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アレクサンドリア聖書に対する洞察,第1巻
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アレクサンドリアは聖書の中で簡単に言及されているにすぎません。ステファノが審理に付される前に論じ合った者たちの中に,「アレクサンドリア人」,つまりアレクサンドリアから来たユダヤ人がいました。アレクサンドリアは,雄弁なアポロの生まれた都市でした。また,パウロが囚人となってローマに向かう旅をした際に乗船した船のうちの2隻はアレクサンドリアからのものでした。これはアレクサンドリアの大船団に属する大型の穀物船であったと思われます。この船団は地中海を横断してイタリアのポテオリまで航海しましたが,時には小アジア沿岸の港伝いに航行することもありました。―使徒 6:9; 18:24; 27:6; 28:11。
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自由民,自由人聖書に対する洞察,第1巻
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「“自由民[字義,解放奴隷<リベルテン>たち]の会堂”」に属していた人々とは,ローマ人にとりことして連れ去られ,後になって解放されたユダヤ人のことではないかと言われてきました。別の見方は,この人々はユダヤ教に改宗した解放奴隷であるというものです。アルメニア語訳はこの人々を「リビア人たち」,つまりリビア出身の人々として示しています。―使徒 6:9。
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ギリシャ,ギリシャ人聖書に対する洞察,第1巻
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ヘレニスト 「使徒たちの活動」の書には,ヘッレーニスタイ(単数,ヘッレーニステース)というもう一つの語が出て来ます。この語はギリシャ人の文学にも,ギリシャ語を用いたユダヤ人の文学にも見当たらないので,その意味は完全には分かりません。しかし大抵の辞書編集者は,その語が使徒 6章1節や9章29節の「ギリシャ語を話すユダヤ人」を指していると考えています。これら二つの聖句のうち最初の句では,ヘッレーニスタイは「ヘブライ語を話すユダヤ人」(ヘブライオイ[ウェストコットおよびホートのギリシャ語本文])と対比されています。西暦33年のペンテコステの日には,多くの土地から来たユダヤ人や改宗者たちが居合わせていました。ギリシャ語を話す,それら多くの人々がその都市にやって来たことは,エルサレムのオフェルの丘で見つかった「テオドトス碑文」により証明されています。ギリシャ語で書かれたその碑文はこう述べています。「祭司ならびに会堂の長で,会堂の長の子であり孫である,ウェテヌスの子テオドトスは,律法の朗読のため,またおきてを教えるための会堂を建て,外国から来て困っている人々に泊まる所を提供するため,宿舎や部屋や貯水槽を造った ―(その会堂)は彼の父祖や長老たちやシモニデスが創立したものである」。(「聖書考古学」,G・アーネスト・ライト著,1962年,240ページ)中には,この碑文を「“自由民の会堂”」と結び付けようとした人もいます。その「会堂」の成員はステファノの殉教に対する責任のある人々の中に含まれていました。―使徒 6:9。「自由民,自由人」を参照。
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