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セナケリブ聖書に対する洞察,第2巻
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アッシリア人のその委員はセナケリブのもとに帰りましたが,その時セナケリブはリブナと戦っており,「エチオピアの王ティルハカに関して,『見よ,彼はあなたと戦うために出て来た』」というのを聞いていました。(王二 19:8,9)セナケリブの碑文にはエルテケ(エクロンの北北西約15㌔)の戦いのことが記されており,その中でセナケリブはエジプトの軍隊と「エチオピアの王」の軍勢を打ち負かしたと主張しています。次いで,エクロンを征服したことや自由にされたパディをそこで王位に復帰させたことについても述べています。―「古代近東テキスト」,287,288ページ。
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ティルハカ聖書に対する洞察,第2巻
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普通,ファラオ・タハルカと同一視されています。もっとも,一般に現代の歴史家たちが定めるタハルカの支配した年代は,聖書の年代計算と合致しません。(一般の年代計算より聖書の年代計算を裏付ける証拠については,「年代計算,年代学,年代記述」[聖書の年代記述と一般の歴史]を参照。)ヒゼキヤの治世中,アッシリアの王セナケリブがリブナと戦っている間に,エチオピア人であるエジプトの王ティルハカがアッシリアと戦うために出発したという知らせが届きました。(王二 19:8,9; イザ 37:8,9)アッシリアの碑文は,ティルハカには言及していませんが,セナケリブがエジプトから来た軍勢を撃ち破り,「エチオピアの王の兵車の御者」を捕らえたことを示しています。アッシリアの次の王エサル・ハドンはエジプト征服を誇り,「その王,ティルハカを,わたしは矢で射て5度傷つけ,その国全体を支配した」と言いました。エサル・ハドンの子で後継者でもあるアシュルバニパルの治世中に,ティルハカはアッシリアへの服従から立ち上がって反逆しました。しかし,アシュルバニパルによると,「我が主なるアッシュールの(神聖な)武器の脅威は,ティルハカを避難場所で討ち負かし,彼について聞くことはもはや二度となかった」ということです。―「古代近東テキスト」,J・プリッチャード編,1974年,287,288,290,295ページ。
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