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  • 神の目的とエホバの証者(その9)
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
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  • 「麦をふるいにかける」試験
  • 第8章 1914年の大詰に近づく
  • 新しい合法のしもべの形成
  • 大きな運動が始まる
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 1/1 26–29ページ

神の目的とエホバの証者(その9)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

「麦をふるいにかける」試験

ジョン: パストー・ラッセルを良く知っており,彼と個人的に交わっていた人のうち,いまでもある人々は生存しています。その人々の話しによると,ラッセルは原則を決して妥協させない強い人のひとりだったということです。彼の記録は,そのことを証明します。彼はエホバ神を信じていました。そして,彼は最初からその立場を保ちつづけたため,彼の立場は証明されました。

時おり,他の者たちはパストー・ラッセルの地位を横奪しようと努力しました。しかし,そのような努力はことごとく失敗したのです。このような試練について,ラッセルは後になって次のように述べました,

幾年ものあいだ,夜も昼も我々は愛する兄弟たちに次のことを警告して来た,すなわち収穫の試験はこのような線に沿って必ず来るものであり,神とその御言葉および教会についての神の摂理に対する最高の忠節は,兄弟たちに対する我々の愛を験すものである。たしかに,我々はながいあいだ愛する兄弟たちに次のことを警告してきた,すなわち我々が前の真理を彼らに指摘するとき,彼らは武具としてそれらの真理を自分の身につけねばならぬ。さもなければ敵の攻撃をうけるとき準備のない状態であろう。

我々が期待した通りのことが生じた,すなわち,我々の悪がしこい敵は主の民が神の武具をしっかり身につけることを妨げようとつとめた。それだけにとどまらず,この悪い日にキリストの「足」を保つために神が備え給うた機関に対して彼は偏見を持たせようと試みている。―詩 91:11,12。

いろいろなところから,級の指導者たちがものみの塔の出版物を集会に用いてならず,ただ聖書だけを用いよと抗議している,と伝えられてきた。これは,神の御言葉に対して忠節を保っているように聞えた。しかし,実際にはそうではない。むしろ,それらの教師たちが,神の民と,神の御言葉の上に神が備え給うた光のあいだに入ろうとした努力に過ぎない。

サタンがそのような動きの背後にいることを忘れてはならない ― サタンは光の天使,聖書の擁護者のような振をして,手に聖書を持ち,聖書研究の級に定期的に出席していた幾百万という人々を盲目にすることに成功した! 聖句の意味を知るためにものみの塔協会の出版物を参照することは,級の指導者か級の成員に相談するよりも,聖書に対していっそう不忠実である理由があるだろうか……

一方,我々は全部の者に次のことを警告する,すなわちサタンは彼らを反対の道にみちびこうと努力するであろう,ということだ ― 意味を理解せずに,印刷した頁から学び,ベレア人的な質問に対しおうむのように答える。質問は,最初全部の人によって自由に論ぜられるべきである。しかし,次の質問を研究する前に「黎明」出版物の答えは考慮され,論ぜられ,そして理解されねばならぬ。聖書は我々の標準であることを決して忘れてはならない。我々の手引きは神から与えられたものであるが,それらは「手引き」であって,聖書の代用になるものではない。

ここにも,極端なものに対する人間の弱さが示されています。そのわけでクリスチャンは,あらゆる努力に平衡を保たねばならぬ,と聖書は絶えずさとしているのです。ラッセルは,これらの試験の結果について次のように述べています。

全般として,「麦をふるいにかける」ことは,視力を持ちつづけた者たちに畏怖の影響をおよぼした。彼らはますます注意深くなり,主とたがいにますます近づいた。他の者に及んだ影響は,それとは逆に見える。彼らは,よろこんで「分離し」,分裂をもたらし自分たちの「自由」を誇るように見える。反対者は多数者を非難する。多数者が少数者の専横を許さないからだ。彼らは多数者に対して,「奴隷」「バビロンの束縛にいる者」その他の悪口を言う。

教理の面で正しい教えから外ずれて行ったり,盲目の状態になったとき,そのたいていの場合は,そしり悪口,邪推などで,多かれ少なかれ,心を汚すことが先に行なわれている,敵はそのような苦々しさの根を早く生長させることにより,ほとんどの場合に,間ちがいを引きおこす道を準備した。……

あなたがたがすでに学んだ教理に反して,分裂やつまずきを起させる者たちに警戒しなさい。そして,それらの者たちを避けなさい。(ロマ 16:17,18)悪に対して悪を返さず,そしりに対してそしりを返してはなりません。しかし,悪魔のために混乱の状態にいるすべての人に対するように,同情のある愛の気持をもって親切に考えてやり,親切な言葉を言ってやりなさい。(コリント後 4:4)

ロイス: そのような事実を考慮すると,パストー・ラッセルに対して尊敬の念が高まりますね,彼が,たいへんつらい状態の下で働いたことについて否定できる人はひとりもいないでしょう。そして,彼の仕事の結果は,みな彼を支持するものばかりですね。そのような圧迫をうけるなら,大ぜいの人はどちらかの道に曲ってしまうことでしょう。

ジョン: しかし,ロイスさん次のことを忘れてはなりません。パストー・ラッセルは自分の働きの結果が自分の性質によるもの,と見なしたことが一度もないのです。彼の力と導きは,神から来ると彼はいつも認めていました。そして,全部の証拠が示されるとき,それ以外の他の結論をくだすことはできません。

第8章 1914年の大詰に近づく

ロイス: ジョンさん,制度内に生じた分裂や,パストー・ラッセルに対する反対は,わざに大きな影響をおよぼしましたか。

ジョン: 大きな影響はありませんでした。全くのところ,そのような試練はますます生存者を親密にむすびつけると,パストー・ラッセルは語りました。それに,自ら離れていった者の数は,いつの時でも少なく,一方,仕事はたくさんでしたから,ラッセルやその仲間の者たちは忙しく働かねばなりませんでした。

制度が拡大すると共に,1914年は近づいてきたので,この新しい世紀の最初の10年のあいだラッセルは全く忙殺されていました。西暦前607年より前のエルサレムが代表していたものは,「諸国民の定められた時のみちるまで諸国民に踏みにじられているであろう」ということを彼は知っていました。これはルカ伝 21章24節にあるイエスの預言でした。サタンの諸国家が妨害されずに支配する時は,1914年に終ると,イエスは知っていました。1877年以来,エホバの現代の証者たちは,2520年という長い異邦人の時はいまや終りに近づきつつある,と熱心に伝道してaいました。

この終りのことを念頭に入れていたラッセルは,世界的な規模を持つ大運動を準備して,実施しました。そして,諸国家に対する最終的な証言を与えようとしたのです。すなわち,1914年以前に残されているこのわずかな数年は,神が来られて裁きを執行する前に,彼らが神と平和をむすぶ最後の機会であると示したのです。

ラッセルは,すぐに次のことに気づきました。20年間協会の本部としての役目を果たしてきたアレゲニー・ピッツバーグの4階建の聖書の家は,全世界にわたる国際的なわざを発展させるには小さすぎるということです。それで,1908年,協会の法律顧問ジェイ・エフ・ルサフォードbをふくむ協会の数人の代表者たちは,ニューヨークにつかわされて,ラッセル自身がすでに指定しておいた新しい本部を求めるよう命ぜられました。

彼らはブルックリン,コロンビアハイツ124番にあるヘンリー・ウォード・ビーチャーの4階建の褐色砂石の牧師館を買い,協会の本部役員30人の住む家宅に変えました。パストー・ラッセルは,ビーチャーの古い書斎を自分の事務所にしました。

トム: ヘンリー・ウォード・ビーチャーと言えば,当時奴隷制度反対の説教をしたので有名なブルックリンの牧師ではありませんでしたか。

ジョン: そうです。彼は近くのプリモス教会の牧師で,その教会の説教壇から説教しました。c アブラハム・リンカーンも,1860年代にコロンビア・ハイツにあったヘンリー・ウォード・ビーチャーの家を訪問した著名人のひとりであったと言われます。

協会はまた近くにあった古い「プリモス・ベテル」を買いました。それは,プリモス教会が長年使用していた宣教用の建物でした。d いくらかの改造をしてのち,1909年1月31日,350人の出席者を迎えて,協会は新しい本部の献堂式を行ないました。改修されたプリモス・ベテルの2階にある集会所の坐席数は800で,うす緑色が主色になっていて,たいへんうつくしいものでした。そして美しく描かれたいくつかの聖句も壁に示されていました。道路に面する1階には,協会の事務所があり,その地下室にはビラを印刷するための小さな印刷機械や,発送部がありました。これらの建物について,「ものみの塔」内の発表は次のように述べていました。

我々は新しい家を「ベテル」と呼び,新しい事務所と講堂を「ブルックリン・タバナクル<幕屋>」と呼ぶ。これらの名前は,「聖書の家」という名と入れかえられる。e

ピッツバーグの協会の施設は売られて,最終的な段階に達したこの重要なわざがいっそう拍車をかけられて始められようとしていました。拡大されたブルックリンの本部は,間取りも良く便利なものでしたが,それから2年以内の1911年,大きくて新しい住居が建築されました。それはベテルのうしろのところ,ファーマン・ストリートに面したところに建てられ,ブルックリンの埠頭を見下していました。f

新しい合法のしもべの形成

ニューヨーク州内のこの資産の所有権を持つためには,証者たちが新しい法人を形成することは適策であると考えられました。ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会は,ある法律的な制限にしばられていました。それで正しい申告手続きの後,1909年2月23日,「国民の説教協会<ピープルズ・パルピット・アソシエイション>」は,ニューヨーク最高裁判所の判事アイサック・エヌ・ミラーgの裁定したごとく合法のものと認められた。その憲章に記されている目的は次のとおりです。

その法人の目的は,慈善,博愛,科学,歴史,文学,および宗教の目的を果たすことである。人々の道徳面の改善,精神面の改善,および冊子,パンフレット,新聞,そして他の宗教的な書類の出版により,いろいろな言葉で聖書の真理を流布すること。そして宗教的な宣教のわざを行なう。h

トム: ジョンさん,これら二つの法人の仕事は,どのように共同で運営するのですか。

ジョン: たぶん,1914年の「ものみの塔」(英文)からの次の引用文は助けになるかも知れません。

多数の新しい読者のために,こう説明する。ものみの塔聖書冊子協会(ペンシルバニア州の法人)は,親制度として,クリスチャンの仕事の一切の活動を代表する。「ものみの塔」とその編集者は,この協会と交わりを持つ。直接にせよ間接にせよ,万国聖書研究会および国民の説教協会を通して行なわれる一切の仕事は,ものみの塔聖書冊子協会の仕事である。

トムさん,前に御説明したとおり,国民の説教協会は1909年に形成されたニューヨーク州の法人であり,万国聖書研究会は1914年に形成された英国の法人でした。特に英国の支配する各国々のために組織されたこの英国の法人は,協会本部の所在するニューヨーク,ブルックリンにも宛先がありました。「ものみの塔」の記事は,次のように言葉をつづけています。

「ものみの塔」の編集者は,この三つの協会の会長である。この仕事に関連するあらゆる経済的な責任は,ものみの塔聖書冊子協会(ペンシルバニア法人)が負う。他の協会および仕事のあらゆる部門は,その協会ら経済の支持をうける……。

仕事がこのように分割されたのは,ペンシルバニア州による親の協会憲章に従うと,ニューヨーク州内に資産を持つことが法律により許されていないために己むを得ずなされた。ニューヨーク州内に不動産を所有するため,従属の協会を組織することが必要である。同様に大英帝国の法律は,外国の協会が不動産を所有することを禁じている。そのため,英国用の憲章を持つ万国聖書研究会の組織が必要になった。それで我々の仕事を遂行して行く場合,ある時は一つの名前を用い,他の時には別の原則を用いる。しかし,その全部は結局のところ,ものみの塔聖書冊子協会〔ペンシルバニア法人〕を意味する。―全部の寄付は,この協会に送られるべきである。i

トム: これらの三つだけが,あなたがたの使用している法人ですか。

ジョン: そうではありません。そのとき以来協会は世界のいろいろな国で数多くの法人を形成しました。しかし,その全部はペンシルバニア法人の指示の下に一致して働きます。この法人は,全世界にわたって法人化されていないエホバの証者の群れの合法の機関にすぎません。

大きな運動が始まる

エホバの証者は,いつでも大きな運動をしてきました。しかし,1909年から1914年までの年月は,現代初期の証者たちの行なった活動という面でも,それからの結果という面でも,まったく目ざましいものがありました。本部にいる者たちや,野外で奉仕していた巡礼者ピルグリムや聖書文書販売人たち,および自分の余暇を進んで提供した自発奉仕者たちは,昼も夜も骨身惜しまず働き,自分たちの持つ手段を用いて世界的な証言を行ないました。

1909年から始めて協会は一連の冊子を出版し始めました。最初は「国民の説教」次に「すべての人の新聞」そして後には「聖書研究生月刊」と呼ばれるようになりました。毎月ちがった号が発行されて,新教主義,偽りの宗教および背教に対する強力な攻撃となりました。挿絵や漫画は,その攻撃力にいっそう力を加えました。これらの冊子は,家の戸口のところや教会の前で,あるいは個人的な接触により,幾百万部も配布されました。しかし,この配布は,大きな証言を与えようとした協会の努力の極限ではありませんでした。特に聖書文書販売人が行なったパンフレットや書物の配布も,幾百万冊にのぼりました。

マリア: 同時に兄弟たちは国際的な新聞シンジケートを組織し,パストー・ラッセルの説教を中心記事に掲載させるようにしました。ラッセルの説教は,毎週1度アメリカ合衆国,カナダ,そして欧州にある約3000の新聞社に送られました。

ジョン: このシンジケートは,実際にはベテルの本部役員の4人で構成されていました。パストー・ラッセルは,どこを旅行していても,毎週1度は,このベテルのシンジケートに新しい説教を送りました。シンジケートの係りの者は,この説教を約新聞二欄の長さにして新聞社に電報で送りました。そのときはまたラジオがない時でしたから,新聞は人々のところに音信を伝える大きな手段でした。このシンジケート奉仕のおかげで,家から家の口頭伝道や公開講演の伝道は大いに援助されました。この奉仕によってパストー・ラッセルの説教は毎週1000万人に伝えられたと推定されています。

トム: 協会は,広告をする場合のように,この新聞欄の使用料を払いましたか。あるいは新聞社はラッセルに寄稿料を払いましたか。

ジョン: 新聞欄の使用料は無料でした。協会は電報料を負担しました。j

しかし,このようなシンジケートの奉仕は,エホバの証者個人の行なった伝道に取って代ったわけではありません。この期間中,いっそう大きな拍車がかけられた運動は,大きぼな公開講演の運動でした。これは1911年に始まり,「クラスの拡大のわざ」として知られていました。k その年中だけでも,1万2113の公開講演および半公開講演が行なわれました。これは,以前パストー・ラッセル自身の行なっていた公開講演奉仕の拡大でした。このわざをするため,旅行する58人の特別な奉仕者たちは,割りあてられた講演旅程にしたがい,講演者として送り出されました。

わざは講演をすることだけに限られて,出席者のことを忘れるというようなことはなかったのです。講演に興味を感じた人々の名前と住所を集めて,それから家庭訪問がなされました。つまり,新しく興味を持ったこれらの人々を集めて,新しい会衆を形成するためです。聖書文書販売者すなわち開拓者は,これらの会衆の組織化を援助しました。その結果たくさんの新しいクラスがつくられました。1914年までには1200のクラスが世界のいろいろなところにありました。進歩についての他の数字について言えば,たとえば記念式に出席した者の数ははっきり分かりません。しかし,1925年では,報告されている部分的な数は,1万5430人でした。また,「ものみの塔」頒布は5万5000部に増加したと報告されています。l

興味を持つ人の数がふえるにつれて,ラッセルの講演を切に求める要求が増すのも当然です。彼は毎年欧州に旅行しました。そして,北アメリカにおける彼の旅行は,その度数と規模において増加しました。以前は,わずか数人の者といっしょに出かけて講演をしましたが,いまは特別仕立ての鉄道「大会列車」を用い,大ぜいの人々は「大会列車」に乗るように組織さました。あるとき,240人もの大ぜいの人々が,彼といっしょに行きました。いくつかの車両が連結されてこの「大会の群れ」をつくりあげ,前もって定めておいた予定にしたがい,ひとつの大都市から別の大都市へと旅行しました。

この群れが予定の都市に到着すると,援助者たちは,ビラをくばって公開集会を宣伝し,また公開集会に出席して来場する人々にあいさつし,それから興味を持った人々の名前と住所を集めました。可能なところであるなら,彼らは新しく興味を持った人々のところを訪問して,会衆を設立しました。このようにたいへん良く一致協同した仕事は,永続する結果をつくり出しました。

マリア: これらの兄弟たちが直面したいろいろの問題については,興味深い経験談がたくさんあります。あるときラッセル兄弟とその群れはウイスコンシン州を汽車旅行していました。ところが,鉄道の機関手は,ふつうの汽車の予定になっていない停車場で彼らの特別車両を切りはなすのを忘れました。それで,汽車は公開集会の行なわれる町で止まらずに通り過ぎてしました。それから1時間後,ミルウォーキー市に着いて始めて汽車は止まりました。もちろん,汽車が止まらなかつたことに対して,兄弟たちはたいへん興奮していました。そして,鉄道当局にただちに掛け合って,特別の機関車を彼らの特別車両につけ,ラッセル兄弟の講演が予定されている場所に連れ戻すようにと談判しました。それで,彼らは公開集会にやっと間に合ったのです。

ジョン: パストー・ラッセルとその仲間の者は,マタイ伝 24章14節の聖句を良く知っていました。その聖句は次のように述べています,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に食べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。これが1914年までにどのように終了するかは,はっきり分かっていませんでした。しかし,証者たちはその伝道活動をますます強化して行ないました。全世界にわたる公開講演が組織され,そしていま私たちの読んだこの聖句の言葉は,ポスターの宣伝にも掲載さました。

この運動の一部として,1911年の12月から1912年の3月まで,7人の委員の議長としてパストー・ラッセルは世界一週の旅行をなし,真理の種子をまきました。これは,時たつ中に豊かに結実し,地の遠い所場でも油そそがれたクリスチャンたちの群れが活動するようになりました。この委員の特別の興味は,外国におけるキリスト教国の宣教活動を研究し,それぞれの地で講演することでした。彼らは西方に向かって旅行し,ハワイ,日本,中国に行き,つぎに南部アジアとアフリカを訪問し,それaから北上して欧州に行き,ニューヨークに戻りました。ほんとうに,それは全地を一巡した大がかりな旅行でした。そして,異邦人の時は近くに迫った1914年に終る,という警告の音信が告げられました。

[脚注]

a (イ)「ものみの塔」(英文)1881年10月-11月号,3頁。

b (ロ)「ものみの塔)(英文)1919年58頁。

c (ハ)ウェブスターの伝記辞典125頁。「キングス・カンティの歴史」(ニューヨーク,1884年。ムンセル会社)1021,1022頁。

d (ニ)1868年13ノ17ヒックス通りに建てられましたが,その後,建物は移転しました。プリモス教会は1849年に設立され,いまでも124のコロンビアハイツから約2丁はなれたヒックスに近いオレンヂ通りに所在しています。

e (ホ)「ものみの塔」(英文)1909年,67,68頁。

f (ヘ)「ものみの塔」(英文)1917年,53頁。

g (ト)法人証書は,1909年3月4日に記録の綴りに入れられました。1939年2月6日,法人の名前は法人団体ものみの塔聖書冊子協会と合法的に変えられました。そして,1956年1月16日,法人団体ニューヨーク州のものみの塔聖書冊子協会という現在の名に変えられたのです。

h (チ)法人団体ものみの塔聖書冊子協会の憲章,1,5,6,11頁。

i (リ)「ものみの塔」(英文)1914年。371頁。また「我々の協会の歴史と運営」を見なさい。「ものみの塔」(英文)1917年,327-330頁。

j (ヌ)パストー・ラッセルの説教(1917年。万国聖書研究会)3,4頁。1909年のものみの塔(英文)269頁。1916年の「ものみの塔」(英文)388頁。

k (ル)「ものみの塔」(英文)1911年。453,454頁。

l (オ)1915年の「ものみの塔」(英文)127,372頁。

a (ワ)この旅行で訪問した場所,ハワイのホノルル,日本の横浜,東京,神戸,そして長崎,中国の上海と香港。フィリピン諸島のマニラなど。

[28ページの図版]

ブルックリン幕屋,1909年

[28ページの図版]

ベテル,122-124 コロンビア・ハイツ,1911年

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