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  • 魂の不滅性についてもう一度考える
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 2/1 69–72ページ

魂の不滅性についてもう一度考える

命は神からの貴重な賜物です。危険に直面すると,人は生きることへの執着を示します。だれが死んでも,後に残された人々は,死によってその人の“すべてが終わった”わけではないという希望を抱くのが普通です。

神の言葉は,死者に対してすばらしい希望を差し伸べています。例えば,イエスは次のように語りました。「わたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず,終わりの日にそれを復活させること,これがわたしを遣わしたかたのご意志なのです。というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからであり,わたしはその者を終わりの日に復活させるのです」― ヨハネ 6:39,40。

人が死んでから,「終わりの日に」復活するまでの間に,どんなことが起きますか。死に際して,不滅の「魂」が肉体を離れて意識を持ち続け,復活の際に肉体と再び結び付くまでの間,楽しみや苦しみを味わう,と信じさせられてきましたか。以前はそうした教理を信じていた幾百万もの人々は,それについて再考しました。それはなぜですか。

再考した例

幾世紀にもわたって,聖書学者や僧職者たちは,霊魂不滅の教理と復活の教理の間に矛盾があることを認めてきました。その一人である聖書翻訳者ウィリアム・ティンダルは次のように述べています。「肉体を離れた魂が天国,地獄,あるいは煉獄にいるとするなら,復活を証明するキリストやパウロの論議を無効にしていることになる……もし魂が天国にいるとすれば,復活しなければならない理由がどこにあるのか教えてもらいたい」。ティンダルはまた,霊魂不滅の教理が「異教の哲学者」から出たものであることに注目しています。

同様に,ローマ・カトリックの高位僧職者レイ・T・ボスラーは,1974年の秋に,ある新聞に掲載された記事の中で次のように書いています。「新約聖書は,肉体とは別個のものとしての不滅の魂について述べてはいない。……新約聖書の中で魂という語が使われている場合,それは肉体と魂からなる自己そのものを指しており,復活によって新たな命を受けることになる。……神学者たちの間でも,最終的に復活するまで聖人たちが一体どんな形で存在しているかという点について意見の一致を見ていない。……神学者たちはこの点に関して未知の事柄を推測しているにすぎないので,彼らからあまり多くの助けを期待することはできない」。

ユダヤ百科事典はこう述べています。「肉体が消滅してからも魂が存在し続けるという信条は,純然たる信仰の問題ではなく,哲学的,あるいは神学的な推測の問題であり,聖書のどこにもはっきりと教えられてはいない」。

魂に関する偽りのない聖書的な見解とはどんなものですか。

魂 ― それは何か。また死ぬことがあるか

聖書の中で,人間の魂について最初に述べられているのは創世記 2章7節(新)で,次のように記されています。「それからエホバ神は,地面の塵から人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。そして,人は生きた魂となった」。人は生きた魂を与えられたのではなく,生きた魂となったという点に注目してください。魂とは,人間の中の目に見えない一部分ではなく,人間そのもののことです。その点をご存じでしたか。それと同様のことを述べる聖書の幾つかの記述をさらに考慮してみてください。

「また,エジプトでヨセフに生まれたその子は二つの魂であった」。(創世 46:27,新)「さて,ある魂が捧げ物としてエホバに穀物の捧げ物をする場合……」。(レビ 2:1,新)『ある魂が…誤って罪を犯した場合……』。(レビ 4:2,新)「あなたがたのうちいかなる魂も血を食べてはならない」。(レビ 17:12,新)「恐れがすべての魂に臨むように(なった)」。(使徒 2:43)「ところで,わたしたち船の中にいた魂は,全部で二百七十六人であった」― 使徒 27:37。

著名な聖書学者たちは,幾世紀にもわたってこの点をも認めてきました。例えば,マルティン・ルターは,魂を意味する聖書中のヘブライ語についてこう記しています。「この語は,我々ドイツ人が魂という場合のように人間の一部分を指すだけではなく,五感を持ち,飲食によって命を保っている人間そのものを指している」。ルターは霊魂不滅の教理を,「ローマ[カトリック]のばかげた教令の山に含まれる,途方もない恐るべき作り話」の一つとしています。

もっと最近になってから,神学者カール・バースは,ラジオのインタビューの際にこう語りました。「聖書は……人間を統一体,その全体を含むもの,魂,つまり個人の生命として描写していることを決して見失ってはならない。それは肉体と区別できるものではあるが,肉体と離すことはできない。ちょうど,肉体が魂と区別できるものではあっても,それから離すことができないのと同じである」。

これは,人が死ぬとその魂も死ぬという意味ですか。聖書は,魂が死んだり,滅ぼされたりすることについて度々言及しています。その例を挙げることにしましょう。「わたしはその魂をその民の中から滅ぼさねばならない」。(レビ 23:30,新)「すべて魂を殺した者……」。(民数 31:19,新)「それからイエスは彼らに言われた。『あなたがたに尋ねますが,安息日にしてよいのは……魂を救うことですか滅ぼすことですか」― ルカ 6:9。

殺された,あるいは滅ぼされた魂の状態はどんなものですか。もし生まれた時に死んでいたなら,自分がどうなっていたかについて,族長ヨブが描写している次の言葉に注目してください。「わたしは伏して休み,眠ったであろう。そうすればわたしは安んじて(いたであろう)」。(ヨブ 3:13,口)ヨブに関する限り,死者は休んでおり,眠っていたのです。この点と一致して,聖書はさらに「死者は何事をも知らない」と述べています。―伝道 9:5。ヨハネ 11:11-13。使徒 7:60。コリント第一 15:6,18,20,51。ペテロ第二 3:4。

魂が『去る』とか『帰る』とかいうこと ― それはどういう意味か

ヤコブの妻ラケルの死を描写するに当たって,聖書はこう述べています。「彼女の魂がいで去ろうとする時(彼女が死んだために),彼女は[生まれたばかりの息子]の名をベン・オニと呼んだ」。(創世 35:18,新)また,預言者エリヤがあるやもめの息子を生き返らせたことに関して,次のように記されています。「ついにエホバはエリヤの声を聴き入れられたので,その子供の魂はその子の内に帰り,その子は生き返った」― 列王上 17:22,新。

こうした場合,魂が『いで去る』とか『帰る』とかいうことにはどんな意味がありますか。この点は,新アメリカ標準聖書の列王上 17章22節の訳文から明らかになります。「また主はエリヤの声を聞かれ,その子供の命はその子に戻り,彼は生き返った」。人が死ぬと,人間の魂としてのその人の命は離れてゆきます。男の子の体内の細胞に戻ったものは,意識のある物体ではなく,命でした。ですから,エリヤはその子の母親に,「ご覧なさい,あなたの息子[その子の肉体だけでなく,その人全体]は生きています」と言えたのです。―列王上 17:23,新。

シェオール/ハデスには生命があるか

「バビロン王」に関する次の言葉を読んで,当惑してきた人もいます。「下の〔地獄〕[ヘブライ語,シェオール]はあなたのために動いて,あなたの来るのを迎え……国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせる。彼らは皆あなたに告げて言う,『あなたもまたわれわれのように弱くなった,あなたもわれわれと同じようになった』。あなたの栄華とあなたの琴の音は〔墓〕[ヘブライ語,シェオール]に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ,みみずはあなたをおおっている」。(イザヤ 14:9-11,口〔欽定訳〕)この聖句にはどんな意味がありますか。

同じ章の4節で,この記述は「箴言」〔欽〕(ヘブライ語,マシャル,“ことわざ”の意。ラテン・ウルガタ訳,パラボラ,“例え”の意)として紹介されています。この詩的な言葉遣いは,無生のものが語っているかのような描写をしています。8節はその良い例です。「いとすぎおよびレバノンの香柏でさえもあなたのゆえに喜んで言う,『あなたはすでに倒れたので,もはや,きこりが上ってきて,われわれを攻めることはない』」― 士師 9:8-15と比べてください。

もちろん,神のみ言葉は,文字通りのいとすぎや香柏が喜んで,互いに会話を交わすということを示唆しているのではありません。同じように,死者の魂が地獄で意識を持っており,王座に就いているという意味に理解すべきでもありません。この記述は,世界強国としてのバビロン王朝が倒れることに関する詩的な予言にすぎないのです。

欽定約聖書がヘブライ語シェオールを,9節のところでは「地獄」と訳し,11節では「墓」と訳していることに気付かれましたか。シャフとランゲによって編さんされた聖書注釈書はこう述べています。

「この語は主に,旧約聖書中の詩的言語として用いられている。……シェオールはすべての墓の集合体として現われる。少なくともエゼキエル 31章と32章については,この点をあえて否定できる人がいるだろうか。そこは,どんな高い地位を極めた人であれ地上のすべての生命が最終的に行き着く,人類共通の墓である」。

前述の例えに似ているのはルカ 16章19節から31節に見られる例えです。ここでイエスは,「ある富んだ人」がハデス(シェオールに相当するギリシャ語)で火の責め苦に遭っているのに対して,「ラザロという名のあるこじき」は『アブラハムのふところ』で祝福を受ける様を描写しています。しかしここでも,魂が肉体の死後も苦しみに遭うことは述べられていません。この記述もやはり例えで,文脈によれば,富んだ人は当時のユダヤ教の宗教指導者を表わしており,ラザロはイエス・キリストを受け入れた一般の人々を指していました。イエスの死後,これら二つの級の人々は,イエスの象徴的な言葉に対応する経験をしました。a

「消すことのできない火」

しかし,「火の燃えるゲヘナ」に言及したイエスは,何を意味していたのでしょうか。(マタイ 5:22,欽定訳では「地獄の火」と訳出されている)ゲヘナに関するイエスの教えの一例は,マルコ 9章43節から48節に見られます。

「そして,もしあなたの手があなたをつまずかせることがあるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,不具の身で命に入るほうが,二つの手をつけてゲヘナに,すなわち消すことのできない火の中に行くよりはよいのです。また,もしあなたの足があなたをつまずかせるなら,それを切り捨てなさい。あなたにとっては,足なえの身で命に入るほうが,二つの足をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。また,もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを投げ捨てなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりはよいのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです」。

イエスはここで,死後の火の燃える責め苦の状態に関する,一般的なユダヤ教の見解を是認していたのでしょうか。実際のところ,死者の状態に関して,当時ユダヤ人の間には確立された見解はありませんでした。ユダヤ教の学者クラウデ・モンテフィオーレとハーバート・ローの編さんした「ラビ文学選集」は次のように述べています。

「そしてまた,別の混乱がある。一つの教理によれば,人は死ぬと,最後の裁きのために全人類が再び『よみがえらされる』まで,眠っている。ところが別の教理によれば,人は死ぬと,義にかなっているか,悔い改めているかのいずれかであるなら(そして特にイスラエル人であるなら),幸福と祝福のうちに,来たるべき祝福された世界での命をすぐに享受できるかもしれない。また,人が邪悪で,偶像礼拝者で,イスラエルの敵であるなら,死んだときにそのまま地獄に落ちるかもしれない。……あるいはまた,地獄での期間の終わりに滅ぼされるかもしれない。あるいは,地上での死に際して滅ぼされるかもしれない。こうした数々の奇怪な概念や混乱すべてを示唆ないしは言い表わしている文脈は数え切れないほどあるが,一般に受け入れられている学説や概念は一つもない」。

死者の状態に関するユダヤ教の見解には,復活までの「眠り」,および『滅び』の可能性という考えが含まれていることにお気付きですか。イエスは,ゲヘナについて語られた際,滅びについて考えていたものと思われます。というのは,後日,イエスは弟子たちにこう勧めたからです。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」― マタイ 10:28。

しかし,もしそうであれば,イエスはなぜゲヘナと「火」を結び付けたのでしょうか。「新聖書注釈書」(1965年版)には幾らかの背景となる資料が載せられています。「ゲヘナという語は,エルサレムにあるヒンノムの谷の名前がギリシャ語化したものである。そこでは,同市のごみを焼却するために,常に火が燃やされていた。これは,最終的な滅びの強力な描画であった」。ですから,聖書がゲヘナに言及している部分は,地獄の火の中で永久に責め苦を味わうという教理の根拠にはなりません。

「全くプラトン的立場」

もし聖書が死後肉体を離れる不滅の魂に一度も言及していないのであれば,そのような概念はどこから始まったのでしょうか。神学者たちは,その概念をギリシャの哲学者プラトンの思想から借用しました。一方プラトンは,それを古代バビロンに端を発する異教の神秘的宗教から取り入れました。プラトンはこう書いています。「我々は死などというものがあると信じているのだろうか。……それは魂と肉体の分離なのではないか。死ぬということは,その分離が完成することである。魂が独自に存在していて,肉体から解き放されており,肉体が魂から解き放されているなら,それは死以外の何であろう」。(「ファイドン」,64節)哲学百科事典(1967年版)は次のように述べています。

「独立して存在しかつ肉体から分離していることが示唆しうるという意味において,精神あるいは魂は実体であると主張する人は皆,プラトン哲学を奉じていることになる。またこの想像上の実体である精神あるいは魂を現実の,または真実の存在とする人は皆プラトン的見解を全面的に採用していることになる」。

ギリシャ哲学がキリスト教世界にどれほどの影響を与えたかについて,ダグラス・T・ホルデン教授は,自著「死に所領はない」の中で次のように述べています。

「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため,九割までギリシャ思想を持ち,ほんの一割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。

聖書によれば,人間の魂とは,その人自身のことです。ですから,人が死ぬとき,魂も死にます。(エゼキエル 18:4,20)復活によって生き返らされるまでの期間,死者は無意識で,喜びも苦しみも味わうことがありません。(伝道 9:5,10。詩 146:4。使徒 24:15)一般に広く信じられている霊魂不滅の教理は,神のみ言葉からではなく,ギリシャ哲学から来たものです。こうした事柄を考えれば,あなたも霊魂不滅についてもう一度考えてみるべきではありませんか。

[脚注]

a 「今ある命がすべてですか」という本の「富んだ人とハデス」と題する12章(98ページ)をご覧ください。

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