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和解聖書に対する洞察,第2巻
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和解の基盤 神との十分な和解は,キリスト・イエスの贖いの犠牲によってのみ,またその犠牲を通してのみ可能になります。キリスト・イエスは「道」であり,だれもキリストを通してでなければ父のもとに来ることはありません。(ヨハ 14:6)この方の死は「わたしたちの罪のためのなだめの犠牲[ギ語,ヒラスモン]」となりました。(ヨハ一 2:2; 4:10)ヒラスモスという語は「和めるための手段」,「贖罪」を意味しています。明らかに,イエス・キリストの犠牲は,神の側の傷ついた感情をなだめたり,神を慰めたりするという意味での「和めるための手段」ではありませんでした。神の愛するみ子の死がそのような結果を生じさせるはずはないからです。むしろその犠牲は,罪を赦すための公正で義にかなった基盤を備えることによって,神の完全な公正に関する要求を和め,満たしたのです。それは神が,「イエスに信仰を持つ人[遺伝的に罪深い人]を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされ(る)」ためでした。(ロマ 3:24-26)キリストの犠牲は,人間の罪と不法な行為を償う(完全に賠償する)ための手段を備えることによって,人間が主権者なる神との正しい関係に回復されることを求め,その回復にあずかることを都合のよい(好都合の)ものとしたのです。―エフェ 1:7; ヘブ 2:17。「贖い」を参照。
このように神はキリストを通して,「苦しみの杭の上で彼[イエス]の流した血を通して平和を作ることにより……他のすべてのものを……再びご自分と和解させる」ことを可能にされました。それによって,かつては思いが邪悪な業に向けられていたために「疎外され,また敵となっていた」人たちが,今や『この方の肉の体により,その死を通して和解』できるようになりました。「それは[彼ら]を,神聖できずがなく,何ら訴えられるところのない者としてそのみ前に立たせるためでした」。(コロ 1:19-22)今やエホバ神は,霊によって生み出されるご自分の子となるようお選びになった者たちを『義と宣する』ことができました。彼らは今や神と十分に和解し,神と平和な関係にある者となったので,彼らに関して何らかの訴えがなされることは一切ありません。―使徒 13:38,39; ロマ 5:9,10; 8:33と比較。
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義聖書に対する洞察,第1巻
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憐れみを施しながらも,義にかなった方 エホバの義,公正,神聖さ,および浄さは比類のないものですから,神は罪を大目に見ることができません。(詩 5:4; イザ 6:3,5; ハバ 1:13; ペテ一 1:15)したがって,神は公正の条件を満たさずに,― 要するに,法的な根拠なしに ― 人間の罪を許すことはできませんでした。しかし,神は過分のご親切により,ご自分のみ子を犠牲の捧げ物,つまりなだめの供え物,もしくは罪を覆うものとして,この適正な取り決めを設けてくださいました。このようにして,神はこの取り決めを受け入れる罪人に対して義にかなった仕方で憐れみを施すことがおできになります。パウロはこのことについて次のように述べています。「しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。……そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義で(す)。というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。……イエスに信仰を持つ人[生来罪深い人間]を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました」― ロマ 3:21-26。「義と宣する」を参照。
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