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  • 臨在,共にいること,存在すること
    聖書に対する洞察,第2巻
    • 中には,イエスが「大いなる力と栄光を伴い,雲のうちにあって来る」のが見えるという聖句を根拠に(マル 13:26; 啓 1:7),イエスの臨在は目に見えるに違いないと結論する人々がいます。しかし,「雲」(例えとしての用法)の項のもとで示されているように,神の他の顕現に関連した雲という語の用法が示唆しているのは,可視性ではなく,むしろ不可視性です。それにまた,「見る」ということも,比喩的な視覚,つまり思いと心による知覚を指す場合があります。(イザ 44:18; エレ 5:21; エゼ 12:2,3; マタ 13:13-16; エフェ 1:17,18)このことを否定するなら,見えることの反対,すなわち盲目という語が,文字通りの意味ではなく,比喩的もしくは霊的な意味でも使われるということを否定する結果になります。しかしイエスは明らかに,見えることと盲目の両方をそのような比喩的もしくは霊的な意味で使われました。(ヨハ 9:39-41; 啓 3:14-18。また,コリ二 4:4; ペテ二 1:9と比較。)ヨブは,「風あらし[雲を伴っていたと思われる]の中から」エホバに話しかけられた後に,「私はあなたのことをうわさで聞いていましたが,今は,私のこの目があなたを確かに見ております」と言いました。(ヨブ 38:1; 42:5)これもまた,「いまだ神を見た人はいない」という聖書の明快な教えからすると,文字通りの目ではなく,むしろ思いと心の知覚によるものであったに違いありません。―ヨハ 1:18; 5:37; 6:46; ヨハ一 4:12。

  • しるし,標識
    聖書に対する洞察,第1巻
    • エルサレムの滅びから26年後の西暦96年ごろ,ヨハネは将来に起きる事柄について書きましたが,彼はイエス・キリストが「雲と共に来る」のを,『そして,すべての目は彼を見,彼を刺し通した者たちも見る』のを幻の中で見ました。(啓 1:1,7)したがって,西暦96年より後に生じることになっていた事柄に関するこの言葉,および「人の子のしるし」についてキリストが話された事柄はいずれも,イエスが雲のうちに来ること,そしてすべての民がイエスを見ることについて述べていました。(「雲」を参照。)しかし,マタイ 24章30節と啓示 1章7節で用いられている,「見る」に相当するギリシャ語の動詞ホラオーは,文字通り「物を見る,眺める」ことを意味する場合もあるものの,「識別する,知覚する」といった精神的な視力に関する隠喩として用いられる場合もあることに注目すべきです。―「希英辞典」,H・リデルおよびR・スコット共編,H・ジョーンズ改訂,1968年,1245ページ,第1欄。

      「奇跡」,「異兆」,「しるし」の比較については,「異兆」; 「奇跡」を参照してください。

  • 部族
    聖書に対する洞察,第2巻
    • ギリシャ語のフュレーという語(「部族」と訳される)は,共通の血統で結ばれた人々の集団やその一部分,つまり氏族や部族を指しています。この語はクリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,イスラエル国民の諸部族に関してしばしば用いられています。(使徒 13:21; ロマ 11:1; フィリ 3:5; ヘブ 7:13,14; 啓 5:5)「あらゆる部族と国語と民と国民の中から」というような表現における「部族」は,共通の血統を通して同族関係にある人々の集団を意味しているものと思われます。(啓 5:9)ですから,そのような表現は,相互に関連した個々の人で成る部族,言語集団,人間の大規模な区分,政治的区分のいずれの観点から見るにせよ,人々全体に言及する包括的なものです。(啓 7:9; 11:9; 13:7; 14:6)さらにフュレーは啓示 1章7節の「地のすべての部族」という表現の中にも出て来ますが,これは地上のすべての民を表わしているようです。同じ節に,「すべての目は彼を見るであろう」とも述べられているからです。―マタ 24:30と比較。

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