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  • エホバ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • エホバが不完全な人間を扱うことができる理由 エホバはご自分の正しい規準にしたがって,アダムとエバの子孫に関してはその二親の場合とは異なった仕方で扱うことができました。なぜでしょうか。なぜなら,アダムの子孫は罪を受け継いだ,したがって不本意にも生まれつき悪行に走る傾向のある不完全な被造物として生活し始めたからです。(詩 51:5; ロマ 5:12)ですから,それら子孫に対しては憐れみを示すべき根拠がありました。エデンで裁きの宣告が行なわれた時に語られた,エホバの最初の預言(創 3:15)の示すところによれば,エホバはご自分の最初の人間としての子供たち(それに,霊の子たちのひとり)が反逆したにもかかわらず,苦々しい気持ちを抱いたり,その愛の流れを枯渇させたりはされませんでした。その預言は,反逆によって生じた状況が正され,彼らの当初の完全な状態が回復されることを象徴的な言葉で指し示していました。そして,その十分な意味は何千年も後に明らかにされることになりました。―啓 12:9,17; ガラ 3:16,29; 4:26,27の「蛇」,「女」,「胤」という象徴的な表現と比較。

  • エホバ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 「平和の神」が戦われる理由 エホバはエデンで,ご自分の敵対者の胤と「女」の胤との間に敵意を置くと言われましたが,だからといって,「平和の神」でなくなられたわけではありません。(創 3:15; ロマ 16:20; コリ一 14:33)当時の事情はエホバのみ子イエス・キリストが地上で生活しておられた時代と同様でした。イエスは,「わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです」と言われました。(マタ 10:32-40)イエスが宣教に従事された結果,分裂,それも家族の中にさえ分裂が生じましたが(ルカ 12:51-53),それはイエスが神の義の規準と真理を固守し,ふれ告げたためでした。多くの人がそれらの真理に対して心を固くする中で,ほかの人々が真理を受け入れたために分裂が生じたのです。(ヨハ 8:40,44-47; 15:22-25; 17:14)神の原則を擁護しなければならないとすれば,そのような分裂が起きることは避けられませんでした。しかし,その責任は正しいことを退けた人々にありました。

      同様に,エホバの完全な規準によれば,サタンの胤の反逆的な歩みは決して容赦できるものではないゆえに,敵意の生ずることが予告されたのです。神はそのような胤を是認せず,義にかなった歩みを固守する人たちを祝福なさる結果,カインとアベルの場合がそうであったように(創 4:2-8; ヘブ 11:4; ヨハ一 3:12; ユダ 10,11。「カイン,I」を参照),分裂がもたらされるのです。―ヨハ 15:18-21; ヤコ 4:4。

  • イエス・キリスト
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 試され,完全にされる エホバ神はみ子に,地に赴いて約束のメシアとして仕える使命を託し,み子に対する最高度の信頼を実証されました。神はご自分の犠牲の子羊として仕える「胤」(創 3:15),すなわちメシアを出現させるというご自身の目的を「世の基が置かれる前から」予知しておられました。(ペテ一 1:19,20)この「世の基が置かれる前から」という表現は,「予知,あらかじめ定める」(メシアに関する事柄をあらかじめ定める)という見出しのもとで考慮されています。しかし,そのような役割を果たすよう選ばれた特定の者をエホバがどの時点で指名したり,そういうことをその当事者に知らせたりされたのか,それがエデンで反逆の起きた時だったのか,あるいはもっと後だったのかについて,聖書の記録は何も述べていません。種々の必要条件,とりわけ贖いの犠牲という必要条件があったため,不完全な人間はだれも用いることができませんが,完全な霊の子なら用いることができました。幾千万もの霊の子らすべての中から,エホバはこの割り当てを引き受ける,ひとりの霊の子,すなわちご自分の初子である“言葉”をお選びになりました。―ヘブ 1:5,6と比較。

  • 迫害
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 創世記 3章14,15節にある最初の預言の中で,エホバ神は「蛇」と「女」の間,またそれぞれの「胤」の間の敵意について予告されました。聖書は全体として,この預言の成就について証ししています。イエスは,蛇が悪魔サタンであることを明らかにされると同時に,ご自分を迫害している者たちが『彼らの父,悪魔からの者』,すなわちその「胤」であると本人たちに言われました。(ヨハ 8:37-59)「啓示」の書が示すところによると,そのような迫害は,キリストが支配権を執る時までだけでなく,その後もある期間続きます。サタンとその使いたちが地に投げ落とされる時,龍は『女を迫害し,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神に従い,イエスについて証しする者たちと戦う』からです。(啓 12:7-17)歴史を通じてサタンが用いてきた主要な手先の一つは「野獣」です。この象徴については,「獣,象徴的な」という項目で説明されています。(啓 13:1,7)別の手先は「大いなるバビロン」で,それについてはその見出しの項で論じられています。(啓 17:5,6)以下の歴史が示しているとおり,サタンが,神のご意志を義のうちに行なおうとする人々に対して敵意を抱き,前述の手先を用いてきた軌跡は,聖書に関係するすべての期間にわたってたどることができます。

  • 復活
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 復活の希望はどれほど前から与えられたか アダムが罪をおかして自分自身に死をもたらし,それによって自分の子孫となる人たちに死を持ち込んだ後,神は蛇に向かってこう言われました。「そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」― 創 3:15。

      最初に死をもたらした者は除き去られる イエスは反対者であった信心深いユダヤ人たちに,「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです」と言われました。(ヨハ 8:44)この言葉は,蛇という手段を通して話したのが悪魔であること,この者が,うそで固めたその極悪な歩みの始めから人殺しであったことの証拠となります。キリストは後にヨハネに与えた幻の中で,悪魔サタンが「初めからの蛇」とも呼ばれることを明らかにしておられます。(啓 12:9)サタンは人類の父であるアダムを唆して神に反逆させることにより,アダムの子供たちに対する影響力を自分のものとし,人類を自分の支配下に置きました。それでエホバは,創世記 3章15節の最初の預言の中で,この蛇が除き去られるという希望をお与えになりました。(ロマ 16:20と比較。)サタンの頭が砕かれるだけでなく,サタンの業すべてが打ち壊され,破壊され,取り除かれて元の状態に戻るのです。(ヨハ一 3:8; 新世,欽定,聖ア)当然ながら,この預言が成就するためには,アダムの罪の結果としてシェオル(ハデス)に行くアダムの子孫を復活によって取り戻すことを含め,アダムが持ち込んだ死を取り除いて元の状態に戻すことが必要になるでしょう。アダムの子孫はアダムの罪の影響を受け継いでいるからです。―コリ一 15:26。

      自由に関する希望には復活が伴う 使徒パウロは,人間が罪に陥った後,神の許しによってどんな状況が存在しているか,また,そのようにされた神の最終的な目的は何であるかについて,次のように説明しています。「創造物は[罪のうちに生まれ,すべての人が死に直面しているため]虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく[アダムの子供たちはアダムが行なった事柄を自分では制御できず,自分自身の選択でそうなったのでもないが,こうした状況に直面する世に生み出された],服させた方[知恵をもってそのようにされた神]によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです」。(ロマ 8:20,21; 詩 51:5)栄光ある自由に関するこの希望の成就を経験するため,すでに死んだ人々は復活しなければならず,死と墓から自由にされなければならないでしょう。そのため神は,蛇の頭を砕く「胤」に関する約束により,人類の前にすばらしい希望を置かれたのです。―「種,胤」を参照。

  • 神聖な奥義
    聖書に対する洞察,第1巻
    • キリストを中心とする 「イエスについて証しすることが預言に霊感を与えるもの」である以上,「神の神聖な奥義」はキリストを中心としているに違いありません。(啓 19:10; コロ 2:2)神の「神聖な奥義」はすべてメシアによる神の王国と関係があります。(マタ 13:11)使徒パウロは仲間のクリスチャンにこう書いています。「彼のうちには,知恵と知識とのすべての宝が注意深く秘められているのです」。「キリストの中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っている(の)です」。―コロ 2:2,3,9。

      パウロは,自分のことを「神の神聖な奥義」の家令職にあずかる者と述べています。(コリ一 4:1)また,「キリストの神聖な奥義について」自分の把握しているところに言及しています。(エフェ 3:1-4)さらに,この神聖な奥義は,事物の諸体制の前に神によってあらかじめ定められた隠された知恵であると説明しています。(コリ一 2:7)この秘義,つまり「神の神聖な奥義」の宣言は,創世記 3章15節にあるエホバご自身の預言をもって始まりました。信仰の人々は幾世紀もの間,罪と死から人間を救い出す約束の「胤」を待ち望みましたが,「胤」とは一体だれなのか,その「胤」はどのように到来して救出をもたらすのか,ということは明確に理解されていませんでした。キリストが到来し,「良いたよりによって命と不朽とに光を当てて」くださった時,その点はようやく明らかになりました。(テモ二 1:10)その時,「女の胤」の秘義に関する知識が理解され始めました。

  • サタン
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 底知れぬ深みに入れられ,最終的に滅ぼされる サタンがエバを,次いでアダムを神に反逆させた時,神は蛇に(ただの動物は,関係していた論争を理解できなかったので,実際にはサタンに語っておられた)次のように言われました。「命の日のかぎり塵がお前の食らうところとなろう。そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。(創 3:14,15)ここで神は,サタンが神の聖なる組織の外に投げ出され,命を支える希望が全くないまま死に至るまで,いわば『塵を食らう』ことを明らかにされました。「胤」が最終的にサタンの頭を砕くことになりますが,それは死の傷を意味していました。キリストが地上におられた時,悪霊たちはキリストが彼らを「底知れぬ深み」に投げ入れる方であることを認めました。そこに投げ入れられることは,並行記述の中で「責め苦」として述べられていますが,明らかに拘束の状態を指しています。―マタ 8:29; ルカ 8:30,31。「責め苦」を参照。

  • 種,胤
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 神聖な奥義 神はアダムとエバを裁いた時,この二人の子孫に希望を与える一つの預言を語り,蛇に対して,「わたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」と言われました。(創 3:15)この約束の「胤」の実体は,最初から神の神聖な奥義でした。

      この預言的な声明は,救出者が出ることを明らかにしました。その救出者は,蛇によって実際に表わされていた者,すなわち大いなる蛇で,神の敵である悪魔サタンを滅ぼすのです。(啓 12:9)その声明はまた,悪魔が「胤」を持つようになることをも示唆しました。この二つの胤が生み出され,両者の間で敵意が募るまでには時間が必要だったでしょう。

      “蛇”の胤 注目できるのは,聖書が象徴的な意味で「胤」について述べている場合,その胤とは文字通りの子供もしくは子孫ではなく,その象徴的な“父”の型に従う者たち,つまりその父の精神もしくは性向を持つ者たちを指しているという点です。アダムとエバの最初の息子カインは“蛇”の子孫となった人の一例です。使徒ヨハネはこの点に関して次のような啓発的な見解を記しています。「神の子供と悪魔の子供はこのことから明白です。すなわち,すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うこと,これが,あなた方が初めから聞いている音信なのです。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を打ち殺しました。何のために打ち殺したのですか。自分の業が邪悪で,その兄弟の業が義にかなっていたからです」― ヨハ一 3:10-12。ヨハ 8:44と比較。

      したがって,幾世紀間もずっと存在しているその“蛇”の胤は,神を憎み,神の民と戦った悪魔の精神を抱く者たちで構成されました。その胤には特に神に仕えると唱えながら実際には偽り者である宗教的な人々,つまり偽善者たちが含まれていました。イエスは当時のユダヤ人の宗教指導者たちに向かって,「蛇よ,まむしらの子孫[ギ語,ゲンネーマタ,「生み出された者たち」]よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」と言われ,彼らが“蛇”の胤の一部であることを明らかにされました。―マタ 23:33,行間。

      約束の女の「胤」に関する神の奥義の特色は徐々に啓示されました。次のような疑問の答えが必要でした。その胤は天的なもの,それとも地的なものでしょうか。もし霊的な,あるいは天的なものだとしたら,それでもやはり地的な経過をたどるのでしょうか。その胤は一人なのでしょうか。それとも多数なのでしょうか。また,どのようにしてその“蛇”を滅ぼし,人類を解放するのでしょうか。

      すでに示されているように,エホバが創世記 3章15節に記録されている言葉を告げておられた相手の蛇は,地上の動物ではありませんでした。そのような動物には,そこに関係していた論争,つまりエホバの主権に対する挑戦といった問題など理解できなかったことは明らかです。ですから,その後の事態の進展から明らかなように,神は,理知のある存在つまり大敵対者である悪魔サタンと話しておられたのです。ヨブ記はこの事柄に関して啓発を与えてくれます。というのは,ヨブ記の中で,サタンは神の主権に挑戦した自分の立場を擁護するために,エホバに対するヨブの忠誠を疑問視してヨブのことを訴えているからです。(ヨブ 1:6-12; 2:1-5)それで,蛇の胤の“父”は文字通りの動物の蛇ではなく,み使いである霊の“父”,悪魔サタンであるということになります。

      「女の胤」は霊的なもの したがって,昔の忠実な人たちがこの事柄をどのようにみなしたかにかかわりなく,クリスチャン聖書に照らして見ると,約束の「女の胤」は,この霊的な敵,このみ使いであった悪魔の『頭を砕く』ために,人間以上の者でなければならないことが明らかになります。その「胤」は力ある霊者でなければならないのです。どのようにしてそのような方が備えられるのでしょうか。だれがその“母”,つまり「女」となるのでしょうか。

      次に約束の「胤」のことが指摘され,記録されたのは,2,000年余りたった後のことで,忠実なアブラハムに対して語られました。アブラハムはセムの家系の人であり,ノアはもっと前の預言の中でエホバのことを「セムの神」と語っていました。(創 9:26)これはセムが神の恵みを受けていたことを示唆するものでした。アブラハムの時代に,約束の「胤」はアブラハムを通して到来することが予告されました。(創 15:5; 22:15-18)アブラハムが祭司メルキゼデクから祝福されたことは,その点をさらに確証するものとなりました。(創 14:18-20)アブラハムに対する神の声明はアブラハムが子孫を持つようになることを明らかにすると共に,預言的に約束された,救出をもたらす「胤」の父祖の家系が確かに地上での経過をたどることを示しました。

      予告された一人の方 アブラハムや他の人々の子孫のことを語る際に使われているヘブライ語やギリシャ語の用語は単数形であり,普通,集合的な意味でそのような子孫を指しています。アブラハムの後裔に関して,「子ら」を指す厳密な意味での複数形のバーニーム(単数はベーン)ではなく,「胤」を指す集合的な意味の語ゼラが大変頻繁に使われていることには一つの強力な理由があるようです。使徒パウロはそのことを指摘し,神がアブラハムの胤を通してもたらされる祝福について語られた時,おもに一人の方,すなわちキリストに言及されたことを説明しています。パウロはこう述べています。「さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように,『また多くの胤[ギ語,スペルマシン]に』とではなく,一人の場合のように,『またあなたの胤[ギ語,スペルマティ]に』と述べてあり[または,述べておられ],それはキリストのことなのです」― ガラ 3:16,脚注。

      一部の学者は,「胤」という語の単数形や複数形の用法に関するパウロの所説に異議を唱えてきました。そして,ヘブライ語で「胤」を意味する言葉(ゼラ)は,後裔という意味で使われる場合,決して語形が変化することはなく,この用法の点では英語の“sheep”(羊)という語に似ていると指摘しています。また,この語に伴う動詞や形容詞もそれ自体では「胤」という意味の言葉が単数か,それとも複数かを示しません。それはそうですが,パウロの説明が文法的にも,また教理的にも正確であったことを立証する,もう一つの要素があります。マクリントクおよびストロング共編「百科事典」(1894年,第9巻,506ページ)はその要素について説明し,こう述べています。「代名詞に関連して,その文の構造は前述の語[すなわち,「胤」という言葉と共に使われている動詞と形容詞]のどちらとも全く異なっている。単数形の代名詞[ゼラと共に使われている]は一個人,ただ一人の人,あるいは多くの人のうちの一人に注目しているのに対し,複数形の代名詞は子孫すべてを表わしている。セプトゥア[ギンタ]訳は終始この規則に従っている。……ペテロはこの構造を理解していた。というのは,ダビデが千年も前に模範を残したように(詩 72:17),ペテロはパウロが転向する以前,エルサレムの都にいた生来のユダヤ人に話をした時(使徒 3:26),創世記 22章17,18節の単数の胤にそれとなく言及しているからである」。

      さらに,この参考書はこう述べています。「パウロは一人の胤と別の胤とではなく,一人の胤と多くの胤とを区別している。パウロがペテロと共に同じ章句[前の節で参照されている]を引用していることを考慮すれば,パウロの論議は『その[それらのではない]敵』という句の中の代名詞によって大方支持されていると言えよう。単数形の代名詞が付されている胤は,厳密には子に相当するのである」。

      英語の一つの例えを挙げれば,“my offspring”(わたしの子孫)という表現は,一人の子孫を指す場合もあれば,多くの子孫を指す場合もあります。しかし,もしこの表現を使ってから,その対象を指して「彼」と言ったとすれば,ただ一人の子供か子孫のことを意味していたと考えてよいでしょう。

      地のすべての家族がアブラハムの「胤」によって自らを祝福するであろう,というアブラハムに与えられた約束に,アブラハムの子孫すべてをその「胤」として含めることはできませんでした。というのは,アブラハムの息子イシュマエルの子孫も,アブラハムがケトラによってもうけた子らの子孫も,人類を祝福するために用いられることはなかったからです。祝福をもたらす胤はイサクを通して来ました。「あなたの胤と呼ばれるものはイサクを通して来る」と,エホバは言われたのです。(創 21:12; ヘブ 11:18)その後,イサクの二人の息子ヤコブとエサウのうち特にヤコブが祝福された時,この約束は対象がさらに絞られました。(創 25:23,31-34; 27:18-29,37; 28:14)その上,ヤコブは,人々がユダの部族のシロ(「それが自分のものである者; それが属する者」の意)のもとに集められることを示すことによって,この事柄の範囲をさらに狭めました。(創 49:10)次いで,ユダ全体の中で,来たるべき胤はダビデの家系に限定されました。(サム二 7:12-16)このように対象が絞られたことは西暦1世紀のユダヤ人からも注目されました。実際,それらのユダヤ人は一人の人がメシア,すなわちキリストとして,つまり救出者として来ることを期待していました。(ヨハ 1:25; 7:41,42)もっとも,彼らはアブラハムの子孫もしくは胤である自分たちは恵まれた民となり,またそのような者として自分たちは神の子供となるとも考えていたのです。―ヨハ 8:39-41。

      増大 アブラハムが息子イサクを実際に犠牲としてささげることをエホバのみ使いが阻止した後,そのみ使いはアブラハムに大声で呼びかけて,こう言いました。「『わたしは自らにかけてまさに誓う』と,エホバはお告げになる,『あなたがこのことを行ない,あなたの子,あなたのひとり子をさえ与えることを差し控えなかったゆえに,わたしは確かにあなたを祝福し,あなたの胤を確かに殖やして天の星のように,海辺の砂の粒のようにする。あなたの胤はその敵の門を手に入れるであろう。そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう』」― 創 22:16-18。

      神のこの約束は,もし霊的な一人の胤のうちに成就を見ることになっていたとすれば,その一人の主要な胤に他の人々が加えられることを示唆するものとなります。そしてまさにその通りであることを使徒パウロは説明しています。アブラハムはその相続財産を律法によってではなく,約束によって与えられたのである,とパウロは論じています。その律法は『胤が到来する時まで』,単に違犯を明らかにするために付け加えられたにすぎませんでした。(ガラ 3:19)したがって,その約束は当然,アブラハムの胤すべてに,つまり「律法を堅く守る者だけでなく,アブラハムの信仰を堅く守る者に対しても」確かなものであったということになります。(ロマ 4:16)イエス・キリストがご自分に反対したユダヤ人に向かって,「アブラハムの子供であるというなら,アブラハムの業を行ないなさい」と言われた言葉からすると,神によってアブラハムの胤とみなされるのは,肉によってアブラハムの子孫となった人たちではなく,アブラハムの信仰を抱く人たちであることが分かります。(ヨハ 8:39)同使徒は,「さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です」と述べて,その点をたいへん明確にしています。―ガラ 3:29; ロマ 9:7,8。

      したがって,「わたしは……あなたの胤を確かに殖やして天の星のように,海辺の砂の粒のようにする」と言われた神の約束には霊的な意味での成就があり,その約束は「キリストのものである」他の人々がアブラハムの胤の一部として付け加えられることを意味します。(創 22:17; マル 9:41; コリ一 15:23)神はその人数を明らかにせず,人間にとって星や砂の粒の数のように不確かなままにしておかれました。そして,西暦96年ごろになって初めて,使徒ヨハネへの「啓示」の書の中で,確かに神は霊的なイスラエル,つまり天的な相続財産の印である神の霊で『証印を押される』人たちの人数が14万4,000人であることを明らかにされました。―エフェ 1:13,14; 啓 7:4-8; コリ二 1:22; 5:5。

      それら14万4,000人の人々は子羊と共にシオンの山に立っていることが示されています。「これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」人々です。(啓 14:1,4)イエス・キリストはそれらの人たちのためにご自分の命を与え,彼らの偉大な大祭司として「アブラハムの胤を助けて」おられます。(ヘブ 2:14-18)父なる神はご親切にも,み子にこの「花嫁」であるこの会衆をお与えになります。(ヨハ 10:27-29; コリ二 11:2; エフェ 5:21-32; 啓 19:7,8; 21:2,12)彼らは王ならびに祭司となり,イエスはみ父から与えられた栄光と王国を彼らと共にされます。(ルカ 22:28-30; 啓 20:4-6)実際,“胤”に関する神聖な奥義は,メシアによる神の王国に関する偉大な神聖な奥義の特色の一つにすぎません。―エフェ 1:9,10。「神聖な奥義」を参照。

      パウロはアブラハムとその自由な身分の妻(サラ),および約束による息子イサクについて語ることにより,神のこの処置を例証しています。パウロはサラを「上なるエルサレム」,つまり「わたしたちの母[すなわち,霊によって生み出されたクリスチャンの母]」になぞらえています。イサクはこの「母」の子孫もしくは子らとしてのそれらのクリスチャンになぞらえられています。―ガラ 4:22-31。

      「胤」の到来 すでに確証されているように,主要な「胤」はイエスです。しかし,人間として誕生した時点で「女の胤」(すなわち,「上なるエルサレム」の胤)であったわけではありません。確かに,イエスは母マリアを通してアブラハムの生来の胤の一人でしたし,ユダの部族の人でした。そして,マリアを通して生得的に,また養父ヨセフを通して法的にもダビデの家系の人でした。(マタ 1:1,16; ルカ 3:23,31,33,34)それで,イエスは預言的な約束どおりの資格を備えておられました。

      しかし,イエスは神の聖霊によって生み出されて初めて女の胤つまり子孫となり,すべての国の民を祝福する“胤”となられたのです。このことは,西暦29年にイエスがヨルダン川でヨハネによりバプテスマを施された時に起きました。その時,イエスは約30歳でした。イエスの上に下った聖霊は,ヨハネにははとの形を取って下ったように見えました。また,その時,神自らイエスがご自分の子であることを認められました。―マタ 3:13-17; ルカ 3:21-23; ヨハ 3:3。

      共同の「胤」,つまりクリスチャン会衆が付け加えられることは,西暦33年のペンテコステの日に聖霊が注がれた時から始まりました。イエスはすでに天に昇って,み父のみ前におられ,12使徒を含め,ご自分のそれら最初の追随者たちに聖霊を送られました。(使徒 2:1-4,32,33)イエスはこの時,メルキゼデクのさまにしたがって大祭司を務め,アブラハムの副次的な胤を大いに「助けて」おられたのです。―ヘブ 2:16。

      二種類の胤の間の敵意 大いなる蛇,悪魔サタンは,アブラハムのような信仰を抱いて神に仕えてきた人々に対して最も激しい敵意を表わす「胤」を生み出してきました。そのことは聖書の記録のたくさんの証拠が示しています。サタンは女の胤の進展を阻止しよう,あるいは妨げようとしてきました。(マタ 13:24-30と比較。)しかし,その敵意は霊的な胤に対する迫害に際して,とりわけイエス・キリストに対して表明された敵意という形で頂点に達しました。(使徒 3:13-15)パウロはその点を例証するために預言的な意味を持つ劇に言及し,「その当時,肉の方法で生まれた者[イシュマエル]が霊の方法で生まれた者[イサク]を迫害するようになりましたが,今もそれと同じです」と述べています。(ガラ 4:29)また,実際には預言なのですが,後代のある報告の中では,王国が天で樹立されることや,悪魔が天から地に投げ落とされて敵意がほんのしばらくの期間しか続かないことが描写されています。そして,その結びの部分では,「それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」と述べられています。(啓 12:7-13,17)女の胤の残りの者に対するこの戦いは,『サタンが彼らの足の下で砕かれる』時に終わります。―ロマ 16:20。

      地のすべての家族を祝福する “胤”であるイエス・キリストはすでにペンテコステ以来,ご自分の教えやご自分の会衆に与えてきた導きによって心の正直な人々に大きな祝福をもたらしてこられました。しかし,キリストの千年統治が始まると,復活させられて,その王国で共に支配する,キリストの霊的な“兄弟たち”は,キリストと共に仕える従属の祭司ともなります。(啓 20:4-6)「死んだ者たちが,大なる者も小なる者も」,み座の前に立って裁かれる期間中,信仰を働かせ,従順を示す人たちはアブラハムの胤によって『自らを祝福し』,命をしっかりとらえるでしょう。(啓 20:11-13; 創 22:18)これは彼らにとって永遠の命と幸福を意味することになります。―ヨハ 17:3。啓 21:1-4と比較。

      「胤」の復活 使徒ペテロは“胤”であられるイエス・キリストの復活について説明し,イエスが「肉において死に渡され,霊において生かされた」と書いています。(ペテ一 3:18)同僚の使徒パウロはキリストの仲間の復活という論題を扱う際,農業の例えを利用しています。そして,こう論じています。「あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,後にできる体ではなく,ただの種粒をまくのです。それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。しかし神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます。……死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。……物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます」。(コリ一 15:36-44)ですから,「女の胤」,つまり「アブラハムの胤」を構成する人たちは,死んで,地的な朽ちる肉の体を捨て,朽ちることのない輝かしい体で復活させられるのです。

      朽ちることのない,再生する種 使徒ペテロは自分の霊的な兄弟たちに,彼らが,「イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生……すなわち,朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産への誕生」を与えられたことに関して語っています。そして,「それはあなた方のために天に取って置かれているものです」と述べています。ペテロは彼らが銀や金のような朽ちるものではなく,キリストの血をもって救い出されたことに彼らの注意を引いています。そして,その後で,「あなた方は,朽ちる種ではなく,朽ちることのない,再生する種により,生ける,いつまでも存在される神の言葉を通して新たな誕生を与えられたのです」と述べています。ここの「種」という言葉はギリシャ語ではスポラで,これはまかれた,したがって再生し得る種を表わしています。―ペテ一 1:3,4,18,19,23。

      ペテロはこのような仕方で自分の兄弟たちに,彼らが不朽性も永遠の命をも伝えることができずに死んでゆく人間の父とではなく,「いつまでも存在される神」と親子の関係にあることを思い起こさせています。彼らにこの新たな誕生を与える手だてである,朽ちることのない種とは,神の聖霊つまり活動する力のことであり,この力は神の永続するみ言葉に関連して働きます。そのみ言葉自体,霊感によって記されたものなのです。同様に使徒ヨハネも,霊によって生み出されたそのような人たちについて,「神から生まれた者はだれも罪を行ないつづけません。神の再生する種がその人のうちにとどまっているからです。そしてその人は罪を習わしにすることができません。神から生まれているからです」と述べています。―ヨハ一 3:9。

      彼らの内にあるこの霊は,神の子として新たな誕生を起こすように働きます。それは清さをもたらす力であって,腐敗した肉の業ではなく霊の実を生み出させます。ですから,自分自身の内にこの再生する種を持っている人は,肉の業を習わしにすることはありません。使徒パウロはこのことについて次のように注解しています。「神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです。それゆえ,無視する者は,人間ではなく,ご自分の聖霊をあなた方の中に入れてくださる神を無視しているのです」― テサ一 4:7,8。

      しかし,もしそれら霊によって生み出された者の一人がその霊に絶えず抵抗する,あるいはそれを「悲しませる」,すなわち「憂えさせる」,または「傷つける」なら,やがて神はご自分の霊を引き戻されます。(エフェ 4:30,行間。イザ 63:10と比較。)ある人はその霊を冒とくするところまで行くかもしれず,そうなれば災いを被ることになります。(マタ 12:31,32; ルカ 12:10)ですから,ペテロやヨハネは,神聖さや神への愛を保ち,自分の兄弟たちを心から愛し,神の霊の導きに対する柔順を示し,そのようにして自分が神の真の忠節な子であることを実証する必要があることを強調しているのです。―ペテ一 1:14-16,22; ヨハ一 2:18,19; 3:10,14。

  • 女,婦人
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 創世記 3章15節の「女」 神は人類の二親であるアダムとエバに刑を宣告した時,「女」から生み出され,蛇の頭を砕くことになる胤についての約束をお与えになりました。(創 3:15)ここに,神がご予定の時に明らかにすることを意図された「神聖な奥義」がありました。(コロ 1:26)その預言的な約束がなされた時に存在していた状況の幾つかの要素は,「女」の実体を明らかにするための手がかりを与えています。彼女の胤は蛇の頭を砕くことになっていましたから,その胤は人間の胤以上のものでなければならなかったでしょう。というのは,聖書の示すところによれば,神の言葉が発せられた対象は地面をはう文字通りのへびではなかったからです。その「蛇」は啓示 12章9節で霊者なる悪魔サタンであることが示されています。したがって,この預言の「女」は,イエスの母マリアのような人間の女ではあり得ませんでした。使徒パウロはガラテア 4章21-31節でこの問題に光を当てています。―「種,胤」を参照。

      その箇所で,使徒は,アブラハムの自由の妻とそばめであるハガルについて語り,ハガルは律法契約の下にある文字通りの都市エルサレムに当たり,彼女の「子供たち」はユダヤ国民の市民であると述べています。パウロはさらに,アブラハムの妻サラは「上なるエルサレム」に当たり,パウロや霊によって生み出された仲間たちの霊的な母である,と述べています。この天的な「母」はキリストの「母」でもあることになります。そして,キリストはご自分の霊的な兄弟たちの中で最年長者であられ,それらの兄弟たちはすべて彼らの父なる神から出ています。―ヘブ 2:11,12。「自由の女」を参照。

      したがって,創世記 3章15節の「女」は霊的な「女」であると見るのは論理にかなっており,聖書とも調和しています。そして,キリストの「花嫁」もしくは「妻」が一人の女ではなく,多くの霊的な成員から成る複合的な女であるという事実と一致して(啓 21:9),神の霊によって誕生する子らを生み出す「女」,つまり(前の箇所で参照されたイザヤやエレミヤの言葉の中で預言的な意味で予告された)神の『妻』も,多くの霊者たちで構成されていることでしょう。それは人格的な存在から成る複合体,一つの組織,すなわち天的な組織と言えるでしょう。

      この「女」は啓示 12章のヨハネの幻の中で描写されています。彼女が子つまり「あらゆる国民を鉄の杖で牧する」ことになる支配者を生み出す様子が示されています。(詩 2:6-9; 110:1,2と比較。)この幻は,イエスが人間として誕生した時よりもずっと後に,また神のメシアとして油そそがれた時よりも後にヨハネに与えられました。それは明らかに同じ人物に関係していますから,イエスの人間としての誕生ではなく,他のある出来事,すなわちイエスが王国の権力を執る地位に任じられることと関連があるに違いありません。ゆえに,ここでは神のメシアによる王国の誕生が表わされていました。

      サタンはその後,「女」を迫害し,「彼女の胤のうちの残っている者たち」と戦うことが示されています。(啓 12:13,17)「女」は天的なものであり,サタンはこの時までに地に投げ落とされているため(啓 12:7-9),その「女」を構成するそれら天的な者たちに手を出すことはできませんが,彼女の「胤」の残っている者たち,その子ら,すなわちイエス・キリストのまだ地上にいる兄弟たちには手を出すことができました。サタンはそのような方法で「女」を迫害しました。

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