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  • 罪
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 違犯,つまり「踏み越えること」 罪は「違犯」という形を取ることもあります。パラバシス(違犯)というギリシャ語は基本的には,「踏み越えること」,すなわち,とりわけ律法を破る場合のように,ある限度もしくは限界を越えることを指しています。マタイはその動詞形(パラバイノー)を使って,イエスの弟子たちがなぜ『昔の人々からの伝統を踏み越えた』かに関するパリサイ人や書士たちの質問と,それら反対者がなぜ『自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えた』かに関するイエスの逆の質問を列挙しています。彼らは自分たちの伝統によって神の言葉を無にしていたのです。(マタ 15:1-6)この語は,奉仕の務めや使徒職の地位から「外れた」ユダの場合のように(使徒 1:25),「踏み迷う」ことをも意味し得ます。幾つかのギリシャ語本文では,「油そそがれた方の教理を越えて,それにとどまらない」者に言及する際,この同じ動詞が使われています。―ヨハ二 9,ダイアグロット。

  • 伝承,伝統
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 非とされる伝統 しかし,ユダヤ人の宗教指導者たちは,自分たちが真の崇拝に不可欠であるとみなした多くの口頭伝承を,書き記されたみ言葉に付け加えていました。キリスト教に転向する前にパリサイ人だったパウロ(サウロ)は,ユダヤ教の伝統に従うことに非常に熱心でした。もちろん,その中には悪い伝統だけでなく特に問題のない伝統も含まれていたのかもしれません。しかしサウロは,『教理として人間の命令』に従うことによって,クリスチャンを迫害するようになりました。(マタ 15:9)例えば,彼らは『昔の人たちからの伝統を堅く守って,手をひじまで洗わなければ食事をしません』でした。(マル 7:3)それらの人々の間では,これは衛生上の目的のための慣行ではなく,宗教的な利点があると考えられた仰々しいしきたりでした。(「手を洗う」を参照。)キリストは,弟子たちにはその慣行や他の不必要な「人間の命令」に従わないとして批判される根拠がないことを示されました。(マタ 15:1,2,7-11; マル 7:4-8; イザ 29:13)さらに,宗教指導者たちは「コルバン」(神に献納された供え物)に関する伝統によって,神の命令を踏み越え,神の言葉を無にしていました。―出 20:12; 21:17; マタ 15:3-6; マル 7:9-15。「コルバン」を参照。

  • 手を洗う
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 西暦1世紀の書士やパリサイ人は,手を洗うことを大変重視し,食事をしようとする時に手を洗わないイエスの弟子たちは昔の人々からの伝統を踏み越えていると言って,イエス・キリストに異議を唱えました。これには,衛生上の目的で普通に手を洗うことではなく,仰々しい儀式が関係していました。『パリサイ人とすべてのユダヤ人は,手をひじまで洗わなければ食事をしません』。(マル 7:2-5; マタ 15:2)バビロニア・タルムード(ソター 4b)は,手を洗わずに食べる者を娼婦と関係を持つ者と同列に置いており,手を洗うことを軽く見る者は「世から根絶やしにされる」だろうと述べています。―「水を浴びる」を参照。

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