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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1966
塔66 10/1 579–580ページ

自由の精神かキリストのとりこか

思想の自由,言論の自由,行動の自由など,自由を求める声は全世界でますます強くなっています。過去50年間に説かれてきた人間の哲学は,学校や大学において,無神論者という実を結んでいます。個々の人間は自分で物事を決定すべきであるという,これまで盛んに強調されてきた教えの影響は,あらゆる種類の社会的,政治的小グループが,執ように独立を要求することに表われています。規律や,権威を尊敬することはしだいにすたれており,不平不満がはびこって,地には平和がありません。

神に対する信仰などで人間の考えを制限すべきではない,という思想を青少年に植えつけることを許してきた支配者たちは,いま,社会的,道徳的秩序に挑戦し,善悪を自分で決定しようとする反逆的な世代に直面しています。どうかすると問題の皮相的な知識しかもたない青年男女やティーンエージヤーが,あたかもすべての事実を十分に検討し,分別のある結論に到達したかのように,ストライキやデモ行進に参加します。おとなの支配に対する公然とした反抗は,私たちの時代にはっきりと見られます。

こうしたことは,聖書の教えや,イエス・キリストのことばとは非常に異なっています。なるほどイエスは,「あなたがたは……真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう」と言われました。(ヨハネ 8:32)しかしそれは何からの自由であり,何に対する自由ですか。自分の思いどおりにすることをすすめておられなかったことは確かです。イエスは,偽りの宗教指導者が教える教理や迷信から人々を自由にしましたが,それと同時に,「わたしのくびきを負って,わたしに学びなさい」とすすめられました。(マタイ 11:29)ですからイエスのもとに来る者は,イエスの訓練を受け,イエスのことばを聞いてそれに従わねばなりませんでした。神からつかわされたかたに従わないことは,心がまだ悪い影響から完全に自由になっていない証拠でした。使徒パウロはそのことを次のように述べました。「彼らの場合,この世の神が不信の者たちの思いをくらませて……キリストの栄光の福音の輝きを,見えなくしているのである」― コリント第二 4:4。

まちがってはいけません。精神の無限の自由を固執する人は,おそかれ早かれ,神と神のことばである聖書に反対するようになります。そういう人は,人間の理性を偶像視して,偉大な創造者よりもそのほうを重要視します。このようにして『彼らは,創造者の代りに被造物を拝み,これに仕えるので』,神は『彼らを正しくない思いにわたし,なすべからざる事をなすに任せられ』ます。(ローマ 1:25,28)彼らは誇りのために盲目となり,今日の不完全な人間はふたりの主人のうちどちらかを選ばねばならないということを悟ることができないのです。人は義か,罪か,どちらかのどれいです。―ローマ人への手紙 6章。

使徒パウロは,ますます多くの人が罪のどれいになる今日の状態を預言していたと言えます。彼はこう書いています。「終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者……神をそしる者,親に逆らう者……融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者……となるであろう」。(テモテ第二 3:1-5)こうして彼らは「良識」を捨て,「悪魔のわな」にかかりました。悪魔は自分の悪い目的のために,そのような人々を使います。―テモテ第二 2:26。

一方,真のクリスチャンは,聖書にかんする正確な知識によってそのわなから解き放たれました。そして,そういうまちがった考えから自由になったことを自分ひとりが喜ぶだけでなく,それに捕えられている他の人たちをも解放するために,また神の知恵に逆らって立てられた思想と戦うために,霊的な戦いをします。使徒パウロはこの戦いのことを説明してこう言いました。「わたしたちは,肉にあって歩いてはいるが,肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は,肉のものではなく,神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り,神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし,すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ…るのである」― コリント第二 10:3-5。

昔のコリント会衆と交わっていた者の中には,パウロの外見を見て,その権威を無視し,彼がキリストから特別の使命を与えられていたことを重視しない者がいたようです。今日でも,独自の考えから,特別に任命された不完全な人間の統治体を地上に有し,それを用いるキリストの能力を疑う人がいます。キリストは御国にかんするすべての事柄,すなわち「財産」を彼らにゆだねておられるのです。(マタイ 24:45-47)そういう独自の考えをもつ人は,聖書にもとづく助言や指示を与えられるとき,『これは人間の言うことにすぎないから,受け入れようが受け入れまいが私の勝手だ』と考える傾向があります。

この問題について,ものみの塔ギレアデ聖書学校の主事E・A・ダンラップは,このほど卒業した宣教者たちに話をしたとき,「あなたがたもそのような見方をしますか」と質問し,さらにこう述べました。「もしそのようにみるならば,あなたがたは,いまサタンが全世界をまどわすのに用いている,独立心,に感染しているのです。この考えかたを克服するには,使徒パウロが教えているように,『わたしは「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」ているだろうか』と考えてみなければなりません」。

もしこの正しい道に従うなら,クリスチャンは,キリストの教えから学んだ真理と一致しない考えをもつようなことをしないでしょう。そして,「あなたがたは,もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは,代価を払って買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもって,神の栄光をあらわしなさい」というパウロの助言を自分にあてはめて考え,心に銘記するでしょう。(コリント第一 6:19,20)また,「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし,自由をば悪を行う口実として用いず,神の僕にふさわしく行動しなさい」という使徒ペテロの熱意にみちたすすめも心にとめるでしょう。(ペテロ第一 2:16)精神の自由を利己的に固執すれば,人は罪のどれいになります。キリストのとりこになることは,神との平和,安全を意味し,生活に必要な,賢明な導きを得ることができます。

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