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サラ聖書に対する洞察,第1巻
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象徴的な劇における表象 ガラテア人に手紙を書き送った際,使徒パウロは,アブラハムの妻サラが「上なるエルサレム」,すなわち,アブラハムの霊的な「胤」である,霊によって油そそがれたクリスチャンの母を表わしていることを明らかにしました。神の象徴的な女である「上なるエルサレム」は,サラと同じく,決して奴隷状態に置かれたことはありません。したがって,彼女の子供たちも自由です。人が「上なるエルサレム」の自由の子供となって,「彼女の自由」にあずかるためには,神のみ子によって罪の束縛から解放されなければなりません。(ガラ 4:22-31; 5:1,脚注)それゆえ,キリスト・イエスはアブラハムの生来の子孫に次のように話されました。「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です。そして,奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています。それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです」― ヨハ 8:34-36。「自由の女」; 「ハガル」を参照。
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くびき聖書に対する洞察,第1巻
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イスラエル国民に与えられた律法は一種のくびきでした。律法によって彼らはエホバ神に対する義務と責任を負わされたからです。律法により規定された事柄は聖にして義にかない,良いものでしたから,イスラエル人に害をもたらすものではありませんでした。(ロマ 7:12)しかし,イスラエル人は自分の罪深さと不完全さゆえに律法を完全に守ることができず,そのため律法は『彼らもその父祖たちも負うことのできなかった』くびきとなりました(彼らは律法を破ったために有罪宣告を受けることになったからです)。ペテロは非ユダヤ人のクリスチャンに「モーセの律法」を守る義務を課す必要がないことを示した際,この点を強調しました。(使徒 15:4-11)隷従状態をもたらしたのは律法そのものではなく,罪でした。(ロマ 7:12,14)それで,人がモーセの律法を完全に守ることによって命を得ようとするのは不可能であったばかりでなく,それは自ら『再び奴隷のくびきにつながれる』ことも意味しました。なぜなら,人は罪人で,罪の奴隷であったゆえに律法によって有罪とされることになり,その律法にはキリストの贖いのように罪のための真に有効な犠牲の備えはなかったからです。―ガラ 5:1-6。
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