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神の予知力ものみの塔 1970 | 11月1日
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よって故意に活動を開始させられた,ということになります。(創世 1:26)そうなると,予定説を唱える人々の考えの合理性と一貫性は疑わしいものになってきます。弟子のヤコブが,みだれとさまざまの悪しきわざとは,天にいます神から下るのではなく,「地に属し,情慾に属し,悪鬼に属するもの」であることを示している以上,とくにそういうことが言えます。―ヤコブ 3:14-18。
神が,未来のすべてのできごとと状況を細部に至るまで予知しないなら,それは,神が不完全な証拠だという論は,実際には,完全性に対する専断的な見方です。なににせよ,それが完全であるか否かを決定するものは,結局神ご自身の意志であり,御旨であって,人間の意見や概念ではありません。―サムエル後 22:31。イザヤ 46:10。
これをたとえて言えば,神の全能性はまとがいなく完全であり,その範囲は無限であるということです。(歴代上 29:11,12。ヨブ 36:22; 37:23)しかし強さにおいて完全であるからといって,ひとつの事,またはすべての事に,その全能の力をあますところなく用いねばならぬわけではありません。明らかに神は,そうしてこられませんでした。さもなければ,古代のある都市や国にとどまらず,地球とその上のものすべてが,ノアの大洪水とかその他の時に,神の刑執行により,とっくの昔にまっ殺されていたでしょう。(創世 6:5-8; 19:23-25,29)したがって,神が力を行使される場合,無限の力をただ解き放つと言うのではなく,その力は常に神の目的によって支配され,必要な場合にはあわれみによって加減されます。―ネヘミヤ 9:31。詩 78:38,39。
同様に,もし神があることにおいて,その無限の予知力をある特定の方法で,また,ご自分に喜びをもたらす程度,使用することを選択されたとしても,「汝何をなすや」と言える権利が,人間にも天使にも,ないことは当然です。(ヨブ 9:12。イザヤ 45:9。ダニエル 4:35)ですから,神が何を予見し,予知し,予定できるかは,能力の問題ではありません。「神はすべての事をなし得る」からです。(マタイ 19:26)問題は,神が何を予見し,予知し,予定することをよしとされるかです。「行なうことを喜びとする事柄すべてを,彼は行なわれた」からです。―詩 115:3,新。
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予知力の選択的な行使ものみの塔 1970 | 11月1日
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予知力の選択的な行使
予定説に代わるもの,すなわち,神の予知力の選択的もしくは任意的な行使は,神ご自身の正義の標準と調和していなければならず,また神が聖書においてご自身を啓示されていることと一致していなければなりません。予定説とは対照的に,聖書の句には,神がある時期に一般に見られたある状況を検討し,それにもとづいて決定を下されたことを示すものが少なくありません。
ソドムとゴモラの町で悪がはびこったのち,エホバはアブラハムに,「その号呼の我に達れる如くにかれら全く行ひたりしや」を(天使を通して)調べ,「若しからずは我知るに至らん」とのご自身の決定を伝えておられます。(創世 18:20-22; 19:1)神は『アブラハムと知り合いになった』ことについて語られました。そして彼がイサクを犠牲にささげようとするに至り,エホバはこう言われました。「汝の子即ち汝の独子をも我ために惜まざれば,我今汝が神を畏るを知る」― 創世 18:19; 22:11,12。
選択的予知とは,被造物の未来の行動をすべて無差別に予知すまいとすればそれができるということです。これはつぎのことを意味します。すなわち創造以後
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