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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 3/15 185–188ページ

“自由の国”で自由を宣明する

“自由の国”― タイという国名にはまさにそのような意味があります。この国のことを今でも“シャム”という名で覚えている人は少なくありません。“シャム”は,絵のように美しく異国情緒豊かな“遠い国”の一つとして歌の中で賞揚されています。タイを魅力的な国にしているのは人々の陽気でおっとりした国民性であると言えましょう。タイの人々は,ほとんどの隣接国が英国やフランスの植民地になった“帝国建設”の時代でも,長期間他国の支配を受けなかったことを自国の文化とともに誇りに思っています。

非友好的な今日の世界にあって,タイは,その伝統的な自由を維持しようと懸命になっています。しかし,今やその国で,新しい種類の自由が宣明されています。その中には,圧制的な支配からの自由だけでなく,貧困や病気からの自由,そして死そのものからの自由も含まれているのです。こうした自由すべては,イエスがご自分の弟子たちに次のように語られたとき,見込みのあるものとなりました。『あなたがたは真理を知り,真理はあなたがたを自由にするでしょう』― ヨハネ 8:32。

この「真理」とは,神のみ言葉である聖書に述べられている強力な音信のことです。しかし長年の間,この真理は“自由の国”で,とりわけ仏教徒が大半を占める人々の間で,あまり広まる様子はありませんでした。それらの仏教徒たちが,イエスを殺そうとした信心深いユダヤ人たちのように,聖書の音信に激しく反対したという訳ではありません。(ヨハネ 8:36,37)タイの仏教徒は元々寛容で,自由を非常に高く評価しており,特に宗教に関しては他の人々の自由をも認めています。人々はよく「どの宗教も,善を行なうよう人々に教えている」と言います。それで,当然予想されることですが,タイでは聖書の真理を宣べ伝えることは全く自由で,そのことは,心の正直な多くの人々にとってすでに祝福となってきました。

それでは,この国で聖書の真理を宣明する業が当初目立った進歩を見せなかったのはなぜでしょうか。それには,平和を愛するこれらの人々の環境や背景が関係しているものと思われます。幾世紀もの間,タイ人は国々の騒乱に巻き込まれたことがほとんどありませんでした。この国は,騒然とした世界からは隔てられていました。人々は,豊富な米や,肥よくな土地からの他の産物を楽しみながら,クロング(運河)のそばでのんびりと暮らすことで満足してきたのです。それに,メシアを待ち望んでいた訳ではなく,自分たちが祈ることのできる父のような神に関する概念も持ってはいませんでした。彼らが敬意を払って“お釈迦様”と呼ぶ人は,神について教えたのでもなければ,神の存在を否定したのでもありません。彼らは神について尋ねられれば,恐らく率直に“マイ コエイ キット”と答えるでしょう。それは,“考えたこともありません”という意味です。聖書の真理に関して言えば,タイは確かに“遠い国”でした。

自由の宣明者がタイに入る

あなたは,パウロとその一行が遠くの国々へ真理を携えて行ったときに示した信仰と忍耐の記録を読んで,感動を覚えませんでしたか。最初に東南アジアに入った現代のエホバの証人にも,同様の任務がありました。それらの証人たちの数はほんのわずかでしたが,良いたよりを宣明したいという願いに動かされて散って行き,アジア大陸の広大な地域一帯で縦横無尽に活躍しました。タイやインドシナ,ビルマへ,またビルマルートを横切って中国にまで行きました。証人たちは,国籍も外見も性格もそれぞれ異なっていましたが,容易に見分けられました。どのようにしてですか。彼らは皆,大きなかばんを持っていたのです。証人たちはそのようなかばんを必要としました。その中には,自由を与える,エホバの音信を載せた数か国語の本が詰っていました。それらの証人たちはまた,わずかな必要物を手に入れたり,コレラがはやっている時にはそれにかからないようにしたり,ナンキン虫のいるベットで一夜を過ごしたりするという点でも皆,機知に富んでいました。たたかれたり,略奪されたり,また死にそうになったりしたこともありましたが,証人たちは業を続行しました。彼らは,いわば,未知の言語によって閉ざされたような状態にありましたが,それを耐え忍びました。

タイに足を踏み入れた最初のエホバの証人は,英国のクロード・グッドマンです。それは,1931年にインドへ行く途中のことでした。グッドマンは,うだるようなバンコクに一週間だけ滞在し,商業地区の人々を訪問して英語の文書を数多く配布しました。約五年後に,フランク・デュワーがニュージーランドから来て一年間滞在し,やはり英語で証言を行ないました。その後デュワーに加わったのは,ドイツから来たビリー・ウングラウベです。次いで,オーストラリア人のテッド・スーエルと,もう一人のドイツ人クルト・グルーバーが到着しました。二人は,1939年に第二次世界大戦がぼっ発した際,抑留されないようペナンからその地へと逃れてきたのでした。しかし,土地のタイ人の間では,依然として業の発展が見られず,タイ語で入手できる聖書文書もありませんでした。

その後,ついにタイ人の間での業の進展が見られました。タイ北部一帯を“くまなく”伝道していたクルトとビリーが,大きなカバンを抱えてチアンマイに現われました。一冊の英語の本が,同市にあった長老教会系女学校の若くて熱心な女校長チョムチャイの手に渡りました。それはちょうど,乾燥したたきつけの中に一本のマッチが落ちたかのようでした。チョムチャイとその仲間は自転車に乗って,それら“二人のエホバの証人”を捜しに出掛けました。証人たちはすぐに見付かり,数時間に及ぶ討議が行なわれました。チョムチャイとその仲間は,三位一体,地獄の火の責め苦に関する教えなどのバビロン的な教理から自由にされました。数か月後,チョムチャイと,長老教会系女学校の以前の校長など一群の人々が,滝のそばでバプテスマを受けました。チョムチャイは,聖書文書を英語からタイ語に翻訳するようになり,今日に至るまでその仕事を続けています。

戦時中の苦難

1941年までには,解放の業をより広範に行なうための用意がすべて整っていたかのようでしたが,その時に世界はすでに戦争状態に入っていました。その年の始めに日本軍がタイを占領しました。まず最初にオーストラリア人のエホバの証人が四年間抑留されました。彼らの国は日本と交戦状態にあったからです。その後,エホバの証人であるという理由でドイツ人のエホバの証人が逮捕されました。彼らは枢軸国により非合法化されていました。ビリー・ウングラウベだけが自由の身で,(タイ北部の)奥地で“地下活動”を行ない,その地域で新たにエホバの証人となった人々は勇敢にも彼を支持しました。土地のタイ人の証人たちの中にも逮捕された人々が数人おり,その中にはチョムチャイも含まれていました。しかし,タイ当局は,日本軍の占領下にあったにもかかわらず,ドイツ人とタイ人のエホバの証人を釈放するよう進んで手を打ってくれました。

1947年までには外国との通信も再開され,大量の聖書文書が国内に入ってきました。また,タイ語の「ものみの塔」誌が謄写版刷で初めて発行されました。最初は一か月にわずか200部の割でしたが,タイ語しか読めない人すべてにとって,それはなんと価値あるものだったのでしょう。この国には,そのころまでに,五つの会衆に交わる65人の献身したエホバの証人がいて,戸別に良いたよりを宣明していました。しかし,1,500万という人口から見れば,これはほんの始まりにすぎませんでした。ちょうどそのころ「神を真とすべし」と題する書籍がタイ語で出版される運びとなりました。

‘遠く’から来た,訓練を受けた助け手

移動するそれら忠実な開拓者たち(全時間奉仕者)は,国中の至るところで種をまく業に携わりました。しかし,今や異なった種類の業が必要とされていました。米国のものみの塔ギレアデ聖書学校を出た宣教者たちが到着し,人々の家庭で聖書研究を司会する模範的な型を示しました。また,これら‘遠く’から来た奉仕者たちが自らその土地の言語を学んだことにより,その業はより効果的なものとなりました。土地のタイ人の“特別開拓者”たちがこの奉仕に加わり,土地の監督たちを訓練するためにおもに設けられた王国宣教学校が,やがて非常な効果を収めるようになりました。さらにフィリピン人の宣教者たちが,自分たちの国から直接タイへやって来て,この業に新たな意気込みを加えました。

特に1967年以降,聖書の真理を宣明する業は,タイで目ざましい進歩を示してきました。エホバの証人は,目的をもって,またその成果を期待しつつ宣べ伝えてきましたが,失望することはありませんでした。四万冊以上に及ぶタイ語の「神を真とすべし」と「失楽園から復楽園まで」の書籍が国内に広く配布され,今やタイでは外国からの宣教者も土地の宣教者も,宣べ伝えるだけでなく教える業にも携わるようになっていたのです。また,聖書の真理を宣べ伝えていた人々の相当数が仏教的な背景を持っていた人々であることは注目に値します。神を『求め模索して』いたそれらの人々は,確かにその報いを受けたのです。(使徒 17:27)あちらに一人こちらに一人と散在していたにすぎませんが,彼らはどんなにか貴重な存在だったことでしょう。

忙しく働く,土地のエホバの証人

初期に聖書の真理を受け入れた人々の中に,ビルマとの国境近くに住んでいた一人の少女がいます。その少女は仏教徒として生まれましたが,自分の創造者について知りたいと願っていました。タイ語の聖書と小冊子を手に入れた少女は,自分の読んだ音信に感激し,学んだ真理を宣明する者になりたいと思いました。それまでに彼女は,家族と共に長老教会に入っていて,そこで伝道者としての訓練を施してくれるよう頼みましたが,彼女はいろいろな逃げ口上を聞かされるのみでした。その後ある日のこと,エホバの証人の熱心な“特別開拓者”が,少女の家の玄関先に姿を見せました。少女は,その証人が“羊のおおいを着たオオカミ”であるという警告を与えられていましたが,証人が聖書について話すので耳を傾けざるを得なくなり,その証人からタイ語の「神を真とすべし」を受け取りました。エホバの証人は根気強く少女を幾度も訪問しました。そして,まさに少女が願っていたこと,つまり聖書について,またどのようにして良いたよりの宣明者になれるかを彼女に教えたのです。その少女もまた,エホバの証人の“開拓者”になりました。

南部のバンコクでのこと,タイ人の“開拓”奉仕者が一人の若者を訪ねました。その若者は,勤勉に働き先祖崇拝を行なっていた典型的な中国人家族の一員でした。その若者もまた,模索していたのです。この場合も,正直な心と「神を真とすべし」の書籍,そしてエホバの証人の忍耐強い教える業のお陰で良い結果が見られました。大家族からの激しい反対にもかかわらず,その若者は解放の召しを受け入れ,エホバの証人の“開拓者”になりました。

タイ中央部のピッサヌロで,一人の誠実な男の人が長老教会の長老,また説教師となっていました。意見の相違のためその人の教会は親教会から脱退しましたが,彼は引き続き,毎週日曜日には説教をするために約24㌔もの距離を自転車で通いました。エホバの証人と出会ったその人は,真理を学び,程なくして学んだ事柄を確信しました。彼は毎週自転車で通い続けましたが,今度は聖書の真理を宣べ伝えるためでした。偽りの宗教の標識が教会の建物から降ろされ,その建物は正真正銘の聖書研究の中心地となりました。他にも幾人かの教会員が彼と聖書を学び,それらの人々もエホバの証人によりバプテスマを施されました。

オランダで聖書の音信を学んだタイ人のエホバの証人が,オランダ人の夫と共に故国へ帰ってきました。彼女は,ピッサヌロの北部一帯に四散していた仏教徒の親族たちを訪ねました。彼ら全員を親族懇親の集いに招待したその証人は,聖書の真理を心置きなく語り,ピッサヌロで開かれている会衆の集会に親族の人たちを連れて行きました。彼らのうちの何人かは関心を示すようになり,六㌔ものでこぼこ道を歩いて代わる代わる集会にやって来ました。テープに録音した講演が彼らに送られましたが,その中には「エホバの証人が信じている事柄」と題する巡回監督による講演も含まれていました。エホバの証人の“開拓者たち”がようやく彼らを訪問したときには,到着できた喜びで疲れも忘れてしまうほどでした。それらの謙遜な人々はすでに食事のたびに祈りをささげており,その地域で証言を行なうためにテープを広く用いていました。間もなく,ある家族の,まだ正式に結婚していない父親が,八人の子供を連れて,その子供たちの母親との結婚を合法的なものとするために役場へ行きました。二人は共にバビロン的な宗教から完全に離れ,喫煙もやめました。

一方,オランダから戻ってきたその証人は,他の親族にも聖書文書を送っていました。その親族たちもまた関心を示し,最初に真理を聞いた人々に加われるよう“引っ越し”てきました。引っ越しは彼らにとって大きな問題ではありませんでした。竹と木の葉を用いて数日間働いた結果,りっぱな新しい家が出来上がりました。

そこから50㌔ほど離れたところで,イスラム教徒の一人の若者が,タイ語の「失楽園から復楽園まで」を手に入れました。若者は独りでその本を熟読し,聖書文書をさらに得るため,またエホバの民と交わり,訓練を受けるため,バンコクへやって来ました。自分の妻のいる村へ戻ったその若者は,仏教徒が大半を占める地域で,非常に熱心に,また大胆に伝道し始めました。そこは,常に銃を携帯しマリファナを吸う人々のいる,無法地帯ともいうべきところでした。そこの“よた者”の一人は,新しくエホバの証人になった人が,けんかを売られても穏やかな態度を示すのを見て心を動かされ,関心を示すようになりました。彼もまた喫煙をやめ,真理を他の人々に証しするようになりました。その結果,彼は以前の“暴力団”の仲間たちの非難の的となりました。その仲間たちは彼を試そうとして彼の水牛を盗むなどし,最後には彼を銃で撃ち殺してしまいました。“暴力団”の激しい復しゅうを避けるため,もう一人のエホバの証人とその妻,また関心を示すほかの人々は“引っ越し”て,近隣のエホバの証人のグループに加わりました。彼らは一緒になって,丘の上に小さな王国会館を建て,その周りに自分たちの家を造りました。今や彼らすべては共に平和な交わりを持つことができ,さらにほかの人々を自由にすることに注意を向けています。

長年の間,これら大勢の仏教徒たちに接する上で,数々の問題がありましたが,忍耐は報われつつあります。合計700人余りのタイの熱心なエホバの証人のうち,213人は過去二年間にバプテスマを受けた人々です。一般の人々の態度は変化しつつあり,精神面での礼儀正しい抵抗という柔らかな壁も崩れ始めています。世界の出来事,それもまさにタイの玄関先で起きている出来事を見て多くの人々は,自分たちのタム ディー ダイディー(善をなせば善を受ける)という哲学がこの事物の体制で十分通用するものであるかどうか疑問を抱くようになっています。真理,つまり聖書の真理は,人々がイエス・キリストによるエホバの王国を受け入れる上でさらに積極的な行動を取るよう促しています。そうすることによって人々は楽園の地で永遠の祝福を得るという見込みをもって本当に“自由”にされるのです。

[185ページ,タイの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

チアンマイ

ピッサヌロ

バンコク

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