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「かわいそうに思った」「来て,私の弟子になりなさい」
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第15章
「かわいそうに思った」
「主よ,目が見えるようにしてください」
1-3. (ア)目が見えない2人の人から助けてほしいと懇願された時,イエスはどうしましたか。(イ)「かわいそうに思[う]」という表現にはどんな意味がありますか。(脚注を参照。)
目が見えない2人の人が,エリコに近い道路の脇に座っています。毎日そこにやって来て,人通りの多そうな場所で物乞いをしているのです。しかしその日,ある出来事によって2人の人生が大きく変わります。
2 突然,ざわめきが聞こえます。2人は何が起きているのか見えないので,そのうちの1人が何の騒ぎなのかと尋ねると,「ナザレ人イエスが通っていくのだ!」という答えが返ってきます。イエスがエルサレムに向かう最後の旅をしているところで,大勢の人が付いてきています。イエスが通ると聞いた2人は,「主よ,憐れみをお掛けください,ダビデの子よ!」と叫び始めます。いら立った周りの人たちから静かにしているようにと言われますが,2人は黙ろうとせず,必死に叫び続けます。
3 騒がしい中,2人の叫び声がイエスの耳に届きます。イエスはどうするでしょうか。ちょうど地上での最後の週を迎えようとしているところで,気掛かりなことがたくさんあります。エルサレムでひどい目に遭って殺されることも分かっています。でも,2人の必死の願いを聞き流したりはしません。立ち止まり,叫んでいる人たちを連れてくるように頼みます。2人が「主よ,目が見えるようにしてください」と懇願すると,イエスは「かわいそうに思い」,2人の目に触れます。a すると2人は目が見えるようになり,すぐにイエスの後に従います。(ルカ 18:35-43。マタイ 20:29-34)
4. イエスは,「立場が低い人……を哀れに思」うという預言の通り,どのように行動しましたか。
4 イエスはこの時だけでなく,いろいろな時に深い思いやりを示しました。聖書にはイエスが「立場が低い人……を哀れに思」うことが預言されていました。(詩編 72:13)その言葉通り,イエスは人の気持ちに寄り添い,進んで人を助けました。伝道したのも,思いやりがあったからこそです。では,イエスの言動にどのように思いやりが表れていたか,福音書を調べ,どのようにイエスの思いやりに倣えるかを考えましょう。
人の気持ちに配慮した
5-6. イエスが心から人に感情移入したどんな例がありますか。
5 イエスは心から人に感情移入しました。苦しんでいる人たちを見ると,自分のことのように感じました。その人たちと同じ経験をしたことがなくても,どれほどつらいかを感じ取りました。(ヘブライ 4:15)12年間も出血が続いていた女性を癒やした時には,その女性が「つらい病気」で大変な思いをしてきたことへの理解を示しました。(マルコ 5:25-34)ラザロが亡くなった時には,マリアや周りの人たちが泣いて悲しんでいるのを見て,心を揺さぶられました。自分がこれからラザロを生き返らせることは分かっていましたが,同情して涙を流さずにはいられませんでした。(ヨハネ 11:33,35)
6 またある時,重い皮膚病の人がイエスの所に来て,治してほしいと嘆願し,「あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます」と言いました。イエスは完全な人で病気になったことがありませんでしたが,その人に心から同情し,「かわいそうに思い」ました。(マルコ 1:40-42)それから,普通では考えられないことをします。律法によれば,重い皮膚病の人は汚れていて,ほかの人から離れていなければなりませんでした。(レビ記 13:45,46)イエスはその人に触れずに癒やすこともできたでしょう。(マタイ 8:5-13)しかし,あえて手を伸ばしてその人に触り,「そう望みます。良くなりなさい」と言いました。すると,すぐに病気は跡形もなく治りました。イエスの優しい思いやりが伝わってきます。
人をいたわりましょう
7. どうすれば感情移入できるようになりますか。思いやりはどのように表れますか。
7 クリスチャンである私たちは,イエスに見習って人に感情移入する必要があります。聖書には,人を「いたわる」ようにと書かれています。b (ペテロ第一 3:8)慢性的な病気やうつ病などに苦しんでいる人の気持ちを理解することは,そういう経験がない人にとって簡単ではないかもしれません。でも,同じ経験をしていなければ感情移入できないということはありません。イエスは病気になったことがありませんでしたが,病気の人に感情移入しました。では,どうすれば感情移入できるようになるでしょうか。大切なのは,苦しんでいる人がつらい気持ちを話してくれる時に親身になって耳を傾けることです。「自分が相手の立場だったらどう感じるだろう」と考えてください。(コリント第一 12:26)人の気持ちを敏感に感じ取れるようになればなるほど,「気落ちしている人に慰めの言葉を掛け」るのが上手になります。(テサロニケ第一 5:14)思いやりが言葉だけでなく涙に表れることもあるでしょう。ローマ 12章15節には,「泣く人と一緒に泣きましょう」とあります。
8-9. イエスが人の気持ちをよく考えて行動したどんな例がありますか。
8 イエスはいつも人の気持ちをよく考えて行動しました。耳が聞こえず言語障害のある男性がイエスのもとに連れてこられた時のことを考えましょう。イエスはその人の不安そうな様子に気付いたようで,人を癒やす時に普段しないことをしました。「群衆の中からその男性だけを連れて」いき,誰にも見られない所で癒やしたのです。(マルコ 7:31-35)
9 目が見えない男性を人々が連れてきて,治してほしいと頼んだ時も,イエスは同じように思いやり深く行動しました。「目が見えない男性の手を取って村の外に連れて」いき,段階的に癒やしたのです。そのおかげで,男性は目に映るまぶしい光景に少しずつ慣れ,何を見ているかを徐々に理解できるようになったことでしょう。(マルコ 8:22-26)本当に素晴らしい配慮です。
10. 人の気持ちを考えている人はどのように行動しますか。
10 イエスの弟子である私たちも,人の気持ちを考えて行動しなければなりません。例えば,話し方に気を付けます。軽率に話すと人を傷つけてしまうことがあるからです。(格言 12:18; 18:21)人の気持ちに寄り添うクリスチャンは,きついことを言ったり,人をけなしたり,皮肉を言ったりはしません。(エフェソス 4:31)長老は,人の気持ちに配慮していることをどのように示せるでしょうか。助言を与えるときには,相手の尊厳を傷つけないように,親切な言い方をしましょう。(ガラテア 6:1)親は,どのように子供の気持ちに配慮できるでしょうか。子供を正す必要があるときにも,不必要に恥ずかしい思いをさせないようにします。(コロサイ 3:21)
進んで人を助けた
11-12. イエスが人に頼まれなくても思いやりを示したどんな例がありますか。
11 イエスは人に頼まれなくても思いやりを示しました。本当に思いやりがある人は,いつも受け身でいるのではなく,自分から進んで人を助けます。イエスもそうでした。一例として,大勢の人が食べ物も持たずにイエスと3日過ごした時,誰もイエスに,皆がおなかをすかせているから何とかしてほしいと頼む必要はありませんでした。聖書にこう書かれています。「イエスは弟子たちを呼んで,言った。『群衆がかわいそうです。私と共に3日いて,食べる物がないのです。空腹のまま去らせたくありません。途中で倒れてしまうかもしれません』」。それからイエスは自分の意思で奇跡を行って群衆に食べ物を与えました。(マタイ 15:32-38)
12 別の例も考えましょう。西暦31年,イエスはナインという町の近くで悲しい光景を目にします。葬式の行列が町から出てきて,近くの丘の斜面にある墓地に向かうようです。亡くなったのは,ある「やもめ」の「一人息子」でした。この母親がどれほどつらい気持ちだったか,容易に想像できます。悲しみを分かち合える夫もいません。たくさんの人がいる中で,イエスはそのやもめに注目し,「かわいそうに思い」ました。誰に頼まれたわけでもありませんでしたが,同情心から行動せずにはいられませんでした。それで,「遺体を載せた台に近づいて触」り,若者を生き返らせました。それからどうしたでしょうか。自分に同行していた大勢の人たちに加わるようその若者に求めたりはせず,「息子を母親に渡し」ました。その2人がまた一緒に暮らして,やもめが世話を受けられるようにしたのです。(ルカ 7:11-15)
困っている人を進んで助けましょう
13. 困っている人がいたら,イエスに見習ってどのように助けることができますか。
13 私たちはどのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。もちろん,奇跡を行って食べ物を与えたり人を生き返らせたりすることはできませんが,イエスのように自分から進んで人を助けることができます。例えば,兄弟姉妹がお金に困っていたり,失業していたりするかもしれません。(ヨハネ第一 3:17)やもめの姉妹が家の修理を緊急に必要としているかもしれません。(ヤコブ 1:27)家族を亡くした兄弟姉妹が,慰めや手伝いを必要としている場合もあるでしょう。(テサロニケ第一 5:11)本当に助けを必要としている人がいるなら,頼まれなくても行動しましょう。(格言 3:27)思いやりがあれば,自分にできることをして助けたいと思うことでしょう。たとえそれがちょっとした親切や心のこもった一言だとしても,思いやりは十分に伝わるものです。(コロサイ 3:12)
思いやりの気持ちから伝道した
14. 良い知らせを伝える活動をイエスが何よりも大切にしたのはどうしてですか。
14 この本のセクション2で考えたように,イエスは良い知らせを伝える点で素晴らしい手本を残しました。こう言っています。「私はほかの町にも神の王国の良い知らせを広めなければなりません。そのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)イエスがこの活動を何よりも大切にしたのは,主に神を愛していたからでした。でも,人を心から思いやり,神との絆を強められるように助けたいと思ったからでもありました。イエスはいろいろな方法で思いやりを示しましたが,一番大事だったのは,神を正しく知らず満たされない気持ちでいる人たちを助けることでした。では,イエスがそういう人たちのことをどう思っていたかが分かる出来事を2つ考えましょう。私たちもどういう気持ちで伝道すべきかが分かります。
15-16. どんな2つの出来事から,一般の人に対するイエスの見方が分かりますか。
15 イエスは2年ほど精力的に宣教を行った後,西暦31年にガリラヤの「全ての町や村を旅して回り」,より徹底的に伝道することにします。その時のことについて,マタイはこう書いています。「イエスは……群衆を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されていたからである」。(マタイ 9:35,36)イエスは一般の人たちに同情しました。その人たちが神のことをよく知らず,惨めな状態にあったからです。導いてくれるはずの宗教指導者たちからひどい扱いを受け,全く教えてもらっていませんでした。イエスは深い同情心から,人々に希望のメッセージを伝えるために奮闘しました。彼らは神の王国の良い知らせを何よりも必要としていたのです。
16 しばらくして,西暦32年の過ぎ越しが近づいた頃,同じようなことがありました。その時イエスと使徒たちは舟に乗り,ガリラヤ湖を渡って静かな場所で休もうとしていました。ところが,群衆が岸に沿って走り,舟より先に向こう岸に着いてしまいます。イエスはどうしたでしょうか。こう書かれています。「イエスは舟を下り,大勢の人を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のようだったからである。そして,多くのことを教え始めた」。(マルコ 6:31-34)この時も,イエスは神をよく知らない人たちの惨めな状態を見て「かわいそうに思」いました。彼らはいわば「羊飼いのいない羊」のようにおなかをすかせ,さまよっていたのです。イエスがその人たちに伝道したのは,単なる義務感からではなく,その人たちのことを思いやったからです。
思いやりの気持ちから伝道しましょう
17-18. (ア)私たちが伝道を大切にするのはどうしてですか。(イ)どうすれば人への思いやりを深めることができますか。
17 イエスの弟子である私たちが伝道を大切にするのはどうしてでしょうか。この本の第9章で考えたように,私たちは伝道して人々を弟子とする任務を与えられています。(マタイ 28:19,20。コリント第一 9:16)とはいえ,単なる義務感から伝道するのではありません。何よりも,エホバを愛しているので,エホバの王国の良い知らせを伝えます。さらに,エホバを知らない人たちへの思いやりから伝道します。(マルコ 12:28-31)では,どうすれば人への思いやりを深めることができるでしょうか。
18 エホバを知らない人たちに対して,イエスと同じ見方をする必要があります。「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,放り出されて」いる人たちと見るのです。迷子の子羊を見つけたところを想像してみてください。牧草地や水場に連れていってくれる羊飼いがいないので,その子羊はおなかをすかせていて,喉も渇いています。かわいそうに思うのではないでしょうか。何とかして食べ物や水を与えようとすることでしょう。まだ良い知らせを聞いたことがない多くの人は,この子羊のようです。頼りになる牧者がいないので,心が飢え渇いていて,将来に希望を持てないでいます。私たちは,そういう人たちが必要としているものを持っています。聖書から得られる,心を養う食物と,心に染みる真理の水です。(イザヤ 55:1,2)真理を知らずにいわば迷子になっている人たちのことを考えると,私たちはかわいそうに思います。イエスのようにそういう人たちへの深い思いやりがあれば,王国の希望を伝えるためにできる限りのことをせずにはいられなくなります。
19. 聖書を学んでいる人が伝道に参加する資格を満たしているなら,伝道者になるようどのように励ませますか。
19 他の人がイエスの手本に倣えるよう,どのように助けられるでしょうか。伝道に参加するよう,聖書を学んでいる人やしばらく伝道をしていない仲間を励ましたい場合のことを考えてみましょう。ポイントは,行動したいという気持ちを起こさせることです。イエスは人々のことを「かわいそうに思った」ので,進んで教えました。(マルコ 6:34)それで,イエスのように良い知らせを伝えたいと思ってもらうには,人への思いやりを深められるように助けることが大切です。こんなふうに尋ねてみることもできます。「神の王国について知ることができて,どんなことが良かったと思いますか。まだ王国について知らない人たちにとって,良い知らせを聞くことはどれほど大切だと思いますか。どうしたらそういう人たちの助けになれると思いますか」。もちろん,私たちが宣教を行う主な理由は,神を愛していて,神に仕えたいと思っているからです。
20. (ア)イエスの弟子になるにはどんなことが必要ですか。(イ)次の章ではどんなことを考えますか。
20 イエスの弟子になるには,単にイエスの言動をまねればよいというわけではありません。イエスと同じ「考え方」ができるようになる必要があります。(フィリピ 2:5)イエスがどんな思いで行動したかが聖書に書かれているおかげで,私たちは「キリストの考え」を知ることができます。それによって,イエスのように人の気持ちに寄り添い,心からの思いやりを示せるようになります。(コリント第一 2:16)次の章では,イエスが特に弟子たちにどのように愛を表したかを考えます。
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「自分に従う人たちを……最後まで愛した」「来て,私の弟子になりなさい」
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第16章
「自分に従う人たちを……最後まで愛した」
1-2. イエスは使徒たちとの最後の晩にどんなことをしましたか。その時間をとても大切にしたのはどうしてですか。
イエスは使徒たちを,エルサレムのある家の階上の部屋に集めました。一緒に過ごす最後の晩です。天の父のもとに戻る時が近づいています。あと数時間もすれば捕らえられ,かつてないほど信仰を試されることになります。でも,自分の死が迫っている中で,使徒たちのことを深く気に掛けています。
2 イエスはこれまでも自分がいずれいなくなることについて使徒たちに伝えてきましたが,彼らを力づけるために言うべきことがまだあります。それで,その最後の貴重な時間を使って,使徒たちが試練に遭っても忠実でいられるよう,大切なことを教えます。普段以上に温かく胸を打つ言葉で使徒たちに語り掛けます。イエスが自分のことよりも使徒たちのことを考えていたのはどうしてでしょうか。一緒に過ごす最後の時間をそれほどまでに大切にしたのはどうしてでしょうか。それは,使徒たちのことを深く愛していたからです。
3. イエスがずっと弟子たちを愛していたことは何に表れていましたか。
3 何十年もたってから,使徒ヨハネは聖なる力に導かれてその晩のことを次のように書きました。「イエスは,過ぎ越しの祭りの前に,自分がこの世を去って天の父のもとに行くべき時が来たことを知った。そして,世にいて自分に従う人たちを,それまでも愛してきたが,最後まで愛した」。(ヨハネ 13:1)この言葉の通り,イエスは「自分に従う人たち」を最後の晩に至るまでずっと愛しました。その愛は,イエスのさまざまな言動に表れていました。では,イエスがどのように愛を表したかを調べて,弟子としてどのようにイエスに見習えるかを考えましょう。
辛抱強く接した
4-5. (ア)弟子たちに対するイエスの辛抱は何度も試されました。どんなことがありましたか。(イ)ゲッセマネの庭園で3人の使徒が眠り込んでしまった時,イエスはどうしましたか。
4 コリント第一 13章4節に「愛は辛抱強[い]」とある通り,愛がある人は人に辛抱強く接します。イエスもそうでした。第3章で考えたように,使徒たちはなかなか謙遜になれませんでした。自分たちの中で誰が一番偉いかについて何度も議論しました。では,イエスは腹を立てたりいら立ったりしたでしょうか。そうではなく,辛抱強く諭しました。一緒に過ごした最後の晩にも使徒たちの間で「激しい議論」が起きましたが,イエスの態度は変わりませんでした。(ルカ 22:24-30。マタイ 20:20-28。マルコ 9:33-37)
5 その晩の少し後に,イエスが11人の忠実な使徒たちと一緒にゲッセマネの庭園に行った時,またしても辛抱が試されます。イエスは8人の使徒を残し,ペテロとヤコブとヨハネを連れて庭園の奥の方に行って,こう言いました。「私は悲しみのあまり,死んでしまいそうです。ここにとどまって,私と共にずっと見張っていなさい」。そして,少し離れた所に行って熱烈に祈り始めます。長い祈りを終えて戻ってみると,なんと3人は眠り込んでいました。イエスにとって一番大変な時に緊張感もなく寝ていた3人を,イエスは叱りつけたでしょうか。そうはせず,辛抱強く助言し,「もっとも,心は強く願っていても,肉体は弱いのです」と言いました。その言葉から,使徒たちの弱さや感じていたストレスをよく理解していたことが分かります。a その後も使徒たちはさらに2回眠り込んでしまいましたが,イエスはずっと辛抱しました。(マタイ 26:36-46)
6. イエスに見習ってどのように人と接したらよいですか。
6 イエスが使徒たちに見切りをつけなかったことは,私たちにとっても励みになります。イエスの辛抱は報われました。使徒たちは,謙遜であることや目を覚ましていることの大切さを学んだのです。(ペテロ第一 3:8; 4:7)私たちはイエスに見習ってどのように人と接したらよいでしょうか。特に長老たちは仲間に辛抱強く接する必要があります。疲れ切っている時や自分の心配事で頭がいっぱいの時に,兄弟姉妹に相談を持ち掛けられることがあるかもしれません。助言になかなか応じない人もいることでしょう。それでも,辛抱強ければ「温和な態度で」教えることができ,「群れを優しく扱」えます。(テモテ第二 2:24,25。使徒 20:28,29)親にとっても,イエスに見習って辛抱することは大切です。子供がなかなか言うことを聞かない場合があるからです。愛情深くて辛抱強い親は,諦めずに子供を教え続けます。そうすれば,きっと喜ばしい結果になることでしょう。(詩編 127:3)
必要なものを与えた
7. イエスはどのように弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしましたか。
7 愛がある人は,人のためになることをします。(ヨハネ第一 3:17,18)「自分のことばかり考え」ません。(コリント第一 13:5)愛情深いイエスは,弟子たちの体を気遣い,必要な物に事欠かないようにしました。弟子たちから頼まれなくても,弟子たちのためを思って行動することがよくありました。例えば,弟子たちが疲れていることに気付いた時には,「一緒に静かな場所に行って,少し休」むことにしました。(マルコ 6:31)弟子たちや,教えを聞きに集まっていた何千人もの人たちがおなかをすかせていることを見て取ると,食べ物を与えました。(マタイ 14:19,20; 15:35-37)
8-9. (ア)イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えました。どんなことからそれが分かりますか。(イ)杭に掛けられていた時,イエスは母親のことを深く気遣ってどんなことをしましたか。
8 イエスは弟子たちが強い信仰を持てるように,必要な教えや励ましを与えることもしました。(マタイ 4:4; 5:3)人々を教える時に,主に弟子たちのことを念頭に置いていたこともよくありました。例えば山上の垂訓は,特に弟子たちのために話しました。(マタイ 5:1,2,13-16)例えを使って教えた時には,「弟子たちだけの時に全ての説明を」しました。(マルコ 4:34)さらにイエスは,終わりの時代に弟子たちが信仰を強める食物を十分に受け取れるよう,「忠実で思慮深い奴隷」を任命することを予告しました。1919年以来,聖なる力によって選ばれたイエスの兄弟たちの少人数の一団が,地上で忠実な奴隷として「適切な時に食物を与え」ています。(マタイ 24:45)
9 イエスは亡くなる日に,愛する家族がエホバとの強い絆を持ち続けられるように取り計らいました。その感動的な場面を想像してみてください。イエスは杭に掛けられ,ひどい苦しみに耐えています。息をするには,脚で体を持ち上げなければならなかったことでしょう。そうすると激痛が走ったに違いありません。くぎを打たれた足の所が体の重みで裂け,むちで打たれた背中が杭にこすれたからです。そういう状態では,話すのも大変だったでしょう。それでも,息を引き取る直前に,イエスは母親のマリアへの深い愛が表れた言葉を語ります。そばに立っていたマリアと使徒ヨハネを見て,周りの人にも聞こえるほど大きな声でマリアに,「見なさい,あなたの子です!」と言います。それからヨハネに,「見なさい,あなたの母親です!」と言います。(ヨハネ 19:26,27)その忠実な使徒が,マリアを生活面だけでなく信仰面でも支えてくれることを確信していたのです。b
子供を愛する親は,子供に辛抱強く接し,子供の幸せのために必要なことをする
10. 親はどのようにイエスに見習えますか。
10 親がイエスの手本についてじっくり考えるのは良いことです。家族を心から愛する父親は,家族を十分に養います。(テモテ第一 5:8)また,家族のリーダーとして,家族がバランスよく休養や楽しいことをする時間を取れるようにします。一番大事なこととして,クリスチャンの親は子供が神との強い絆を持てるように助けます。そのために,家族で聖書を学ぶ時間を欠かさずに取ることは大切です。子供たちが楽しく学んで,エホバに仕えたいと思えるようにします。(申命記 6:6,7)さらに,伝道や集会がとても大切であることを教え,よく準備して参加することによって手本を示します。(ヘブライ 10:24,25)
快く許した
11. 人を許すことについて,イエスは弟子たちにどんなことを教えましたか。
11 愛がある人は,人を許します。(コロサイ 3:13,14)コリント第一 13章5節にある通り,「傷つけられても根に持ちません」。イエスは,許すことの大切さを繰り返し弟子たちに教えました。「7回ではなく77回」人を許すようにと言いました。何度でも許しなさい,ということです。(マタイ 18:21,22)また,罪を犯した人が助言を受けて悔い改めたなら,その人を許すようにとも教えました。(ルカ 17:3,4)口先だけの偽善的なパリサイ派の人たちとは違い,イエスは自ら手本を示しました。(マタイ 23:2-4)親しい友の言動にがっかりした時にも,イエスがどのように快く許したかを考えてみましょう。
12-13. (ア)イエスが捕らえられた夜,ペテロはイエスをがっかりさせるようなどんなことをしましたか。(イ)イエスが快く人を許したことは,復活後のどんな言動から分かりますか。
12 イエスの親しい友の1人に,温かい心の持ち主である使徒ペテロがいました。ペテロは時々衝動的に行動することもありましたが,イエスはペテロの良いところに注目し,特別な務めや機会を与えました。例えば,ペテロはヤコブやヨハネと一緒に,他の使徒たちは見ることができなかった奇跡を見せてもらいました。(マタイ 17:1,2。ルカ 8:49-55)また,イエスが捕らえられた夜も,その2人と一緒にゲッセマネの庭園の奥の方までイエスに付き添いました。しかし,その夜にイエスが裏切られて拘束された時,ペテロや他の使徒たちはイエスを見捨てて逃げました。その後,イエスが不当な裁判にかけられている間,ペテロは勇敢にも外で待っていました。ところが,怖くなって重大な間違いをしてしまいます。イエスなど知らないと3回もうそをついたのです。(マタイ 26:69-75)イエスはどうしたでしょうか。あなただったら,親友にそのようにがっかりさせられたらどうしますか。
13 イエスはペテロを許しました。ペテロが罪悪感に苦しんでいることをよく分かっていました。ペテロが「泣き崩れた」ことから,深く後悔していたことは明らかでした。(マルコ 14:72)復活した日に,イエスはペテロの前に現れました。慰めて安心させるためだったのでしょう。(ルカ 24:34。コリント第一 15:5)それから2カ月もしないペンテコステの日に,ペテロはエルサレムで使徒たちの先頭に立って群衆に話しました。イエスがペテロにその務めを与えたことは,ペテロへの信頼の表れでした。(使徒 2:14-40)イエスは自分を見捨てたほかの使徒たちのことも根に持ったりしませんでした。復活した後も,彼らを「私の兄弟たち」と呼んでいます。(マタイ 28:10)イエスが許すよう人に教えただけでなく,自分自身も快く人を許したことがよく分かります。
14. 人を許すように努力する必要があるのはどうしてですか。誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいですか。
14 キリストの弟子である私たちは,人を許すように努力する必要があります。イエスと違って私たちは皆不完全で,互いに間違ったことを言ったりしたりしてしまうことがよくあるからです。(ローマ 3:23。ヤコブ 3:2)悔い改めている人を許すなら,自分も神に罪を許してもらえます。(マルコ 11:25)では,誰かから気に障るようなことをされたとき,具体的にどうしたらいいでしょうか。愛があれば,相手の小さな間違いや欠点はたいてい見過ごすことができるでしょう。(ペテロ第一 4:8)自分を傷つけた人がペテロのように誠実に悔い改めているなら,イエスに見習って快く許したいと思うことでしょう。根に持ったりせず,水に流すのが最善です。(エフェソス 4:32)そのようにすれば,会衆の平和に貢献でき,自分自身も穏やかな気持ちでいることができます。(ペテロ第一 3:11)
信頼していることを示した
15. 欠点がある弟子たちをイエスが信頼したのはどうしてですか。
15 愛がある人は,人を信頼します。聖書によると「全てのことを信じ」ます。c (コリント第一 13:7)愛情深いイエスは,不完全な弟子たちを信頼しました。弟子たちが心からエホバを愛していて,エホバの望むことを行いたいと思っていることを信じていました。弟子たちが間違いをしても,心が曲がっているからだとは考えませんでした。例えば,使徒のヤコブとヨハネが王国でイエスの隣に座れるように母親を通してお願いした時,イエスは2人の誠実さを疑ったり,使徒にはふさわしくないと考えたりはしませんでした。(マタイ 20:20-28)
16-17. イエスは弟子たちにどんな責任を委ねてきましたか。
16 信頼の表れとして,イエスは弟子たちにいろいろな責任を委ねました。奇跡によって食べ物を増やして大勢に与えた時には,2回とも食べ物を配るのを弟子たちに任せました。(マタイ 14:19; 15:36)自分にとって最後の過ぎ越しを祝うに当たっては,エルサレムに行って準備をするようペテロとヨハネを遣わしました。2人は,子羊,ぶどう酒,無酵母パン,苦菜など,必要な物を用意しました。それは単なる雑用ではありませんでした。過ぎ越しを正しい方法で祝うことはモーセの律法で求められており,イエスは律法を注意深く守る必要があったからです。しかもその晩,過ぎ越しの祝いの後にイエスが自分の死を記念する式を制定した時,パンとぶどう酒はイエスの体と血を表す重要な物として使われました。(マタイ 26:17-19。ルカ 22:8,13)
17 イエスは弟子たちにさらに重要な務めも与えました。すでに考えた通り,伝道して人々を弟子とするという重大な任務を託しました。(マタイ 28:18-20)また,聖なる力によって選ばれた弟子たちのうちの少人数の一団に,信仰を強める食物を分配させることにしました。(ルカ 12:42-44)天で王となった今でも,イエスは弟子たちを信頼し,聖書に書かれた資格を満たしている「人々という贈り物」に自分の会衆の世話を任せています。(エフェソス 4:8,11,12)
18-20. (ア)兄弟姉妹を信頼する人はどんな見方をしますか。(イ)人に責任を委ねる点でどのようにイエスに見習えますか。(ウ)次の章ではどんなことを考えますか。
18 人に対する見方の点で,どのようにイエスの手本に倣えるでしょうか。兄弟姉妹を信頼することは,愛の表れです。愛がある人は,人の悪いところではなく,良いところを見るようにします。人にがっかりさせられることはあるものですが,愛情深ければ,相手に悪意があるとすぐに決めつけたりはしません。(マタイ 7:1,2)仲間の良いところに注目すれば,批判したりするのではなく,励まして力づけたいと思えることでしょう。(テサロニケ第一 5:11)
19 人に責任を委ねる点でもイエスに見習えるでしょうか。会衆の監督たちが人を信頼し,その人に合った有意義な仕事を任せるのは良いことです。経験のある長老たちはそのようにして,会衆の役に立とうと「努めている」若い兄弟たちが大切なことを学んで成長できるように助けることができます。(テモテ第一 3:1。テモテ第二 2:2)人を育てるのは大事なことです。エホバがますます多くの人を会衆に招き入れているので,教え導く資格のある兄弟たちがいっそう必要になっているからです。(イザヤ 60:22)
20 イエスは人を愛する点で素晴らしい手本を残しています。イエスの弟子としてできる一番大切なことは,イエスの愛に見習うことです。イエスは私たちを深く愛して,私たちのために自分の命を差し出してくれました。そのことにイエスの愛が一番よく表れています。次の章で詳しく考えましょう。
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