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目ざめよ! 1999
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聖書の見方

クリスチャンはミサをどう見るべきですか

敬虔なカトリック教徒は,法王ヨハネ・パウロ2世の次の言葉に同意します。ニューヨーク・タイムズ紙によると,法王は最近,「カトリック教徒がミサに欠席するなら,教会はそれを罪とみなすことを再確認」しました。このミサとは何でしょうか。この論題について,教会と聖書は一致しているでしょうか。

カトリックの司祭マーティン・J・スコットは,「カトリック教徒が尋ねられる事柄」(英語)という本の中で,ミサを次のように定義しています。「ミサとは,キリストの体と血の,血を流さないいけにえである。カルバリでささげられたのはキリストの血を流すいけにえであった。ミサは,十字架上でささげられたものと本質的に同じいけにえである。これは修辞的表現でも,隠喩でも,誇張でもない」。そしてさらに,「ミサによって,神のみ子を我々の祭壇に下らせ,神格を有する方にみ子をいけにえとしてささげるのである」と述べています。

ミサは聖書に基づいているか

誠実なカトリック教徒は,ミサは聖書の教えに基づいていると信じています。その裏付けとして,一般に最後の晩餐と呼ばれる場面でイエスが語った言葉を指摘します。イエスはパンとぶどう酒を使徒たちに配る際,パンについて,「これはわたしの体である」と言われました。また,ぶどう酒について,「これは……わたしの血……である」と言われました。(マタイ 26:26-28)a カトリック教徒は,イエスはそのように言った時にパンとぶどう酒を自分の体と血に実際に変化させた,と信じます。しかし,新カトリック百科事典(1967年版,[英語])は次のように注意を促しています。「『これはわたしの体である』,あるいは『これは……わたしの血……である』という言葉の字義通りの解釈にとらわれすぎるべきではない。……例えば,『刈り入れは世の終わりのこと……である』(マタ 13.39),あるいは『わたしはまことのぶどうの木……である』(ヨハ 15.1)といった表現の[be動詞]は,単に意味する,もしくは表わすという意味にすぎない」。ですから,この権威ある百科事典でさえ認めているように,マタイ 26章26節から28節の言葉は,最後の晩餐の際にパンとぶどう酒が文字どおりにイエスの体や血に変えられたことを証明するものとはなりません。

ところで,かつてイエスが,「わたしは,天から降って来た生きたパンである。……わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者は,永遠の命を得(る)」と言われたのを思い起こす人もいるでしょう。(ヨハネ 6:51,54)イエスの話を聞いた人々の中には,その言葉を文字通りに取ってショックを受けた人もいました。(ヨハネ 6:60)しかしわたしたちは,イエスはその時ご自分の肉をパンに変えたのだろうか,と自問できます。もちろん,そのようなことはありませんでした。イエスは比喩的な意味で話しておられたのです。ご自分をパンになぞらえたのは,自分が犠牲になることによって人類が命を得ることになるからです。この食べることや飲むことは,イエス・キリストに信仰を働かせることによって行なわれる,ということをヨハネ 6章35節と40節は明らかに示しています。

ミサはカトリック教会の主要な典礼である以上,それを支持する聖句があるはずだ,と思う方もおられるかもしれません。しかし,そうした聖句はありません。カトリック百科事典(1913年版,[英語])はその理由を説明し,「我々の教理の主要な源は伝統である。伝統は,最初期の時代から,ミサの犠牲に願得的[懇願することの]価値があることを明らかにしている」と述べました。そうです,ローマ・カトリックのミサは,伝統に基づいたものであり,聖書に基づいたものではありません。

どれほど誠実に守られていても聖書に反する伝統は,神に受け入れられません。イエスは当時の宗教指導者たちを非難して,「あなたたちは,自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と言われました。(マタイ 15:6)イエスは神の言葉を重んじられましたから,わたしたちもミサに関する教えを聖書に照らして調べてみましょう。

キリストが犠牲とされる ― どれほど頻繁に?

カトリック教会は,ミサが祝われるたびにイエスが犠牲としてささげられると教えています。もっとも,イエスは実際に死ぬわけではなく,またその犠牲も血の伴わないものである,と主張されています。聖書はその見解と一致しているでしょうか。ヘブライ 10章12,14節に注目してください。「キリストは,罪のために唯一のいけにえを献げて,永遠に神の右の座に着き,……キリストは唯一の献げ物によって,聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」とあります。

しかし,誠実なカトリック教徒はこう異議を唱えるかもしれません。『イエスは頻繁にご自身をささげなければならないのではないでしょうか。人はみな何度も罪を犯すのですから』。これに対する聖書の答えは,ヘブライ 9章25,26節に記されています。「キリストがそうなさったのは,……度々御自身をお献げになるためではありません。……世の終わりにただ一度,御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために,現れてくださいました」。キリストが『度々御自身をお献げになる必要はない』という点によく注意してください。使徒パウロは,ローマ 5章19節でその理由を,「一人の人[アダム]の不従順によって多くの人が罪人とされたように,一人[イエス]の従順によって多くの人が正しい者とされる」と説明しています。アダムの一度の不従順の行為によって,わたしたちすべてが死に服させられ,イエスの一度の贖罪の行為によって,その犠牲に信仰を働かせる人すべてが現在罪を許され,将来永遠の命を享受するための基礎が据えられたのです。

イエスが一度かぎり犠牲としてささげられたのか,それとも頻繁に犠牲としてささげられるのかによって,どんな違いが生じるでしょうか。それはイエスの犠牲の価値に対する認識を左右するものとなります。イエスの犠牲は,これまでに与えられた最大の賜物です。極めて貴く,完全であるため,二度と繰り返される必要のない賜物なのです。

イエスの犠牲は確かに,記念されるに値します。しかし,ある出来事を記念することは,その出来事を繰り返すこととは違います。例えば,結婚記念日を祝う夫婦は,二人が結婚した日のことを思い出すにしても,実際に結婚式を繰り返すことはしません。エホバの証人は,毎年イエスの死の記念日を祝います。イエスがお命じになった通りに,つまり,イエスを犠牲としてささげるのではなく,「記念として」そうするのです。(ルカ 22:19)それだけでなく,それらクリスチャンたちは一年を通じて,自分の生活や行動や信条を聖書に調和させることにより,イエス・キリストを通してエホバ神との温かな関係を培うようにも努めます。

そうすることは,多くの場合,自分の考え方を変えることを意味します。しかし証人たちは,人間の伝統よりも神の言葉を忠節に支持するなら祝福されるということを知って喜んでいます。それに,2,000年ほど前に一度かぎり流されたイエスの犠牲の血に信仰を働かせるなら,あらゆる罪から清められることにもなるのです。―ヨハネ第一 1:8,9。

[脚注]

a この記事の聖句はすべて「新共同訳」聖書からの引用です。

[26ページの図版]

聖ジルのミサ(絵画の一部分)

[クレジット]

Erich Lessing/Art Resource, NY

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