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『ヱホバはその聖き宮にいます』ものみの塔 1956 | 4月1日
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つかりと従うことであります。(エレミヤ 31:31-34)私たちがこのことをするなら,私たちは『異邦人を推し枉げてはおらず』自分自身のごとく異邦人を愛していることになります。それで,聖き宮に在すヱホバは,ハルマゲドンの時にも,私たちに速やかな反対の証を立てないでしよう。ヱホバが,火のごとき強烈な審判で私たちを亡すということはありません。むしろ,私たちを是認し,私たちを救つてハルマゲドンを生き残らせ,新しい世に導き入れて,よろこびに充ちるヱホバの崇拝を続けさせるでしよう。
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その19 第二次世界大戦中 中立を保つアメリカのクリスチヤンたちものみの塔 1956 | 4月1日
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ヱホバの證者の近代歴史
その19 第二次世界大戦中 中立を保つアメリカのクリスチヤンたち
前の号では,第二次世界大戦中,世界各地にいたヱホバの証者の興味あるできごとについて述べましたが,同期間中アメリカ合衆国の証者たちには,どんなことが起きていたでしようか? 彼らも,亦,戦時中の動揺した人類の海の中にあつて中立を保ちつづけました。このことはとりもなおさず,アメリカの証者が近代歴史の記録上で一番ひどいクリスチャン迫害の一つを経験したことを意味します。1933年から,ものみの塔協会は逮捕件数の記録をとり始めましたが,1951年までには,1万8886人の証者が検挙されています。そして兵役関係による迫害はなおもつづいています。これは,民主主義を唱え,自由の擁護者と云われる国で行われたことですから,ほとんど信じ得ないくらいです。
さらに,合衆国のいたるところで,証者に累を及ぼした暴動事件は,少くとも1500あります。前に指摘したように,1940年6月3日に,合衆国の最高裁判所は,ゴバイチス国旗敬礼事件で協会に不利の判定を下しました。これによつて,証者に反対する興論は湧き立つような激しいものになりました。これによつて,ヱホバの民すべてが ― 男女,子供,成人が ― この試練期間を耐え,しかも家から家や街頭伝道を同じように継続するには,強固なクリスチャン忍耐と信仰とが要求されました。丁度,ドイツとか他の国々でも示されたように,ヱホバへの絶対の信仰は,結局には,迫害を打ち負しました。
3年ののちに(1943年)国旗敬礼事件は再び合衆国最高裁判所に提出されています。1940年の法廷の判決に対する興論のありさまは,9名の最高判事に宛てた協会の訴訟事実要領書のうちに示されています。
『1940年,6月3日に,ゴバイチスの「不利」判定の発表直後に,証者に反対する新聞宣伝や偽りの噂話は,全国的に証者の敵により開始された。証者はおのれの良心にもとずいて,どんな国の国旗にも,またアメリカの国旗にも敬礼しないからという理由で,証者が「国旗や政府に反する者」であると彼らは不当にも非難する。その判定は乾燥した草原に火を点じたような結果を招いた。証者に好感をもたぬ新聞宣伝で生じた偏見は,公然とした暴行をよんだ。ヱホバの証者を攻撃する暴動事件は,ただちに増大していつた。2年間以上も,この国の宗教分子や「所謂」愛国分子などの数千の団体は,法律や理性に基かない手段に訴えて,幾千というヱホバの証者の男女,子供たちを攻撃するよう,人々をあやつつてきた。彼らは,証者の財産を破壊し家からも追い出した。証者の家を,崇拝の場所を,家具を,書籍を,金をも焼いて行つた。証者の群を縛つて,無理にヒマシ油を喉に注ぎ込んだ。彼らは,各地において,暑いほこりの道路や鉄道敷地に沿つて,獣を追うように証者を狩り集めて行つた。また証者を縛つて,首のまわりに綱をつけ町の目抜き通りをひつぱつて行つた。彼らは,その他無数の暴行とか,邪行を,何らの理由なく証者に加え,しかも法律から何らの干渉をうけずに,今日に至るまで,その行為を継続してきた。著名な宗教家の影響をうけた官憲は,ヱホバの証者の個人宅に侵入し,人を逮捕し,彼らを一州から他の州へと連れ去り,また個人宅での聖書研究集会を中断した。数千の子供たちも学校から追い出され,数多くのものは不良として起訴され,多数に有罪判定が下され,両親からは命令により引き離された。幾百人という親たちは,彼らの子供たちの不良性とか,ずる休みを援助した罪を問われて起訴され,多数のものは有罪とされた ― これら凡ては,親たちが子供に聖書を教え,そして子供たちは謙遜な気持の中に神の誡命に従つたために,おきたことである。』(上訴者の実情書)
1940年,6月16日に,合衆国の司法次官,フランシス,ビイドルは,全米に及ぶラヂオの放送で,当時高まつていた暴動気運を静めるため,次のような
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