「どうして聞くことがあろうか」
「宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか」― ローマ 10:14。
1 今日の牧師の家庭訪問について,何を問うのは適切なことですか。
このまえ牧師があなたの家をおとずれたのはいつでしたか。ご家族が牧師の訪問を受けて以来,どれほど久しくなりますか。最近に訪問があったとすれば,あなたは牧師のことばを聞いてうれしく思いましたか。霊的に向上しましたか。また励まされましたか。しばらく牧師の訪問を受けていないとすれば,なぜそうなのかを自問してみましたか。牧師はなぜ忙しいのですか。昔の牧師のように教区民をおとずれる時間がないのはなぜですか。
2 (イ)宗教の分野でどんな奇妙な現象が起きていますか。(ロ)新教の教会における牧師の不足を示す数字をあげなさい。(ハ)どんな結果が予想されていますか。
2 戦後,「宗教の復興」が大きく叫ばれているにもかかわらず,現代の宗教は,教会にはいる人がふえる一方で,牧師を養成する神学校にはいる人が減少しているという,奇妙で深刻な矛盾を露呈しています。たとえば,新教を代弁する3人の人の予測どおりとすれば,1975年までに,北アメリカの新教の教会では5万人の牧師が不足することになります。そのうえ,同じ筋の情報によれば,「1950年代に見られたごとく,教会人口の増加率が総人口の増加率を大きく上回ることがあれば,不足はさらに深刻なものとなる。しかしここ一,二年間の減少を考慮すれば,予想される不足はそれほどでもあるまい。しかしいずれにしても,牧師養成の緊急対策を講じない限り,何百万の人々は,まもなく羊飼いのない羊になってしまう」― 1961年4月26日付ザ・クリスチャン・センチュリー,509頁。
3,4 カトリック教会における聖職者の不足について述べなさい。
3 ローマカトリック教会も,聖職を離れる牧師に頭を悩ましています。バチカン当局者のひとりが語ったと伝えられるところによれば,教会を離れるイタリア人,フランス人の聖職者の多いことが「憂慮」されています。カトリック教会では数字を公表していませんが,新教筋の推測によると,過去15年間にローマカトリック教会を離脱したイタリア人聖職者は5000人,フランス人聖職者は1000人以上,つまり1959年に任命された聖職者の人数を上回るということです。
4 イタリアのジェノアで,神学校の学生数は過去12年間に4割減少し,神学生の8割が12年の課程を終えないうちに落伍しています。チューリンの神学校には3分の2の空席があると言われます,修道女も不足しています。これらの数字は問題の全容を示すものではありません。しかし新教の教会もカトリック教会も,深刻な牧師不足に悩んでいることを物語っています。
聖職者はなぜ不足か
5,6 (イ)牧師の不足について,一部の権威者はなんと述べていますか。(ロ)今日,キリスト教国の聖職者は,どんな問題に直面していますか。
5 聖職者がこのように足りないのはなぜですか。ペンシルバニア州立大学の社会学者サムエル・ブリザード博士は最近次のように述べました。「過去において教区牧師は一般的な職能をはたしてきた。ところが現在はひとつのみならず6つの面において専問家の役割をはたすことがしだいに要求されている。すなわち管理者,組織者,精神的指導者,説教者,牧師,教師の役割である」。エール大学神学部で牧会神学を講ずるウェズレイ・シュレイダー準教授によれば,低給で過労の牧師が多すぎるということです。ハーバード大学神学部部長サムエル・H・ミラー博士は低給で過労の牧師を「現代の悲劇のひとつ」に数えています。
6 ジョージ・クリスチャン・アンダーソンは「今日のキリスト教」誌上に次のことを報じています。「今日1万人以上の新教の牧師が個人的に,あるいは病院でなんらかの精神療法を受けている」。「州立病院および精神病院に入院している牧師は3倍も増加した」。「過去何年かの間,わたしはアメリカ各地で牧師および精神病医とともに働いてきたが,自分の私的な問題を話し合うことを望む牧師が多いのに驚いた」。「彼らの問題の多くは悲劇的である。一部の牧師はアルコール中毒また麻薬中毒者になりつつある。他の女との恋愛に落ち,離婚によってジレンマを抜け出そうとしている者がある。聖職についたことを悔やんでいる不幸な牧師も多い。他の者は,会衆の期待する超自然の聖徒の役割をはたせないために悩み,責めを感じている……昇進の期待がはずれて悩む者もいる。低い給料,遂げられない野心,孤独が先天的な性質と相まって,治療を必要とするような,病的精神状態を生み出す」。
教会に出席すればそれでよいか
7 誠実な人が自分の選ぶ教会に行ったとしても,聖書の裏づけがある,慰めと希望の音信を確実に聞くことができますか。なぜそのように答えられますか。
7 牧師の訪問をたまにしか受けない理由,またローマ人への手紙 10章14節に「どうして聞くことがあろうか」と述べた使徒のことばが重要さを加えている理由が,いまお分かりですか。しかしそれだけではありません。たとえ人が自分の選ぶ教会に行ったとしても,確信にみちた希望の音信を聖書から確かに聞くことができますか。ほんとうに聖書の裏づけがある説教をいつ聞かされたか,思いおこしてごらんなさい。テモテにあてたパウロのことばが,ここで適切ではありませんか。「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして,真理からは耳をそむけて,作り話の方にそれていく時が来るであろう」。(テモテ第二 4:3,4)このような教師は神からつかわされたといえますか。また教える資格のある者ですか。パウロは真理を教える立派な資格があることを証明するのに,当時の神学校の卒業証書あるいは人間から授けられた権威を持ち出してはいません。パウロはそれよりもはるかに意義のある,実際的なものを指摘して次のように述べています。「わたしたちは,またもや,自己推薦をし始めているのだろうか。それとも,ある人々のように,あなたがたにあてた,あるいは,あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。わたしたちの推薦状は,あなたがたなのである。それは,わたしたちの心にしるされていて,すべての人に知られ,かつ読まれている。そして,あなたがたは自分自身が,わたしたちから送られたキリストの手紙であって,墨によらず生ける神の霊によって書かれ,石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを,はっきりとあらわしている。こうした確信を,わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん,自分自身で事を定める力が自分にあると,言うのではない。わたしたちのこうした力は,神からきている。神はわたしたちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである。それは,文字に仕える者ではなく,霊に仕える者である。文字は人を殺し,霊は人を生かす」。(コリント第二 3:1-6)あなたの牧師は宣教の資格を証明するどんな「推薦状」を示しますか。
8 一部の聖職者はその職について何を感じていますか。それは人々にどんな影響を及ぼしていますか。
8 人はその結ぶ実によって知られると,イエスは言われました。牧師ととなえる人についても,そのことがいえます。神からつかわされて御国の音信を人々に聞かせる真実の聖職者であるかどうかは,口さきだけの主張や卒業証書によらず,その実つまり行ないによって示されます。一部の牧師がその職について述べていることに注目してください。メソジスト教会のもと牧師ジェームス・B・ムーアは,「自分の職にいや気のさしている牧師がいる。わたしの知っている一部の牧師は,一般の人々とくに自分の会衆を見くだしている」と述べました。オハイオ州の一牧師は次のように述べています,「途方にくれている牧師は非常に多いと,わたしは思う。わたしもそのひとりである。われわれは教会の中で行なっていることに意義を見出せないでいる……また我々は社会の人々の生活の改革にあまり役だっていない。わたしはそのことを憂える」。いわゆる「宗教の復興」が無意味なものである理由がこれでおわかりですか。それは霊的に無価値なものであり,真の信仰に欠けています。迷える者は救いの道を教えられていません。それでも聖書は次のことを述べています。「『〔エホバ〕の御名を呼び求める者は,すべて救われる』とあるからである。しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか」― ローマ 10:13,14,〔新世訳〕。
真の奉仕者のわざと教え
9-11 キリスト教国の聖職者とくらべ,人々に「聞く」ことを得させるエホバの証人の宣教活動の各分野について,エホバの証人の年鑑から述べなさい。
9 では,宣べ伝える者はどこにいますか。人は聞くようになりますか。神のことばの真理を知りたいと願う,正しい心の持ち主は,慰めと導きと霊的な励みをどのように見出すことができますか。「現代において最も急速に大きくなった宗教」とも言われているエホバの証人の1964年度年鑑の31頁は次のように述べています。「現代のエホバの証人は,『すべての国の民に対するあかしのため』行なわれるとイエスが言われたわざをすることに努めている」。(マタイ 24:14)エホバの証人の1965年また1966年度年鑑に報告されているような反対にも負けず,彼らは勇敢に前進します。彼らは「永遠の福音」を全世界になんども宣べ伝えなければなりません。(黙示 14:6)それは神のみこころです。
10 1965年をふりかえってみると,エホバの証人の喜びは大きなものでした。110万9806人の伝道者が197の国々で神の国の音信を大胆に宣べ伝えていたからです。これらのクリスチャンは2万4158に上るエホバの証人の会衆と交わっています。これらの男女は神のことばを教えることを愛好します。戸別訪問,家庭聖書研究の司会,演壇からの話に1億7124万7644時間がついやされたことは,その証拠です。またキリストの音信に関心を示し,神の約束についてさらに知ることを望んだ人々に,5916万5475回に及ぶ訪問が重ねて行なわれました。このような訪問を受けた何百万の人々がエホバの証人の御国会館に来たのではなく,100万の御国伝道者が人々の家をおとずれたのです。キリスト教国で行なわれていることとは違っても,これはイエスと使徒によって始められた方法です。
11 再度の問いになりますが,1965年中,牧師はあなたの家を何回おとずれましたか。キリスト教国の牧師があまり家庭をおとずれないのとは対照的に,エホバの証人は1965年のあいだ77万595の家庭聖書研究を毎週,司会していました。そして会衆の代表者だけでなく,会衆を構成するすべての人がそれをしたのです。すべてのエホバの証人は,任命されたキリスト教の奉仕者です。―イザヤ 61:1-3。
12 新世社会において,なお奉仕者が求められているのはなぜですか。
12 あらゆる階層の人を含むこれらの奉仕者は,この記事の焦点である使徒パウロのことば,「どうして聞くことがあろうか」を真剣に考えています。「宣べ伝える者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして宣べ伝えることがあろうか」と述べた,その時のパウロのことばに注目してください。(ローマ 10:14,15)クリスチャンであるエホバの証人は,「つかわされ」ています。そして次の特定な命令を与えられています。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ 28:19,20)エホバの証人の現代の組織の中に霊的なパラダイスが栄えているにしても,さらに多くの人が聞けるように奉仕者がなお求められています。それはなぜですか。弟子に告げられたイエスのことばはその問いに答えています。「収穫は多いが,働き人が少ない。だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ 9:37,38)収穫はたしかに多いのです。聖書の質問に答えてもらうことを望む人,宇宙最大の慰めの源から慰めと助けを求める人はたしかに大ぜいいます。あなたもそれに同感であると思います。純粋にあなたに関心を払い,今日またとない良い音信を分け与えてくれる人があれば,あなたは感謝するに違いありません。このような人は,霊的な福祉を心にかけてくれる真の友です。
13 多くの人が,新世社会の奉仕者の音信にひきつけられるのはなぜですか。
13 エホバの証人の熱心な公の宣教を見て,多くの人は誠実に次のような問いを発します。「現代において驚異的な発展をとげたといわれるこれらのクリスチャンの音信が,多くの人をひきつけるのはなぜだろうか」。その音信がわかりやすく,理解できるものであるということも,ひとつの理由です。それは聖書の簡明な真理であって,正しい心の持ち主ならば,それを聞くことによって聖書の質問の答えを得ます。いわゆる「難しい」質問でも,答えに窮することはありません。次のような問いにも,理知的に答えることができます。われわれの運命は何か。人間が互いに平和に暮らす時がはたして実現するか。地球はどうなるか。第三次世界大戦によって地球は人間の住まない放射能の燃えかすになるだろうか。
14 エホバの証人は,言伝えと対比して聖書とその価値をどのように見ていますか。
14 簡単に言えば,これらのクリスチャンが伝えているのは御国の音信です。(マタイ 24:14)それは聖書に基づいた音信であり,エホバの証人は聖書が神のことばであって真理であり,言伝えよりも信頼できることを信じています。―テモテ第二 3:16,17。ペテロ第二 1:21。ヨハネ 17:17。マタイ 15:3。コロサイ 2:8。
15-17 次の点に関して,エホバの証人は聖書のどんな基礎的真理を教えていますか。(イ)キリストおよび神の目的におけるキリストの役割。(ロ)御国とその祝福。(ハ)地とその将来。
15 これらの奉仕者は簡明な真理である教えをはっきり述べ,聖書からたとえば次の諸点を証明します。すなわち,キリストは神の創造のはじめである。キリストは十字架ではなく,杭の上で死なれた。その人間の生命は従順な人間のあがないとしてささげられた。その犠牲は一度で十分である。キリストは死から復活して不滅の霊者となられた。ふたたび来られて臨在される時のキリストは霊者である等のことです。―コロサイ 1:5。黙示 3:14。ガラテヤ 3:13。使行 5:30。マタイ 20:28。テモテ第一 2:5。ローマ 6:10。ヘブル 9:25-28。ペテロ第一 3:18。ヨハネ 14:19。マタイ 24:3。
16 聖書の中心の教えであり,エホバの証人の伝える音信の主題である御国について言えば,エホバの証人は,キリストによる御国が平和と正義をもって地を治め,地に住む者に理想的な状態をもたらすことを聖書から説明します。―イザヤ 9:6,7; 11:1-5。詩 46:8,9。マタイ 6:10。イザヤ 11:6-9; 32:16-18; 33:24; 65:17-25。
17 さらにエホバの証人は,地球も,その上に住む人間も滅びないこと,しかし現存する悪の事物の制度がハルマゲドンの戦いにおいて,神により滅ぼされ,また悪人が滅びることを聖書から示して,聞く人を納得させます。―伝道の書 1:4。イザヤ 45:18。詩 78:69。黙示 16:14,16。ゼパニヤ 3:8。イザヤ 34:2。
18 (イ)日中どんな仕事をするにしても,これらの人々の天職が宣教であることを証明しなさい。(ロ)これらの奉仕者がそのわざをする動機はなんですか。
18 これらの簡明な,聖書の基本的な真理は,心を励ます良いたよりです。全世界のあらゆる言語,あらゆる境遇の何万という人々が,勤勉で気どらないこれらの奉仕者にひかれて来るのも不思議ではありません。称号や衣服によってこれらの奉仕者を見分けることはできません。そのひとりが,あるいはあなたの隣に住んでいて,鉛管工,農夫,事務員,職工,職人また労働者であるかもしれません。しかしこの隣人がキリスト教の活動に打ち込んでいるわけを,あなたはいぶかったことがありますか。それはその人が宣教を天職と心得ているからです。(ルカ 4:16-20。ヨハネ 15:16)その行動の動機は隣人愛および真理を伝える意欲です。この真理は人に自由を与え,この古い事物の制度の終わりにあって,まさった制度の希望を与えます。(ヨハネ 8:32。マルコ 13:28-30)これらの奉仕者は人に見られるためではなく,人を動かすために行動しています。彼らは,御国の音信を「聞く」機会をあらゆる人に与えることを望んでいるのです。
19 新世社会の一致が印象的なのはなぜですか。
19 そのうえ,人種の相違,政治上の相違,言語の相違,国家の相違その他,分裂を生む種々の要素によって分裂した世界で,エホバの証人の一致はきわだっています。全世界どこに行っても,その音信は同じであり,互いに対する愛は深く,その熱意,決意および説得力は比類のないものです。1961年4月26日付ザ・クリスチャン・センチュリーに載せられた記事「人間と聖職」の中で,ハーバード大学神学部部長サムエル・H・ミラーは次のことを述べています。「活動しているこの社会は精神病院である。一定の方向づけ,全体の型,明確な映像に欠けている。目的は矛盾し,哲学は論争中であり,理想は異なり……焦点,中心,共通の地盤がない。もっと悪いことに,今日の宗教は中心となるものを生み出していない。それどころか,苦々しい派閥と,非良心的な反目,対立,抗争に明け暮れている。ひとつのイメージがあったとしても,それは誇り高い,長々とした無数の論争のためにこなごなに砕かれている。それはだれにも分からない,きれぎれのことばで綴られた夢みたいなものである。このパズルを解くのに役だつものはその中にひとつもない」。大きな相違,矛盾する教義と理論をかかえた世の宗教には,人々を結びつける中心また焦点となるものがありません。しかしエホバの証人は異なっています。国境,人種,皮膚の色,以前の宗教をこえて,これらの奉仕者は戦時にも平時にも,唯一のまことの神エホバを一致して崇拝しており,ひとつに結ばれています。それは使徒パウロのことばのとおりです。「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって,あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思いになって,堅く結び合っていてほしい」。(コリント第一 1:10)あなたの宗教は,このような一致の状態を実現していますか。
教える者パウロ
20 使徒パウロの生涯と宣教をややくわしく検討することは,なぜ有益ですか。パウロはいつ,どこで生まれましたか。
20 この記事の中で,使徒パウロの書いたことばに何回もふれました。パウロはきわめて力強い人格の持ち主です。しかし,クリスチャン・ギリシャ語聖書の多くの部分を書いたパウロは,どんな人でしたか。この記事の論議の主題「どうして聞くことがあろうか」ということばも,パウロによって書かれました。パウロについてさらに知るならば,そのことばに対する理解も深まり,信仰と勇気の手本から大きな益を得るに違いありません。パウロの生まれた年と死んだ年は確実にはわかっていませんが,西暦3年に生まれたことはほぼまちがいないようです。それでパウロの誕生とイエスの誕生とのへだたりは10年以内になります。使徒パウロの誕生地タルソは,エルサレムとコンスタンチノープル(今のイスタンブール)のほぼ中間にありました。ユダヤからローマ帝国全土にわたり,だれよりも広くキリスト教を伝え,人々が御国の音信を「聞く」ことを可能にしたパウロは,幼少の時をタルソで過ごしたのです。
21 使徒パウロのおいたちと教育について述べなさい。
21 タルソはエルサレムの北およそ820キロ,キドヌス川を地中海の河口から20キロほどさかのぼったところにあり,古代アテネおよびアレキサンドリアと肩をならべる教育と文化の都市でした。哲学と教育に対するタルソの人々の熱心は,アテネおよびアレキサンドリアの人々のそれにまさっていたと言われます。小アジアの富の多くが,ギリシャとイタリアに送られる前にタルソに集積されたので,タルソは富んでいました。タウルス河畔に飼われたやぎの豊富な毛を原料にしてロープ,天幕地,衣服を織るのが町の主要な産業でした。ユダヤ人の若者にとって,職を身につけることは義務でしたから,パウロが天幕作りを習い覚えたのも不思議ではありません。後にパウロは自活の手段として天幕を作り,クリスチャン会衆に負担をかけることを避けました。パウロの父は,パウロが14歳にならないうちに彼をエルサレムのガマリエルの学校に入れました。使徒行伝の記録が示すように勇気と知恵があり,寛容な心の持ち主であったガマリエルを師としたパウロは,恵まれていました。
22 パウロは師の精神に感化されましたか。なぜそう答えられますか。
22 しかし有能な師の態度がパウロに感化を及ぼさなかったことは明らかです。それどころか,宗教的な熱意のためにパウロは師の寛容の精神を忘れ,非常に偏狭になりました。こうして若い日のパウロは,クリスチャンの最初の殉教者ステパノの殺害に同意しました。キリスト教に改宗する以前のパウロの暴虐な行ないは,聖書の次のことばに述べられています。「サウロは家々に押し入って,男や女を引きずり出し,次々に獄に渡して,教会を荒し回った」― 使行 7:58-8:3。
23 (イ)サウロのキリスト教への改宗について述べなさい。(ロ)この使徒の働きによって人々が御国の音信を「聞く」ことができたかどうかを,記録から示しなさい。
23 さて,このように激しくクリスチャンを迫害していた者が,どうしてみずからクリスチャンになったのですか。それは初め彼を盲目にし,ついで霊的な開眼をもたらした奇跡のためでした。エホバは,3日のあいだ飲み食いしなかったサウロのもとへご自分のしもべアナニヤをつかわされました。アナニヤによってサウロは視力を回復し,バプテスマを受け,食事をとって力を得たのです。(使行 9:1-19)サウロ(のちにパウロと呼ばれた)はそれからアラビアへ行きました。それが,自分に対する神のみこころと目的をじゅうぶんに知るためであったことは明らかです。こうして彼はエホバから与えられたわざを行なう用意ができました。彼はそれを成し遂げましたか。パウロの宣教によって人々は「聞く」ことができましたか。パウロの足跡は,その問いに雄弁に答えています。パウロは3回にわたって何千キロに上る伝道旅行を行ない,多くのクリスチャン会衆を設立し,統治体の働きに参与し,クリスチャン会衆また個人にあてて14通の手紙を書き,福音のため獄につながれ,こうして初期クリスチャン会衆のために不朽の貢献をしたからです。
24 初期キリスト教のこの指導者から,どんな教訓を学ぶことができますか。
24 パウロは非常にすぐれた人物でした。かつてクリスチャンを激しく迫害していた人が,子を育てる母のようにやさしい人となったのです。高い教育を受けていたのに,偉ぶることをしませんでした。伝道して人々を説得しましたが,いつでもエホバに誉れを帰しています。また政治的にも宗教的にも自由でしたが,主エホバのどれいとなりました。パウロは忍耐の人でした。不平を言わずに働きました。働く力と意志がエホバから与えられることを信じていました。そして最後まで忠実と信仰を守りました。主キリスト・イエスにならったパウロは,今日まことのクリスチャンがならうべき勇気と信仰の手本を残しました。
パウロの手本にならう
25-27 (イ)宣教に対するパウロの見方を述べ,それを今日の新世社会の人々のわざとくらべなさい。(ロ)つづく記事の中でどんな質問の答えが得られますか。
25 「主〔エホバ〕の御名を呼び求める者は,すべて救われる」と,パウロは述べました。しかしパウロ自身が論じているように,エホバに信仰をもたなければそのみ名を呼ぶことはなく,エホバについて聞かなければエホバを信ずることもありません。また救いの神エホバについて人々が聞くためには,伝道者,奉仕者が必要です。
26 古い世の社会で聖職者が不足している今の困難な時代に,エホバの証人の新世社会は著しい対照をなしています。さらに多くの働き人が求められてはいますが,これらの勤勉で熱心な神の奉仕者の働きにより,あらゆるところで人々は御国の音信を聞いています。それは救われるため,そして生命に至る道を学ぶためです。宣教に対する彼らの考え方は,パウロの次のことばに示されています。「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。進んでそれをすれば,報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである……わたしは,すべての人に対して自由であるが,できるだけ多くの人を得るために,自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には,ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には,わたし自身は律法の下にはないが,律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には ― わたしは神の律法の外にあるのではなく,キリストの律法の中にあるのだが ― 律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである」― コリント第一 9:16-22。
27 パウロは何を成し遂げようとしていましたか。それは,神の事物の新しい制度の下で生命を得る道を人々が学ぶために,御国の福音を首尾よく宣べ伝えることでした。今日のエホバの証人は,それとまったく同じわざをしています。それは人々を益し,向上させるわざです。このわざをするには大きな勇気,道徳的な強さ,決意が必要です。このわざのもたらす益と祝福,またどうすれば各人がそれにあずかることができるか,これらの点を論ずることは次の記事にゆずります。
[335ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
地中海
アレキサンドリア
エルサレム
タルソ
アテネ
コンスタンチノープル
黒海
[333ページの図版]
鉛管工 そして奉仕者