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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1966
塔66 2/1 92–95ページ

神を探して見いだす

ピーター・ホチノス

今から55年まえ,私は心を満たす何ものかを求めて家を離れました。当時ははっきり意識してはいませんでしたが,神を求めていたことはたしかです。私はいまさらのように,「捜しさえすれば,神を見いだせる」という聖書の言葉を思い出します。―使行 17:27。

しかし家を出た時の私はまだ若く,人生の経験にもとぼしく,冒険精神に富んでいました。私の故郷は,ギリシャ本土の西海岸にあるイオニア諸島のある小さな島です。近年に起きた地震でこの島のことをご存じのかたもあるでしょう。それはイサカという島です。この小島の住民は,ほとんどが船乗りで,生活のためばかりでなく,冒険を求めて海に出るので知られています。

私も16歳でそういう生活をはじめましたが,それは実際的でもなければ有利でもなく,将来の希望はまったく得られませんでした。私は,あちらこちらを数年間航海する以上のことを求めていました。毎日のかてを得るため一生懸命に働きながら,6年を海で過ごしましたが,わたしが得たのはただそのことだけでした。将来を安全にする基礎を求めた私の努力は無益に終わりました。そこで私は,船乗りをやめ陸にあがって「おか者」になる決心をし,22歳のとき,アメリカを居住地として選びました。

心のかてを求めて

しかし時には見捨てられたような失望を味わうこともありました。どうしてもそこに溶け込むことができなかったのです。私の属していた教会は,そういう苦悩から私を解放してくれるものを何ももちませんでした。私は自分の人生というものに疑問をもちはじめました。何の心のかても得られないので,私にとってギリシャ正教会は,乾いたさばくのように,命のない死んだものに見えてきました。

たとえば,三位一体の教理はつまずきの岩でした。三つの頭をもつ人間など見たこともないので,自分の創造者として崇拝する神が三つの頭をもつことなど,どうしても信じられませんでした。この教理はそういう印象を与えました。三位一体を教えられたために,私は神への信仰を失いかけました。

そういう理由で,ギリシャ正教会が,私に神と真の崇拝とを理解させてくれたと言うわけにはいきません。しかし私は,あわれみと愛に満ちたすばらしい正義の神,信仰をもつ者すべてを祝福して下さる創造者があるという信仰を得,母の教えが実ったことを,いま私がエホバとして知る唯一の真の神に感謝しています。私はそういう考えをもってこの神をさがし求め,神とその目的について知ることを望みました。しかしどこに行けばそれがわかるのか見当がつきませんでした。

復活の教えで探求の方向を知る

ある晩のこと,私がニューヨーク市のある喫茶店にいたとき,ひとりの男がはいってきて,ペンシルバニア州フィラデルフィア市で聞いた講演について人に話しはじめました。彼の話によると,その講演の主題は死者の復活にかんするものでした。私は彼がテサロニケ前書 4章13節から18節を読むのを聞きました。

「兄弟たちよ。眠っている人々については,無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように,あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように,イエスが死んで復活されたからには,同様に神はイエスにあって眠っている人々をもイエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは〔エホバ〕の言葉によって言うが,生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが,眠った人々より先になることは,決してないであろう。すなわち,主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに,合図の声で,天から下ってこられる。その時,キリストにあって死んだ人々が,まず最初によみがえ(る)……だから,あなたがたは,これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」。

この言葉は以前に,告別式などで聞いたことがありましたが,このたびは,私の心の傷をいやす油のように感じられました。私は彼に,そのことについて書かれた物を何かお持ちではありませんか,と尋ねたのを思い出します。彼は何も持っていませんでした。

1週間後,その同じ喫茶店で,「創造の写真劇」とかいうものを見にくるようにとすすめられました。しかし私は,それが前の週に聞いた話と関係があることを知らなかったため,見に行きませんでした。ところが翌週,やはり同じ喫茶店に,かばんを下げた男がはいってきました。そのかばんには本がはいっていました。彼が説明してくれた本の内容は興味ぶかいもので,私はその本が欲しかったのですが,かけごとに使いはたしてお金をもっていませんでした。彼の語ったことは,2週間前に聞いた話と同じに思われました。ともあれお金がないので,次の土曜日にきてくれませんか,と頼みましたが,残念なことに彼はそれかぎり姿を見せませんでした。それで相かわらず,真理をもつ人々,神のことばを理解している人々をどうして見つけたものかと思案していました。

そのことがあってから少したってまた聖書講演への招待ビラをもらいました。最初は行くつもりでいましたが,次の日曜日にもそこであるだろうから,その時にしようと考えて延期しました。次の日曜日にはたしかに行きました。しかしビラに案内されている会場に行ってみてがっかりしました。そのホールは前の週の日曜日の講演に使われただけだということでした。その人々を見つけようという気持ちはいっそう強くなりました。それこそ私がさがし求めていたものであることを感じたからです。

私はまた聖書の講演に招待されました。こんどこそは,所定の時間に,そして所定の場所に間違いなく出席しました。しかしその講演者の話には失望しました。最初に聞いたこととどうしても結びつけることができなかったのです。しかしうれしいことに,あとでその理由がわかりました。この講演者は,当時聖書研究生と呼ばれていたエホバの証人と交わっていたのですが,自分から離れていって,自分の考えを伝道していたのです。それでも私は,最初に聞いた,そして私を元気づけてくれた音信をもつ人々を見つけようという気持ちを変えませんでした。

報い

ついに私は,マンハッタンのイースト川に近い,23番街にある小さなホールを教えられました。私はそこへ行って話されることを聞き,この人々こそイエス・キリストの真の追随者であるという確信をもちました。

それからどういう結果が生まれるかは知るよしもありませんでしたが,いまふりかえって考えてみると,私がそこへ行ったことは,それまでに求めていたものを得るきっかけであったことがわかります。この場所で私は,人々が永遠の生命というすばらしい希望について語るのを聞きました。聖書の真理の音信を聞きはじめたとき,以前聞いていたこととそれの違いは容易に見分けられました。真理の音信は明りょうで,真実のひびきがあり,人を力づけます。この人々が真理の水をもっていることを知ったときは,生物も住まず,水もないさばくでオアシスを見つけた感がありました。ニューヨーク市23番街のその小さな集会所に行った日から,私は病気かよほどの理由がないかぎり,エホバの証人の集会に欠席したことはありません。集会を休まなかったおかげで,正確な知識は増し,エホバとその御子イエス・キリストに対する信仰は強くなりました。

初めてこの集会に出席したとき,私は次の日曜日の聖書の講演に人々を招待するためのビラをひと袋渡されました。そこで私は行きつけの喫茶店をはじめ,多くの喫茶店をまわって聖書の講演の招待ビラをくばりました。

バプテスマとベテルでの奉仕

1920年,私は初めてエホバの目的を知りエホバに献身し,伝道によってエホバに奉仕することが自分の義務であることを学びはじめました。そして自分もイエスと同じように献身を表わすものとして浸礼を受けねばならないことに気づきました。ブルックリンで浸礼が行なわれることを聞いた私は,エホバのみこころを行なうことを心中にすでに決意していたので,献身を表わすことにしました。そしてニューヨーク市,ブルックリン,コロンビアハイツ,124番地にあるものみの塔協会の本部ベテルの家で浸礼を受けました。それは私の特権でした。どこで浸礼を受けようと,それが受け入れられることはわかっていても,ベテルで浸礼を受けたことを私はうれしく思っています。というのは,8年後私はここでエホバに専心の奉仕を始めることになったからです。エホバのみこころならば,やはりここで地上の生涯を終わりたいと思っています。

私がベテル家族の一員として奉仕するように招かれたのは1928年のことでした。私はその前からこの奉仕を志願していました。エホバの見える組織の本部で用いられることはほんとうに大きな喜びでした。エホバ神の真の崇拝を発見した私は,命を価値あることのために用いうるのをうれしく思いました。そこには,エホバにすべての時間をささげて奉仕しているという満足に加えて,心の安らぎ,すなわちすべての理解を越える神の平安がありました。といってもそれは安易な生活ではなく,一生懸命働かなくてはなりませんでした。いまでもそうです。しかしその働きには真の目的があります。

また,ベテルの家族として奉仕している間に,ほかの喜びや楽しみもありました。いちばんすばらしかったことの一つは,ここでアイビイ・ブラウン姉妹に会ったことです。私がアイビイと結婚したのは1933年でした。その後30年間私たちは共にエホバに奉仕し,野外奉仕をしたり,会衆の集会や大会に出席して祝福を受けました。彼女は私にとってすばらしい助けでした。また彼女は,他の人が神のことばの真理を学ぶのを助けることにおいても,会衆の姉妹たちの模範でした。

妻は,天において報いを受けることを望みながら死にました。彼女は肉体的には苦しみながらもエホバを知ることの精神的な喜びをもっていました。死ぬ数日前,彼女は多くのことによって慰めを得ました。私はそれを忘れることができません。その一つをお話ししましょう。それは妻が一緒に聖書の勉強をしていた中国人の少女からきた手紙でした。手紙の内容は次のようでした。

「愛するアイビイ姉妹。ご病気だということを聞いて心配で,早く御見舞にあがりたいと思っています。どうぞご病気が快方に向っていますように。……アイビイ,私はエホバのみこころを行なうために,献身したことを後悔したことは一度もありません。この終わりの時代の生活が容易なものではなく,将来もそうであることは私にもよくわかります。しかしエホバの助けと恵みによって私たちはハルマゲドンを生き残ることができるでしょう。私はあなたをとおして命のおとずれを聞くことができたことを,いつもエホバに感謝しています。このおとずれを聞いたために,私は希望と喜びをもって将来をみることができます。……愛するメリーより」。

その後間もなく妻は死にましたが,最後まで忠実さを失わず,病院の医師や看護婦に自分の信仰をあかしし,また血にかんする神の律法を最後まで守りとおしました。(使行 15:28,29)私たちは輸血に同意することはできませんでした。輸血させようと一生懸命に妻を説得した医師たちも,彼女の信仰を尊重しないわけにはいきませんでした。輸血によって妻の寿命が短期間延びたにしても,それは血の神聖さにかんするエホバの律法をおかしたことであるから,結局は死に,しかもそれは永久の死になるが,もし彼女が,神のことばの研究によって訓練されたクリスチャンの良心を汚さないなら,永遠の生命への復活が約束されている,ということを私は医師に説明しました。医師には理解できなかったようですが,私たちは輸血を拒否しました。そしてエホバは,信仰によって妻の死に耐える力を私に与えて下さいました。

神を見出して受ける豊かな祝福

妻をなくして私の話は終わりに近づきますが,私は決して孤独ではありません。私には崇拝すべきエホバ神があり,その御子イエス・キリストが指導者としていて下さり,献身した仲間のしもべたちとの豊かな交わりがあり,ベテルという家庭があります。また多くの年老いた友だちや若い友だちがいます。彼らはみな同じ神に同じ信仰をもっています。神を求め,神を見いだす者には,たしかに豊かな祝福があります。

エホバを知ってからの私の生活はほんとうに充実したものでした。神の言葉の真理を知って以来ベテルの近くに住み,またベテル内に住んで,エホバの組織の驚くべき拡大を目のあたりに見ることができたのは,大きな特権でした。それは私にとって神の祝福のすばらしい証拠でした。私はものみの塔協会の印刷工場が大きくなり,ベテルの家族が150人から700人近くに増加するのを見ました。1910年には,ニューヨーク州の,自分が生まれた島と同じ名前のイサカという町の近くに,クリスチャンの監督を訓練する学校をもつ組織と交わることなど,思ってもみないことでした。

エホバの証人の全国大会,国際大会に出席したことからも多くの祝福を受け,それによってエホバに対する私の信仰はいっそう深くなりました。全世界からきた,自分と同じように何かを求める多くの人々と会い,彼らも同じ信仰と希望をもつことを知るのは,かつて何ものかを求めていたこの年寄りにとり,このうえない喜びです。

宣教学校での訓練や集会への出席などをとおして,内気な人間だった私も,戸別訪問によって人々に御国の良いたよりを伝えることを恐れない者になりました。いまも神権宣教学校に席を置き,公開講演を行なう特権をもち,エホバへの奉仕に時間をささげています。そして私の祈りは,ひきつづき忠実に奉仕することです。そうすれば,私がさがして見いだした神エホバは,豊かに祝福して下さることを知っているからです。

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