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    聖書に対する洞察,第2巻
    • アレクサンドロス大王により征服される アハシュエロス(クセルクセス1世と考えられる人物)の時代でも,なお「ペルシャとメディアの軍勢」のことが言及されており,王の顧問院は「ペルシャとメディアの七人の君たち」で構成されており,また法律は依然,「ペルシャとメディアの法令」として知られていました。(エス 1:3,14,19)西暦前334年に,アレクサンドロス大王はペルシャ軍に対する最初の決定的な勝利を収め,西暦前330年にメディアを占拠しました。同大王の死後,メディアの南部はセレウコス帝国の一部となり,北部は独立した王国となりました。その王国はパルチア人やセレウコス帝国によって色々な支配を受けましたが,ギリシャの地理学者ストラボンは西暦1世紀にもメディア王朝が存続していたことを示唆しました。(「地誌」,11,XIII,1)西暦33年のペンテコステの際,エルサレムにはパルチア人,エラム人その他の国籍の人々と共にメディア人がいました。それらの人々は「あらゆる国から来たユダヤ人で,敬虔な人々」と呼ばれていますから,イスラエルがアッシリアにより征服された後にメディア人の諸都市に流刑に処せられたユダヤ人の子孫だったかもしれませんし,また,中にはユダヤ人の信仰を受け入れた改宗者がいたのかもしれません。―使徒 2:1,5,9。

  • メソポタミア
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 西暦33年のペンテコステの祭りに出席するためにエルサレムに来ていたユダヤ人や改宗者たちの中には,メソポタミアの住民もいました。(使徒 2:1,2,9)その中にはこの地の南部,すなわちバビロニアの住民も含まれていたかもしれません。この点で注目に値するのは,歴史家のヨセフスが,西暦前1世紀のバビロニアに「多数のユダヤ人」がいたと伝えていることです。―ユダヤ古代誌,XV,14(ii,2)。

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