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義と宣する聖書に対する洞察,第1巻
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自分は使徒だと偽って主張したある人々は,不当にも,パウロが使徒であることや彼がクリスチャンとして行なっていた業に異議を唱え,そうすることによってコリント会衆をパウロから自分たちのほうへ引き寄せようとしました。(コリ二 11:12,13)パウロは自分がキリストの家令としての職責を忠実に遂行していることを知っていたので,何の認可も受けずに事実上「人間の審判の場」に座して自分を裁く者たちの判断など気にしてはいないと述べました。パウロは自分自身に関する自分の判断をさえ当てにせず,むしろ自分を“調べてくださる方”としてのエホバに頼りました。(コリ一 4:1-4)ですから,人の義に関する,またはそれが欠けているかどうかに関する人間の判断は,神のみ言葉の裏付けがない限り,頼ることはできないという原則が明らかにされています。人は神のみ言葉を調べて,そのみ言葉に自分自身を吟味させなければなりません。(ヘブ 4:12)しかし,神のみ言葉によって裏付けられていることが明らかな場合,つまりクリスチャンの兄弟,とりわけ会衆の長老によって戒められる場合には自分が義にかなっていることを示そうとして,そのような戒めを退けるのは,正しいこととは言えません。(箴 12:1; ヘブ 12:11; 13:17)また,だれであれ,問題あるいは争いを裁く,責任ある立場に立つ人が,「わいろに対する報酬として邪悪な者を義にかなっている」と宣告するとしたら,その人は神により罪に定められることになります。―イザ 5:23; ヤコ 2:8,9。
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ヘブライ人への手紙聖書に対する洞察,第2巻
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神の休みに入るという約束を差し伸べている生きた言葉は剣よりも鋭く,魂としてその人がどのように見えるかということと,霊におけるその人の真の姿とを(その言葉に対する人の反応によって)分ける
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