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エホバ聖書に対する洞察,第1巻
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そのような事柄すべてからすれば,エホバが人間の行為や創造者と人間との関係を律する規準を設けられたとしても,理知のある人間にとって不思議なこととは思えなかったはずです。エホバご自身の見事な技量は,アダムにとって地を耕し,エデンの世話をするための模範となりました。(創 2:15; 1:31)アダムはまた,結婚に関する神の規準,つまり一夫一婦婚や家族関係の規準を学びました。(創 2:24)とりわけ,神の指示に対する従順という規準は命そのものにとって肝要であることが強調されました。アダムは人間として完全でしたから,エホバがアダムのために設けられた規準は,完全な従順でした。エホバはご自分の地的な子に,エデンの多くの果樹のうち1本の木の実だけは食べることを慎むようにという命令に対する従順によって,愛と専心を実証する機会をお与えになりました。(創 2:16,17)それは単純なことでした。しかし,当時,後に生じた複雑な問題や混乱はなかったので,アダムの置かれていた状況も単純でした。4,000年ほど後にイエス・キリストが述べた,「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」という言葉は,その単純な試みに見られるエホバの知恵を強調しています。―ルカ 16:10。
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イエス・キリスト聖書に対する洞察,第1巻
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一例として,神の最初の人間の子アダムに課せられた試みについて考えてみてください。その試みに関係していた事柄はと言えば,迫害や苦しみを忍耐することではなく,善悪の知識の木に関して神のご意志に敬意を払って従順に従い続けることだけでした。(創 2:16,17。「木」を参照。)サタンの反逆や誘惑は元々神が行なわれた試みの一部ではなく,神とは全く異なる源に由来する付け加えられた特異な事柄でした。また,その試みには,それが行なわれた時,エバの逸脱行為の結果としてアダムが直面したような,人間的などんな誘惑も必要ではありませんでした。(創 3:6,12)そういうわけで,悪行を犯させようとする外部からの何らかの誘惑や影響がなくても,アダムを試みることはできました。問題はすべて,アダムの心に ― 神に対する愛と利己心の全くない態度に ― かかっていました。(箴 4:23)アダムは忠実であることを証明したなら,試みを受け,是認された,神の人間の子として,「命の木」から実を取って「食べ,定めのない時まで生きる」特権に恵まれたことでしょう。(創 3:22)それも,悪質な影響や誘惑,迫害,あるいは苦しみなどに遭わずにそうなったことでしょう。
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命聖書に対する洞察,第1巻
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科学者たちによる調査結果や結論を考慮する際には,ほとんどの科学者が命を創造者から授けられたものと考えていないことに注目すべきです。彼らは人間の命を限りなく延ばすため,自分たちの努力によって老化と死の秘密を解明することを望んでいます。彼らは,創造者ご自身が最初の人間夫婦に死を宣告し,人間には十分に理解できない方法でその宣告どおりにされたこと,また同様に,み子に信仰を働かせる人たちに永遠の命という賞をも差し伸べておられることを見落としています。―創 2:16,17; 3:16-19; ヨハ 3:16。
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罪聖書に対する洞察,第2巻
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エデンにおける反逆 アダムとその妻に明示された神のご意志は,主として,両人がしなければならない事柄を明らかにした積極的なものでした。(創 1:26-29; 2:15)アダムには一つの禁止命令が与えられました。すなわち,善悪の知識の木から食べることを(あるいは,それに触ることさえ)禁じるものでした。(創 2:16,17; 3:2,3)神による人間の従順と専心に関する試みは,人間の尊厳に敬意を払って課された点で注目に値します。神はその試みを課されましたが,アダムに悪い所があるなどとは少しも考えておられませんでした。神は,例えば,獣姦,殺人,または同様のある種の不快な,あるいは卑劣な行為に関する禁止命令を試みとして課すことにより,アダムの内部に何らかの卑しむべき性向が宿っているかもしれないと感じていることをほのめかしたりはされなかったのです。食べることは正常で,ふさわしいことでしたし,アダムは神から与えられたものを『満ち足りるまで食べる』ようにと言われていました。(創 2:16)しかし,神は今やその一本の木の実を食べることを制限してアダムを試みられました。神はこうして,その実を食べることが,食べる人が一種の知識を得て人間にとって何が「善」で何が「悪」かを自分で決められるようになることの象徴となるようにされました。ですから,神は人間をつらい目に遭わせたのでもなければ,神の子である人間としての尊厳に似つかわしくない所がアダムのうちにあると考えられたのでもありません。
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主権聖書に対する洞察,第1巻
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アダムとエバは「善悪の知識の木」の実を取ることにより,反逆をあらわに示しました。宇宙の主権者であられる創造者は,その木に関する律法を定められた時,全くご自分の権限内で行動しておられました。主権者ではなく創造された人間であったアダムには限界があり,アダムはその事実を認める必要があったからです。宇宙の平和と調和を保つには,理知あるすべての被造物が創造者の主権を認め,それを支持しなければなりません。アダムはその木の実を食べないことによって,この事実に対する認識を表わすことができたでしょう。人々で満ちる地の父親となる人間として,アダムはどんなに小さな事柄においても従順と忠節を示すべきでした。次の原則が関係していたのです。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」。(ルカ 16:10)アダムはそのような完全な従順を示せるだけの能力を持っていました。その木の実自体に本来悪いものが備わっていたということはないようです。(禁じられていたのは性関係ではありませんでした。神は二人に対して,『地に満ちよ』と命じておられたからです。[創 1:28]聖書が述べているように,それは実際の木の実でした。)その木が何を表わしていたかということは,エルサレム聖書(1966年)の創世記 2章17節の脚注の中で十分に説明されています。
「この知識とは,神がご自分のために取っておかれる権利であり,人が罪を犯すことによって取得する権利である。3章5,22節。したがって,それは堕落した人間が持っていない無限の知識ではない。また,それは道徳的識別力でもない。というのは,堕落する前の人間がすでにそれを持っていたし,神は理性のある人間にそれを拒むはずがないからである。その知識とは何が善で何が悪かを自分で決定し,それに従って行動する力のことであり,人間が創造された者という自分の立場を認めようとしない,完全な道徳的独立を求める権利のことである。最初の罪は神の主権に対する攻撃,すなわち誇りの罪であった」。
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木聖書に対する洞察,第1巻
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比喩的な用法 神はエデンの園で2本の木,すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」を象徴的な目的のために用いられました。後者に関する神の定めに敬意を示さなかったことの結果として,人間の堕落がもたらされました。―創 2:9,16,17; 3:1-24。
「善悪の知識の木」およびその実に課せられた制限の意義については,最初の人間夫婦の間の性的な行為と関係があるという誤った見方がされてきました。この見方は男性と女性であった二人に,『子を生んで多くなり,地に満ちよ』と言われた神の明白な命令と矛盾しています。(創 1:28)むしろその木は,「善悪の知識」を表わすことにより,またそれを人間夫婦に手出しの許されないものと定める神の宣言によって,人間のために何が「善」(神から是認されること)で何が「悪」(神から非とされること)かに関して,決定するもしくは規準を定める神の権利の象徴となりました。ですから,その木は,人間が自分を創造した方の地位に敬意を示すかどうか,また神により定められた自由の範囲,それも決して窮屈ではなく,人間の命を最大限享受する余地のある範囲の中に喜んでとどまるかどうかを試みるものとなりました。したがって,「善悪の知識の木」の実を食べることによってその禁じられた領域の境界を侵すことは,神の領分または権威に対する侵犯もしくは反逆となりました。―「主権」を参照。
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