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  • 聖書批評家たちを当惑させた失われた帝国
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
塔93 6/1 4–7ページ

聖書批評家たちを当惑させた失われた帝国

「これまでアッシリア帝国の歴史は,世界史の中で最も不明瞭な章の一つであった」。「古代ニネベについて知られている事柄はすべて,聖書中に時折見られる,ニネベに対する間接的言及と預言,またディオドロス・シクルスの著作の中で断片的に取り上げられているアッシリアの歴史などによるものである」―「聖書文献百科事典」1862年版,第1巻と第3巻。

ギリシャの歴史家ディオドロス・シクルスは今から2,000年ほど前に生きていた人です。彼の主張によれば,ニネベは四角形の都市で,周囲は全長480スタディオンありました。つまり四辺の合計が約96㌔ということです。聖書の描写も同じようなもので,ニネベは「歩いて回ると三日かか(る)」大きな都市であると述べています。―ヨナ 3:3。

19世紀の聖書批評家たちは,古代世界の未知の都市がそれほど大きかったことを信じようとしませんでした。さらに彼らは,もしニネベが現実に存在したのなら,ニネベはバビロン以前の古代文明に属していたに違いないと言いました。

この考え方は創世記の10章と対立しています。聖書は,ノアのひ孫ニムロデがバベル,つまりバビロンの地域に最初の政治国家を建設したと述べ,さらにこう続けています。「その地から彼はアッシリアに出て行って,ニネベ,レホボト・イル,カラハ,そしてニネベとカラハとの間のレセンの建設に取りかかった。これが大きな都市である」。(創世記 10:8-12)聖書が四つの新しいアッシリアの都市を,一つの「大きな都市」のように描写していることに注目してください。

1843年に,フランスの考古学者ポール-エミール・ボッタはある宮殿の遺跡を発見し,そこがアッシリアのある都市の一部であることが分かりました。この発見のニュースは一般の人々に伝わり,センセーションを巻き起こしました。アラン・ミラードは自分の書いた「聖書時代の宝物」という本の中で,「それが,イザヤ 20章1節に名前の記されているアッシリアの王サルゴンの宮殿であったことが分かると,一般の人々の関心はさらに高まった。この王はここ以外では知られていなかったので,存在が疑問視されていた」と説明しています。

そのころ,別の考古学者オースティン・ヘンリー・レイヤードが,コルサバードの南西42㌔の所にあるニムルードという場所の遺跡を発掘し始めました。この遺跡は,創世記 10章11節に述べられているアッシリアの四つの都市の一つ,カラハであることが分かりました。その後1849年に,レイヤードはカラハとコルサバードの間にあるクユンジクと呼ばれる場所で大きな宮殿の遺跡を発掘しました。この宮殿はニネベの一部だったことが分かりました。コルサバードとカラハの間には他の村落の遺跡も幾つかあり,その中にはカラムレスと呼ばれる丘もあります。「もし,ニムルード[カラハ],クユンジク[ニネベ],コルサバード,カラムレスを四角形の角とすれば,その四辺はちょうど480スタディオン,つまり約96㌔となり,預言者[ヨナ]の旅も三日かかることになるだろう」とレイヤードは述べています。

ですからヨナはおそらく,これらの村落すべてを含めて一つの「大きな都市」とし,それを創世記 10章11節で最初に挙げられている都市の名前で,つまりニネベと呼んだようです。同じようなことは現在でも行なわれています。例えば,ロンドン市内とその郊外は違うものですが,それらを合わせて大ロンドンと呼ぶこともあります。

尊大なアッシリアの王

ニネベの宮殿には70以上の部屋があり,壁の総延長はほぼ3㌔に及びました。これらの壁には戦勝や他の業績を記念する彫刻がありましたが,それらは焼けてしまい,ほとんどがひどい損傷を受けていました。しかし滞在が終わりに近づいたころ,レイヤードはかなり保存状態の良い部屋を一つ発見しました。その壁には堅固な要塞都市を攻略する場面が描かれていました。都市の外に設けられた王座に座す侵略者の王の前を捕虜が行進させられています。王の上方には刻文があり,アッシリアの刻文の専門家はそれを次のように翻訳しています。「世界の王,またアッシリアの王であるセナケリブは,ニメドゥの王座に座し,ラキシュ(ラキス)から(奪った)戦利品を検閲した」。

現在ではこの浮き彫りと刻文は大英博物館で見ることができます。これは,聖書の列王第二 18章13節と14節に記録されている歴史的事件と一致しています。「ヒゼキヤ王の第十四年に,アッシリアの王セナケリブがユダの防備の施されたすべての都市に攻め上って,これを奪いはじめた。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリアの王のところに人をやって,言った,『私は罪をおかしました。私のところから引き返してください。あなたが私に課されるものは何でも負います』。そこで,アッシリアの王は銀三百タラントと金三十タラントをユダの王ヒゼキヤに負わせた」。

ニネベの遺跡で発見された他の碑文も,セナケリブがユダに侵入したことや,ヒゼキヤが貢ぎ物を送ったことについて詳細な情報を提供しています。「記録に残っている歴史的証拠が一致したことの,おそらく最も顕著な実例の一つとして,ヒゼキヤから取った金30タラントという財宝の量は,二つの完全に独立した記録の間で一致している」とレイヤードは書いています。アッシリアの文書の解読を手伝ったヘンリー・ローリンソン卿は,これらの碑文は「[セナケリブが]歴史的人物であったことを議論の余地のないものとした」と述べています。さらにレイヤードは,自分の書いた「ニネベとバビロン」という本の中で,こう問いかけています。「ヒゼキヤとセナケリブの間で行なわれた戦争の歴史,それも戦争が生じたその時にセナケリブ自身によって書かれ,聖書の記録の非常に詳細な点を確証する歴史が,ニネベの遺跡の目印となる土砂やがれきの山の下に眠っているかもしれない,あるいは眠っている可能性があるなどと,これらの発見が行なわれる前にだれが信じただろうか」。

もちろん,セナケリブの記録は幾つかの点で聖書と食い違っています。例えば,考古学者のアラン・ミラードはこう述べています。「最も驚くべき事実が[セナケリブの記録の]最後に出てくる。ヒゼキヤは使者とすべての貢ぎ物を『後にニネベに』,セナケリブのもとに送り出した。アッシリア軍はいつものようにそれらを意気揚々と自国に持ち帰ることはしなかった」。しかし聖書によれば,貢ぎ物はアッシリアの王がニネベに帰る前に送られています。(列王第二 18:15-17)なぜ食い違っているのでしょうか。なぜセナケリブは,ユダの要塞ラキシュを征服したことを誇ったように,ユダの首都エルサレムの征服を誇ることができなかったのでしょうか。3人の聖書筆者がその答えを与えています。そのうちの一人のある目撃証人は,こう書いています。「エホバの使いが出て行き,アッシリア人の陣営で十八万五千人を討ち倒した。人々が朝早く起きてみると,何と,彼らはみな死がいとなっていた。それゆえ,アッシリアの王セナケリブは引き揚げて行き,帰って,ニネベに住むようになった」― イザヤ 37:36,37。列王第二 19:35。歴代第二 32:21。

ミラードは「聖書時代の宝物」の中で,こう結論しています。「この記録を疑う十分な理由はない。……セナケリブがそのような災難を記録して,後継者たちに読ませるようなことなどしなかったということは理解できる。それは彼にとって不名誉なことになるからだ」。その代わりにセナケリブは,ユダへの侵攻が成功を収め,ヒゼキヤがニネベに貢ぎ物を送って服従し続けたような印象を与えようとしました。

アッシリアの起源が確証される

何万点にも及ぶ粘土板がさらにニネベから発見されました。これらの文書は,創世記 10章11節が示しているように,アッシリア帝国のルーツが南方のバビロンにあることを証明しました。このことを手がかりに,考古学者たちはさらに南方に努力を集中しました。「エンサイクロペディア・ビブリカ」は,こう説明しています。「アッシリア人が後に残したものはすべて,彼らの起源がバビロンにあることを示している。彼らの言語,筆記方法,書物,宗教,科学などは,すぐ南の隣人から受け継いだものであり,変化したところはほとんどない」。

以上のような数々の発見により,聖書批評家たちは自分の見解を修正しなければなりませんでした。聖書を誠実な態度で調べれば,聖書が確かに注意深くて正直な人々によって書かれたことが分かります。元米国最高裁判所長官サルモン・P・チェースは,聖書を調べた後にこう言いました。「それは長期にわたる真剣な深い研究であった。この宗教的な問題についても,私が世俗の問題でいつも用いているような方法で,同じ証拠の法則を使うことにより,聖書が超自然の本であり,神から与えられたものであるという判定を下すことができた」―「本の中の本: 入門」。

確かに,聖書は単なる正確な歴史ではありません。聖書は神の霊感を受けた言葉であり,人間の益のための贈り物です。(テモテ第二 3:16)聖書の地理を調べてみると,その証拠を見ることができます。そのことについては次号で扱われます。

[6,7ページの図版]

上の三つ: 壁の浮き彫りの細部

下: ラキシュ攻略を描いたアッシリアの壁の浮き彫りの絵

[クレジット]

(British Museumの厚意による)

(British Museum press発行のThe Bible in the British Museumより)

[4ページの図版のクレジット]

Trustees of The British Museumの厚意による

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