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日本に於ける伝道ものみの塔 1956 | 3月15日
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者は,『伝道も,聖書研究も,集会も止めなさい。仏教信者と結婚して,主婦になり,子供を育てなさい。』と,一家を切り回しているおばあさんから云われました。でも,妥協ということはありません! 夜遅く,その姉妹は身の廻り品だけを持たされて,家から追い出されました。しかし,いまでは,友人の家に住み,5ヶ月も開拓者をして来て,會つてない程の幸福感を味つています。自宅で自活するために洋裁しながら開拓者をしていた別の姉妹は,伝道を止めるか,家を出るか,どつちかにしなさい,と両親に云われました。それでその姉妹は,自分の家を出て,別の伝道者の家の間借りをし,今までよりもずつと万事が具合良く行くようになりました。今度は,その弟が研究を始めました。弟も,家から出なさいと云われました。ところが,これで挫けるどころか,信仰は強くなり,今ではバプテスマをうけた伝道者です。
日本の特別開拓者は,新しい都市を開拓してすばらしい結果を収めています。4人の子供を抱えているつんぼの一未亡人は,自宅で内職をしながら貧しい生活をしていました。正しい生活をしたいと思い,教会に行きましたが,なにしろつんぼであるため,何も分らずそれに誰も教えてくれなかつたのです。家から家に伝道していた特別開拓者は,その未亡人のところで冊子を1冊配布しました。それから聖書研究が始まりました。非常に貧亡でしたが,その未亡人は毎週寄附をしては,冊子や,本や,雑誌を求めたのです。その熱心に動かされて,特別開拓者は聖書の贈物をあげました。感謝の手紙を未亡人から受けとつた開拓者は,ひどく感激してしまいました。というのは,その未亡人が聖書研究を始めてからは朝食を食べず,その朝食分のお金を聖書文書にあてがつたということが分つたからです。朝食を食べなくても,前よりも元気に仕事をすることができ,研究の続けられるのを楽しみにしています。霊的な食物を得ようとするその熱心は,かならずやヱホバをよろこばせるにちがいありません。
ふたりの宣教者は,両側がちつぽけな商店でぎつしり立ちつめられている狭いゴミゴミした街路を伝道していました。一番奥のところから始めて,だんだん入り口の方に戻つてきました。毎日,たくさんの予約が取れて,この一つの街路だけで約40の予約が得られました。一番最後のマーケットのところは,いつも忙しそうだつたので,つい伝道せず,後日することにしました。ついに,宣教者が店の中に行くと,主婦はいそいそと宣教者を招じ入れ,2階にいる主人に下りて来るよう呼びました。『毎日,あなたの通られるお姿をお見かけしていて,いつたい何時手前のところにいらつしやるか,と思つていました。』と主人は云いました。そして,すぐに予約をし,研究の取極めもして,次の日曜日から『ものみの塔』の研究に出席しました。
宣教者のすすめ,『お店にも必らず伝道せよ。』
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その18 第二次世界大戦中,英領聯邦国家において中立を保つクリスチャンものみの塔 1956 | 3月15日
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ヱホバの證者の近代歴史
その18 第二次世界大戦中,英領聯邦国家において中立を保つクリスチャン
『イギリスの戦闘』において ― また,あの物凄い空襲の試煉中に ― 当時イギリスにあつたヱホバの証者,1万2000余名のうち,約12名程のものが生命を失いました。しかし,ナチの空からの『電撃』により,沢山の証者は負傷を蒙り,彼らの家や御国会館を失いました。しかしながらそれら証者は,生ける神,ヱホバを崇拝する道をまつしぐらに歩みつづけたのです。彼らは家から家の伝道を少しもゆるめませんでした。夜間空襲の危険をさけて,会衆の集会は,日曜の午後へと変更されましたが,規則正しく開かれていました。当時の戦時中にもかかわらず,伝道活動は継続され,拡大されており,それにより数千の善意者は大いなる慰めを得,心に希望の光を点ずることができました。平時と少しも変らず,盛大な地区大会も全く計画どおりに開かれ,ある集会などは,実際の空襲中にもひらかれた程です。マンチェスター市における1940年のヱホバの証者の国家大会が終了して直後,同市の大フリー・トレイド会館は一夜の空襲で灰燼に帰してしまいました。最も驚嘆させられるのは,1941年9月3-7日まで,レイセスターで開かれた大会でしよう。このとき1万2000名の証者は5日間も集つて,この白熱した戦時中に,神権のご馳走に与つていました。彼らは,悪意をもつ支配者にかこまれ,どの行動をとるにしても,山のような障害をのりこえて行かねばなりませんでした。このような尨大な人数が集ることは ― 食事,宿舎,乗物の点から云つて
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