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従順という神のご要求にこたえるものみの塔 1970 | 10月15日
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たとえば,聖書を書くために起用された人々のことを考えてごらんなさい。彼らは忠実で従順でした。しかし,他のさまざまな点では,それぞれ異なっていました。エホバは,そうした人々がご自分に仕えるのを単に許すどころか,そうするよう招かれるのであれば,今日,神に仕えることを願う人々をロボットにしたてねばならないという理由は,どこにあるのですか。ペテロは言いました。「なんぢら自由なる者のごとくすとも,その自由をもて悪の覇となさず,神の僕のごとくせよ」。(ペテロ前 2:16)さて,こうした真理は,神への従順を学ぶ奉仕者としてのわたしたちの生活に,どのようにあてはまりますか。それは,子どもたちを教える親に,どのように影響しますか。この点で,会衆はどんな立場を占めていますか。それは,夫に対する妻の関係に,なんらかの影響を及ぼしますか。現在の事物の体制下の種々の政府の下でのわざに相違をもたらしますか。こうした問題を念頭において,「従順,望ましい道」と題する次の記事を研究しましょう。
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従順,望ましい道ものみの塔 1970 | 10月15日
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従順,望ましい道
「あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」― マタイ 11:29,30,新。
1 人が従順に関して,怒とうにも似た態度を取ってしまうことがあります。どのようにですか。
怒とうが容しゃなく海岸に打ち寄せるさまを見たことがありますか。そうした荒波に,あわれみの様子がわずかでも見られますか。岩や砂に砕ける怒とうに,柔らかさや暖かさを少しでも感じましたか。それどころか,荒波は砂をすり減らし,巨大な手でこするかのように岩石を洗い,やがて岩肌を丸く,なめらかにしてしまいます。さらに,がんじょうな石を襲い,どうくつや穴をえぐります。それでも,海は神の定められた法則の多くに服しているのです。その一つは,ヨブ記 38章8-11節にしるされています。「海の水ながれ出で 胎内より涌いでし時 誰が戸をもてこれを閉こめたりしや かのとき我雲をもてこれが衣服をなし黒暗をもてこれがむつきとなし これに我法度を定め関および門を設けて曰くこゝまでは来るべし こゝを越べからず汝の高浪こゝに止まるべしと」。しかし,従順である際に,あるいは,他の人に従順を求める際に,わたしたちは,海のようであるべきですか。すなわち,冷酷で容しゃなく,過酷で,はてしなく人を駆り立て,互いに精力をすり減らし,ついに,自分の思うとおりにする,というようなことをすべきですか。
2 他人の誤りに助言を与える際の平衡の取れた見方を述べなさい。
2 だれかが誤りや,まちがいを指摘すると,未熟な人々はそのような人を不平家あるいは,あら捜しと呼ぶのを耳にすることがあります。そして,未熟な人々は,イスラエルの人たちがした,あら捜しを引き合いに出します。しかし,思いきって発言し,なされている悪事を知らさねばならない場合があるのです。それが,たとえ,あなたの兄弟たちによる悪事であってもそうです。箴言 21章13節は率直に述べています。「耳をおほひて貧者の呼ぶ声をきかざる者は おのれ自ら呼ぶときもまた聴れざるべし」。悪事を適切な機会に知らせて,当人の不興を買わないようにする知恵や能力を,わたしたちすべてが同等に持っている
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