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年代計算,年代学,年代記述聖書に対する洞察,第2巻
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その後の使徒時代 この期間に起きた幾つかの出来事の大体の年代を定めることは可能です。クリスチャンの預言者アガボが語った大飢きんや,その後ヘロデ・アグリッパ1世によりもたらされた迫害は,西暦44年ごろに起きたようです。その迫害のために使徒ヤコブが死に,ペテロは投獄されました。(使徒 11:27-30; 12:1-4)その年にヘロデ・アグリッパが没し,予告されていたその飢きんは西暦46年に起きたことを示す証拠があります。西暦46年という年は,パウロとバルナバにより救援の仕事が行なわれた時を印づけるものであると考えられます。―使徒 12:25。
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ヘロデ聖書に対する洞察,第2巻
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3. ヘロデ・アグリッパ1世。ヘロデ大王の孫。彼はアリストブロスの息子であり,アリストブロスは,ヘロデ大王と,大祭司ヒルカノス2世の孫娘マリアムネ1世との間に生まれた息子でした。アリストブロスは,ヘロデ大王によって処刑されました。アグリッパはヘロデ家の中で,祖父と同様に全パレスチナの王となった最後の人物でした。
彼の若いころ 「王ヘロデ」としてのアグリッパの地位は,多くの策略や,ローマにいる友人たちの助けによって得られたものです。(使徒 12:1)ティベリウス帝の息子ドルススや同帝のおいのクラウディウスと一緒にローマで教育を受けたアグリッパは,ローマの要人たちの間で顔の知られた人物となりました。彼は非常に突飛で無分別な性格の人でした。大きな負債を抱え,ローマの国庫からも借金していた彼は,ローマを去ってイドマヤに逃げました。やがて姉妹のヘロデアや妻のキュプロス(ヘロデ大王のおいの娘で,そのおいの妻はヘロデの娘)の助けにより,しばらくの間ティベリアに住みました。しかし,アンテパスとの間にいさかいが生じたためにそこを去った彼は,最後にローマに戻り,ティベリウス・カエサルに優遇されるようになりました。
しかし,思慮の欠けたある言葉をきっかけに,アグリッパはティベリウス帝との関係をこじらせました。親しい間柄になっていたガイウス(カリグラ)に対し,ガイウスには早く皇帝になってほしいという気持ちをうっかり話してしまったのです。アグリッパの僕がたまたまそれを聞いたため,その言葉はティベリウスの耳に達し,ティベリウスはアグリッパを獄に入れました。彼の命は数か月の間危うい状態でしたが,何か月かしてティベリウスは死に,カリグラが皇帝になりました。カリグラはアグリッパを釈放して高め,彼の死んだおじフィリポが治めていた幾つかの領地の王としました。
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