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親切聖書に対する洞察,第1巻
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働き人は自分が働いたことに対する代償,つまり支払いを受ける権利があります。すなわち,自分の報酬を権利,つまり自分に対する債務として期待しており,その支払いは賜物でもなければ,特別な過分の親切でもありません。(ロマ 4:4)しかし,死に定められた罪人が(わたしたちは皆そのような者として生まれている)有罪宣告を受けた状態から解放されて義と宣せられることは,確かに全くの過分のご親切です。(ロマ 3:23,24; 5:17)律法契約の取り決めのもとに生まれた人々は,その契約により罪人であることが暴かれたゆえに,より厳しい死罪を宣告されたというのであれば,ユダヤ人は救いを最初に差し伸べられたという点で一層大きな過分のご親切を施されたことを覚えておくべきでしょう。―ロマ 5:20,21; 1:16。
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罪聖書に対する洞察,第2巻
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律法により罪が「満ちあふれる」ようになったいきさつ 人間にはある程度の良心があるゆえに,生まれながらに正邪の感覚がある程度ありましたが,神はイスラエルと律法契約を結ぶことにより,今や罪の実体の多様な面を明確に示されました。こうして,神の友となったアブラハム,イサク,およびヤコブの子孫で,自分には罪がないと唱えるどんな人の口も「ふさがれて,全世界が神の処罰に服するようにな[りました]」。なぜなら,人々はアダムから不完全な肉体を受け継いだゆえに,律法の業によって神のみ前で義と宣せられることはできなかったからです。というのは,「律法によって罪についての正確な知識が生じる」からです。(ロマ 3:19,20; ガラ 2:16)律法により罪の及ぶ範囲や規模全体がはっきり示されたので,非常に多くの行為が,また種々の態度さえも,今や罪深いものであることが明らかにされたという点で,事実上,罪過や罪が「満ちあふれる」ようになりました。(ロマ 5:20; 7:7,8; ガラ 3:19。詩 40:12と比較。)律法により定められた犠牲は,律法のもとにある人々に自分たちの罪深い状態を絶えず思い起こさせるものとなりました。(ヘブ 10:1-4,11)そのような方法で,律法は彼らをキリストに導く養育係の役を演じました。それは,彼らが「信仰によって義と宣せられる」ためでした。―ガラ 3:22-25。
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