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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2014
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「収穫の業はまだ行なわれる必要がある」

ジョージ・ヤング

ジョージ・ヤングは,1923年3月にリオデジャネイロを訪れた

1923年,サンパウロ演劇音楽院のコンサートホールは,人で埋め尽くされていました。ジョージ・ヤングの落ち着いた声が聞こえてきます。ヤングの話は一文一文ポルトガル語に通訳され,出席した585人のだれもが話に聞き入っています。幾つもの聖句がポルトガル語でスクリーンに映し出されます。講演の最後に,ポルトガル語,英語,ドイツ語,イタリア語による,「現存する万民は決して死することなし」という小冊子が合計100冊配布されました。講演は大成功に終わります。講演のことが話題になり,二日後の晩にもコンサートホールは満員になります。こうした成功を収めるまでに,どんなことがあったのでしょうか。

1867年,サラ・ベロナ・ファーガソンという女性が,家族と共に米国からブラジルに移住します。1899年に,サラは弟が米国から持ってきた幾つかの聖書文書を読み,真理を見つけたと確信し,英語の「ものみの塔」誌を予約します。聖書の音信に胸躍らせたサラは,C・T・ラッセル兄弟に手紙を書き送り,真理の水が「届かないほど遠くにいる人はいない,ということの生きた……証拠」として自分のことを挙げています。

「生きている人は死者と話せるか」(ポルトガル語)の表紙

「生きている人は死者と話せるか」(ポルトガル語)

サラ・ファーガソンは,最善を尽くして聖書の真理を他の人たちに伝えましたが,自分や家族,それにブラジルにいる善良な人々をだれが援助してくれるのだろう,と常々考えていました。1912年にブルックリン・ベテルから,サンパウロに人を遣わすとの知らせが届きます。そしてその人が,「死者はどこにいるか」というポルトガル語のパンフレットを幾千枚も持って行くとのことでした。1915年,サラは,間もなく天に取り上げられることを多くの聖書研究者が期待しているという記事を読むたびに驚いた,と書いています。そして自分の思いをこう綴っています。「ブラジル,そして南米全体はどうなるのでしょうか。……南米は世界で大きな割合を占めています。それを考えると,収穫の業はまだ行なわれる必要がある,ということがすぐに分かります」。確かに,収穫の業はさらに行なわれることになりました。

1920年ごろ,戦艦の修理のために足止めされていた8人の若いブラジル人の水兵が,ニューヨーク市の会衆の集会に出席しました。8人は,リオデジャネイロに戻ると,新たに学んだ聖書の希望を他の人たちに伝えます。それから程なくして,1923年3月に,巡礼者つまり旅行する監督だったジョージ・ヤングがリオデジャネイロを訪れ,関心を抱く人たちを見いだします。ヤング兄弟は,幾つかの出版物をポルトガル語に翻訳するよう手配します。その後すぐに,当時,人口約60万人のサンパウロにも行きます。サンパウロでは,記事の冒頭で触れたように,講演を行ない,「万民」の小冊子を配布します。兄弟は,「協力者がいなかったため,もっぱら新聞広告に頼らざるを得なかった」と報告しています。また,サンパウロで行なった講演は,「IBSAの主催のもとにブラジルで行なわれた初めての宣伝された公開講演」だったことも述べています。a

プロジェクター

ヤング兄弟の講演中,聖句がスクリーンに映し出された

「ものみの塔」(英語)1923年12月15日号には,ブラジルに関する次のような報告が掲載されています。「この土地における業が6月1日に開始され,当時は文書もなかったことを考えると,この業が主からこれほど祝福されたのは,驚きである」。また,ヤング兄弟が6月1日から9月30日にかけて21の公開講演を行ない,合計出席者が3,600人であったこと,そのうちの2回はサンパウロでの講演であったことも伝えています。王国の音信はリオデジャネイロで徐々に広まり,わずか数か月の間にポルトガル語の出版物7,000冊余りが配布されました。さらに,ポルトガル語の「ものみの塔」誌が1923年11月-12月号から出版され始めました。

サラ・ファーガソン

サラ・ベロナ・ファーガソン。ブラジルで,英語の「ものみの塔」誌を最初に予約購読した

ジョージ・ヤングはサラ・ファーガソンを訪問しました。「ものみの塔」誌はその様子をこう伝えています。「姉妹は応接間に入って来ると,しばらく口もきけなかった。ヤング兄弟の手を握り,まじまじと顔を見つめ,やっとこう言った。『本当に巡礼者にお会いできるなんて,夢のようです!』」サラ・ファーガソンと子どもの何人かはすぐにバプテスマを受けました。実際,姉妹はその時を25年も待っていたのです。「ものみの塔」1924年8月1日号は,ブラジルで50人がバプテスマを受けたことを述べています。その大半はリオデジャネイロにおいてでした。

その時から90年ほどがたち,もう,「ブラジル,そして南米全体はどうなるのでしょうか」と尋ねる必要はありません。現在ブラジルでは,76万人余りのエホバの証人が良いたよりを伝えています。そして,南米の各地において王国の音信は,ポルトガル語,スペイン語,また数多くの現地語で宣明されています。「収穫の業はまだ行なわれる必要がある」という,1915年のサラ・ファーガソンの言葉は正しかったのです。―ブラジルのアーカイブから。

a IBSAは,国際聖書研究者協会の略称です。

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