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    聖書に対する洞察,第1巻
    • ギリシャ人のほかに,初期の植民市開拓者の子孫であったイタリア人が人口の相当の部分を占めていました。コリント人であった弟子たちの多くは,ユスト,テルテオ,クワルト,ガイオ,クリスポ,フォルトナト,およびアカイコなどのラテン語名を持っていました。(使徒 18:7; ロマ 16:22,23; コリ一 1:14; 16:17)コリントには大勢のユダヤ人が定住しており,会堂を設けて,一部のギリシャ人の信奉者をも集めました。(使徒 18:4)レカイオンの方を向いている門の近くで見つかった大理石製のまぐさに記されているギリシャ語の刻銘は,ユダヤ人がコリントにいたことを示唆しています。「[シュナ]ゴーゲー・ヘブラ[イオーン]」と記されているその刻銘は,「ヘブライ人の会堂」という意味です。また,娯楽や運動競技のこの中心地で楽しもうとする人々のほかに,旅行者や商人も絶えず入って来ました。恐らく,こうしたことが一因であったと思われますが,この都市の人々の態度は,ギリシャ文化の中心地であったアテネを含め,使徒が訪れた他の諸都市に広く見られた人々の態度よりも偏見のないものでした。パウロは心が義に傾いている人がコリントに大勢いることを確証する幻を与えられたので,東西の相会するこの戦略上の要衝の地で1年6か月を過ごしました。(使徒 18:9-11)その期間に,パウロはテサロニケ人にあてて2通の手紙を書いたようです。

  • ギリシャ,ギリシャ人
    聖書に対する洞察,第1巻
    • ベレアやコリントなどのギリシャ諸都市での出来事が述べられている使徒 17章12節や18章4節では,確かにギリシャ人を先祖に持った人々のことが取り上げられています。このことはマケドニアのテサロニケの「ギリシャ人」や(使徒 17:4),ギリシャ人により長年植民市にされ,かつてイオニアの首都だった小アジア西岸のエフェソスの「ギリシャ人」に(使徒 19:10,17; 20:21),また小アジア中部のイコニオムの「ギリシャ人」にさえ当てはまるかもしれません(使徒 14:1)。これらの句のある箇所の「ユダヤ人もギリシャ人も」という組み合わされた語句は,ルカがそれらの箇所でパウロのように,「ギリシャ人」という語をユダヤ人ではない一般の諸民族を代表する語として使ったことを示唆しているのかもしれませんが,実際のところ,地理的に本来のギリシャ圏の外に位置していたのはイコニオムだけです。

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