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あなたは会衆内の責任を担う資格がありますかものみの塔 1974 | 8月1日
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ている場合もあります。それはごく当然のことです。トマスとペテロの対照など,使徒たちの間にあった相違について考えてください。それでも,初期の統治体はそうした人たちをもって始まりました。しかし,会衆内の責任の地位に就く人は,与えられるその責任を果たすためのこれらの要求すべてを,道理に即した程度,また道理に即した一貫性をもって満たしているべきです。例えば,判断の一度の誤りがあれば,その人が「健全な思い」を欠いているという意味ではなく,また,一度怒りのことばを吐けば,その人が必ず『争いを好む』人であるという意味ではありません。
実際のところ,ここに挙げられている要求は,誠実なクリスチャン男子であればだれでも到達しうるものです。聖書を調べれば明らかなとおり,これらの資格の大多数は,男子と女子の別なくすべてのクリスチャンが目ざすべきものとして述べられています。したがって,こうした責任の地位に就く人は,基本的に見て,会衆全体が当然に表明すべきものの見本,真のクリスチャンすべてが当然あるべきすがたの典型であると言えます。あなたはこうした点で資格にかなっていますか。
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正義とあわれみの平衡の取れた裁きものみの塔 1974 | 8月1日
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正義とあわれみの平衡の取れた裁き
あなたは,裁判官の前に出ることを考えると,どんなことを想像しますか。
もしかしたら,あなたの罪状やあなたの不利になる証拠には耳を傾けるけれども,あなたには,あなたの立場やあなたが失敗した理由を説明する機会を与えない,きびしく厳格で一徹な性格の裁判官を頭に描くかもしれません。
これは,キリスト教世界の教会がしばしば描く,審判者としてのキリストの姿です。たとえば,ローマのシスチナ礼拝堂の壁画には,審判を下すキリストが描かれています。キリストはすさまじいゼスチュアで,過去の罪のために「断罪された」者たちに刑を宣告し,彼らを永遠の責め苦の地獄に追いやっています。その形相があまりにもきびしく恐ろしいので,そばに描かれているキリストの母マリアが,イエスよりも正しくあわれみ深いかのように,つまりキリストの裁きが不人情で残酷なものであるかのように,イエスにすがりついています。
これほど真実から遠くかけ離れたことが描かれている絵はありません。主たる審判者として任命されたかたについて使徒ヨハネは,「彼は過分の親切と真理とに満ちていた」と書きました。(ヨハネ 1:14)また裁きのときには,天に住む者である14万4,000人が仲間の審判者として彼とともにおります。彼らについては聖書は,「その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」と述べています。―啓示 14:1,5。
さらに,聖書が言う裁きの日とは,幾十億という人間が全部列をなして王座の前に進み,自分の罪を述べ,その時その場で最終的な,変更される
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