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  • 『贖いによる解放』
    ものみの塔 1954 | 6月15日
    • を立証する神の御目的の一部であります。これは,何故神がイエス・キリストによつて贖いの価を支払うことを取り極められたかを理解する助けとなります。何故ならそれを通じて,核心となる人々がハルマゲドン後の『新しい地』に参与する資格を付けることが出来,そして彼らが子供を生んで,神の道に従つて子供等を薫陶することが出来るからです『すべての種類の人々に救いをもたらす神の溢れる御親切は既に現わされて,それは,不敬虔と世の慾とを捨てて,この現在の組織制度の真只中で健全な心と正義と敬虔を以て生活することを教え,同時に幸福な希望と偉大な神と私達の救主キリスト・イエスとの栄光ある顕現とを待ち望ませるものである。彼は私達のために御自身を与えられたが,それは贖いによつてすべての不法から私達を解放し,善い業に熱心な彼御自身の特有の民を彼のために潔めるためである』― テトス 2:11-14,新世。

      28 イエス・キリストのどんな出現が,祝福と艱難の両方の時となるでしようか? そして今すべての人はどんな調べをしなければなりませんか?

      28 ハルマゲドンにおける神と御子イエス・キリストの次回の顕著な表明は,イエス・キリストの贖いの功績に適わしい資格をつけぬ人々には,喜ばしい事ではないでしよう。その表明はヱホバの側の正しい行為でありましよう。何故なら,『主イエスがその能力ある御使たちと共に,燃える火の中に,天から現われ給う時,あなた方に苦難を与える者らに苦難を以て報い,苦難を受けるあなた方には私達と共に安息を以て報いて下さるのは,神の正義であるからである。その時主イエスは,神を知らぬ者らと私達の主イエスについての善い音信に従わぬ者らに正当な刑罰を与え給う。これらの者らは,主の御前から,主の力の栄光から離れて,永遠の滅亡という処罰を受けるであろう。その時,その日に,主はその聖い者らによつてほめたたえられ,信ずるすべての者によつて驚異を以て敬われるために来られる。何故ならば私達が与えた証言はあなた方の間で信ぜられたからである』(テサロニケ後 1:6-10,新世)神はすべての人々を救わなければならぬ,という教えによつて眠りに引き込まされないようにしなさい。神はそのようなことをしないでしよう! しかし神は,神が定められた条件に基いて贖いを受け入れる『すべての種類の人々』のために贖いを有効にされます。あなたがそれらの条件に適合するかどうか調べなさい。何故なら,それはあなたの生命を意味するからです。

  • 金持ちとラザロ
    ものみの塔 1954 | 6月15日
    • 金持ちとラザロ

      譬話しですか? それとも実際の話しですか?

      キリスト教国にある非常に多くの宗派は,火の燃える地獄で永久に苦しむことこそ,悪い者の運命であると信じています。金持ちとラザロについてイエスは話しをしましたが,その言葉はルカ伝 16章19-31節に書かれています。そして,これは地獄の火のくるしみという教えを支持する証拠の一つであると,キリスト教国の人は言い,このイエスの言葉は,一つの出来事を語つており,実際に行われたことについての話しであると主張しています。この考え方をしている一人の人は,冊子を出版してこういいます『主イエスが金持ちとラザロの物語りを話すのを聞いたすべての人は,次のことを当然に考えたとは思いませんか? すなわち,幸福に死のうと,禍いの中に死のうと,死んだ後に,人は意識を持つたまま存在し続けるということをイエスは教えられようとしたのである。』

      論議のために,かりにイエスの言葉を聴いた者たちが,それは実際の出来事であつたと考えたのだと仮定しても,そのことはその考えを証明するどころか,全然反対のことを証明しているのです。どうしてそうですか? イエスが譬話しで話しをした理由は,人々が理解するためですか? いいえ,人々が理解することのできないためであると,イエスは明白に語つておられます。次のイエスの言葉に注意してごらんなさい『あなたがた(弟子たち)には,神の御国の聖なる秘義を理解するよう許されている。しかし,他の残りの者たちには,譬話しが与えられるであろう。それは,彼らが見ても,見ることができず,聞いても意味を得ることができないためである。』(ルカ 8:10,新世)イエスの言葉を聴いた者が,その譬話しからどんな意味を得たにせよ,それは必らず間違つたものであるということは明白です。

      これは譬話しであるとイエスは多く言つてはいないという理由で,ある人は更に反対いたします。どの度ごとにも,これは譬話しであるとイエスは言わねばなりませんか? それに,『譬話しを用いなければ,彼は彼らに話そうとはしなかつた。』とはつきり書かれてはいませんか?(マタイ 13:34,新世)名前が言われていたとしても,それは譬話であることには間違いありません。その話しを文字通りにとることは,理性と常識を全く無視し,神の言葉の他の残りの部分

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