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謙遜の衣服を身につけなさいものみの塔 1954 | 2月15日
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謙遜は,自分について高ぶつた考えを持つ事,他人の前に自分を誇張することを許しません。又自分が或いは妬ましく思う人,又は蔑すんでいる人を軽んずることを許しません。私達がどんなに自分達の教養や,功績に得意になり,熱心になろうとも,謙遜は自分を人目につかせないように良く服従します。威張つたり,自慢したりする傾向を制します。それは,牧師の間に通常みられる,空々しい信心とか,神聖ぶつた態度とか,謙遜を真似たりさせません。―コロサイ 2:18,23。
謙遜は,私達に父母又真理に入つている兄弟,姉妹に対し,又クリスチャンの制度全部に対する尊敬を教えます。それは,国家,人種,有色人種の区別による誇から離れさせます。分裂ということは考えるべきではありません。『神は唯一人の人からすべての民族を造り,地の全面に住ましめ,それぞれの時代と彼らの住居の境界を定めて居られる。これは人々が神を求めるように,また神を探しさえすれば,きつと見出せるようにするためである。』と謙遜は人に教えています。(使行 17:26,27,口語)
謙遜は,謙つたクリスチャンに,これらの真理はヱホバ神に属しているのであり,また,僕は単にヱホバが産出する果物を結ぶにすぎない,と言う事を教えます。それは神の意志は正当であり,実際的であり,正しいと助言します。へりくだつた者は,神に対する献身と熱心を意識します。そして,彼等は熱心に,神より与えられた責任について判断します。彼等は罪を犯すに遅く,宥すことには早いです。おろかなものは誇つたり,又高ぶります。けれども賢いもののみがへりくだる事が出来ます。誇るものは,頑固で,脆く,容易に挫けます。へりくだるものは温順で,脆くもなく,忠実という点で屈強で挫けない者であります。
謙遜は他のものとの関係に於て,自分はとるに足らない者である事を認識させます。それは人に謙遜な考え方を身につけさせ,他人を自分より優れているとして尊重します。それは『召出された召命にふさわしく,生活し事毎に謙遜と柔和とを用い,忍耐づよく,互いに愛をもつて忍びあい,平和の神に結ばれて,みたまから来る一致を熱心に守りなさい。』(エペソ 4:1-3)という使徒の助言に留意させます。姦淫あらゆる不潔,貪慾を行うことは決して許されません。『淫行や馬鹿話や猥談は宜しくない。そんなことをせずに,感謝の祈りをしなさい。』― エペソ 5:3,4,口語。
謙遜は,自分又は人を信頼することから離れさせます。しかし私達に次のことは賢いことであると教えます。『汝心を尽してヱホバに依頼め,おのれの聰明に依ることなかれ,汝すべての途にてヱホバをみとめよ。さらば,なんじの途を直くしたもうべし。』(箴 3:5,6)それは悪魔サタンは傲慢の父であり,みだれの神であることを教えます。このサタンこそ自分を,実際の地位より高いものと思つたものです。彼は賤しめられましたが,更にヱホバ神によつて,もつと賤しめられるでしよう。彼は全く滅ぼされるでしよう。謙遜は私達が神に認められようとする時,謙遜らなければならない事を教えます。『神は傲慢な者に反対し,謙遜な者に恵みを与えられる。主の御前に謙遜りなさい。そうすれば神はあなた方を高くしてくださるであろう。』― ヤコブ 4:6,10,口語。
謙遜は『悪しきものをころさん。義しき人をにくむものは刑わるべし』(詩 34:21)をよく理解させます。それは,他人から正義を要求されるのでなく,自分がヱホバの前に柔順に歩み,又常に出来るかぎりの正義と慈悲を与えるのに役立ちます。それは町に立つて通行人に招待ビラを配り,雑誌を提供するのを援助します。それは本を持つて家から家へと伝道し,再訪問し,聖書の勉強を始めることを援助します。演壇に立つて,講演したり,また会衆で忠実に奉仕するのを援助します。
神の聖名と,御国を世界に宣明する時,その制度の働きのために働く時,もつと謙遜であることが要求されます。これがヱホバ御自身が定められた衣です。その衣を身につけなさい。『謙りて,汝の神と偕に歩め』(ミカ 6:8。)
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共産主義者の悪に非難を浴せるものみの塔 1954 | 2月15日
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共産主義者の悪に非難を浴せる
国際共産主義の種を播くのを助けたかということに関して面白い論評が為されて居ります。その論評は,1952年12月26日,エディンバラ(スコットランド)の夕刊報道に出た次の記事です。
「原子武器の脅しで,私達はロシヤを敗かし取るかも知れない。しかし,彼等と行う世界のクリスチャンの戦いで私達は勝つことが出来ない。そして今,私達の前にあるのは此の戦いである。人類家族の3分の2である空腹な,衣服のみすぼらしい,病いに苦しむ隣りの国民に対して,私達が心でしようと思ったものこそ真実なものである。私達は,その態度・意志・欲望・気遣い,そして心遣いによつて裁かれた。』
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彼等はヱホバの御国の栄光を語るものみの塔 1954 | 3月1日
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それに就いては,疑問がありません。その制度の力を私達は今見て居りますが,しかしそれは新しい世の社会に現在属している51万228の讃美者のためだからではありません。いいえ,その力は数にあるのではありません。制度は,数に於いて大きいですが,此等の人員が得る力,後押し,そして支持は,ヱホバの聖霊であります。あなた方各自はその力,その活動力を感じます。何故ならばあなたはヱホバの制度に来たからです。ヱホバの恩恵は,その証者達に見られます。ヱホバの任命された牧羊者 ― 君主,すなわちキリスト・イエスの下にあつて,彼等は皆奉仕に励みます。
24 何故私達は他の者を招待して,共にヱホバの聖名を崇めるのですか? ヱホバの御国の栄光のどんな最近の表われについて,私達は語り続けていますか?
24 家から家への証言の業をしている此等何十万という讃美者達は,此の地上到るところで毎日毎夜他の人々をよろこんで招待し,ヱホバの御名を共に崇めるようにして居ります。私達は人々にヱホバの御名を崇めるようすすめますが,それは,その人々がただ『ヱホバの証者』と言われてもらいたいからという理由ではありません。此の地上のいたるところ,いろいろの宗教制度はその成員を得るために,そうして居りますが,私達は違います。私達が人々に,ヱホバの御名を崇めるようすすめている理由は,全能の神の真の崇拝を押し進め,そしてヱホバとヱホバの御名を隠さずに,崇めることを欲する奉仕者を,私達はもとめるからです。このような奉仕者は,口で語る奉仕者です。すべての善意者が,ヱホバの御国の栄光を認識して,彼等のために貯えられているすべての祝福を御国から得るよう私達は欲します。また彼等がヱホバ神に捧げる真の崇拝の中に,それら善意者がヱホバの御国の栄光を反映するよう私達は欲します。彼等が,『如何なる時もヱホバを讃め,そしてヱホバの御国の栄光について世に証しをするのを私達は見たく思います。1953年7月19-26日ヤンキー野球場でヱホバの証者のの新世社会の大会の間,私達はその栄光を見ることが出来ました。地上のあらゆる国民,種族,言語,そして家族から人々は出席しましたが,皆一つの心と精神そしてヱホバ神への一つの愛を持つて居たのを,あなたは見ることが出来ました。それは素晴らしい御馳走でした。若しあなたがそこに居られたならば,あなたはそれを楽しみ,他の人達に御国のことを語つたでしよう。そしてヱホバの恵みある御親切により,あなたは語り続けるでありましよう。
25 大会の時,ヱホバの証者達の中に,何が見られましたので,人々は新しい世の社会に集まつて来ましたか?
25 若しあなたが其処に居なかつたならば,新しい世の社会としてヱホバの証者の中に,他の人達は何を見ましたか? その群の持つ平和,平静,親しい雰囲気,愛,誠実そして一致ではありませんでしたか? 若しそうでしたならば,ヱホバの正しい牧羊者,キリスト・イエスによつて彼の新しい世の社会に,何故あなたは集められようとしないのですか? 若しあなたの心が正しいならば,あなたは次の待招に答え応ずるでしよう。『われとともにヱホバを崇めよ。我等とともに,その御名をあげたたえん。』― 詩 34:3。
26-32 大会に出席したヱホバの証者達について,多くの新聞報道や,論評や,そして社説は何と言いましたか?
26 何千という新聞の報告や論評や社説のうち二,三のものを読んでごらんなさい。次の様です。
27 『此の週末に,彼等は全世界から何万名もニュー・ヨーク市に集りつつある。……彼等はヱホバの証者と呼ばれ,各人は……単に名前だけの福音奉仕者ではなく,行いに於いても福音奉仕者である。彼等の大部分の者は,此の世の仕事をすることに依つて生活しているが,彼等は残りの時間を霊的な仕事に捧げている。すなわち,家庭を訪問したり,街頭で伝道したり,文書を配布する事実である。』― 1953年7月18日,19日広く発行された共同新聞の記事より。
28 『ヱホバの証者は,「神の真理の言葉」として聖書に強い信仰を持つている。……しかしながら,彼等の活動は尊敬に値するものである。宗教は人類に対して失敗したかどうかと多く述べられた疑問に対して,彼等の献身は解答を示すものである。勿論,宗教は失敗しなかつたのであるが,人類は真の宗教の理想を見出すのに,しばしば失敗したようである。』― 1953年7月20日,パターサン(ニュージャーシー州)朝の訪問紙<モーニングコール>の社説より。
29 『ヱホバの証者が去つてしまうと,全く淋しく感ずる。彼等は,国の中で一番良い人々のようである。礼儀正しく,丁寧で,そして我々大部分の者が近頃全く顧り見ないような他の事柄に就いても非常に良い。……彼等は非常に礼儀正しい人々である。我々はホテルに居る時に礼儀正しく振舞うが,彼等は自動車を運転している時でも,それと同じ程に礼儀正しい。それは注目に価する素晴らしいことである。』― 1953年7月23日,ドネレン(ニュージャーシー州)週の訪問
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