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潔めを保ち守るものみの塔 1954 | 7月15日
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の聖霊でもつて彼らに油を注ぎ,彼らを彼の聖い神聖な奉仕だけに従事させ,聖別して,そして彼の真理の言葉によつて,彼らを導きます。そうです,しかし各人の生涯にあつて,最初に真理はどのように人々のところにきますか? ヱホバ神が降りてきて,彼らと一緒に坐り,彼らにその言葉を教えるなどということは全くありえません。またキリスト・イエスもそうされないでしよう。なぜならば彼は天の王だからです。使徒パウロは,テサロニケの同じ会衆に手紙を書き,潔めをする真理がどのように人のところに来るかを示しています。というのは,パウロはテサロニケにいた人たちに真理がどのように来たかを思い起して,このように言つているからです。『神は,御霊とあなた方の真理に対する信仰によつて,初めから救いのためにあなた方を選ばれたのである。私たちが宣べつたえる良い音信によつて,神はあなた方をこの運命に召されたのである。……それで兄弟たちよ,かたく立ちなさい。』― テサロニケ後 2:13-15,新世。
22 潔めをするにあつて,クリスチャンの宣教のする役目を示しなさい。
22 パウロが,テサロニケの人々に良い音信を宣べ伝えましたので,テサロニケの人々は神の真理の言葉に接し,そして信じて信仰を置き,その結果に神によつて選ばれ,潔められて救われるようになつたと考え理解すべきでしようか? そうです,全くその通りです! そのことは,クリスチャンの時代でもそうでありましたが,今日でもそうです。人々は,神との間に,彼への潔めまたは献身のこの祝福された関係に入りますが,それは,彼らよりも前にそのような関係に入つた他のクリスチャン奉仕者たちが,彼らのところに神の言葉の音信をもたらし,彼らに聖書の真理を伝道したからであり,そして彼らが聞いてそれに答え応じたからです。『私はキリスト・イエスの公けの僕となり,諸国民に仕え,神の良いたよりの聖なる仕事に従事する。それは献げもの,すなわちこれらの諸国民が神によつてうけ入れられると証明され,聖霊によつて潔められるためである。』― ロマ 15:16,新世。
23 霊的な兄弟で『年上』と『年下』の今日の関係を説明しなさい。
23 霊的に言うならば,パウロは彼らの兄であり,彼らはテサロニケにあつて弟たちでした,というのはパウロから彼らは神の言葉のこの音信をうけ取つたからです。そのクリスチャンの型は変つていません。それは,今日でも同じです。1914年に御国が設立し,1918年に主が裁きのために宮に来てから,そしてまた1920年以来に神の設立されている御国についての音信が地のいたるところで熱心に宣べ伝えられてから,ヱホバを崇拝する人々の数は今日まで増大し,いまでは143の国々や土地で,幾十万という人々になつています。それらの人々は,ちようどテサロニケの人々が,使徒パウロの伝道に答え応じたように,彼らよりも霊的に『年上の』奉仕者たちの伝道に答え応じたのです。永年のあいだヱホバの大義を擁護している奉仕者たちは,いまでも神の奉仕に熱心で積極的です。御国が1914年に設立される以前に良いたよりの奉仕者であつた者のうち,ある奉仕者は,いまでも強くなりつつあります。それらの多くの奉仕者は,現代のキリスト教聖書教育の仕事に従事しており,1919年に始まつている,現在の増加する繁栄をずつと経験しているものです。神のこれらの忠実な僕たちは,多くの伝道をしています,そして年月がたつにつれて,他の者たちも彼らに加わり,そうして業は増大します。地上にあつて,いま約2万人の人は残つている人たち,すなわち神の潔められたキリストの体の残れる者たちということを示しています。その数は,1954年の記念の象徴をいただいた数から示されています。
24 何ののなかに,私たちは,私たちの『年上の兄弟』を認めますか?
24 最近に,私たちは,聖書の真理で目が開いて,ヱホバのすばらしさを見ますが,これら年上の兄のような奉仕者たちは,使徒パウロがテサロニケの会衆に対して持つたのと似ている関係を私たちに対してもつているということを認めます。さらに,そしてもつと重要なことですが,その油注がれた残れる者の制度を,一人の愛ある年上の兄弟として認めます。そして,もし私たちがいま神に献身しているならば,私たちが救いに選ばれ,真理に信仰を持つている理由は,この『年上の兄弟』が良いたよりを私たちに伝道したからであると知ります。しかしながら,最も重要なものとして,私たちはみな真に一番年上の兄弟,キリストイエスの過去と現在の宣教を認めます。私たちは,このことをよろこんで認め,すべての感謝と讃美をイエス・キリストを通じてヱホバ神に捧げます。
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みな『かたく立ちなさい』ものみの塔 1954 | 7月15日
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みな『かたく立ちなさい』
『それであるから,私の愛し慕つており,私のよろこび,また私の冠りである
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