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今日の洗礼の意味ものみの塔 1954 | 7月1日
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ているのだろうか?』 そして当時において,教育をうけた級の者は,ペテロとヨハネの大胆なのを不思議に思いました。なぜならば,ペテロもヨハネも学問がなく,普通の人だつたからです。学問がなくても,そんなことにかかわりなく彼らは良いたよりを伝道し続けました。そして,彼らだけでなく,初期のすべてのクリスチャンたちは伝道しました。(ヨハネ 7:15。使行 4:13; 8:4,新世)夜や週末に,家庭で研究したり,また『ものみの塔協会』の指示のもとに取り極められたいろいろな聖書研究に出席することにより,人は伝道するよう正しく備えをうけることができます。
それですから,神学校でもらう証書は,宣教についての必要物ではないということが判ります。ある人が奉仕者であるということを知る最もよい証拠は,パウロが推薦状として指摘したものと同じです。すなわち,その人の努力により,自らをヱホバ神に献身する各個人のことです。―コリント後 3:1-3。
一度自らを神に献身し,それを水による洗礼によつて象徴してからは,その事実を決して忘れてはなりません,というのは誓つてから,その誓いを果さないよりは,むしろ誓いをしない方が良いでしよう。(伝道之書 5:5)神の御意を行うのに同意したということをイエスは常に意識していました。そして,神の御意を,彼の飲む杯とし,また彼が受け,かつ受けねばならない洗礼として語りました。(マタイ 20:22,23。ルカ 12:5)ただ神に忠実を保ち,神の民である新しい世の社会と共に交ることによつて,来るべきハルマゲドンの戦いでのこの悪い世の亡びに,私たちは生き残るという希望を持つことができるのです。そして,ノアとその家族が,大洪水の後に,新しい世に入つたように,私たちは正義の新しい世に入る希望を持つことができるのです。―マタイ 24:37-39。ペテロ後 3:7,13。黙示 16:14,16。
まとめて簡単に言うならば,こうです。ヨハネの洗礼は,後悔を表わすものでした。クリスチャンが水で洗礼をうけることは,神の御意を行うという献身を表わすものです。完全な浸水こそ,水による洗礼です。その洗礼は,献身を正しく表わし,人の献身を公やけに言い表わすということと,任命の儀式の両方を兼ね果します。ヱホバ神の奉仕者になるのに,神学校の訓練や証書は必要ではありません。忠実を保つことにより,私たちはこの悪い組織制度の亡びに生き残り,新しい世の社会の成員として正義の新しい世に入る希望を持つことができます。
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大会の祝福ものみの塔 1954 | 7月1日
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大会の祝福
1954年ヱホバの証者の年鑑の報告より
西インド諸島のバハマ群島
聖書研究をしていた一人の白人は,大会に行つて,『ヱホバの証者の持つているものは何か』を見ようと思いました。大会の中で,ナサウにある二つの分会が経験と感想の特別な集会を行いましたが,その時にその白人は次のようなことを言いました。その生涯のあいだ,その人は一つの制度をさがしていました。その制度には愛と一致があり,階級差別がなく,すべての人が平等であるようなものです。そしていま,その制度を見出しました。ヱホバの証者です! もつとも心を打たれたのは,その人にたいする兄弟たちの態度です。兄弟たちは,その人の身分とか地位をたづねず,その人が,兄弟たちの血を分けた家族の一員のものであるように見なして関心を示しました。誰のそばにでも坐つて,話しをすることができます。そして人々は,もうずつとその人のことを知つているかのように,気持よく話しました。その人は,インド,英国,カナダ,ドイツ,そして多くの他の場所から來た兄弟たちと話しました。そして,英語を話せない兄弟たちであつても,同じあたたかい兄弟愛の気持ちをその人に示しました。そんなにも感激しましたので,その人はいまでもそのことを語つています。なにも時折りに語るということではなく,定規的な家から家への伝道の活動の時にも語つています。というのは,その人は帰るとまもなく家から家への伝道を始めたからです。
デンマーク
巡回大会は,私たちを助けて増加させるのに重大な役割りを果します。ある一つの大会のとき,その巡回内にいるすべての兄弟姉妹が,最初の集会に出席しました。その前の6ヶ月のあいだに,巡回の僕は巡回大会は3日間の大会であつて,1日や2日ではないと強調しておきました。それで,兄弟たちは良くそのことを心にとめて,十分に準備して來ました。大会の行われた小さな町で,それはすばらしい証言をいたしました。
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