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  • アルコールの誤用 ― 高い代償の伴う問題
    目ざめよ! 1982 | 10月8日
    • アルコールの誤用 ― 高い代償の伴う問題

      アルコールの誤用は高い代償の伴う問題で,あなたに影響を及ぼしています。「わたしですって。わたしはアルコール中毒ではありません!」と言われるでしょう。ところが,驚かれるかもしれませんが,一滴もアルコールを飲まない人でも,何らかの仕方でアルコールの誤用の影響を受けているのです。すべての人が影響を受けています。どのようにですか。

      全米アルコール中毒協議会(NCA)によると,米国には一千万人ほどのアルコール中毒患者がいます。アルコール中毒患者一人が約4人のほかの人々 ― 同居している家族 ― に直接影響を及ぼすことを考えると,さらに4,000万人ほどがアルコール中毒により直接,有害な影響を受けていることになります。そして,それがわずか1か国における数字であることを忘れてはなりません。

      では,どのような仕方で影響を受けているのでしょうか。身内に飲み過ぎる人がいる場合,恐れや恥ずかしさ,失望,さらには怒りさえあなたにとって無縁の感情ではないはずです。全米アルコール中毒協議会の統計によると,離婚と青少年非行の少なくとも30%,家庭でのけんかや暴行の55%,通報された児童虐待事件の90%までに,アルコールの誤用がからんでいました。全く高い代償を払わされるものです。

      次に,身体的な高い代償があります。長期に及ぶ大量の飲酒は,肝硬変や心臓病,胃炎,潰瘍,膵臓炎,および種々のガンにかかる危険などを含む数多くの慢性的な健康問題と結び付けられています。ですから,アルコールを大量に飲む人は,身体面でも非常に高い代価を支払っているのです。

      たとえ自分では酒を飲まなくても,影響を受けます。アルコールの誤用が原因で,衣服や車,実のところすべての工業製品のために余分のお金を支払わされているのです。米国政府の推定によると,アルコールの誤用のために工場の生産が落ちて,年間200億㌦(約4兆6,000億円)の損害を与えています。それは商品の価格が上がり,品質が悪くなるという形で跳ね返ってきます。

      アルコールの誤用の代償は,人の命をあずかる仕事に就いている人が酒を飲む場合に特に高くつきます。例えば大量輸送機関の運転士や飛行機のパイロット,あるいは外科医などが飲酒のために判断を誤ったらどれほど高くつくことになるか,少し考えてみることができるでしょう。

      車を運転しますか。全米アルコール中毒協議会によると,死者の出た交通事故のすべて(死者の中には自分の側に落度のなかった被害者も含まれる)の50%がアルコールの誤用と結び付いています。そして,たとえ酔っ払い運転の車に跳ねられなくても,自動車保険の保険料を支払う時が来れば,そうした人の飲酒の影響を感じるでしょう。

      しかし,多くの人にとって,アルコールは楽しみとくつろぎの源であることも認めなければなりません。節度をもって飲めば,アルコールはほとんど,あるいは全く人に悪い影響を及ぼさないように思えます。ですから次のように尋ねるのはごく自然なことです。アルコール中毒とは一体何なのか。どうすればそれを見分けることができるのか。どんな対策があるのか。

  • アルコール中毒 ― それに関する事実とゆがんだ社会通念
    目ざめよ! 1982 | 10月8日
    • アルコール中毒 ― それに関する事実とゆがんだ社会通念

      このうち典型的なアルコール中毒患者はどれでしょうか

      1 2 3 4(出版物中の図版を参照)

      あなたは4番を選びましたか。アルコール中毒に関するゆがんだ社会通念の中でも最たるものは,どや街の浮浪者が典型的なアルコール中毒患者だという考えでしょう。実際,アルコール中毒患者の中で大都市のどや街にいる人は5%に満たないのです。残りのアルコール中毒患者は,家庭で子供の世話をしたり,患者の面倒をみたり,オフィスで働いたりしています。

      大きな健康問題すべての中で,アルコール中毒ほどゆがんだ社会通念に覆われているものはないでしょう。では,事実はどうなっているのでしょうか。アルコール中毒を治療するには,事実を認めなければなりません。そして,アルコール中毒を首尾よく治療することは可能なのです。

      ● アルコール中毒患者とはどのような人のことか。

      全米アルコール中毒協議会の創設者で,顧問のマーティ・マンによると,「アルコール中毒患者とは,飲酒のために,生活のいずれかの分野で,持続的で,増大する問題を起こしている人」のことです。ここでかぎとなるのは,「持続的」という語です。例を挙げてみましょう。正常な人の場合,飲酒のために家庭生活や社会生活,ビジネスや専門職の分野での生活に一つでも問題が起きているなら,当人にどれほど決意が求められても,その人は酒量を減らすことができます。しかし,アルコール中毒患者の場合そうはいきません。その人は酒量を控えようとするかもしれません。しかし,どんなに強い決意を抱いていても,一度飲み始めると,その人は制御することができません。こうして,飲酒のために,生活の中で「持続的」な問題が起きるのです。

      ● アルコール中毒が“病気”と呼ばれるのはなぜか。

      一般的な意味で,病気は,「体のいずれかの器官や臓器の機能や構造の障害で,識別可能な特定の症状を持つ」と定義されます。アルコール中毒はこの定義に当てはまりますか。アメリカ医師会と世界保健機関,およびその他数々の医療ならびに政府機関によると,アルコール中毒は病気の定義に当てはまります。

      アルコール中毒患者の体の中には,どういう意味で『機能の障害』があるのでしょうか。アルコールが中毒患者に及ぼす影響は,それが他の人々に及ぼす影響とは異なっています。初期の段階では大抵,アルコールを大量に飲んでも酔いません。また,飲んでいる間完全に意識があって,他の人々の目には正常と映るのに,飲んだ時に言ったことやしたことを後になって思い出せない,一時的な記憶喪失になることがあります。そして,この後にも述べるように,アルコール中毒を見分ける症状があります。

      アルコール中毒は身体的な問題だけで終わるわけではありません。アルコール中毒患者は精神的にも,感情的にも,霊的にも病んでおり,そうした人を助けるための努力を払う際には,これらの要素を考慮に入れておかなければなりません。

      ● アルコール中毒になりやすい人がいるか。

      そう言えるかもしれないことを示す証拠は増えています。例えば,1970年から1976年の間にデンマークで行なわれた調査の結果,アルコール中毒患者を親にもつ男子はアルコール中毒でない人を親に持つ男子の4倍もアルコール中毒になりやすいことが分かりました。しかも,アルコール中毒ではない養父母に育てられた子供の場合も,変わらなかったのです。

      米国のシアトル市にあるワシントン大学で行なわれた別の調査では,アルコール中毒の病歴のある家族のいる若い人々がアルコールを飲むと,血中のアセトアルデヒドaの濃度の高くなることが分かりました。サイエンス・ダイジェスト誌は,「アセトアルデヒドが増えると,陶酔感やアルコールのもたらす喜びが高められることがあり,その結果さらに多くを飲みたいという強い誘引になる」ことを示唆しています。

      しかし,そのような調査結果は決定的ではなく,アルコール中毒にかかりやすい素地の幾らかは遺伝的なものかもしれないということを示しているにすぎません。

      ● アルコール中毒を治療することは可能か。

      “治療可能”という言葉が,正常な,制御のきく飲み方に戻る能力を意味しているのであれば,それはごくまれにしか起きていないため,ほとんどの専門家は,不可能だ,と答えるでしょう。ニューヨーク州のアルコール中毒・アルコール乱用対策局の局長,シェーラ・ブルーム博士はこのことを次のように言い表わしています。「私は患者に言います。ロング・アイランド・サウンド[ロングアイランドとコネティカット州の間にある海峡]のこちら側にいて,サメの横行する海を泳いでコネティカット州側まで渡るよう求められたという状況に身を置いてみてください,と。何百人もの人が泳いで渡れば,一人か二人はたどり着くかもしれません。でも,あなたは飛び込む気になりますか」。

      しかし,アルコール中毒を抑えることは可能です。カウンセラーや回復途上にあるアルコール中毒患者の大半は,それを抑えることのできる最善の道は完全な禁酒にしかないということで意見の一致を見ています。

      ● それは酩酊と同じか。

      同じではありません。酩酊というのは飲み過ぎの結果を表わす言葉です。これは体および精神の能力を制御する力を一時的に失うことです。しかし,酩酊する人がすべてアルコール中毒患者ではなく,またアルコール中毒患者すべてが酩酊するわけでもありません。例えば,回復途上にあるアルコール中毒患者は全く酒を飲まないかもしれませんが,依然としてアルコール中毒患者です。飲み始めれば,結局は抑えが利かなくなるからです。

      聖書は,大量に酒を飲むことも,酩酊することをも道徳的に間違った行為として非としています。(箴言 23:20,21。コリント第一 5:11-13; 6:9,10)しかし,アルコール中毒患者は酔っ払う必要はありません。飲まなければ,しらふでいられます。ところが,自分の状況を十分承知した上で,飲み続けることを選び酩酊し続けるなら,その人は酩酊するという道徳上の問題を抱えることになります。

      ● それは単に意志の力だけの問題だろうか。

      マーティ・マンはこう答えています。「アルコール中毒患者の大半は人並み以上の意志の力を持っている。ほかの人なら寝込んで医者を呼ぶような気分の時でも,彼らは起きて,出勤する」。アルコール中毒患者が単に意志の力に欠けているだけであれば,その大半はどや街の浮浪者になり下がっていたに違いありません。

      アルコール中毒患者は意志が弱いというゆがんだ社会通念は,多分,彼らがアルコールを飲んだ時に起きる事柄,つまり抑えが利かなくなってしまうことに根ざしているのでしょう。ですから,アルコール中毒患者は自分の持つ意志の力を用いて,最初の一杯を飲まないようにしなければなりません。

      ● 精神安定剤はどうか。

      目を覚ますと震えがくるものの,朝から飲む気にはならないアルコール中毒患者は,精神安定剤に手を伸ばすかもしれません。しかし,人間の体にはその違いが分からないことに当人は気付いていないでしょう。アルコールは鎮静剤,つまり気分を変える薬です。精神安定剤や睡眠薬,痛み止め,さらには(抗ヒスタミン剤を含む)風邪薬などと同じ,気分を変える薬なのです。そして,気分を変える物質はいかなるものであれ,アルコール中毒患者を危険にさらしかねません。

      ですから,回復をはかどらせるため,アルコール中毒患者がアルコールだけでなく気分を変える物質すべてを断つよう勧める専門家は少なくありません。

      ● アルコール中毒患者の飲酒は正常な飲酒とどのように異なるか。

      アルコール中毒患者の飲酒は正常と認められる限度を越えています。例えば,知人が押入れの中に隠れて牛乳を飲むようになったら,どこかがおかしいとの結論に達するに違いありません。それは正常ではありません。ところがアルコール中毒患者は非常に多くの場合に隠れて酒を飲み,後で飲むためにアルコールの入ったびんを隠しておくことさえします。酒を飲んでも,正常な人はそのようなことをしません。

      しかし,アルコール中毒の飲酒と正常な飲酒との最大の相違点は飲酒を抑えることができるかどうかです。社交的飲酒者は,たとえ飲む量が多くても,自分がいつ,どれほど飲むかを自分で決められるのが普通です。アルコール中毒患者にはそれができません。いつもいつも,自分が意図した以上飲んでしまいます。

      ほかの人があなたの飲酒について心配することが多くなっていますか。自分に対して正直になりましょう。『いつでも好きな時にやめられる』と言われるかもしれません。そして,その通りかもしれません。しかし,“禁酒すること”は試金石にはなりません。最も症状の進んだアルコール中毒患者さえ,ある期間禁酒することが時にはできるからです。それに,禁酒期間中どんな気持ちがしますか。平静にして,くつろいでいられますか。それとも,神経質になって,緊張しているでしょうか。抑えることができるかどうかがかぎになっていることを忘れてはなりません。ですから,「アルコール中毒者自主治療協会」という本は,「飲んでいる時に,飲む量をほとんど制御できないようなら,あなたはきっとアルコール中毒患者であろう」と述べています。

      ● アルコール中毒患者はどうして自分の身に起きている事柄を認められないのか。

      自分の状態が悪化するにつれて,アルコール中毒患者の自分に対する価値感は低下し,その代わりに不安や罪悪感,恥ずかしさ,自責の念などが頭をもたげます。自分の状況に耐えて生きてゆくために,その人は無意識のうちに幾つかの防衛機構を用いています。

      正当化: 飲酒とその影響について様々な言い訳をするようになります。「気が立っているんだ」,「気がふさいでいる」,「すき腹に飲んだものだから」といった言い訳です。

      投射: 自分のつらい感情を他の人に帰します。そうなると,他の人々を「憎しみに満ちている」,「悪意に満ちている」,「意地が悪い」,「自分に敵対している」などと見ます。

      抑圧: 飲酒による不快な出来事について知らぬ顔をし,そうしたことは決して起こらなかったと自分に実際に言い聞かせてしまいます。ですから,妻が前の晩のどんちゃん騒ぎのことで心を乱していても,当人は寄り添ってきて,『今朝は何か心配事でもあるのかい』と尋ねます。そして,奥さんの方は自分の耳を疑うのです。

      多幸症的回想: 飲酒による出来事の記憶が多幸症的な場合,つまり幸福感にあふれる場合もあります。ですからその人はこう言うかもしれません。『ええ,昨晩一杯やりましたよ。でも,実にいい酒でした』。ところが実際には,『いい酒』などではなかったのです。アルコールがその人の知覚力をゆがめてしまったのです。

      こうした防衛機構は,アルコール中毒患者が自分の身に起きている事柄を認めるのを妨げる否認の壁を築き上げます。この人は助けを必要としています。b

      ● どんな種類の助けが必要とされているか。

      『酒をやめるための助けを必要としているだけだ』とお考えになるかもしれません。ところが,アルコール中毒患者にはさらに多くの事柄が必要とされているのです。

      身体面: その人が無事アルコールをやめられるようにしなければなりません(“解毒”)。これには入院が必要とされることがあります。そうすれば,アルコールに関連した健康問題に対処することもできるでしょう。しかし,身体的に回復するだけでは十分ではありません。さもなければ,一度気分がよくなってしまうと,『もう飲んでも大丈夫』と考えるようになるでしょう。

      精神面: 中毒患者はアルコール中毒に関する諸事実を学び,自分が禁酒をする筋の通った理由を知り,それを受け入れなければなりません。この知識は,いつもしらふでいるための一生涯にわたる闘いにおいて当人の助けになるでしょう。

      社会面: 自分自身および他の人と気持ちよく付き合ってゆく仕方を学ばなければなりません。

      感情面: 自分の内にある不安やその他の消極的な感情に対処する方法を学ばなければなりません。アルコールがなくても幸福でいられる方法を学ばなければならないのです。

      霊的な面: 絶望感と恐れに打ちひしがれやすいので,希望と確信と信頼を与えるような助けを必要としています。

      ● どこからそのような助けを得られるか。

      様々な形の治療法がありますが,どうしても必要なものとして際立った事柄が一つあります。それは,偏見のない,同情心に富む人,それも同じような状態に陥って立ち直った人を相談相手に持つことです。これは希望を与えるものとなり得ます。アルコール中毒患者が自分も立ち直れることを悟れるからです。

      アルコール中毒社会復帰センターに助けられたアルコール中毒患者も少なくありません。そのようなセンターには,内科医・精神科医・心理学者・訓練を受けた社会事業家など様々な分野出身の職員がいます。ここで患者は,十分に行き届いた教育課程を経て,自分の受け入れられるような仕方でアルコール中毒について学ぶのが普通です。

      さらにまた,訓練を受けたカウンセラーの指導による集団治療の時間も,問題を抱えた患者に実際的な支援を差し伸べるものとなることがあります。当人が心を開いて,自分が無意識のうちに使っている防衛機構に気付くよう助けられるからです。自分が実態をつかんでいないものを変えることはできないので,そのような洞察は本人が立ち直る一助となります。しかし,どんな治療法を使うにしても,根本的な目標は患者がアルコールに頼らずに感情面で問題に取り組んでゆくことを学ぶよう助けることです。

      ところが,そのような治療から一度離れてしまうと,立ち直りつつあるアルコール中毒患者は,かつて自分を飲酒へと向かわせた現実に取り囲まれているのに気付くでしょう。自分に関する消極的な感情や家庭問題,不安定な雇用状況などが依然として尾を引いているかもしれません。そうした人が問題と取り組んでゆくために引き続き助けを必要としているのは明らかです。中には,立ち直りつつあるアルコール中毒患者で,献身的に助け合っている人々から成る地元の有志のグループにそのような助けを求める人もいます。c

      さて,もう一つ別の源から得られる助けもあります。それは,人生に取り組み,いつもしらふでいるための日ごとの闘いにおいて,立ち直りつつあるアルコール中毒患者に「普通を超えた」力を与えることができます。それは何でしょうか。―コリント第二 4:7,8。

      立ち直りつつある一人のアルコール中毒患者はこう述べています。「私が首尾よく抜け出せたのは,エホバに対する自分の信仰と祈りの力,クリスチャンの兄弟たちから与えられた助けなどのおかげです。それがなかったら,今ごろはアルコールのためにどん底の生活に陥っているか,死んでいたでしょう」。エホバの証人と聖書を研究し,クリスチャンの集会に出席して,この男の人は神への真の信仰を見付け,愛あるクリスチャンの仲間を得たのです。では,こうしたものはどのような仕方で助けになるのでしょうか。

      神の言葉を研究することにより,立ち直りつつあるアルコール中毒患者は自分の考え方を変えるよう助けられます。(ローマ 12:1,2)エホバがあわれみ深く,許しを与えられる神であることを知るようになるにつれて,罪悪感や自責の念は和らぎます。(出エジプト記 34:6,7)また,聖書の原則は,家族生活を向上させる方法,どんな雇用者でも喜ぶような働き人になる方法,不必要な思い煩いや心配を生み出す考えや行動を避ける方法などを教えてくれます。―エフェソス 5:22-33。箴言 10:4; 13:4。マタイ 6:25-34。

      エホバ神との間に信頼関係を築くにつれ,その人は自分の心配事や重荷を祈りによって確信をもってエホバにゆだねることを学びます。愛あるクリスチャンの友人たちの助けにより,その人は自分の感情や必要をはっきりと伝える方法を学び,恐れることなく他の人に近付けることを悟ります。このような関係は,立ち直りつつあるアルコール中毒患者が大いに必要としている安心感や自分に価値があるという意識を吹き込むことになります。―詩編 55:22; 65:2。箴言 17:17; 18:24。

      さて,ご自分で自分の飲酒のことが心配になってきましたか。あるいはほかの人が心配するようになりましたか。飲酒はあなたの生活の一つかそれ以上の分野で問題を引き起こしていますか。それでは,何らかの対策を講じるようにするのです。それほど多くの不快な事柄や問題を引き起こしかねないものにどうしてしがみ付いているのですか。(ゆがんだ社会通念ではなく)事実を学び,それと調和した行動を取ることにより,アルコール中毒から立ち直り,幸福で産出的な生活を送ることは確かに可能なのです。

      [脚注]

      a アセトアルデヒドは,体がアルコールを分解する際に作り出す物質です。

      b 「目ざめよ!」誌の今後の号に,家族のできる事柄を扱った記事が載せられます。

      c 言うまでもなく,聖書の原則に従って生きたいと願う人は,どんな助けを選ぶかに関して入念な選択を行なう必要があります。何らかの仕方でクリスチャンの原則を曲げさせたり,そうすることを勧めたりする結果になる治療法や組織の活動に巻き込まれたくはないでしょう。

      [8ページの拡大文]

      「普通を超えた」力を与える助けの源がある

      [8ページの拡大文]

      飲酒はあなたの生活で問題を引き起こしているか。それほど多くの不快な事柄や問題を引き起こしかねないものに,どうしてしがみ付くのか

      [5ページの囲み記事]

      アルコール中毒の症状

      (これらはアルコール中毒の症状の一部であり,これらの症状の表われ方は人により異なることに注目してください。)

      初期の症状になり得る事柄

      ● アルコール飲料を一気に飲む(「ほかの人のペースはどうも遅くていけない」)

      ● 隠れてアルコール飲料を飲む

      ● 飲む前の一杯(「パーティーの前に一杯やってもいいな」)

      ● 酒に強くなる

      ● 記憶喪失(「昨日の晩どうやって家に帰って来たのだろう」)

      中期の症状となり得る事柄

      ● 抑えることができなくなり始める

      ● 問題を認めない

      ● 飲酒のパターンを変える(「ビールに変えた方がよさそうだ。スコッチを飲むとどうもいけない」)

      ● “禁酒”を試みる

      ● 独りで飲む

      末期の症状となり得る事柄

      ● 全く押えることができなくなる

      ● 飲み騒ぎの回数と度合が増す

      ● 酒に弱くなる

      ● 道理に合わない恐れや不安

      ● 振顫譫妄

      [6ページの図版]

      この人の体には違いが分かるだろうか

      [7ページの図版]

      正常な人が酒を飲むとき,このようなことをするだろうか

  • アルコール中毒から立ち直って
    目ざめよ! 1982 | 10月8日
    • アルコール中毒から立ち直って

      一男性の体験談

      必死になって自宅の電話番号を回そうとする私の目に,ダイヤルの番号が溶けて一緒になっているように見えました。少し前に飲んだ5錠の鎮静剤の効き目がその時頂点に達していました。倒れないよう公衆電話につかまる私の耳に,「もしもし,どなたですか」という母の声が聞こえてきました。

      ありったけの集中力を振り絞り,私は不鮮明な言葉でこう言いました。「僕です。今晩は帰りません。友達の所に泊ります」。一言一言が思うように言えませんでした。自分の舌が20㌔もあると思えたほどです。

      「だめじゃないの! また鎮静剤を飲んだんでしょう! 体がしびれているのね!」と,母は息を切らせて言いました。

      私は受話器を置き,千鳥足で自分の車に向かいました。友人の所に泊るつもりはありませんでした。そうではなくて,車で浜辺へ行こうとしていたのです。運転しながら,自分が反対車線を走っているのに気が付きました。それも幹線道路上でです。私は分離帯を越えて浜辺へ行く道に入り,対向車には辛うじてぶつからずに済みました。そして,車を止めて,翌日まで眠り込みました。

      これは,アルコール中毒のために私が危うく命を失いかけたことを示す一つのエピソードに過ぎません。『でも,鎮静剤を飲むこととアルコール中毒とどういう関係があるのか』とお尋ねになるでしょう。当時,私もそのつながりを理解していませんでした。しかし,そのつながりを身をもって,それも痛い思いをして知ることになりました。

      まず,少し背景を説明することにしましょう。私は十代の時に鎮静剤を飲むようになりました。最初は精神安定剤をくすねることから始めました。母はいつもそうした薬を沢山置いていました。2年ほど後に,職場の友人から,非常に強い鎮静剤であるセコバルビタールを初めて飲まされました。その結果,鎮静剤の量を減らして,同じ効果を得られるようになりました。確かに父と母はヘロインや大麻については警告していました。しかし,私の飲んでいた鎮静剤はそれほど危険ではありませんでした。というよりは,そう思い込んでいました。

      1年足らずで,ひどい常用癖に陥り,一日に30錠も飲むようになっていました。

      年がら年中陶酔していたいと思ったわけではありません。a 私はただ働いてゆくために薬を必要としていました。薬を飲まないと,極度に神経質になり,不安感が高じ,震えが止まらなくなったことでしょう。

      私は車を数台大破させ,逮捕されましたが,その後に両親は治療を受けさせるために私を病院に送りました。そこで私は徐々に解毒の処置を受け,筆舌に尽くし難い苦しみを経験しました。幻覚があり,震えがきて,道理にかなわない極度の恐れがありました。例えば,私のガールフレンドの所には電話がなく,私の方が電話を受けることもできなかったので,前もって決めておいた時間に公衆電話の所にいる彼女に私が電話をかけたものです。ところが,私は彼女がそこにいないのではないだろうかといつも恐れていました。それは極度の恐れでした。

      さて,3週間ほどたって私は退院し,新たな気持ちで出発する備えができました。『これでやっかいな問題は終わった』と私はひそかに考えました。実際にはやっかいな問題はまだまだ終わっていなかったのです。

      酒を飲むようになったのです。驚いたことに,最初から大量のアルコールを飲んでも酔うことはありませんでした。しかし,自分が憂うつな気分にどんどんはまり込んでゆくことが分かるまでに長くはかかりませんでした。恐ろしい不安感に襲われ,車を運転するのも他の人に話すことさえも恐ろしくなりました。手は震え,冷汗をびっしょりかきました。震えておびえながらやっとの思いで職場にたどり着く日が多くありました。全くたどり着けない日もありました。混乱して妄想に悩まされ,身体的にも精神的にもすっかり参っていました。ついにある日のこと,上司に電話をかけて仕事に出られないことを告げると,「ということは,首になるということだぞ。分かっているんだろうな」という警告が返ってきました。

      「分かっています。でもどうしようもないんです。どうやら神経衰弱になってしまったようです」。こう言って受話器を下ろすと,数分後に電話が鳴りました。

      上司の声で,「どんなことをしてでもいいから会社の医務室まで来るんだ。すぐだ」と言いました。

      私はその通りにしました。そして,医師たちに鎮静剤に関する自分の経歴を説明し,神経衰弱になっているようだということを話しました。

      医師の一人が,「フレッド,神経衰弱にかかっているのではないよ。君はアルコール中毒なんだ」と説明しました。

      「でも,そんなことはあり得ません。わたしは一晩にビールを三,四杯飲むだけなのだから」と言い返しました。

      「どれだけ飲むかではないんだ。問題は,一個の人間としての君にアルコールがどんな影響を及ぼすかということだ。君の問題はそもそも,君が常用癖のつきやすい体質をしていることにある。アルコールだろうと鎮静剤だろうと,どんな薬物をも使わずに生きてゆく方法を学ばなければならない。薬なしに幸福になる方法を学ばなければならない」。

      それから,医師は私をアルコール中毒社会復帰センターへ数か月間送り込みました。そこでアルコール中毒について多くのことを学びました。例えば,アルコール中毒患者であれば鎮静剤は一切避けねばならないことを知りました。液体(アルコール)であろうと,錠剤(精神安定剤など)であろうと,アルコール中毒患者の体に及ぼす影響はほとんど同じです。そのセンターで,栄養やビタミン,自己訓練の伴う組織立った生活をすることなどの価値をも学びました。

      しかし,私が立ち直る面で本当にかぎとなったのは,「薬なしに幸福になる方法を学ばなければならない」という医師の言葉でした。お分かりのように,アルコール中毒患者は極度の心配性で,ありとあらゆることについて心配します。しかし,聖書の研究を通して「薬なしに幸福になる」ことを学びました。確かに,以前から聖書についての知識は幾らかありました。しかし,一層真剣な研究の結果,エホバ神を知るようになり,父と子の関係に入って神に近付くようになりました。私は自分の思い煩いを神に投げ掛けることができ,その結果,生活について過度に心配しないですみます。(マタイ 6:34)また,私を家族の一員として扱ってくれる仲間のクリスチャンとの交わりをも持つようになりました。私は彼らが引き続き差し伸べてくれる愛と支援に深く感謝しています。

      言うまでもなく,アルコールと気分を変える薬を完全に断つことが自分にはどうしても必要であると分かりました。そうするようになってから既に数年がたちます。しかし,私は本当に満足しており,幸福です。私には神エホバと自分の家族と愛するクリスチャンの兄弟姉妹たちがいます。一体だれがそれ以上のものを望めるでしょうか。―寄稿。

      一女性の体験談

      私は付き合いでお酒を飲んでいました。思い出してみると,主人も私も,特別な機会を除いて,アルコール飲料を家に置いておくことはめったにありませんでした。しかし,お酒を飲み続けるにつれて体に耐性が出来上がり,やがて体を動かすのにお酒に頼らなければならなくなるなどとは,当時思ってもみませんでした。

      飲酒は私の性質を徐々に,著しく変化させました。私は自分がけんか腰で暴力を振るうようになるのに気が付きました。子供たちを殴って,それには正当な理由が十分あると実際に考えていました。今にして思うと,実際には自分自身に対して腹を立てていたのが分かります。私は妄想に悩まされ,疑念を抱くようになりました。ある部屋に入って,二人の人が話しているのを見ると,私のことを好ましく思っていないので二人が私について話しているに違いないと思い込みました。子供たちは「ママ,ママのこと大好きだよ」と言って安心させようとしました。しかし,私のことなど好きなはずがないと思い込んでいました。

      私の内部で起きていた恐ろしい闘いはとても口で言い表わせるものではありません。飲んで事を起こすたびに,耐えられないような罪悪感と恥ずかしさにさいなまれました。「二度とこんなことは起こすまい」と自分に言い聞かせるのですが,やはりしてしまうのです。しかも何度も何度もそれを繰り返しました。

      信頼と尊敬に値する友人たちからは,酒量を控え,節度を保つようにとの忠告を受けました。自分の飲酒を抑えるために考え得るありとあらゆる事柄を試してみました。別の土地へ移ればよいかもしれないと考えて,引越しもしました。次に,飲むものを変えることが答えになるに違いないと考えました。そこでワインを飲み始めました。ところが,何を試しても,酒量を減らすことも,自分の飲酒を抑えることもできなかったのです。

      何年たっても,私はひそかにお酒を飲み続け,どれほど飲んでいるかだれにも知られないように大量にお酒を飲み続けました。お分かりかもしれませんが,アルコールの影響下にあって,どうにかこうにか働いていました。アルコールさえあれば,仕事を辞めずに,家族と家の世話をしてゆくことができました。家族に悟られないようにするため,私は欺きの名人になりました。居間のアルコール類を入れた棚のびんは隠れみのに過ぎませんでした。家族の者はアルコール類を下水に流したり,それを水で割ったりしたものです。しかし,私はほかの所にびんを隠しておきました。事実,一時などは,浴室・車庫・車・納戸・ハンドバック・鏡台の引き出しなど家中の至る所に25本のびんを隠していたことがありました。

      このころまでには夜眠るのが難しくなっていました。アルコールだけでは寝つけなかったのです。そこで,医師のところへ行って睡眠薬の処方せんを書いてもらいました。(飲酒については医師に話しませんでした。)毎晩寝つくために,アルコール類と一緒に睡眠薬を飲んだものです。

      この間ずっと,家族は私がアルコール中毒にかかっていると言いましたが,私は納得できませんでした。私はこう言って弁解したものです。「わたしを見てちょうだい。わたしはどや街のルンペンなんかじゃないわ。勤めに出ながらあなた方子供たちをきちんと育ててきたじゃないの。わたしがそんなひどい人間だなんて,よくも考えることができたわね」。

      そしてある晩のこと,アルコールの蓄えを補充するのを忘れたことに気が付きました。それまで約8年間というものは,寝付くためにアルコールと睡眠薬に頼っていました。その夜は一生で一番恐ろしい夜となりました。幻覚を見,奇妙な物音を聞きました。だれかに殺されるのではないだろうか,いや殺されるに違いないと思いました。夜が更けるにつれて,事態はどんどん悪化し,夜が明ける前に自分は死ぬに違いないと感じました。

      それでも,翌朝すぐに酒屋に行っていました。そして,そのお酒をぐっと飲んだ時,本当に大きな変化を味わいました。急に我に返ったように思えました。しかし,その日の後刻,本当に自制心というものを全く失ってしまい,娘をひどく打ちたたいてしまいました。その時点で,自分には専門家の助けが必要だということを悟り,アルコール中毒社会復帰センターに入ることに同意しました。でも,自分の問題がアルコールにあるとはまだ考えていませんでした。自分には精神的な問題があり,それだからこそお酒を飲まなければならないのだ,と思い込んでいました。

      そのセンターのカウンセラーは,「お飲みになる方ですか」と尋ねました。

      「ええ,でもそれほど飲みませんわ」と,私は弁解がましく答えました。次に,カウンセラーはアルコール中毒の様々な症状を要約した表を私に見せ,自分に当てはまるものに印を付けるよう求めました。印を付け終わるころまでには,『もしかすると自分はアルコール中毒かもしれない』と考えるようになって,背筋が寒くなりました。

      そのセンターにとどまっていた3か月間,アルコール中毒について,また,それが個人としての私にどんな影響を及ぼし,私をどのように変えるかについて多くのことを学びました。立ち直りつつある他のアルコール中毒患者に会い,その人たちの話を聞いて,自分がその人たちと全く同じであるのに気付きました。

      しかし,立ち直るための継続的なプログラムには,私を大いに助けてくれた別の事柄が含まれていました。事実,私に関する手紙の中で,社会復帰センターは次のように述べました。「彼女は自分の宗教のおかげで,立ち直るためのプログラムにおいて一層平衡の取れた態度を保っています」。エホバの証人として,私は毎週定期的に集会に出席し,そこで聖書の原則をどのように当てはめるかを学んでいます。おかげで,お酒を飲まないでも幸福感を味わえるようになりました。自分が聖書から学んだすばらしい事柄を他の人々に分かつ時に,喜びは増し加えられます。

      エホバ神により一層近付くことにより,フィリピ 4章6,7節の次の言葉の真実さを身をもって経験しました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。そうです,「一切の考えに勝る神の平和」のおかげで,一歩一歩,回復に向けて進歩してゆくことができるのです。―寄稿。

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