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カエサル聖書に対する洞察,第1巻
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パウロがフィリピ人への手紙を書いたのは,パウロがローマで最初に投獄されていた間のこと(西暦60年ごろ-61年)であったようです。その手紙の結びに,パウロはローマにいる兄弟たち,「特にカエサルの家の人たち」からのあいさつを含めています。(フィリ 4:21,22)「カエサルの家の人たち」という表現は,必ずしも当時支配していたネロの直系の家族のことではなく,行政に携わっていた人々やカエサルの奴隷,および下級の役人たちを指しているのかもしれません。カエサルの家に属するこれらのクリスチャンがパウロの伝道によって生み出されたのかどうかは述べられていません。仮にパウロの投獄されていた所が親衛隊(フィリ 1:13)と関連のある場所であったとすれば,パウロはネロの宮殿の近く,したがってカエサルの家の多くの人たちの近辺にいたことになり,彼の伝道もそうした場所で行なわれたことになります。(使徒 28:16,30,31)パウロがカエサルの家に属するこれらのクリスチャンにどんな方法で会ったにせよ,彼らはフィリピの兄弟たちに特別の関心を持っていたようです。フィリピは退役した兵士や役人が大勢いたローマの植民市でしたから,そこに住んでいた幾人かのクリスチャンは,パウロが代わりにあいさつを送っている人たちの親族か友人であったということも考えられます。
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番兵,見張り,守衛聖書に対する洞察,第2巻
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ローマの親衛隊(Praetorian Guard)は,西暦前13年にカエサル・アウグスツスによって組織され,皇帝の護衛を務めました。(フィリ 1:12,13)皇帝ティベリウスはこの親衛隊をローマの城壁の近辺に常駐させ,民衆が手に負えない行動に出るときには彼らを用いてこれを阻止しました。そのため親衛隊の司令官は非常に重要視されるようになり,隊は総勢およそ1万人を数えるまでになりました。やがて親衛隊は,皇帝を即位させたり退位させたりすることもできるほどの影響力を持つようになりました。
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