ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔69 7/1 405–408ページ
  • 耐え忍んで良いわざを行なう喜び

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 耐え忍んで良いわざを行なう喜び
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 初期の光
  • 交わりと証言
  • さしのべられたベテル奉仕の特権
  • 「忠実な思慮深い僕」の奉仕を認識する
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
  • 多くのものに感謝
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
  • 『王国を第一に求める』
    エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
  • 一生の目的を追い求める
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 7/1 405–408ページ

耐え忍んで良いわざを行なう喜び

チャールス・J・フィーケル

わたしは,わたしの幸福な人生にとって,きわめて重要なものを,しかもまだ若いときに発見しました。したがって,この宝物を手に入れるために,何十年も試行錯誤を重ねて,人生の大半を空しく過ごすということなく,これを発見したときのわたしは,有益で価値ある仕事に費やし得る若さと活力にあふれていました。わたしのその貴重な発見というは,人間はなぜ地上に生存するのか,現在の状態は神の意志によるものか,人間は幸福な将来を期待しうるか,などの重要な問題を明確に説明する,神の目的にかんする正確な知識でした。

オーストリア・ハンガリーでの少年時代は,前途有望といえるものではありませんでした。母はわたしを連れてローマ・カトリック教会に通いました。しかしルーテル教会員の親せきと同居していた間は,わたしがルーテル教会の日曜学校に行くことに賛成でした。その後,家が見つかって親せきの家を出たので,わたしはまたカトリック教会にもどることになりました。父の死後,1905年,わたしたちはアメリカに渡り,そこでまたルーテル教会員の親せきとしばらく同居しました。ここでの生活は,ヨーロッパの生活とはたいへんかけはなれたものでした。

家族はふたたび独立しました。そこで母はまたミサに出席しようと言いだしましたが,わたしは公立学校にとどまりました。カトリック経営の学校は授業料が高くて,わたしたちの資力におよばなかったからです。のちほどわたしは,堅振礼を受ける準備として,週に1回,牧師館でカトリックの公教要理の勉強をはじめました。しかしどうしても堅振礼を受ける気になれませんでした。いくつかの理由でわたしはその段階を踏むことができませんでした。

まず第一に,わたしが暗記させられた公教要理の中の答えには,明らかに聖書の裏づけがありませんでした。それに告白のとき,取るに足りない,しかも身におぼえのないことを根掘り葉掘り尋ねる司祭の質問に,わたしはなんの価値も見いだすことができませんでした。また「アベマリヤの祈り」やその他の祈りの単調なくりかえしが何の役にたつでしようか。さらに重要なことは,ローマ・カトリック教会が,一般信徒に対して実際にどんなすぐれた奉仕をしたかということです。

好奇心から辻説教に耳を傾けることもありました。しかし彼らもわたしの疑問に対して満足な答えを与えてはくれず,ただ罪人の地獄における悲惨な将来を強調し,恐れを唯一の動機として神に奉仕すべきだと論じました。しかし神は愛によってその被造物を魅了されたのではないでしょうか。そして神を喜ばせたいと思う人すべてが従事し得るなんらかの仕事または奉仕が必ずあるはずです。

初期の光

やがて機会が訪れました。わたしは弟と一緒にボルチモア音楽アカデミーで行なわれる無料の講演を聞きに行くことにしました。演題は,「地獄へ行って,またもどる」というたいへん興味をそそるものでした。聖書の地獄(ヘブル語でシェオール。ギリシア語でヘーデース)にかんする講演者の論理的かつ聖書的な説明に,わたしたちふたりは深く感動しました。またわたしは,講演者のパスター・ラッセルが親切で思慮深い人であることにも気づきました。ついにわたしは,かねてからの疑問に対する答え ― 納得のいく,聖書の明確なことばによって証明された答えを得はじめたのです。

その後わたしは,トーキー式の美しい「創造の写真-劇」を見ました。聖書にもとづいたこの人類史のドラマを見,その解説を聞いたことは,わたしにとってたいへん貴重な経験となりました。これによってわたしは,神の壮大な目的の大要を理解するようになりました。また,大多数の人がキリストとその刑柱にあまり心を用いていないということを,この映画をとおして強く感じさせられました。試験管をのぞく科学者,巨万の富をもつ資本家,立身出世した軍人,牧師,学者,快楽を追い求めてあくことを知らない金持ち,こうした人々はみなほかのことで頭がいっぱいで,救い主に一べつをくれる暇もありません。しかし当時学生であったわたし自身はどうでしたか。この世の教育によって同様な人間につくりあげられていたでしょうか。

ちょうどそのころ,「聖書研究生月刊」という興味深いパンフレットが,よくドアの下からさしこまれていたのを思い出します。これらを予約して読んでいるうちに,もっと知りたいという意欲がわいてきました。そこで週給の一部をためて,パンフレットに広告されていた聖書の手引き,とくにシリーズ物の「聖書研究」を求めました。どの巻にもどの巻にも,世々にわたる神の目的がはっきり示されているのには驚いてしまいました。そして聖書が神の霊感による本であることを発見したときの喜びはほんとうに大きなものでした。

母は日曜日の朝になると,教会に行くことをすすめましたが,わたしはいつも,「だって司祭はラテン語で話すでしょう。ぼくはラテン語がわからないから何も学べません。おかあさんはいつもぼくになんでも学びなさい,と言うでしょう。だからぼくはこうした本からいろんなことを勉強しているのです」と言いました。母はそれ以上なにも言いませんでした。そうしたある日,ある店員が,フォード劇場に,スミスという福音伝道師の説教を聞きに行かないかとわたしを誘いました。わたしはその説教師が,神の国のすばらしい希望についてすこしも語らないことにすっかりいや気がさし,転向するどころか,人に希望を与える聖書の音信を他の人々に広めるため,何かをしようと,その時その場で決意しました。それにはまず援助を得る必要があります。

交わりと証言

わたしは,当時,土地の聖書研究生として知られていたエホバの証人の集会所をさがし出して,集会に出席しはじめました。初めて集会に行ったとき,よく気のつく年配の紳士が,わたしが初めてきたことに気づいて歓迎してくれました。そしてわたしの隣りにすわり,いろいろ話しているうちに,わたしがすでに多くの聖書の知識を本から得ていることに驚きました。それからというものは彼はいつもそこにいて,集会のたびにわたしを暖かく迎えてくれました。集会が終わると,いつも,聞いたことをもう一度思いかえしながら歩いて帰りました。神のみこころはわたしにとって大きな意味をもちはじめました。

知識と確信が増すにつれ,わたしはやがて,決定を下さねばならないところまできました。目的を理解させてくださった神のいつくしみに対し,心からの感謝をもって答えるのは当然のことです。わたしは時を失うことなく,神に献身し,バプテスマを受けたことをうれしく思っています。

それからは,毎日曜日朝の聖書のパンフレット配布,戸別伝道奉仕の開始,そして高校卒業後は,当時コルポーター(聖書文書販売)奉仕として知られ,現在開拓奉仕と呼ばれる全時間伝道活動と,次から次にすばらしい特権が与えられました。ついにわたしは,さがし求めていた価値のあるわざを見いだしたのです。命を与える神のことばを伝道し教えることに全時間を費やせるとはなんとうれしいことでしょう。

初めて割り当てられた区域は,市街の一部でした。わたしはそこでひとりで奉仕しました。昼の弁当と余分の書籍をひと包みにし,都合のよい場所にある食品店などに,店主の許可を得てあずけました。そのために午前中は荷もいくらか軽くてすみました。そしてそのあとのわたしの特権は,他の証人の行けない郊外地区に足をのばすことでした。

それからまもなく,中心部にある町を拠点にして,田園地方で伝道するようになりました。ものみの塔協会も,注文した聖書文書をそこへ送ってきました。こんどは二人でそこに下宿して一緒に働きました。町は雨の日のために残しておき,周辺の地域一帯を自転車で伝道しました。二人は別々の道を行って,文書を配布したり,注文をとったりしました。注文の場合はあとでとどけます。親切な家の人たちは,食事を出してくれたり,拠点から遠く離れたところで日が暮れると,一夜の宿をさえ借してくれることもしばしばでした。考えてみるに,星空の下で眠らねばならなかったことなど,夏中一度もありませんでした。冬の間は町にもどって,会衆で暖かい交わりを楽しみました。

そうしているうちにアメリカも第一次世界大戦に巻き込まれました。ある日,それは戸別伝道のときのことでしたが,ひとりの婦人が,関心のあるふうをよそおって,わたしの名前と住所をうまく聞きだし,ノートにつけました。翌日,二人の警官がわたしたちの家にやってきました。かくしだてしなければならないことはなにもないので,わたしたちは宣教のことについて詳しく説明しました。彼らは出版物の見本を持ち帰りました。そして土曜日の晩,弟もわたしも逮捕され,警察署に連行されました。途中わたしたちは日々の聖句を思いおこし,それについて話しあって励ましにしました。これをみたひとりの警官は,別の警官をそっとひじでつきました。つつかれたほうの警官は静かに言いました。「もしぼくが彼らの立場にあれば,やはり同じことをするね」。

帰化して市民権を得ていた弟はすぐに釈放されましたが,わたしは裁判をうける権利さえない外国人とみなされ,ボルチモア市の刑務所に移されました。ものみの塔協会の役員が,不当な刑の宣告をうけて,アトランタ刑務所に送られたことはそこで知りました。わたしに科せられたのは扇動罪です。協会の出版物「完成した奥義」の内容の伝道を自分の義務とみなすか,との問いに対して,わたしは,福音の宣明はわたしの義務です。この本はその福音を説明するものです,と答えました。その時,「福音を宣伝へずば,我は禍害なるかな」というパウロのことばが心にひらめいたのをおぼえています。(コリント前 9:16)毎夜,独房のドアのところに立つと,ほんのわずかですが空が見え,時には星が一つ見えることもありました。わたしはエホバが愛をもって常に見守っていてくださるということを考え,自分を慰めました。

受刑者に読物は許されていませんでしたが,外部のある商人に,お金さえ払えば,本その他,なんでも,独房のまくら下にちゃんと届けてもらえました。しかしわたしは逮捕されたとき,エホバのおかげで聖書関係の本を持っていたので,十分の時間をかけてそれを勉強し,近くの受刑者にその知識を分かつことができました。1か月後,わたしは仮釈放になり,終戦の翌年の春までこの状態がつづきました。

体力を養うためしばらく世俗の仕事につき,1919年の春,また全時間奉仕をはじめました。オハイオ州・シーダーポイントで,戦後初めてのエホバの証人の大会が開かれるという発表がありましたが,わたしたち開拓者には出席できそうにもありませんでした。もちろん心はそこにありましたが。しかしエホバはわたしたちよりもよくご存じでした。わたしたちがエホバの良きわざを継続するためには,わたしたちを霊的に強めることが早急に必要であることをご存じでした。ある思慮深い仲間の証人の寄付によって,わたしたちは主の豊かな食卓を囲むすばらしい交わりの日々を楽しむことができたのです。そしてエホバがすでに,ご自分の民を一致した平和な組織に集めはじめられている証拠をはっきりと見ました。

さしのべられたベテル奉仕の特権

つぎの任命地はニュージャージー州のバインランドという小さな町でしたが,わたしはここで,協会の本部であるブルックリン・ベテルのことを,そこを訪れたある親しい家族から聞いて知るようになりました。そこで,「ものみの塔」誌にベテル奉仕の希望者の募集広告がのったとき,さっそく応募しました。わたしは自分の時間と力のすべてを最善の仕事,つまり御国のわざの促進に使いたいという熱意にもえていました。申し込み書は受理されました。そして,1921年2月14日から,わたしは深い満足を味わえる,新しい奉仕の分野にたずさわることになりました。

たえず真理を語って働くのは開拓奉仕者の特権で,これができなくなったことはたしかに淋しいことでしたが,ベテルの数々の生活は多くの点でそれを相殺するほどすばらしいものでした。食事や住居そして医療が備えられているので,物質上の心配がありません。それに多くの円熟した証人と交われるし,毎朝,食事の時間には,徳を高める聖句の討議も行なわれます。ベテルの内外で行なわれる研究集会も生活の一部です。そして,ベテル本部での仕事は,表面いかに平凡にみえるものでもすべて,全世界にいる証人の兄弟たちになんらかの援助になるという確信があります。兄弟たちは,エホバがその見える組織をとおして豊かに備えてくださる聖書文書と真理の水の流れに依存しています。

わたしは製本関係のいろいろな仕事をしました。ある日の夕食後,植字部門の残業の手伝いを申し出たところ,間もなくわたしはこの部門にまわされました。今でもおぼえていますが,ここでの最初の仕事は,再版する「ものみの塔」誌の索引に訂正を挿入することでした。つぎの仕事は,「神の立琴」の活字を締めることでした。こうして輪転機用プレートの鋳造に使う大きな母型(「マット」)を作るのです。1921年には植字部門に平均6人の働き人がおり,2台のライノタイプがありました。現在では働き人は76人,ライノタイプは33台にふえました。ですから目ざましい増加があったわけですが,こうした増加も,世界中の多数の証人の熱心な活動の結果必要となったのです。

ここでわたしは,過去48年間,多くの特権を楽しんできました。すべての新しい材料がこの部門で加工され,大きな輪転機にかける準備が行なわれるのを見ることに加えて他の祝福もありました。大会で新しい出版物が発表されるときの神の民の喜びを見れば,わたしたちが払ったどんな余分の努力も,十分に報われました。1919年,シーダーポイントで開かれた大会を皮切りに,わたしは長い一連の大会に出席できました。ニューヨーク市で行なわれた忘れがたい数々の大会のほかに,1922年のシーダーポイント大会,1931年のコロンバス大会,1941年のセントルイス大会,またトロント,デトロイト,クリーブランド,ロンドン,パリ,ローマ,ニュールンベルク,ストックホルムなどの大会にも出席しました。

ほかにも多くの喜びがありました。40代に激しい迫害の時期を過ごし,また御国の音信がラジオで放送される繁栄の時期も見,現在は,聖書教育に拍車がかけられて,宣教者を訓練するギレアデ学校,会衆の組織の振興を図るための御国宣教学校などが開設されている時代に生きる特権を得ています。

71歳の今日,御国の事柄のために奉仕した過去の歳月を振りかえってみるとき,エホバ神の霊が成し遂げることには驚くばかりです。どうかわたしたちすべてが,エホバのほまれのためにその良きわざの遂行を決意する者に与えられるエホバのいつくしみと平安に,今後も常にあずかりえますように。わたしが愛してやまない約束はこれです。「エホバによりて歓喜をなせ,エホバはなんぢが心のねがひを汝にあたへたまはん」― 詩 37:4。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする