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    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 10/15 628–631ページ

一生の目的を追い求める

シルビア・ルニンの経験談

私には人生というものがひどく空虚なものに思えました。四六時中自分のことだけ考えていることがとても空しいものに思われました。私は,このような生活の仕方になにか欠点があることに気づいてはいましたが,他に何があったでしょうか。「空の空なるかなすべて空なり」という考えがいつも心から離れませんでした。

そうした1933年のある日,ひとりの再臨派の信者が,ルイジアナ州バットンルージュの私の家にやってきました。聖書に記録されている預言の成就について彼の語ったことは私の興味をそそりました。その人が私に見せてくれた本を買うお金はありませんでしたが,彼が帰ったあとで読めるように,彼の示す聖句を一つでも暗記することにしました。私の心に残ったのは,マタイ伝 24章でした。彼が帰るや否や聖書を出してきてそこを読みました。それは驚くべきことでした。この章が,いまの時代のことについて述べており,また私たちが終りの時代に住んでいるということをはっきり悟ることができました。そして,出かけて行ってこのことを人々に知らせるべきだと考えました。しかし,それ以後は,再臨派の人々に接することもなく,そうした考えもいそがしい生活にまぎれてなくなってしまいました。

それから6ヵ月もたって,他の人が聖書の話をしに私の家にやってきました。この度はエホバの証者でした。でもエホバとかエホバの証者とかについては聞いたこともなかったので,それは私にとって大した意味はありませんでした。それより重要なことは,彼女が私のほしいと思っていた聖書に関する書籍をもっていたことでした。私はそれを求めました。

新しい生活

それから私はその本を読むためにすわりこみました。つぎの2週間というものは,ほかの仕事をろくにしなかったようにおぼえています。私はそれを読んで感動しました。心がいっぱいになりました。まるで,のどがかわいて死にかけていたとき清い,満足な水にありついたようでした。もはや人生は空虚なものに見えなくなりました。真実のもの,すがれるものがあったのです。私の心は喜びで高なりました。

6週間後には,私は実際に他の人に伝道していました。そしてその日から今日に至るまで,私にとって聖書の真理は常にすばらしいものでした。それは,ほんとうに私の骨の中で燃える火のようになりました。そして,心をつくし精神をつくし,からだをささげてエホバ神に奉仕することが私の人生の目標となりました。

それは容易なことではありませんでした。主人は私に同調してくれず,私の方針に反対しはじめましたが,主人が反対すればするほど私の中の火はますます強くなり,エホバへの奉仕にますます熱心に働きました。主人をいつも恐れていましたが,いまは人間よりも神を恐れていることをエホバに対して証明しなければならないと思いました。帰宅してから起こるかも知れぬことにおびえながら伝道に出かけたことが何回もありました。私が伝道した良いたよりと,当時奉仕に使用されていた蓄音機のレコードに吹きこまれていた音信は,私が伝道した人々に対するのと同じほど,私自信の信仰を新たにし,強くしてくれました。

私がエホバの民と一緒に出席した最初の大きな大会は,1938年にルイジアナ州ニューオルリーンズで開かれたものでした。ニューオルリーンズの警察長マックナマラが,部下に「事実に直面せよ」という聖書の話を私たちに聞かすために準備された電話中継を切れ,それをじゃまする者があれば射殺せよと命令したというのを聞かされた時私もそこにいました。それは緊張のいっしゅんでした。人々はのちに,「事実に直面せよ」というその話のレコードを得て,多くの家でかけましたが,私もその中のひとりでした。

御国奉仕で心の悩みを克服

1940年がやってきました。これはむずかしい決定を下さねばならぬ年でした。アメリカ最高裁判所が国旗敬礼問題で私たちに不利な裁定を下したのもこの年で,その結果迫害が非常に激しくなりました。また,私が,エホバの証者であるがゆえにむすこ ― 当時12歳 ― の母親としての資格がないとある裁判官から言い渡されたのもこの年でした。夫の姦淫を理由に ― 夫はそれを認めた ― 離婚訴訟を起こしたのですが,子どもを持つ資格なしと宣告されたのは私の方でした。全く驚きました。しかし,信仰のこの試錬にもかかわらず,神への崇拝をかたく保持したという満足感にあふれていました。私は,自分の努力がすべて奉仕についやされるように開拓奉仕を志願しました。この奉仕こそ最も重要なものであることを知っていたからです。

つらいことがしばしばありました。それは私個人の苦しみの時悩みの時でした。むすこに会って,二,三分でも一緒にいれることを希望しながら朝は学校のそばで待ち,夜はそのあたりの劇場をさがしまわりました。それは死ぬ思いでしたが,一方ではエホバへの全時間奉仕をしている喜びがありました。私はこれを何年間待ち望んだことでしょう。私の生涯の目的はすべてをささげてエホバに奉仕することでした。いまその望みはかなえられました。子どもへの愛着のためにそれを捨てるべきでしょうか。もちろん,夫のもとに帰れば子どもを取り戻すことはできました。しかしそうすれば,エホバへの崇拝を捨てなければなりません。それは私にはできませんでした。私は神に献身のちかいをしたのです。何ものにもその献身を破らすことはできません。どんなことが起ころうとこの決心を変えまいとかたくかたく決意しました。体と神経がいまにも衰弱しそうなのを感じましたが,心をエホバに集中させ,奉仕で忙しくしていることによって,きずも徐々にいえはじめました。

つぎの3年間は,バットンルージュで開拓をしたので,むすことかなりの時間をともにすごすことができました。禁止されてはいましたが,むすこに聖書の真理を教える努力もつづけました。そのうちにバーバラ・スリープとチームになって,任命された地域の人々に良いたよりをもたらす仕事を一生懸命に行い,また大会に出席したりして楽しい時を過ごしました。

ノア兄弟が,ある兄弟たちは,外国で宣教するための訓練を受けるだろうと話したのは,1942年夏の全国大会の時でした。「なんてすばらしいのでしょう。でもきっと姉妹には適用されないのだろう」と私は思いました。その大会で,私の心に深い印象を与えたのはもう一つのノア兄弟の話でした。ハルマゲドンまえにくる信仰の試みについて話すに当りノア兄弟は,その試みは忍耐の試みであろうと述べました。それ以後何年間,何回も何回もそのことを考えました。足をひきずって歩いても歩いても,来る日も来る日も会うのは反対と無関心ばかりで,「主よ,いつまでこうでしょうか」といぶかる時,いつもこの言葉が心に浮びました。そして,私の信仰の試みこそ考慮すべき現実の事がらであることを思い出すのが常でした。人々が聞かないのがいったいなんだというのだ。人々がドアをぴしゃりと閉めようと,ほうきで追い出そうと,それがなんだろう。私は忍耐しているではないか。その他のことはたいして重要ではないではないか。

もちろん私たちの忍耐の助けになった特別の喜びもありました。一つは,会長事務所からきた二つの長い封筒を,郵便受けに発見した時にやってきました。ギレアデ学校への招待状を読むにつれて私たちの喜びは爆発しました。外国での宣教奉仕に備えて特別の訓練を受けるのです。私たちは笑い,叫び,また,言葉にあらわせないほどのこの特権を与えられたことをエホバに感謝して頭を下げました。ところが,これはむすこを後に残すことをも意味しました。二度と合うことがないかも知れません。心はおどっていましたが,もう一つのむずかしい決定をしなければならぬことは分かっていました。行きたいという気持と,むすこと離れねばならないという考えで,私は非常になやみいったい私の義務はどちらにあるのだろうと考えました。真理にいる兄弟たちに相談したあとで決心をしました。ギレアデに行く事です。

1943年の9月,バーバラと私は,どちらも第二のクラスにはいりました。それは何というすばらしい経験だったことでしょう。それは新しい世の生活を思わせるものがありました。私たちは,神の御言葉の真理がふんだんに得られ,兄弟たちとの交わりが常に楽しめる特別の世界にいたのです。でもあまりにもはやくすぎ去ってしまいました。第二世界大戦は依然として猛威をふるっており,入国のむずかしい国がたくさんありました。旅行も相当制限されていました。そこで私たちは仮の任命を受け,私たち一つのグループは,ニュージャージーのパースアンボーイに行きました。私はそれから2年間そこの会衆と一緒に働きました。夏の間,ルイジアナで,数週間むすこと共にすごすことができました。

パナマへ

1945年12月27日も特別の日でした。それは私たちが新しい任命地パナマに着いた日でした。私たちの任命地は,地峡の大西洋側の運河の河口にある人口約5万の町コロンでした。その土地のひとりの兄弟の援助によって,私たちは定住するのに必要な適当な家,家具,食物その他をととのえました。私たちはこの地に任命されたことを喜び,人々の間で働くことに楽しい期待をかけました。彼らの家庭,食物,生活様式など,すべてのものが私たちの興味の対象になりました。

私たちが来た時,そこの小さな会衆には15人の伝道者がいました。私たちは1ヵ月平均22前後の研究を司会して一生懸命に働きました。間もなく会衆は大きくなりはじめました。そして会衆には,とても楽しい家族的な精神がみなぎっていました。私たちは心から兄弟たちを愛し,可能な限りあらゆる方法で彼らを援助することを望み,兄弟たちも私たちに対して同じような気持をもっていました。

私たちのスペイン語は非常に限られていましたが,戸別伝道で会うスペイン語を話す人々は,とてもよく助けてくれました。私たちが彼らの言葉を努力して話すのを聞き,私たちを援助する目的だけのために私たちと勉強した人々もたくさんありました。その中には英語の分かる人もいましたが,決してそれを私たちに知らせませんでした。そのことに気づいたのは何年も後になってからでした。彼らが私たちに彼らの言葉を話すようにしむけてくれたことを感謝しています。それは私たちがスペイン語を学ぶ助けとなりました。

1947年の11月,私は協会の支部事務所の仕事を手伝うため,パナマ・シティに送られました。

この時まで私は,むすこのことでかなり苦しんできました。最後に会ってから2年間というものは,むすこはめったに手紙をくれず,彼のことを考えてはしばしばなやみました。しかしいまは,エホバが約束された通り多くの「むすこたち」を与えてくださっていることに気づきました。しかも,むすこたちだけでなく,娘たち,父たち,母たち,家々もくださいました。(マルコ 10:29,30)私にとって彼らはほんとうのむすこと同じほどかわいいでした。私は心からこの仕事と任命地を愛し,そこを去ることなど考えても見ませんでした。

パナマ・シティでは,英国人の会衆と一緒に働きました。そこで,真理にはいって日の浅い助けを必要としていたいく人かの兄弟姉妹を見つけ出しました。その人たちを援助することができたのをどんなにうれしく思ったことでしょう。また彼らもどんなにか提案を進んで受け入れて実行に移したことでしょう。10年間その会衆と共に働いて,その会衆が成長して二つに分かれ,それがまた分かれて行くのを見ました。いまでは,この会衆が奉仕した区域の中に10の会衆があります。

忠実の報い

兄弟たち ― その中の多くは私が見つけ出して一緒に勉強しました ― が,成長して円熟し,ある人は会衆の僕として,他の人は開拓者とか特別開拓者として新世社会の中に立場をしめていくのを見るのはなんとも言えないよろこびです。彼らが有能な僕となって,以前わたしがしていた仕事を引き受け,大会の組織のこまごましたことがらを扱い,公開講演を行ない,新しい人々を制度に連れてくるのを見るのはなんという喜びでしょう。

希望もなく家のうしろにすわっていたのをあなたに見つけ出された盲人が,あなたが忍耐づよく教えてくれた真理に対して,再三再四感謝の言葉を述べるのを聞き,またその真理をいま熱心に他の人々に伝道しながら,自分はむかしは目は見えたが盲人であった,しかしいまは盲人であるが見ることができる,と話しているのを耳にする時の喜びを想像することができますか。こうしたことによって,いく年かまえ,開拓者への召しに応じたことをうれしく思い,また,他の関心事をしりぞけて,神への奉仕を第一にしたことがよい決意であったことを知らされます。

1950年,母とむすこ ― その時もう結婚していました ― に会うために,また,ニューヨークで開かれた1950年の大会に出席するためにアメリカに帰りました。

2年後健康がしだいにおとろえ,手術をしなければならなくなりました。まる1年,外国の任命地を離れていましたが,母と一緒にいたその年の間に,私の努力の結果,母とめいが真理を信ずるのを見る喜びがありました。1953年,母は私と一緒に新世社会大会に出席しました。その後私はパナマに帰ることができ,一生の目的を追い求めつづけられることを感謝しました。

孤立した町でまた以前の仕事をはじめました。そして,1955年そこに小さな会衆を組織する手伝いをしました。つぎの年にはうれしいことがありました。それは,1951年にパナマの支部で働くためにやってきた仲間の宣教者のひとりと結婚したことです。またこの年は悲しみも持ってきました。それは私の愛する母が死んだという知らせを受けたことです。

それから1958年と,すばらしい神の御こころ国際大会がやってきました。もちろん私たちも出席して心ゆくまで楽しみました。大会後休暇をとって,友人や家族を訪ねて楽しく過ごし,それからパナマに帰ってみて驚きました。うれしい驚きでした。巡回の仕事です! 主人は,私が以前建て起こすのを援助していた英国人の住む巡回区で奉仕することを任命されたのです。私はパナマに13年近く住んでいます。そして,私が交わってきた兄弟たち,真理の知識を得るのを援助してきた兄弟たちが,この巡回区のあちらこちらに住んでいます。そのうちのある人には何年も会っていませんでした。ですから,この仕事は,彼らを訪問できる喜び,また彼らの進歩状況を見,巡回の僕の妻として援助と励ましが与えられるという喜びをもたらしました。私たちは,この仕事に任命されている間多くのすばらしい経験をしました。

現在主人は,運河地帯にある,英語を話す円熟した兄弟を特に必要としている小さな会衆の,会衆の僕として奉仕しています。また,そのほかに支部の事務所でも働いており,私は会衆の区域で宣教の仕事をしています。この仕事でとても愉快に過ごしています。私の言うことを信じてください,宣教者の生活は退屈なものではありません!

エホバの制度の中にあって,任命されたところにとどまる人は確かに最も祝福された者です。愛する者から離れた私や他の多くの人の場合のように,悩みのあることは事実ですが,深い,心を満たす喜びもまたそこにあります! また,豊かな霊的な祝福や奉仕の特権もあります。私はつぎのことに気づきました,すなわち私の幸福は自分の意志を行なうことにかかっているのでなく,エホバが任命した所で神の御こころを行なうことにあることを。

いまは年で,体力もおとろへはじめ,からだのふしぶしが痛むようになりましたが,私の生涯の目的の追求はまだ終わっていません。ハルマゲドンの戦いを通過し,そのあと地を清めてそれを楽園にする仕事に参加するまで,エホバに全時間の奉仕をささげることに楽しい期待をかけています。正義のうちに子どもたちが生まれ出で,墓から帰る死者が喜びをもってむかえられる時,サタンの最後の試みがくる時,そして,すべてのくるしみや痛みがなくなって,他の大いなる群衆と共に完全な人間として,エホバの御手からほうび ― 生命への権利 ― を受けるためにエホバのみまえに立つことができる時も任命された通りやはりここにいたいと思っています。

ところで,なぜあなたも開拓者になりませんか。

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