-
神への信仰は私の支えだったものみの塔 1980 | 7月15日
-
-
を見るほうが妻の喜びになることが私には分かっていました。このような勇敢な伴侶を持つことは本当に助けになります。エルザはドイツの強制収容所での生活で,あまたの患難を忍びました。エルザの経験を少しお読みいただければ,きっと励みになることと思います。
-
-
夫と共に忠実を保つものみの塔 1980 | 7月15日
-
-
夫と共に忠実を保つ
エルザ・アプトの経験
ハラルドは,ザクセンハウゼンに収容されていた間,時々手紙を書くことが許されました。もっとも,それはわずか5行の手紙でした。手紙には,『この者は依然としてがんこな聖書研究者であるため,通常の文通を行なう特典は認められていない』というスタンプが押されていました。そのスタンプを見るたびに私は励まされました。そのスタンプは夫が信仰のうちに堅くとどまっていることを物語るものだったからです。
1942年5月のある日のこと,職場から帰宅すると,ゲシュタポが私を待ち受けていました。ゲシュタポは家宅捜索を行なった後,私に,コートを持って一緒に来るよう命じました。すると,幼い娘のユッタがゲシュタポの一人に近寄り,並外れて背の高いそのゲシュタポのズボンの脚の片方を引っ張って,「お願いだからお母さんをおいていって」と言いました。ゲシュタポは娘を相手にしませんでした。そこで娘は反対側の脚に回り,「お願いだからお母さんをおいていって」と必死に頼みました。これを不快に思ったそのゲシュタポは,語気を荒立てて,「子供を連れて行け。ベッドと,衣類も一緒にだ」と言いました。娘は同じ建物に住む別の家族のもとに預けられ,我が家の扉は閉じられました。こうして私はゲシュタポの本部に連行されました。
その本部で,その日に大勢のエホバの証人が逮捕されたことを知りました。エホバの証人を装い,私たちから信頼を得ていたある人物が裏切ったのです。ゲシュタポから,謄写版の機械のありかと,非合法の伝道活動を指揮している人物について尋問されましたが,私は何も知らないふりをしました。その後,私たちは監房に入れられました。
私たちの揺らぐことのない信仰はゲシュタポをいら立たせました。ある時,尋問の最中に,一人の係官がこぶしを握り締めて私に近づき,こう叫びました。「お前たちをどうすればいいんだ。逮捕されてもあわてない。刑務所に送り込んでもいっこうに気にしない。強制収容所に回しても平気でいる。死刑の宣告を受けても平然とその場に立っているだけだ。お前たちをいったいどうすればいいんだ」。
獄中で6か月を過ごした後,私は他の11人のクリスチャン姉妹と共に,大量虐殺で悪名をはせたアウシュビッツの収容所に送られました。
違いを認められ,敬意を得る
私たちは最初,アウシュビッツの付属収容所の一つビルケナウに連れて行かれました。聖書研究者であるという理由で私たちがそこに連れて来られたことを知ったSSの将校は,「わしがお前たちだったら,書類にサインして家に帰るだろうな」と言いました。
「サインする気があるなら,とうにしています」と私は答えました。
「だが,ここで死ぬことになるぞ」と将校は警告しました。私は言いました。「その覚悟はできています」。
その後,写真撮影を行ない,所定の用紙と質問表に必要事項を記入しなければなりませんでした。私たちは一列に並んで順番を待ちましたが,その列は医療センターの中を通り抜けていました。医療センターでは,二人の医師が新たに到着した囚人たちを観察していました。これらの医師も囚人で,そのうちの一人は他方の医師よりもずっと長く収容所の生活を送っていました。その二人の医師の会話がふと耳に入ってきました。古くからいる医師が新しいほうの医師にこう言っています。「聖書研究者はいつでも見分けがつくよ」。
新しいほうの医師が幾分疑わしげに答えます。「ほう,そうですか。では,このグループの中のだれが聖書研究者か教えてください」。私はその時二人のそばを通り過ぎたばかりでしたから,医師たちには私のすみれ色の三角形は見えませんでした。しかし,古いほうの医師は私を指差して,「聖書研究生だよ」と言いました。新しいほうの医師がやって来て私の三角形を見ました。そして,「ほんとうだ。どうして分かったんですか」と声を上げました。
古いほうの医師はこう答えました。「この人たちは一見して違うんだ。すぐに見分けることができる」。
確かにそのとおりです。私たちは一見して違っていました。打ちしおれてうなだれることなく,まっすぐに背筋を伸ばして歩いていました。いつもまっすぐ前を見,何のこだわりもなく自由に他の人を見ました。私たちはエホバのみ名のための証人としてそこにいたのです。私たちの態度が違っていたのはそのためです。それは他の人々の認めるところとなりました。
私たち12人の姉妹は,ビルケナウに数日とどまっただけでアウシュビッツに連れて行かれ,SSの将校の家で働くことになりました。SSの将校たちは,エホバの証人だけがこの仕事に就くことを望んでいました。それ以外の人を自分の家で働かせることには恐れを持っていました。私たちなら毒を盛ることもなく,正直であり,盗みを働くことも逃亡を図ることもないのを知っていたのです。
アウシュビッツにおける生と死
収容所内の大きなれんが造りの建物の地下室で,私たち全員が他の囚人たちと一緒に生活した時期がありました。仕事の割り当てが与えられる時間になり,女性の監督から,「だれがどこで働きたいの」と言われましたが,私は何も答えませんでした。すると,その監督は,「まあ,偉そうなこと」と言いました。
それに対して友人の一人が答えました。「偉そうにしているのではありません。どこでも,決められた所で働くつもりでいるだけです」。実際,私たちはいつもそのようにしていました。私たちは働く場所を自分で選びたいとは思いませんでした。エホバの導きを祈り求めていたからです。私たちの置かれた立場が困難になったその時は,エホバに頼り,「エホバ,どうか今,私たちを助けてください」と祈ることができました。
私は収容所の外に住むあるSSの将校のところで働くよう割り当てられました。家の掃除,将校の妻の料理の手伝い,子供の世話,町での買い物が私の仕事でした。見張りなしに収容所の外に出られるほどの信頼を得ていたのはエホバの証人だけでした。もちろん,私たちはいつも縞模様の囚人服を着ていました。しばらくすると,夜になっても収容所に戻らずに仕事先で泊まってもよいことになりました。私はSSの将校の家の地下室で眠りました。
しかし私たちは,現実には人間とみなされませんでした。例えば,SSの将校から呼ばれて執務室に行くと,戸口に立って,「囚人24,402番,入らせていただいてもよろしいでしょうか」と言わなければなりませんでした。そして,指示を受けた後,「囚人24,402番,戻ってよろしいでしょうか」と言うことになっていました。個人の名前はいっさい用いられませんでした。
他の収容所におけると同じように,「ものみの塔」誌や他の出版物の形で霊的な食物がアウシュビッツに定期的に運び込まれました。私はハラルドからの手紙まで受け取りました。これは外部のエホバの証人との間にどれほど定期的な連絡が保たれていたかを示すものです。
私たちのグループの何人かが,SSの関係者の家族が住むホテルで働くよう割り当てられました。その中に,私の友人ゲルトルート・オットがいました。ある日,ゲルトルートが窓を洗っていたところ,そばを通った二人の女性の片方が,目を上げもせずに,「私たちもエホバの証人です」と言いました。後ほど二人が戻って来ると,今度はゲルトルートが,「浴室に行ってください」と言いました。三人はそこで会って話をし,それ以後も,貴重な聖書文書をひそかに持ち込んだり,連絡を取ったりするために集まり合うようにしました。
アウシュビッツにおけるこれらの年月の間,導きと保護のあったことを私たちはエホバに感謝しました。人間の想像しうるかぎり最も恐ろしいことが行なわれていたのを知っていましたから,その気持ちもひとしおでした。ユダヤ人が荷物のように次々に運び込まれ,到着すると全員が直ちにガス室に送り込まれていったのです。ある時,私は,ガス室で働いたことのある収容所の女性の監督の看護をしました。その監督はそこでどんなことが起きているかについてこう語りました。
「沢山の人が一つの部屋に集められるの。隣の部屋に通じるドアには『浴室』という表示があるわ。服を脱ぐように言われ,着物を全部脱いで『浴室』に入ると,ドアに鍵が掛けられてしまうの。でも,シャワーからは,水ではなくガスが出てくるのよ」。その女性の監督は,自分が目にした事柄に影響されて感情に変調をきたし,それがこうじて体まで病気になってしまったのです。
他の収容所への移動と解放
1945年1月から,ドイツは東部戦線で敗北に敗北を重ねるようになりました。強制収容所を後方に移動させようとする試みの中で,私たちの多くは収容所を転々としました。グロスローゼン収容所に向かった時は二昼夜行進が続きました。何人かの姉妹は力が尽きてそれ以上進むことができなくなりました。三日目の夜になってひしめき合う納屋で身を横たえることがやっと許可された時にはほんとうに助かりました。その行程の途中,私たちが携えていた食物といえば,なんとか持って来ることのできたわずかばかりのパンだけでした。翌日の行進を生きて終えられると思った人は一人もいませんでした。ところがそれから,決して忘れられない,驚くべきことが起きたのです。
翌日の行進が始まると,SSの医師の一人が私たちの姿を見つけました。私はかつてその医師のところで働いていました。その医師は,「聖書研究者は列の外へ。聖書研究者は列の外へ」と叫び始めました。それから私に向かって,「全員いるかどうか確かめなさい」と言いました。私たち40人の姉妹は駅に連れて行かれ,列車で運ばれることになったのです。私たちにとって,それはまさに奇跡のように思えました。
列車の中はひどく混雑しており,私を含めた三人はどうしたことか駅を見誤り,ブレスラウ(ポーランドのブロシワフ)まで行ってしまいました。私たちはそこで降りて,収容所への道を教えてもらいました。収容所の門に着くと,衛兵たちは大笑いをして,最後に,「自発的にここに戻って来るのはエホバの証人ぐらいだ」と言いました。しかし,戻らなければ,姉妹たちが苦しい目に遭うことを私たちは知っていたのです。
グロスローゼンにいたのはわずか二週間だけで,次に,オーストリアのリンツの近くにあるマウトハウゼン収容所に移されました。この収容所の状況は恐ろしいほど悪く,大勢がただ押し込められているといった感じでした。食べる物も欠乏しており,寝る時に敷くわらもなく,あるものと言えば,木の板でした。その後間もなく,再び移動が始まり,ドイツのハノーバーの近くにあるベルゲンベルゼン収容所に向かいました。その途中で,一人の姉妹が亡くなりました。この収容所の条件が極めて劣悪であったため,これまでの移送に耐えてここまで生き延びてきた姉妹たちの多くもこの収容所で死亡しました。
私たちのグループの中から25人ほどがドーラノルトハウゼンと呼ばれる別の秘密の収容所に連れて行かれました。元来,ここは男子だけの収容所でしたが,少し前から娼婦が連れて来られるようになっていました。しかし,収容所の所長は私たちがそうした類の者たちではないことを女性の監督に明らかにしました。ドーラノルトハウゼンでは幾分ましな扱いを受けました。一人の兄弟が囚人用の台所で働いており,私たちがある程度良い食べ物を得られるよう取り計らってくれたのです。
このころには,戦争も終わりに近くなっていました。私たちをハンブルクの近くのある場所に移す手はずが整えられました。旅に備えて,私には肉のかん詰一個とパンが幾らか支給されました。しかし,男子には何も与えられませんでした。ポーランド人のある兄弟が重い病気にかかっていたので,私は自分の食糧をその兄弟にあげました。後にその兄弟が話してくれたところによると,その食糧のおかげで兄弟は死なずにすんだのだそうです。その途中,私たちはアメリカ兵に会い,解放されました。SSの隊員は携行していた平服に着替えると,武器を隠して逃げました。戦争は終わりつつあったのです!
一か月ほど後に,ハラルドと私はお互いを捜し当てました。私たち二人の再会は全く信じ難いものでした。私たちはほんとうに長い時間ただじっと抱き合いました。お互いに引き離されてから,5年という歳月が流れていたのです。
多くの試練とそれに伴う祝福
家に帰ると,扉には,「ユッタ・アプトはここにいます。両親は強制収容所にいます」という張り紙がしてありました。私たちは家に帰れたのです。しかも無事で。なんとうれしいことでしょう。お互いにエホバに忠実であったことを知って,私たちは深い満足を覚えました。
ドイツの強制収容所で過ごした歳月は私に一つの優れた教訓を与えてくれました。極度の試練のもとにあっても,エホバの霊によって大いに力づけられるという教訓です。逮捕される前,私はある姉妹の手紙を読みました。そこには,厳しい試練の下にある人はエホバの霊によって全く冷静でいられると書かれていました。私はその姉妹が幾分誇張して書いているに違いないと考えていました。しかし,自分で試練を経験して,その姉妹の言葉が真実であることを知りました。まさにそのとおりなのです。経験した人でなければなかなか分からないことです。でも,それが私の身に実際に起きたのです。エホバは助けを与えてくださいます。
娘から引き離された私にとって助けとなったのは,アブラハムにその息子を犠牲にするよう求めたエホバの指示でした。(創世 22:1-19)エホバが実際に望んでおられたのは,アブラハムにイサクを殺させることではなく,アブラハムの従順を見ることでした。私はこう考えました。私の場合,エホバが求めておられるのは,子供を犠牲にすることではなく,娘をあとに残すことなんだわ,と。アブラハムに求められたことと比べるなら,それは取るに足りないことです。何年もの間,ユッタはエホバに対する忠実をずっと保ちました。私たちはそれをとてもうれしく思いました。
夫の忠実さはいつでも私に喜びと力を与えてくれました。エホバに対するこのような忠実さを目にする時,夫に愛と敬意を抱かずにはいられません。私たちはその結果,豊かな報いを得てきました。
-