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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1979
塔79 8/1 5–10ページ

原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”

フレッド・ウィルソンの経験

1940年代の初め,私にとって“それが問題”でした。『たいして問題ではない』と言われるでしょう。確かに見かけはやさしい問題です。世界は原子力時代を迎えつつあったからです。物理学者には高収入の仕事が沢山ありました。そして仕事は興味深く,夢中にさせるほどでした。では,なぜそれは問題でしたか。

根本的には宗教が関係していたからです。もっと興味深く,もっと夢中にさせるものが,生活の中に入ってきたのです。しかし数年さかのぼって背景をお話しすることにしましょう。

私の家族が住んでいたのは,小麦の収穫に万事,依存しているカナダ大草原の典型的な寒村でした。幼い時から私たちは勤労の価値を教えられ,学校を終えると,店で働いたり,木を切ったり,小麦を運んだり,馬を駆ったりして収入を得ました。家で私たち4人兄弟は姉妹のいないことを嘆きました。料理をし,皿を洗い,衣類を洗濯し,アイロンをかける仕事が私たちに回ってきたからです。何年も後になって初めて,私は幼い時に学んだ事の価値を認識するようになりました。

幼少期の宗教的背景

“深入りすまい”とする私たちの努力にもかかわらず,宗教は生活の中で明確な役割を占めていました。母は,“福音会館”で集会をしていた“地獄の火”グループという厳格な派に属していました。それは私たちが自分たちの宗教の名前として知っていた唯一のものでした。父はフリーメーソン団の会員で,宗教のことは母に任せていました。日曜学校に行かされる自分にひきかえ,家に座って新聞を読んでいる父が何とうらやましかったことでしょう。母と祖父は聖書の朗読を日課にしており,その時間にうっかり家に居ようものなら,いや応なしに参加させられました。

少年時代すでに宗教嫌いになったのは,ある冬の晩の出来事のためでした。巡回説教者を迎えて開かれることになった特別な集会のため,会館に火をともす番がちょうど私に回ってきていました。火が具合いよくともったところへ入って来たのは,だれあろう巡回説教者自身でした。彼は私を椅子に座らせ,説教を始めました。彼は私がその場でひざまずいて“救われる”ようになる事を望んだのです。「もしそうしないなら,それはあなたのお母さんをうそつき呼ばわりするのと同じです」と彼は言いました。とんでもない,だれがそんな事をするものですか。しかしそれでも私は彼の言う通りにする事が出来ませんでした。とうとう彼はあきらめ,帰ってもいいと言いました。その時から宗教に対する私の関心は衰えてゆきました。

生涯の仕事に備える

1930年代の初めに大草原は不況に見舞われ,私たち家族は暮らしを立てるのが困難になりました。それが最高潮に達した1937年に私たち兄弟4人は家を離れ,不況のそれほど激しくない州で仕事を捜さねばなりませんでした。私たちは一緒にマニトバ州に出て数か月間働き,仕送りをして後,家に帰りました。

このお金はサスカチェワン大学で学んだ時の授業料と下宿代の支払いに役立ちました。カリキュラムは様々の分野にわたり,その中には生物学があって進化論の基礎を教えられました。地獄の火の宗教の経験があったので,この理論はもっともらしく聞こえました。進化論を疑問視するならば,“受け入れ難いこと”つまり創造を受け入れることになります。ですから私たちは何も問わずに学説を盲目的に信じました。

1938年に卒業すると,私は原子物理学を専攻する道を進むことに決めました。私たち卒業生は在学生を教える実験所の教師として雇われたので,経済的な事情はいくらか好転し,私はまた表面のガンを治療するガン診療所が大学に設置したラドン工場で技術者としても働きました。技術者としての私の仕事は,放射能のあるラドンガスをくみ出して,細い黄金の管に蓄えることでした。その管は後で小さな“種”に切り分けられ,医師の手でガン周辺の組織に入れられます。ラドンの放射能は健康な組織にそれほど影響せずにガンを襲います。ラドンは一定の率で崩壊するため,特定の時に予定されているどんな手術に対しても,必要な強さを決定できました。放射性物質に見られるこの仕組みと秩序の証拠は,私を次のようにいぶからせた多くの事実のひとつに過ぎません。「進化論が我々に信じ込ませようとしているように,こうしたことが単なる偶然によって生じるという事が果たしてあり得るだろうか」。

その当時,私は修士号を得るためG・ヘルツベルグ博士(1971年のノーベル化学賞受賞者)の下で,シリコン硫化物(SiS)分子内における原子間の距離を決定する実験に携わっていました。これはSiSの吸収スペクトルの線の波長を測定し,また複雑な数学の公式を使って決定するのです。ここにも秩序と意図の証拠がありました。このすべての背後には科学者と数学者である神が存在することを,それは意味したのです。しかし,だれ? どのように? いつ? という肝心な疑問は答えられないままでした。

私たち卒業生はすべて奨学金を申請していましたが,私は米国のマサチューセッツ工科大学とコーネル大学からの提供を受けてどんなに歓喜したことでしょう。しかし世界の状況は驚くほどの早さで変化しつつありました。“原子の分裂”が新聞紙上に報じられた時,私たち理学部の者がどのように感じたかを今でも覚えています。ヘルツベルグ博士が深い感慨をこめて「人間に出来ない事は無くなってしまったのではないか」と語った言葉には,破滅を感じさせる響きがありました。第二次世界大戦が進展するにつれ,私たちはその及ぼす影響を懸念しました。そのうちカナダが国境を閉鎖したので,科学を専攻した卒業生は出国できなくなりました。そこで私はトロント大学での研究を続けるため,学術研究会議の奨学金を申請して(1941年に)それを受けました。

そこで私は博士号をとるための課程を修了し,同時にレーダーの基礎を教える陸軍軍属として大学で働きました。1943年にこの課程が終わった時,教えていた者たちは研究を続けられるような事態になるまで工場に勤めるか,それとも攻撃を受けやすいカナダ東部の国境で海軍のレーダー技師として働くかの選択を迫られました。しかし1942年に私は物理療法の学生であったグレイスと結婚しており,彼女のクラスの卒業生の大半は看護隊に入隊しつつありました。これは別居生活を意味するので私たちは軍隊に入ることをやめ,私は航空機計器の会社に実験物理学者として就職しました。

この質問に直面するようになった事の発端

私たちは二人ともあまり宗教的ではありませんでしたが(事実,私は進化論の基礎をグレイスに教え始めていました),どこかの教会に属すべきであるとは考えていました。そこで色々な教会に行き,その度に説教を後で検討してみました。ある教会では書評,別の教会では軍隊に応募することを勧める説教といったぐあいで,どれも似たようなものであるため,私たちはただ聖書を買って自分で読むことにしました。その何週間か後に一人の婦人が訪れて幾つかの聖句を妻に読み,再び訪問することを申し出ました。「最終試験の勉強で今忙しいから2か月後に訪問するように言ったわ」と,グレイスは後で私に語りました。「たぶん来ないだろう」と私は答えましたが,それは間違いでした。彼女は来たのです。来客があったので,翌日の晩に訪問してもらうようにしました。

婦人が夫を伴って訪問した時,私たちはかなり気がかりでした。私が最初に尋ねた事のひとつは,「あなたがたは地獄についてどのように信じていますか」という質問でした。「私たちが何を信じているかは,実は問題ではありません」と彼らは答えました。「大切なのは聖書が何を教えているかということです。聖書をお持ちですか」。こうして私たちは自分の聖書の中から,「地獄」と書かれている聖句の欄外に「あるいは墓」と記されている箇所のあることを示されました。これは確かに私たちを考えさせるものでした。こうしてファーンベルド夫妻(夫テイジと妻エルシー)との一連の聖書討議が始まったのです。その夫妻は伝道に全時間をささげている人たちでした。数回の訪問の後,彼らはエホバの証人である自分たちがカナダで禁令下にあることを私たちに告げました。それを聞いても私たちはあまり気になりませんでした。学んでいる事柄が喜びとなっていたからです。事実,ほどなくして妻と私は彼らに伴われて家から家へ「良いたより」を宣べ伝え始めました。3か月後の1943年8月22日に私たちは米国ミシガン州デトロイトで開かれた大会でバプテスマを受けました。

当時,私たちの多くはハルマゲドンが間近に迫っているものと信じていました。(啓示 16:14,16)それで私たちはテイジとエルシーがしていたように,もっと多くの時間を伝道の業にささげるべきであると考えました。また私は自分の仕事のために良心に痛みを感じ始めていました。それはクリスチャンの中立と相いれるものですか。私たちは王国のことを人々に告げていました。そしてイエス・キリストは,「わたしの王国はこの世のものではありません」と言われています。(ヨハネ 18:36)それで軍用機の計器製造にあずかるのは,世の一部になることですか。(イザヤ 2:2-4)他方,物理学者を志して学んだ年月を考える時,このような仕事をあきらめるべきですか。熟考のすえ,私は1943年11月に辞表を出し,「良いたより」の全時間宣明者として働き始めました。

問題に直面する

その時まで私は兵役を免除されていました。私の仕事は戦争の遂行に不可欠と考えられていたからです。ところが免除は取り消され,それと共に召集令状が来ました。私は当局に手紙を書き,全時間奉仕者を続けたい旨を説明すると共に,このような者として義務兵役からの免除を求めました。その答えは12月25日に6人の警官という形で与えられました。二人が玄関に,二人が裏口に立ち,二人が私たちの住んでいた家の中に入って来ました。そして私はどこにいましたか。風呂に入っていたのです。その後しばらくは,のんびりと風呂に入ることもできなくなりました。私は義務兵役不履行のかどで逮捕され,トロントで禁固1か月の宣告を受けました。その後,私は軍隊に引き渡されるのです。

今や私は自分の立場を落ち着いて考える時間を与えられました。「原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”」という質問には否定の答えが出されつつありました。それでも奇妙なことに私は意気消沈しませんでした。「将来いつかは研究を続けることが出来るだろう」と私は考えました。もっと大切な質問に対して納得できる答えがすでに得られていたのです。私はエホバという名を持たれる創造者の存在を知っていました。(詩 83:18)また平和と正義の新秩序を確立するという,エホバのお目的を知っていました。それだけでなく,私たちはそれにあずかることができるのです。私は自分たちがどこへ行きつつあるのか,またなぜかを知っていました。それで刑務所に居た1か月の時を賢明に用い,聖書全巻を読み終えました。これは私の決意を強めるのになんと役立ったのでしょう。

しかし信心深い母からの手紙は私を悲しませるものでした。「息子のひとりが犯罪者になることなど,思ってもみなかった」と,それには書かれていました。ところが不信心な父は,「息子よ,もしこれがお前の信ずることならば,たとえマッケンジー・キング[首相]であろうと,だれであろうと他の人に言われて考えを変えるようなことのないように」と書いてきたのです。親のそれぞれが示した反応は私が思っていたのと正反対でした。

刑務所に入って最初の数日間,同じ監房の囚人たちは私を嘲笑しました。そして窃盗,麻薬中毒者,不潔な飲んだくれなど,彼らは何という連中だったのでしょう。その中にはウイスキーを満載したトラックを強奪して裁判を待つ身となっていた公敵ナンバーワンのミッキー・マクドナルドもいました。ある日,他の者たちが私をののしっていた時,彼は言いました,「おい,お前たち,我々は皆,同じ穴のむじなだ。しかしこの男は何も悪事を働いていない。彼に手を出すな。さもないと承知しないぞ」。それからというもの,私をわずらわす者はいませんでした。

刑期を終えると,私は入隊するために引き渡され,部隊長がすべての書類に署名すると,私は今や一兵卒でした。特定の命令に従うことを拒絶すると,私は拘留され,軍法会議にかけられることになりました。法廷では三人の裁判官の前で弁明する十分の機会が与えられ,『語るべき事を聖霊に教えられる』のを実感したのは,スリルに満ちた新しい経験でした。聖霊はヨハネ 17章16節やダニエル 2章44節のような適切な聖句を思い起こすのを助けてくれたからです。(ルカ 12:11,12)審理の後で裁判官の一人は私を脇に呼びました。私は大学の将校教育部を通してすでに陸軍に任官されていたので,私がなぜ兵役を拒否するのか彼には理解できなかったのです。そこで彼は軍隊付牧師として入隊することを提案しました。そうすれば私はこれ以上,軍法会議にかけられることを免れるでしょう。私がそれを拒んだ理由をせんじ詰めて言えば,「銃を祝福する者と銃の引き金を引く者とでは,どちらがいっそう非難されるべきか」という事でした。私は6か月の刑を宣告され,ナイアガラ・オン・ザ・レイクにある軍の仮収容所に入れられました。

この収容所は12ほどの独房を設けた小さな兵舎と,周囲がへいで囲まれた大きな敷地から成っていました。係の将校 ― 背が低く,ずんぐりした体格で雄牛のような声の男 ― は,何が要求されているかを,間違いようのないほど明瞭に私たちに告げました。しゃべることは一切許されず,万事“かけ足で”行なわねばなりません。私たちは手がひび割れてすりむけるまで床をこすらされ,次いで炎天下の構内を,汗が滝のように流れるまで走らされました。おくれそうになる者がいると,見張りの兵士の銃の台尻が彼をせき立てます。次には水を入れた容器を頭上に持ち上げ,今度もかけ足で,こぼれる冷たい水を浴びながら構内を走らされるのです。これは日課でした。

私たち三人の証人がこの収容所に入れられていました。しかし程なくして一人は兵役につくことに決め,釈放を待つ間,私と話し合う自由を与えられました。それは彼のとった道にならうように私を説得するためです。しかし神の目的について知識を得たのはエホバの証人と交わった結果であることを認識していたゆえに,私は彼らに堅くつくことを決意していました。

収容所の厳しい環境の中で時間のたつのが遅く感じられました。しかし遂に釈放の時が来て,私は兵営に戻されました。同じ事が繰り返されて,すぐに私は二回目の軍法会議の通知を受けました。

今度の刑期も6か月でしたが,服役したのはオンタリオ州北部のバーウォッシュにある普通の重労働刑囚人収容所です。そこへ送られた時のことは忘れられません。二人ずつ手錠でつながれ,さらに全員が太い鎖でつながれた囚人の群れの一員として護送されたからです。トロントの下町を駅に向かって歩き,列車の中の席に落ち着くまでの間中,鎖につながれたままの私たちは好奇心に満ちた視線にさらされました。その群れの中で証人は私ひとりでした。

バーウォッシュでの生活は軍の収容所よりもましでした。1944年の冬の間,私たちは戸外で木を切り倒し,雪の上でそれを引いて積み出す仕事をしたのです。晩には読書やおしゃべりをすることもできました。それで私は他の囚人たちに,かなりの証言をすることができました。約5か月後,私は不名誉な除隊を言い渡されたので,出所できる身となりました。私はPULHEMS健康テストの結果,欠陥ありと認められたのです。このテストではそれぞれの文字が人体の各部を表わします(Uは上肢[Upper limbs]を表わすというふうに)。どれかの文字の表わす項目に“8”をつけられると,だれでも除隊になるのです。私は“S”(感覚による認識力)の点で“8”になりました。簡単に言えば精神の平衡を失っている者とみなされたのです。

問題は首尾よく解決を見る

このように“能力のおぼつかない”者とされたにもかかわらず,私はものみの塔協会によって使われていた印刷工場で働くように招待されました。グレイスはすでにそこで働いていました。印刷機械の操作は初めてでしたが楽しい経験であり,信者同士のすてきな仲間と一緒に働くことは喜びでした。約4年後の1944年6月に禁令が解かれると共に協会のトロント事務所は再開され,王国伝道の業を公に推し進めるための計画がすぐに実施されました。

1945年の12月に私たちは協会のバンクーバー文書倉庫で働くように任命され,その2年後には巡回の仕事に携わって風光の美しいフレーザー・バレーの諸会衆を訪問しました。興味深いこの仕事を始めて1年後に,私たちは宣教者としての訓練を受けるため,ものみの塔ギレアデ聖書学校に招待されて心を躍らせました。微小な原子の中に明白にみられる「動的勢力」の源である神に対する私たちの信仰は,なんと強められたのでしょう。(イザヤ 40:26,新)卒業の日はまたたく間に来て過ぎ去り,私たちは外国の任命地に向けて荷造りをしていました。不要品をえり分けながら,私は原子と分子の構造に関するヘルツベルグ博士の著書2冊をどうすべきか長い間ためらっていました。それは私の研究の基礎になっていたものです。遂にそれらを処分しました。問題はすでにはっきりと決定済みでした。

1949年12月29日,私たちは任命地であるチリのサンティアゴに着きました。初めはスペイン語が問題でしたが,私たちの苦労は,誠実な人々との産出的な聖書研究という形で実を結び始めました。これらの人々の中には聖書を見たことのなかった人もいます。これら愛すべきチリ人の中には,私たちの霊的な兄弟,姉妹となった人々も何人かいます。真理に対する彼らの熱情と熱意はなんと心を暖めるものだったのでしょう。さらに大ぜいの宣教者が加わるにつれて,王国伝道の業は躍進し,国中に会衆が設立されるようになりました。私たちの新しい使命は真に報いのあるものでした。

年月がたつにつれ奉仕の新しい特権が加えられました。拡張された協会のサンティアゴ支部事務所での手伝い,王国宣教学校の教訓者として奉仕したこと,励みを与え,伝道の業の統一を助けるために近隣9か国の支部事務所と宣教者の家を訪問したことなどがそれです。これらの国々でエホバを賛美する人々の数が増加し続けるにつれて,エホバの祝福を見るのは何という喜び,また満足でしょう。

1969年4月は私たちの生活に大きな変化をもたらしました。私たちはブラジル,サンパウロの支部事務所に任命されたのです。ポルトガル語という新しい言語を学ぶことが必要になりました。19年間にエホバの民が200人から6,000人にまで増加するのを見た私たちにとって,チリは去り難い国です。その中には何年にもわたって共に働いた多くの人々をはじめ,私たちの霊的な子供と孫も何人かいます。しかし私たちは,「ここに私がおります。私を遣わしてください」をモットーとしてきました。(イザヤ 6:8,新)それで私たちは重い心を抱いて彼ら全部に「アスタ・エルゴ」を言いましたが,これから何年も忘れることのできない多くの楽しい思い出を胸に抱いてそうしたのです。

ブラジルには「良いたより」を熱心に宣明している人々がすでに5万5,000人もいました。心霊術に心を寄せる人々が非常に多いカトリックのこの国で,業は進歩しつつありました。喜んでエホバに仕える同じ精神がここでも見られ,毎年,何千人という人々が聖書の真理を受け入れて神に献身しています。彼らの勤勉な働きによって,いまブラジルの2,012の会衆に10万6,000人の伝道者がいます。サン・パウロでは,これら会衆の必要物を世話するベテルの家族が40人から155人に増加しました。ポルトガル語の「ものみの塔」と「目ざめよ!」を印刷する新しい工場の落成に喜んだのは5年前のことですが,今ではたいそう手狭になり,新しいベテルの家と工場の建設が再び進められています。それはサン・パウロから140キロ離れた静かな環境の土地に位置しており,エホバの創造されたすばらしい自然環境の中にあります。この国のエホバの民の前途になおどれほどの増加がもたらされるかは,エホバのみがご存じです。

それで私は「原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”」という質問に肯定の答えをしなかったことを少しも悔いていません。私にとって原子物理学は今でも非常におもしろく,興味をそそるものです。しかし原子を設計し,創造された偉大な科学者であり,数学者である神を知るようになったことに,どうして悔いがあり得るでしょうか。他の人々に創造者を知らせるのに生涯の大半を用いることに悔いがあり得るでしょうか。エホバに献身した,全世界にわたる霊的な家族の一部となったことに悔いがあり得るでしょうか。後悔するどころか,私は次のように言明したアサフと全く同感です。「わたしにとって神に近付くのは善いことなのです。至高の主,エホバにわたしは避難所を設けました」― 詩 73:28,新。

[5ページのフレッド・ウィルソンの図版]

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