホバに熱烈に祈っていました。聖書によると,そのイエスの祈りはエホバに「聞き入れられました」。(ヘブライ 5:7)エホバは天使を遣わして,自分の勇敢な子を力づけました。(ルカ 22:42,43)

      22 力づけられて間もなく,イエスは使徒たちに,「立ちなさい。行きましょう」と言いました。(マタイ 26:46)こう言ったイエスがどれほど勇敢だったか考えてみてください。「行きましょう」と言った時,イエスはその後どうなるかを知っていました。武器を持った群衆から友人たちを守らなければならないことも,その友人たちが自分を見捨てて逃げてしまうことも,人生最大の試練に独りで立ち向かうことになることも知っていたのです。そして,違法で不公正な裁判にかけられ,あざけられて拷問を受け,ひどく苦しんで死を迎えました。その間ずっと,イエスの勇気が尽きることはありませんでした。

      23. イエスは死ぬことが分かっていながら危険に立ち向かいましたが,無謀だったわけではありません。どうしてそう言えますか。

      23 イエスは危険を顧みない人だったのでしょうか。そうではありません。そのような無謀さを勇気とは言いません。実際イエスは弟子たちに,神の望むことを行い続けるために用心深くあり,危険を避けるようにと教えました。(マタイ 4:12; 10:16)でも,自分は最後の試練を避けるわけにはいかないと分かっていました。神の意志が関係していたからです。忠誠を貫くことを決意していたイエスにとって,試練に真っ向から立ち向かう以外の道は考えられませんでした。

      ナチス・ドイツでの迫害に耐えた3人の兄弟が囚人服を着て立っている。

      エホバの証人は迫害を受けても勇気を示してきた

      24. どんな試練に遭っても勇気を持って神に従い通せると確信できるのはどうしてですか。

      24 多くの弟子たちが,主人であるイエスに倣って勇気を示してきました。あざけりや迫害に遭ったり,逮捕され投獄されたり,拷問を受けたりしても,エホバに忠実に仕えてきました。殺されることになってもエホバに従い通した人たちもいます。不完全な人間がそれほどの勇気を持てたのはどうしてでしょうか。自然に身に付いたのではなく,イエスと同じようにエホバに助けてもらったのです。(フィリピ 4:13)ですから私たちも,この先に待ち受けていることについて心配する必要はありません。忠誠を貫くことを決意していれば,エホバが勇気を与えてくださいます。次の言葉を語った,私たちのリーダーであるイエスの手本について考えると,力が湧いてきます。「勇気を出しなさい! 私は世を征服したのです」。(ヨハネ 16:33)

      a 歴史家たちによれば,ラビたちの墓は預言者や族長たちの墓と同じように尊いものとして大切にされていました。

      イエスの弟子として考えたいこと

      • イエスのどんな手本について考えると,私たちが伝える真理に気を悪くする人がいても語り続ける勇気が湧いてきますか。(ヨハネ 8:31-59)

      • サタンや邪悪な天使たちを過度に恐れて人々を助けられないということがないように,どんなことを考えるとよいですか。(マタイ 8:28-34。マルコ 1:23-28)

      • たとえ迫害を受けることになるとしても,ひどい扱いを受けている人に思いやりを示すべきなのはどうしてですか。(ヨハネ 9:1,6,7,22-41)

      • 将来の希望は,イエスが試練に立ち向かうのにどう役立ちましたか。希望があると勇気を持てるのはどうしてですか。(ヨハネ 16:28; 17:5。ヘブライ 12:2)

  • 「全ての貴重な知恵」
    「来て,私の弟子になりなさい」
    • 第5章

      「全ての貴重な知恵」

      1-3. 西暦31年のある春の日,イエスはどこでどんな人たちに垂訓を語りましたか。聞いた人たちがとても驚いたのはどうしてですか。

      西暦31年のある春の日のことです。イエス・キリストはカペルナウムの近くにいます。カペルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある,にぎわっている町です。その付近の山で,イエスは一晩中1人で祈っていました。朝になると弟子たちを呼び,その中から12人を選んで使徒と呼ぶことにします。同じ頃,イエスの後に付いてきた大勢の人が,山腹の平らな所に集まっていました。かなり遠くから来た人たちもいます。イエスの話を聞きたい,病気を癒やしてもらいたいと思っています。イエスはその期待を裏切りません。(ルカ 6:12-19)

      2 イエスは群衆の中の病気の人を全員癒やします。そして,苦痛を感じる人がいなくなると,腰を下ろして教え始めます。a イエスが語った言葉を聞いた人たちは,びっくりしたことでしょう。それまでイエスのような教え方をした人はいませんでした。イエスは自分の話の裏付けとして,口頭伝承や有名なラビの言葉を引き合いに出したりしません。その代わりに,神の導きによって書かれたヘブライ語聖書を何度も引用します。簡単な言葉を使って,分かりやすく教えました。イエスが語り終えると,群衆はとても驚いていました。それもそのはずです。ほかのどんな人間よりも知恵がある人の話を聞いたからです。(マタイ 7:28,29)

      イエスが大勢の人を前に山上の垂訓を語っている。

      「群衆はその教え方に大変驚いていた」

      3 この垂訓のほかにも,イエスが語ったことや行ったことがたくさん聖書に書かれています。神の聖なる力の導きによってイエスについて記録されたことを深く調べるのは良いことです。「キリストの内には全ての貴重な知恵……が秘められて」いるからです。(コロサイ 2:3)知恵とは,持っている知識や理解していることを役立てる能力のことです。では,イエスはどうやって知恵を身に付けたのでしょうか。どのように知恵を発揮したでしょうか。私たちはどうすればイエスの手本に倣えるでしょうか。

      「この人は,このような知恵……をどこで得たのか」

      4. ナザレでイエスの話を聞いた人たちはどんなことを不思議に思いましたか。どうしてですか。

      4 ある伝道旅行の時に,イエスは自分が育ったナザレという町を訪れ,会堂で教え始めました。イエスの話を聞いた人の多くは驚き,「この人は,このような知恵……をどこで得たのか」と考えました。不思議に思ったのも無理はありません。その人たちは,イエスの両親ときょうだいたちのことや,決して裕福とは言えない暮らしぶりを知っていたからです。(マタイ 13:54-56。マルコ 6:1-3)見事な話をしたイエスが大工で,ラビの名門校に通ったわけではないことも知っていたでしょう。(ヨハネ 7:15)

      5. イエスは自分の知恵がどこから来ていると言いましたか。

      5 イエスが知恵を示せたのは,完全な頭脳を持っていたからだけではありません。しばらく伝道した後,神殿で人々を教えた時に,イエスは自分の知恵がどこから来ているかについてこう言いました。「私の教えは私のものではなく,私を遣わした神のものです」。(ヨハネ 7:16)イエスを遣わした天の父が,イエスの知恵の源だったのです。(ヨハネ 12:49)では,イエスはどのようにエホバから知恵を得たのでしょうか。

      6-7. イエスはどのように父エホバから知恵を得ましたか。

      6 エホバの聖なる力が,イエスの心や考えに働き掛けていました。約束のメシアについてイザヤが次のように予告していた通りです。「その者の上にエホバの聖なる力がとどまる。それにより知恵と理解を示し,助言を与え,強くなり,知識を得て,エホバを畏れる」。(イザヤ 11:2)エホバの聖なる力がイエスの上にとどまり,思考や決定を導いていたのですから,イエスの言動に最高の知恵が表れていたのも当然です。

      7 イエスが父エホバから知恵を得たのは,聖なる力によってだけではありません。第2章で考えた通り,イエスは人間になる前の非常に長い期間,天で父の考え方を学びました。父のそばで「優れた働き手」として,ほかの天使やあらゆる生物や無生物を造るのを手伝いながら,私たちには想像もつかないほど深い知恵を身に付けることができました。だからこそ,人間になる前のイエスは,聖書の中で擬人化された知恵として描写されています。(格言 8:22-31。コロサイ 1:15,16)イエスは地上で伝道した間,天の父のそばで学んだことを生かすことができました。b (ヨハネ 8:26,28,38)ですから,イエスのあらゆる言動に幅広い知識や深い理解や良い判断力が表れていたのもうなずけます。

      8. イエスの弟子である私たちは,どうすれば知恵を得られますか。

      8 イエスの弟子である私たちも,エホバから知恵をもらう必要があります。(格言 2:6)もちろん,エホバは奇跡によって知恵を与えてくれるわけではありません。でも,私たちがいろいろな問題を乗り越えるのに必要な知恵を求めて真剣に祈るとき,必ず答えてくださいます。(ヤコブ 1:5)エホバから知恵を得るには,ほかにもしなければならないことがあります。「隠された宝を探すように」知恵を探し求める必要があるのです。(格言 2:1-6)神の知恵は聖書の中で明らかにされているので,聖書を深く調べ,学んだことに沿って生活しなければなりません。私たちが知恵を身に付けるのに特に役立つのは,エホバの子イエスの手本です。では,イエスがどのように知恵を発揮したか調べ,どうすれば見習えるか考えてみましょう。

      知恵のある言葉を語った

      1人の兄弟が聖書を読んでいる。聖書を調べるための資料を机の上に広げている。

      神の知恵は聖書の中で明らかにされている

      9. イエスの教えのどんなところに知恵が表れていますか。

      9 大勢の人が,イエスの話を聞こうと押し寄せました。(マルコ 6:31-34。ルカ 5:1-3)イエスの言葉にはいつも並外れた知恵が表れていたからです。イエスは神の言葉の深い知識に基づき,大切なことを簡潔に分かりやすく教えました。イエスの教えはあらゆる人の心を動かし,いつの時代にも役立ちます。では,予告されていた「素晴らしい助言者」であるイエスがどんな知恵のある言葉を語ったか,幾つかの例を考えてみましょう。(イザヤ 9:6)

      10. イエスは,内面を磨いてどんな人になるよう教えましたか。どうしてですか。

      10 この章の冒頭で少し取り上げた山上の垂訓は,イエスが語った教えとして記録されている最も長いものです。この垂訓の中でイエスは,単に良い言動についてアドバイスしているのではなく,もっと深い助言を与えています。考えや気持ちが言葉や行動につながることをよく理解していたので,内面を磨くよう教えました。例えば,温和であること,正しいことを切望すること,憐れみ深くあること,平和を求めること,人を愛することの大切さを強調しています。(マタイ 5:5-9,43-48)そうした面で成長するにつれ,エホバに喜ばれる言動ができるようになり,周りの人との関係も良くなっていきます。(マタイ 5:16)

      11. イエスは罪深い行為についての助言の中で,根本原因まで指摘しました。どんな例がありますか。

      11 罪深い行為についての助言の中で,イエスは根本原因まで指摘しました。例えば,暴力行為をしないようにと言うだけでなく,心の中で怒りをくすぶらせないようにと警告しています。(マタイ 5:21,22。ヨハネ第一 3:15)姦淫を禁じるだけでなく,そうした行為につながりかねない情欲を抱かないようにと教えています。間違った欲望をかき立てるようなものを見ないようにとも勧めています。(マタイ 5:27-30)イエスは,人の罪深い行いだけでなく,そうした行いにつながる考え方や感情にも注意を引いたのです。(詩編 7:14)

      12. イエスの弟子はイエスの助言に従ってどんなことをしますか。そうするとどんな良いことがありますか。

      12 イエスの言葉には本当に素晴らしい知恵が表れています。群衆が「その教え方に大変驚いていた」のもうなずけます。(マタイ 7:28)イエスの弟子である私たちは,イエスの助言がためになることを確信し,それに沿って生活します。イエスが勧めた通り自分の内面を磨き,エホバに喜ばれる言動ができるように努力します。例えば,愛や憐れみを身に付け,いつも平和を求めるようにします。逆に,苦々しい怒りや不道徳な欲望など,イエスが警告した好ましくない感情や考えは心の中から取り除くようにします。そうすれば罪深い行いを避けられるからです。(ヤコブ 1:14,15)

      生き方にも知恵が表れていた

      13-14. イエスはどう生きるかについてどんな良い判断をしましたか。

      13 イエスが深い知恵を持っていたことは,言葉だけでなく行動からも分かります。イエスの判断や決定,自分に対する見方,人との接し方など,生き方全体に知恵がいろいろな形で表れていました。では,イエスが「役立つ知恵と思考力」を発揮した例を幾つか考えてみましょう。(格言 3:21)

      14 知恵には的確な判断力が含まれます。イエスはどう生きるかについて良い判断をしました。その気になれば,事業を成功させ,豪邸を建て,世の中で名を上げることもできたに違いありません。しかし,そうしたことに没頭する生き方が「むなしく,風を追うようなもの」であることをイエスは知っていました。(伝道の書 4:4; 5:10)それは知恵とは程遠い,愚かな生き方です。イエスはお金をもうけて財産を蓄えることには興味を示さず,簡素な生活を送りました。(マタイ 8:20)自分が教えた通り,神の望むことを行うことにいつも目の焦点を合わせていました。(マタイ 6:22)王国の良い知らせを伝えることに,自分の時間や体力を費やしました。それは金もうけよりもはるかに重要で,報いの多いことでした。(マタイ 6:19-21)そのようにしてイエスは素晴らしい手本を残しました。

      15. 神の王国に目の焦点を合わせているイエスの弟子は,どんな生き方をしますか。それが知恵のある生き方だと言えるのはどうしてですか。

      15 現代のイエスの弟子たちも,神の王国に目の焦点を合わせるのが知恵のある生き方だということを理解しています。それで,不必要な借金を抱えたり,あまり重要でないことに体力や気力を奪われたりしないように気を付けます。(テモテ第一 6:9,10)なるべく簡素な生活を送り,宣教にもっと多くの時間を費やせるようにしている人が少なくありません。開拓奉仕をしている人もいます。いつも王国を第一にするなら,最高に幸せで充実した生活を送れます。これ以上に知恵のある生き方はありません。(マタイ 6:33)

      16-17. (ア)イエスは慎みがあり,自分に限界があることを認めていました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)私たちが慎み深く自分の限界をわきまえているかどうかは,どんなことに表れますか。

      16 聖書によると,知恵がある人は慎みもあります。慎みがある人は自分の限界をわきまえています。(格言 11:2)イエスは慎みがあり,自分に限界があることを認めていました。自分が良い知らせを伝える人たち全員を納得させられるわけではないことを知っていました。(マタイ 10:32-39)自分1人では限られた数の人にしか伝道できないことも分かっていました。それで,人々を弟子とする活動を弟子たちに託しました。(マタイ 28:18-20)イエスは弟子たちが自分より「もっと大きなことを行」うということも慎み深く認めていました。弟子たちはいずれ世界中で,ずっと長い期間,はるかに大勢の人に伝道するのです。(ヨハネ 14:12)さらにイエスは,自分には助けなど必要ないとは考えませんでした。天使たちに助けてもらったこともあります。荒野で天使たちに仕えてもらったり,ゲッセマネに現れた天使に力づけてもらったりしました。最大の試練に遭った時には,天の父に助けを求めて叫びました。(マタイ 4:11。ルカ 22:43。ヘブライ 5:7)

      17 私たちも慎みを示し,自分に限界があることをわきまえる必要があります。もちろん,自分の全てを尽くして奉仕し,良い知らせを伝えて人々を弟子とする活動に精力的に励みたいと思っています。(ルカ 13:24。コロサイ 3:23)でも,エホバは私たちを他の人と比べたりしませんから,私たちも自分を人と比べて背伸びしようとする必要はありません。(ガラテア 6:4)知恵を働かせて,自分の能力や状況に合った現実的な目標を立てましょう。たとえ責任ある立場にいても,自分には限界があって助けや支えを必要としていることを認めるのは大切です。慎みがある人は,喜んで人に助けてもらいます。仲間のクリスチャンがエホバに導かれて私たちを「力づけ,助けて」くれることがあるのを知っているからです。(コロサイ 4:11,脚注)

      18-19. (ア)イエスは分別があり,弟子たちに対してポジティブな見方をしていました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)私たちが互いに分別のある接し方をするべきなのはどうしてですか。どうすればそうできますか。

      18 ヤコブ 3章17節によると,「天からの知恵を持つ人は……分別があり」ます。イエスは分別があり,弟子たちに対してポジティブな見方をしました。弟子たちの欠点をよく分かっていましたが,良いところを見るようにしました。(ヨハネ 1:47)捕らえられる晩に弟子たちに見捨てられることを知っていましたが,彼らの揺るぎない愛を疑ったりはしませんでした。(マタイ 26:31-35。ルカ 22:28-30)ペテロがイエスなど知らないと3度言うことも知っていましたが,それでもイエスはペテロのために祈願し,ペテロを信頼していることを伝えました。(ルカ 22:31-34)地上での最後の晩に天の父に祈った時,弟子たちが犯した間違いについてあれこれ言ったりはしませんでした。その晩まで弟子たちが忠実に従ってきたことを褒め,「彼らはあなたの言葉を守っています」と言いました。(ヨハネ 17:6)そして後に,王国の良い知らせを伝えて人々を弟子とする活動を不完全な弟子たちに託しました。(マタイ 28:19,20)弟子たちは,イエスから信頼されていることを実感し,命じられた仕事を果たそうという意欲が湧いたに違いありません。

      19 私たちもイエスの弟子として,このイエスの手本に倣いたいものです。神の完全な子が不完全な弟子たちに対して辛抱したのですから,罪深い人間である私たちはなおのこと互いに分別のある接し方をするべきではないでしょうか。(フィリピ 4:5)仲間のクリスチャンの短所に注目するのではなく,長所を見るようにします。エホバがその人を引き寄せたということを忘れないようにしましょう。(ヨハネ 6:44)エホバがその人の良いところを見ているのですから,私たちもそうすべきです。ポジティブな見方をすれば,人の「過ちを見過ごす」ことができるだけでなく,良い点を見つけて褒めることができます。(格言 19:11)仲間を信頼していることを伝えるなら,その人は力づけられ,ベストを尽くして喜んでエホバに仕えていこうという気持ちになることでしょう。(テサロニケ第一 5:11)

      20. 福音書から貴重な知恵を得られることへの感謝をどのように表せますか。そうするとよいのはどうしてですか。

      20 福音書を読んでイエスの生涯と宣教について学ぶと,まさに貴重な知恵を得られます。イエスについて学べることへの感謝をどのように表せるでしょうか。イエスは山上の垂訓の結びに,自分が語った言葉を聞くだけでなく実行するようにと聴衆に勧めました。(マタイ 7:24-27)イエスの素晴らしい教えや手本をよく思い巡らし,イエスに倣って考えたり行動したりする努力を払いましょう。そうすれば人生を満喫でき,永遠の命へと続く道を歩んでいくことができます。(マタイ 7:13,14)それこそが知恵の表れた最高の生き方です。

      a この日のイエスの話は,山上の垂訓として知られるようになりました。マタイ 5章3節から7章27節までの107の節の内容をその通り話すと,20分ほどしかかかりません。

      b イエスがバプテスマを受けて「天が開」いた時,人間になる前の記憶がよみがえったようです。(マタイ 3:13-17)

      イエスの弟子として考えたいこと

      • 仲間のクリスチャンを傷つけたり怒らせたりしてしまった場合,どうするのが賢明ですか。(マタイ 5:23,24)

      • 侮辱されたり腹が立つようなことをされたりしたときの賢明な対応について,イエスの言葉から何を学べますか。(マタイ 5:38-42)

      • イエスの言葉をじっくり考えると,お金や物に対するどんなバランスの取れた見方を持てますか。(マタイ 6:24-34)

      • イエスの手本から,生活の中で何を優先させるのが知恵のある生き方だと分かりますか。(ルカ 4:43。ヨハネ 4:34)

  • 「キリストは……従順を学びました」
    「来て,私の弟子になりなさい」
    • 第6章

      「キリストは……従順を学びました」

      1-2. 愛情深い父親が,息子が言い付けを守るのを見てうれしく思うのはどうしてですか。エホバはどんな点でこの父親のようですか。

      父親が家の窓から,幼い息子が庭で友達と遊んでいる様子を見ています。ボールが弾んで道路に転がっていってしまい,息子はそれをじっと見ています。友達から「取ってきなよ」と言われますが,息子は首を振り,「道路に出ちゃだめなんだ」と言います。父親はにっこりほほ笑みます。

      2 父親がうれしく思ったのはどうしてでしょうか。1人で道路に出てはいけないという言い付けを息子が守ったからです。息子は父親が見ているとは知りませんでしたが,言われた通りにしました。従順であることの大切さを理解していて,危険を避けることができたのです。この父親と同じように,私たちの天の父エホバも,私たちが従順だとうれしく感じます。私たちに,忠実であり続けて将来の素晴らしい祝福を味わってほしいと思っています。それで私たちは,エホバを信頼して従うことを学ぶ必要があります。(格言 3:5,6)そんな私たちのために,エホバは最高の先生を遣わしてくれました。

      3-4. イエスが「従順を学び」,「完全にされた」とはどういうことですか。

      3 聖書には,イエスについて次の興味深いことが書かれています。「キリストは神の子であったにもかかわらず,苦しんだ事柄から従順を学びました。そして,完全にされた後,自分に従う人全てに永遠の救いをもたらす方になりました」。(ヘブライ 5:8,9)神の子は非常に長い間,天にいました。サタンと他の反逆的な天使たちが神に背くのを見ましたが,初子であるイエスは決して彼らに加わりませんでした。預言の通り,「反抗的では……なかった」のです。(イザヤ 50:5)では,ずっと従順だったイエスが「従順を学」んだと言われているのはどうしてでしょうか。もともと完全なのに,「完全にされた」とはどういうことでしょうか。

      4 例えで考えてみましょう。兵士が鉄の剣を持っています。完璧な仕上がりですが,まだ戦闘で使われたことはありません。兵士は鉄の剣を鍛えて,もっと強い鋼の剣にします。その鋼の剣は戦闘で使われても折れ曲がることなく,強さが実証されます。同じように,イエスは地上に来る前にも完璧な従順を示していましたが,地上で経験した事柄によって従順の質がより高いものになりました。天では遭うことのなかった試練によって従順が試され,いわば鍛えられて,イエスがどんな状況でも神に従い通すことが完全に実証されたのです。

      5. イエスが従順であることが欠かせなかったのはどうしてですか。この章ではどんなことを考えますか。

      5 イエスが地上での使命を果たすには,従順が欠かせませんでした。イエスは「最後のアダム」として,最初の人間アダムができなかったことを行うために地上に来ました。試練に遭ってもエホバ神に従い続けるということです。(コリント第一 15:45)イエスは単なる義務感から従順だったわけではありません。知力を尽くし,心を尽くし,自分の全てを尽くして喜んで従いました。天の父の望むことを行うのは,イエスにとって食事をすることよりも重要でした。(ヨハネ 4:34)どうしたらイエスのように従順でいられるでしょうか。まず,イエスがいつもエホバに従えたのはどうしてか考えてみましょう。イエスと同じ考え方や感じ方ができれば,誘惑に負けることなく神の望むことを行えます。キリストのように従順だとどんな良いことがあるかも考えます。

      イエスがいつもエホバに従えたのはなぜか

      6-7. イエスが従順だったのはどうしてですか。

      6 イエスがいつもエホバに従えたのは,心の中が良い状態だったからです。第3章で考えた通り,イエスは心から謙遜でした。傲慢な人は従うのを嫌がりますが,謙遜な人は喜んでエホバに従います。(出エジプト記 5:1,2。ペテロ第一 5:5,6)イエスが従順だったのは,正しいことを愛し,悪いことを憎んでいたからでもあります。

      7 イエスが最も愛していたのは,天の父エホバです。その愛については第13章で詳しく取り上げます。その愛があったからこそ,イエスは神を畏れていました。エホバをとても深く愛し敬っていたので,お父さんをがっかりさせるようなことはしたくないと思っていたのです。神への畏れは,イエスの祈りが聞き入れられた理由の一つです。(ヘブライ 5:7)また,メシアである王としてのイエスの統治の特徴でもあります。(イザヤ 11:3)

      2人の兄弟が,暴力的な映画のポスターの前に立っている。1人は顔をしかめていて,もう1人は顔を背けて立ち去ろうとしている。

      悪いことを憎んでいる人は,どんなものを楽しむかを注意深く選ぶ

      8-9. 預言通り,イエスは正しいことと悪いことに対してどんな感情を持っていましたか。それはどんなことに表れていましたか。

      8 エホバを愛する人は,エホバが憎むものを憎みます。メシアである王に語り掛けている次のような預言の言葉があります。「あなたは正しいことを愛し,悪いことを憎んだ。それで,あなたの神はあなたを任命し,あなたの仲間を喜ばせる以上にあなたを喜ばせた」。(詩編 45:7)イエスの「仲間」とは,ダビデ王の家系の王たちのことです。それらのどの王よりも,イエスは任命されたことを喜べます。ずっと大きな報いを受けて,王として誰よりもはるかに素晴らしいことを行うからです。イエスが報いを受けるのは,正しいことを愛して悪いことを憎み,その気持ちからいつも神に従ったからです。

      9 イエスが善を愛し悪を憎んでいたことは,どんなことに表れていたでしょうか。例えば,弟子たちがイエスの指示通りに伝道して祝福を受けた時,イエスは喜びにあふれました。(ルカ 10:1,17,21)一方,イエスが愛情深く助けようとしたにもかかわらず,エルサレムの人たちが繰り返し不従順な態度を取った時,イエスは涙を流しました。その都市の人々がエホバに背いたことを悲しく思ったからです。(ルカ 19:41,42)イエスは善い行いに対しても悪い行いに対しても強い感情を表したのです。

      10. 私たちは善い行いと悪い行いに対してどんな気持ちを持つ必要がありますか。そのためにどうすることが大切ですか。

      10 イエスの感情について思い巡らすと,自分がエホバに従っているのはどうしてだろうと考えさせられます。私たちは不完全ですが,善い行いを心から愛し,悪い行いを心から憎むことができます。そのためにはエホバに祈り,エホバやイエスのような気持ちを持てるように助けを求める必要があります。(詩編 51:10)同時に,そうした気持ちを弱めるものに気を付けることも大切です。どんなものを楽しみ,どんな人と交友を持つかをよく考えなければいけません。(格言 13:20。フィリピ 4:8)キリストのような考え方や気持ちがあれば,形だけの従順を示すようなことはありません。私たちが正しいことをするのは,そうしたいと心から思っているからです。悪い行いを避けるのは,罰を受けたくないからではなく,悪いことを憎んでいるからです。

      「キリストは罪を犯さ」なかった

      11-12. (ア)イエスが宣教を始めて間もなく,どんなことがありましたか。(イ)サタンはまず何と言ってイエスを誘惑しましたか。どんなところにずる賢さが表れていますか。

      11 イエスは宣教を始めて間もなく,罪を本当に憎んでいるかどうかを試されることになりました。バプテスマを受け,荒野で40日間ずっと何も食べずに過ごした後,サタンに誘惑されたのです。悪魔が使った方法は非常にずる賢いものでした。(マタイ 4:1-11)

      12 サタンはまずこう言いました。「神の子なら,これらの石に,パンになるように命じなさい」。(マタイ 4:3)聖書によると,イエスは長い断食の後で「空腹を感じ」ていました。(マタイ 4:2)サタンは,何かを食べたいという自然な欲求に付け込んだのです。イエスが弱るのを待っていたに違いありません。「神の子なら」という言い方も挑発的です。サタンはイエスが「全創造物の中の初子」であることを当然知っていたからです。(コロサイ 1:15)でもイエスは,サタンの挑発に乗って神に不従順になったりはしませんでした。自分の欲を満たすために力を使うことを神が望んでいないのを知っていたので,サタンの言う通りにはしませんでした。必要なものを与えて導いてくれるエホバに謙遜に頼っていたのです。(マタイ 4:4)

      13-15. (ア)サタンの2つ目と3つ目の誘惑はどういうものでしたか。イエスはどう反応しましたか。(イ)イエスが決して気を緩めるわけにいかなかったのはどうしてですか。

      13 サタンは次に,イエスを神殿の最も高い所に立たせます。神の言葉を都合のいいように当てはめ,イエスに派手なパフォーマンスをさせようとします。その高い所から飛び降りて,天使たちに救ってもらうようにと誘惑したのです。神殿にいる人々がそのような奇跡を見たら,それ以後は誰もイエスが約束のメシアであることを疑ったりしないでしょう。そうなれば,イエスはいろいろな問題や苦労を避けられるかもしれません。でもイエスは,メシアが謙遜に活動することをエホバが望んでいると知っていました。人目を引く華々しい奇跡によって人々を信じさせることは,神の考えに反していました。(イザヤ 42:1,2)それで,この時もイエスは誘惑を退け,エホバに従いました。人の注目を浴びたいなどとは全く考えなかったのです。

      14 では,権力には魅力を感じたでしょうか。サタンは3つ目の誘惑として,自分に1度崇拝の行為をすれば世界の全ての王国をあげようとイエスに言いました。イエスはサタンが持ち掛けてきた話について考えようともせず,すぐにこう返答しました。「離れ去れ,サタン! 『あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない』と書いてあるのです」。(マタイ 4:10)イエスはどんな誘惑を受けても,エホバ以外の神を崇拝しようなどとは思いませんでした。世の中での高い立場や権力を与えると言われても,神の考えに反することは一切しなかったのです。

      15 サタンは諦めたでしょうか。その時はイエスに命じられた通り引き下がりましたが,ルカの福音書にあるように,「別の都合の良い時までイエスから離れた」にすぎませんでした。(ルカ 4:13)サタンはイエスが地上にいた間ずっと,イエスを誘惑するチャンスをうかがっていたのです。聖書には,イエスが「あらゆる点で……試され」たと書かれています。(ヘブライ 4:15)それでイエスは決して気を緩めるわけにはいきませんでした。私たちも同じです。

      16. 今の時代にサタンは,神に仕える人たちをどのように誘惑していますか。どうすればサタンの誘惑に抵抗できますか。

      16 今でもサタンは神に仕える人たちを誘惑しています。私たちは不完全なので,サタンにとって格好の標的です。サタンは私たちが持つ身体的な欲求,自己顕示欲,権力欲に付け込んできます。そうした欲求全てに訴えて,お金や物を重視させようと働き掛けてくることもあります。それで時々時間を取って,自分を見つめ直すことは大切です。ヨハネ第一 2章15-17節を読んで考えてみましょう。この世の中にあふれている罪深い欲望,もっとお金や物が欲しいと思う気持ち,人から一目置かれたいという気持ちによって,天の父への愛が弱まっていないでしょうか。この世界も支配者であるサタンも終わりに向かっている,ということを忘れないでください。サタンがどれほどずる賢く私たちに罪を犯させようとしてきても,それに抵抗しましょう。決して「罪を犯さ」なかったイエスにぜひとも見習いたいものです。(ペテロ第一 2:22)

      「私は常に,その方が喜ぶことを行う」

      17. イエスは天の父に従うことについてどう感じていましたか。どんなふうに思う人もいますか。

      17 従順であるとは,罪を犯さないというだけのことではありません。キリストはいつも天の父に命じられた通りに行動しました。「私は常に,その方が喜ぶことを行う」と言っています。(ヨハネ 8:29)そのように神に従うことから大きな喜びを感じていました。でもイエスにとって従順であることは私たちほど難しくなかっただろう,と思う人もいるかもしれません。イエスは完全な方であるエホバに従っていればよかったが,私たちは不完全な人間にも従わなければならない,と考えるのです。しかし,聖書を読むと,イエスも不完全な人間に従っていたことが分かります。

      18. 若い時のイエスの手本から,従順についてどんなことが学べますか。

      18 イエスはヨセフとマリアの子として生まれ,不完全な人間であるその2人に育てられました。普通の子供以上に,両親の短所に気付いたことでしょう。では,イエスは親に反抗したり,親のやり方に口を出したりしたでしょうか。全くそんなことはありませんでした。ルカ 2章51節には,12歳のイエスが「その後も両親に従っていた」と書かれています。いつも親に従順だったイエスは,若いクリスチャンにとって素晴らしい手本です。努力が要るとしても親に従い敬意を示すべきことが学べます。(エフェソス 6:1,2)

      19-20. (ア)イエスはどんな難しい状況の中で不完全な人間に従いましたか。(イ)現代の本物のクリスチャンが,教え導いている人たちに従うべきなのはどうしてですか。

      19 イエスは崇拝の面でも不完全な人間に従いました。現代の本物のクリスチャンは直面することがない,どんな難しい問題があったか考えてみましょう。当時はエルサレムに神殿があり,祭司たちがいました。そこを中心とする崇拝は長い間エホバに受け入れられていましたが,間もなくユダヤ人の宗教体制は終わりを迎え,代わりにクリスチャン会衆が設立されることになっていました。(マタイ 23:33-38)イエスが地上にいた頃は,多くの宗教指導者がギリシャ哲学に由来する間違ったことを教えていました。神殿では悪徳な商売がたくさん行われていたので,イエスは神殿が「強盗のすみか」になってしまったと言いました。(マルコ 11:17)では,イエスは神殿や会堂に行くのをやめたでしょうか。そんなことはありません。そこでの崇拝をエホバが望んでいたからです。神がまだ崇拝のための取り決めを変えていなかったので,イエスは従順に神殿での祭りや会堂に出掛けました。(ルカ 4:16。ヨハネ 5:1)

      20 イエスがそのように従順だったのであれば,現代の本物のクリスチャンはなおのこと従順であり続けるべきではないでしょうか。今はイエスの時代とは違い,はるか昔から予告されていた通り清い崇拝が回復されています。神は,自分の民をサタンが堕落させるようなことは決して許さないと言っています。(イザヤ 2:1,2; 54:17)もちろん,クリスチャン会衆の中でも人の罪や不完全さを目にすることはあります。しかし,間違いをする人がいるからといって,エホバに従うのをやめてしまっていいでしょうか。不従順になって集会に行かなくなったり,長老を批判したりしてはいけません。会衆を教え導いている人たちに進んで協力してください。従順に集会や大会に出席し,そこで聖書から教えられることに従いましょう。(ヘブライ 10:24,25; 13:17)

      兄弟姉妹が王国会館の外で楽しそうに話している。

      従順な人はクリスチャンの集会で学んだ通りに行動する

      21. イエスは,神に従うのを思いとどまらせようとする圧力を受けた時どうしましたか。私たちはその手本にどのように倣えますか。

      21 イエスは,人から何と言われようとエホバに従うのをやめませんでした。たとえ友が善意でアドバイスをしてくれても,それが神の考えと違ったときには聞き入れませんでした。例えばある時ペテロは,苦しんで死ぬなんてとんでもないと言って,自分を大切にするようイエスに強く勧めました。悪気はなかったものの,そのアドバイスは間違っていたので,イエスはきっぱりと退けました。(マタイ 16:21-23)現代でも,親族や友人が私たちのためを思って,神の教えに従うのを思いとどまらせようとすることがあります。そういうときも,私たちはイエスの1世紀の弟子たちと同じように「人ではなく神に従」います。(使徒 5:29)

      キリストのように従順な人は報われる

      22. イエスはどんな疑問に対する答えを出しましたか。どのようにですか。

      22 イエスは死を目前にして,従順であるかどうかを極限まで試されることになりました。そのつらく苦しい経験を通して,より十分に「従順を学びました」。自分の望むことではなく,天の父の望むことを最後まで行ったのです。(ルカ 22:42)そのようにして,神への忠誠を貫きました。(テモテ第一 3:16)そのイエスの歩みにより,ずっと昔からの疑問に対する答えが出ました。完全な人間は試練に遭ってもエホバに従い続けられるか,という疑問です。アダムもエバも失敗しましたが,イエスが地上での生涯によってこの問題に片を付けました。エホバが創造したものの中で最も偉大な方が,大きな犠牲を払ってまでも神に従い,これ以上ない答えを出したのです。

      23-25. (ア)エホバに従い続けるなら,どんな生き方ができますか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。

      23 エホバへの忠誠心は,従順な行動に表れます。イエスは神に従って忠誠を貫き,全人類が救われるための道を開きました。(ローマ 5:19)そういうイエスに,エホバは豊かな報いを与えました。私たちも主人であるキリストに従うなら,エホバから「永遠の救い」という報いを与えていただけます。(ヘブライ 5:9)

      24 さらに,忠誠を貫く高潔な生き方そのものが,私たちのためになります。格言 10章9節によると,「高潔に歩む人は安全に歩み」ます。高潔に歩む人は,れんが造りの立派な家を建てているようなものです。従順な行動一つ一つを,いわばれんがのように積み上げているのです。1個のれんがは大したものではないと思えるかもしれませんが,どれもなくてはならないものです。たくさんのれんがを積み上げていくと,素晴らしいものが出来上がります。同じように,従順な行動を日々積み重ねていくと,私たちは高潔な人として良い人生を築くことができ,エホバの目に美しく映るのです。

      25 長い間神に従い続けるには,忍耐も必要です。次の章では,イエスの忍耐の手本について考えます。

      イエスの弟子として考えたいこと

      • キリストはどんなことを命じていますか。そうした命令に従ってどんなことができますか。そうするとどんな良いことがありますか。(ヨハネ 15:8-19)

      • イエスの親族は当初,イエスが伝道していることについてどう思いましたか。イエスが親族について言ったことから何を学べますか。(マルコ 3:21,31-35)

      • エホバに従うと幸せな生活を送れないのではないか,などと心配すべきでないのはどうしてですか。(ルカ 11:27,28)

      • イエスが従う必要のない規定にも従ったことから,どんな考え方を学べますか。(マタイ 17:24-27)

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