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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 10/15 624–637ページ

従順,望ましい道

「あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」― マタイ 11:29,30,新。

1 人が従順に関して,怒とうにも似た態度を取ってしまうことがあります。どのようにですか。

怒とうが容しゃなく海岸に打ち寄せるさまを見たことがありますか。そうした荒波に,あわれみの様子がわずかでも見られますか。岩や砂に砕ける怒とうに,柔らかさや暖かさを少しでも感じましたか。それどころか,荒波は砂をすり減らし,巨大な手でこするかのように岩石を洗い,やがて岩肌を丸く,なめらかにしてしまいます。さらに,がんじょうな石を襲い,どうくつや穴をえぐります。それでも,海は神の定められた法則の多くに服しているのです。その一つは,ヨブ記 38章8-11節にしるされています。「海の水ながれ出で 胎内より涌いでし時 誰が戸をもてこれを閉こめたりしや かのとき我雲をもてこれが衣服をなし黒暗をもてこれがむつきとなし これに我法度を定め関および門を設けて曰くこゝまでは来るべし こゝを越べからず汝の高浪こゝに止まるべしと」。しかし,従順である際に,あるいは,他の人に従順を求める際に,わたしたちは,海のようであるべきですか。すなわち,冷酷で容しゃなく,過酷で,はてしなく人を駆り立て,互いに精力をすり減らし,ついに,自分の思うとおりにする,というようなことをすべきですか。

2 他人の誤りに助言を与える際の平衡の取れた見方を述べなさい。

2 だれかが誤りや,まちがいを指摘すると,未熟な人々はそのような人を不平家あるいは,あら捜しと呼ぶのを耳にすることがあります。そして,未熟な人々は,イスラエルの人たちがした,あら捜しを引き合いに出します。しかし,思いきって発言し,なされている悪事を知らさねばならない場合があるのです。それが,たとえ,あなたの兄弟たちによる悪事であってもそうです。箴言 21章13節は率直に述べています。「耳をおほひて貧者の呼ぶ声をきかざる者は おのれ自ら呼ぶときもまた聴れざるべし」。悪事を適切な機会に知らせて,当人の不興を買わないようにする知恵や能力を,わたしたちすべてが同等に持っているわけではありません。ダビデの前に立ったナタンのようであるかわりに,わたしたちは,ぶっきらぼうで,独断的で,巧みさに全く欠けているかもしれません。しかし,事の大小は別にしても,悪事が犯されているかもしれず,そうであるなら,少なくとも,ひとりの人は影響を受けるのです。(サムエル後 12:1-14)悪事が取るに足りないものであれ,十分の裏づけのある問題であれ,夫や父親また監督は,問題に対してきびしい態度を取る必要はありません。荒い海のような態度を取るならば,やがて,何物をもすり減らす力のために,最も敬けんな神のしもべたちでさえ疲れきって,気落ちしてしまうでしょう。そして,まわりのできごとに無関心になり,「とにかく,どうしようもないじゃないか」と言っては,日々,また,来る年も来る年も,漫然と過ごすようになってしまいます。また,詩篇 34篇15節の次の保証のことばを念頭において,働きつづけるかもしれません。「エホバの目はたゞしきものをかへりみ その耳はかれらのさけびにかたぶく」。(16-20節をもごらんなさい。)

3 個人の育った環境は,従順に対するその人の態度にどう影響しますか。

3 エホバに仕えることに献身している人々の従順な態度に影響を及ぼす事柄は多数あります。なかには,不和の絶えない生活をするほど始末におえない家庭で育った人もいます。(マタイ 24:12)父親のことばはきびしいおきてであり,父親は,冷たくて深い恐ろしい海のように近づきがたく感ずる家庭環境で生活した人もいるでしょう。また,ことあるごとに,「あれをしてはいけない」「それはやめなさい」と小言をいわれ,従順であるべきことの理由らしいものを説明されるでもなく,ただ,しょっちゅうしかられてばかりのみじめな境遇で育った人もいます。一方,幸いにも,親子がお互いの事柄に関心をいだき,愛をもって助けが差し伸べられることを知っているゆえに,問題があれば,父親と容易に相談できる家庭で成長した人もいるのです。

4,5 (イ)一般に見られる態度で,子どもと,親に対する子どもの関係をそこなうものはなんですか。(ロ)それを避けるにはどうしたらよいですか。

4 今日の世代の親たちの中には,わが子を完全な人間か何かのようにみなし,率直に言って,子どもはみな性向が悪に傾いているということに気づいていない人がいます。詩篇 51篇5節は,今日まで,この世に生まれ出た人々に関して,こう述べています。「視よわれ邪曲のなかにうまれ罪にありてわが母われをはらみたりき」。そうした親の態度のために,若い人がむずかしい立場に立たされる場合があります。わが子のできばえが公にもてはやされたため,しばしば親が法外な期待をいだくようになる場合は,特にそうです。

5 それにしても,親が理解をもって助けることをせず,また,子どもの肉の弱さを認めようとしない場合,子どもたちは,毎日,親の期待にそうことができますか。理解の欠如は,親子の間に障壁を築くものとなるかもしれません。そして,むすこや娘は,自分が失敗したと感じて,自分たちの問題を気軽に相談できなくなるかもしれません。その結果,問題を自分のうちに秘めて,人生に対し,悲観的な見方を持つようになるかもしれません。そうであれば,話し合うということは,なんと楽しく,かつ,励みを与えるものではありませんか。数分話し合ううちに,どういうわけか,すべてに対して全く別の見方を持つようになり,新たな気持ちで従順の道を歩めるようになるのです。信仰のうちにとどまるには,この種の激励が必要です。それは,行って,「弟子たちの〔魂〕を堅うし信仰に止らんことを勧め(た)」パウロとバルナバの例からわかるとおり,初期の時代と全く同様です。―使行 14:22,〔新〕。

6 従順であることをいっそう困難にさせうるものはなんですか。

6 エホバに仕えることに専念していない人々と交わるなら,従順であることは,いっそう困難になります。真の崇拝の局外者は,概して,種々の拘束を受けない生活をしたいと考え,神からのいかなる律法または原則に対する従順をも退けようとする傾向があります。(ペテロ前 4:3,4)強い信仰を保つには,神のことばを研究しなければなりません。もちろん,それには時間がかかります。自分の研究予定から,いつも時間をさいて,エホバに対して従順でない人々と交わりながら,どうして種々の問題を避けることができますか。パウロはきわめて率直に,こう言いました。「惑わされてはならない。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのである」。(コリント前 15:33,新)一方,自分の信仰を維持することに勤勉に努め,同時に,エホバに仕えたいという強い欲求,つまり,わたしたちの天の父に対する,平衡のとれた専念に示される,そうした欲求をつちかうなら,わたしたちは現在の古い体制内の人々のそばにあっても働くことができます。わたしたちは宣教においては彼らに伝道し,また,不信者の親族が真理を学ぶのを助けることができます。しかも,そうした交わりのすべてにおいて,従順という望ましい道からはずれないようにすることができるのです。

7 (イ)聖書はクリスチャンに何を避けるよう警告していますか。(ロ)イスラエル人はどのようにして問題に陥りましたか。

7 聖書がわたしたちのために指摘している,平衡を保つための限界に注目してください。「汝らは世のものならず」。(ヨハネ 15:19)「なんぢら世をも世にある物をも愛すな」。(ヨハネ第一 2:15-17)「あなたがたは…彼らとともに走りつづけなさい」。(ペテロ前 4:4,5,新)「彼らに関与する者となってはならない」。「彼らとともにあずかることをやめなさい」。(エペソ 5:7-11,新)しかし,イスラエル民族に関してはこうしるされています。「(かれらは)もろもろの国人とまじりをりてその行為にならひ おのが羂となりその偶像につかへたり」。(詩 106:35,36)イスラエル民族が,神に従う道から,こうして一歩一歩逸脱していったことに注意してください。こうしるされています。「イスラエルの子孫はカナン人ヘテ人アモリ人ペリジ人ヒビ人エブス人のうちに住み かれらの女を妻にめとり またおのれの女をかれらの子に与へ かつかれらの神につかへたり」。(士師 3:5,6,8)わたしたちは,現存する体制内の人々に御国の良いたよりを伝道するため,彼らとともに生活したり,彼らを愛したり,また,彼らの偶像に仕えたりする道を取る必要はありません。

8 自分自身や他の人に対して,あまりにも期待が多すぎると,どんな結果になりますか。

8 また,人からあまり多くを期待されると,従順であることに喜びを失う場合があります。たとえば,親が普通以上のりっぱな行為を子どもに期待したり,子どもが,自分のためなら親はなんでもしてくれる,と期待する場合がそうです。また,妻は,夫の断固とした強硬な方針をいつも維持できるわけではないことを夫が忘れたり,夫は生活上のこまごました,微妙な物事をあまり考えるものではないということを妻が忘れたりする場合もそうです。組織を能率的で産出的なものにしようとするあまり,きびしくしすぎる監督の場合も同じです。満ちたりた奉仕から得られる幸福を度外視した,到達できない目標を自分で立てて,失望感を味わっている人も多数います。

9 イエスは,マタイ伝 11章28-30節に述べられている特質を,使徒トマスにどのように実際に示したか説明しなさい。

9 ちょっとの間,ヨハネ伝 20章を調べてみましょう。使徒トマスは,ある非常にたいせつな集まりに出席しなかったばかりに,「われら主を見たり」という弟子たちのことばをなかなか信ずることができませんでした。(ヨハネ 20:25)しかし,1週間後,イエスが出席された,ある集まりで,トマスは確かに証拠を見聞きし,それがイエスであることを認めて,「わが主よ」と言いました。イエスはきびしい態度でトマスに接し,ご自分や他の弟子たちとともにいなかったとして,トマスをしかりつけましたか。イエスは,同じことを繰り返して話すのを拒否されましたか。その手の釘の跡を見,これにさわってみないうちは,信ずるわけにはいかない,というトマスの求めをイエスは拒みましたか。トマスは先週どこにいっていたのか,とイエスは尋ねましたか。正しい交わりの価値,あるいは,他の弟子たちとともに集会に出席することのたいせつさについて,トマスに説教をしましたか。それどころか,イエスは進んで,トマスの信仰を強め,彼を助けたのです。彼は,かつて次のことを語ったイエスその人だったのです。「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされている人々はみな,わたしのもとに来なさい。そうするなら,わたしはあなたがたを元気づけよう。あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」。(マタイ 11:28-30,新)それは確かにトマス兄弟の徳を高めるものでした。その後,彼は忠実な奉仕を続けました。―使行 1:13。

柔順な妻たち

10 夫は,妻に関して何を認めるべきですか。

10 夫が,確固とした,それでいて愛のある手本を示すとき,柔順であることは,なんと容易でしょう。完全な妻は地上のどこにもいません。妻には多くの欠点があります。妻は,男子とは異なり,多くの事柄あるいは,いろいろな事態に対処するには,時間が余計かかります。感傷に強く動かされますし,家族のきずなは妻にとって,きわめてたいせつです。また,宗教感情に富んでおり,容易に感情移入を行なえます。概して,繊細な作りを持つ妻は,男子にとって退屈で単調な仕事と思えることを引き受けて,不平ひとつ言わず,来る月も来る月も営々として,その仕事を続けます。単調さに不平をこぼすのは,女性よりも男性のほうが先です。あなたはもっと多くの特質を妻に見いだせるでしょう。しかし,以上の幾つかの特質は,女性が男性と異なっていることを示すのに十分でしょう。

11 妻が結婚における自分の務めを果たすのを助けるため,夫は何ができますか。

11 クリスチャンの妻の価値がどれほどかを決めるのは,およそ困難なことです。妻はいつも変わることのない態度で,家族の必要を世話し,他に並ぶ者のない勇気をもって,山のような諸問題に立ち向かいます。したがって,そのような伴侶を助けて円熟に向かわせ,また,髪を編んだり,金の飾りをつけたりする外見の装い以上に,もの静かで柔和な霊のいっそう大きな価値を認識するように助けるのは,なんという祝福でしょう。(ペテロ前 3:3,4,新)箴言 31章に詳述されている種々の特質を,妻がつちかって身につけるよう,クリスチャンの夫が助けるのは,非常に賢明なことと言わねばなりません。たぶんお気づきと思いますが,箴言 31章に述べられている妻は,家庭と密接に結びつけられています。一般的に言って,妻は家庭の人であり,家庭がその本領です。クリスチャンの夫は,お金や時間の点で制約を受けてはいても,忙しく活発に働く家族のために衣食住のめんどうを見るという膨大な仕事をするための備えを含め,妻に喜びをもたらす家庭のために必要なものを備えるならば,柔順を妻の喜ばしい務めにすることができるでしょう。聖書の箴言は,多くの事柄を成し遂げる妻の能力を認めています。もし機会が与えられるなら,妻は,むきだしの壁に囲まれた質素な家を生気に富むものに変え,クリスチャンの家庭の暖かい楽しいふんい気をかもしださせることができます。妻も人間ですから,ほしいものがあります。したがって,夫は,妻がそうしたものを楽しむ機会を持てるように配慮すべきです。家庭で,あるいは家族とともに,なんらかの活動をしたいとの希望をいれるのは,柔順という聖書の原則を破るものではありません。

12,13 (イ)家庭生活が非常に重要なのはなぜですか。(ロ)夫は,幸福な家庭生活を造り出すため,どのように貢献できますか。

12 ゆえに,夫婦がいつも互いに十分理解し合うなら,この柔順という肝要な分野において,満足と安らぎが得られ,神のことばに服従することが喜びとなります。人の生活の中で,家庭は非常にたいせつな役割を果たしており,人は日々,家庭を必要としており,それは人間の営みの基盤です。家庭は集まり合う場,つまり,家族が集まる最もたいせつな場です。それはさけ所であり,保護を与えてくれます。それはその人自身の小さな世界であり,生活の場なのです。エホバは,そのたいせつな場所のために,また,人の助け手として,家事の世話をする人を造って与えられたのです。こうしるされています。「かれ(妻)はその家の事をかんが(む)」。(箴言 31:27)しかも,たとえ夫が妻にお金を支払わなくとも,あるいは,妻のすることすべてに対して,「ありがとう」と言わなくとも,かつて,ルツが待ち望んだ豊かな報いが,おそらく妻に与えられるでしょう。その報いは次のように表現されています。「ねがはくはエホバ汝の行為に報いたまへ ねがはくは……エホバ汝に十分の報施をたまはんことを」― ルツ 2:12。

13 すべての夫が贈り物をしたり,たいせつな記念日を覚えたりしているわけではありませんが,夫はそれぞれ,なんらかの方法で感謝を表わし,一生けん命に働く妻に,必要な励みを与えることができます。柔順な妻の歩む道は幸福の道であるはずです。その一つの理由は,妻は多くを与えるからです。日ごとに,絶えず与えつづけているのです。使徒行伝 20章35節はこう宣言しています。「与ふるは受くるよりも幸福なり」。家族を霊的に強い状態に保つ夫は,幸福であるべき別の理由を持つことになります。それはイザヤ書 65章14節の次のことばどおりです。「わが僕らはこゝろ楽きによりて歌うた(うべし)」。箴言の次のことばによれば,家族全員は,幸福な妻の価値をためらわずに認めます。「その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ 賢く事をなす女子は多けれども汝はすべての女子にまされり」。(箴言 31:28,29)聖書に略述されているとおり,望ましい道は柔順の道であること,また,夫がいつも愛を行使して,その道を容易なものにするとき,それが幸福に満ちあふれた道であることは,だれもが認めるところです。「かくのごとく夫はその妻を……愛すべ」きです。―エペソ 5:28。

愛のある夫たち

14,15 (イ)女と比べた場合,男には相違点が見られます。それは家庭に対して妨げとなりますか。(ロ)神に対する従順の道を夫が望むようにするため,家族の他の成員,特に妻はどのように貢献できますか。

14 「彼の誡命にしたがひて歩むは即ち愛なり」としるされていますが(ヨハネ第二 6),エホバ神に専心している夫は,エホバ神のことばに従順に服して歩みたいという願いをいだいています。クリスチャンの夫の生活にいつも見いだされてしかるべき幸福に,妻は深い関係を持っています。夫はだれでも不完全です。欠点のない夫は,地上のどこにもいません。(ロマ 3:12)夫には多くの欠点があります。たいてい,夫は妻と違って,重大な問題をかかえています。夫はかなり容易に物事に対処できます。また,あまり感情に走らず,感傷に容易に動かされたりはしません。時には,無関心に見えるかもしれません。むすこが木登りをしたりすると,母親はむすこがけがをしはしまいかと心配して,やめさせたいと考える一方,父親は,むすこはいずれいつかは木に登って,痛い思いをするかもしれないが,それでも何かを学び取るだろうと考えます。男は感情移入よりも先に,入念に考えます。しかし,親せきとの接触を保つことは,たいてい妻にまかせます。

15 あなたの夫の日常生活に認められる特質は,ほかにもたくさんあるでしょう。しかし,以上の幾つかの特質は,夫がある面で妻と異なっていることを示すには十分でしょう。夫は世俗の職場で給料をもらっているにしても,家族のかしらとしての夫の価値を決めるのは困難です。つまり夫は,最後の決定を下す責任をにない,いろいろな問題が生じるとその矢面に立ち,家族が直面する問題や難事の解決策を見いだし,家族の各自に幸福をもたらす仕方で,家族をおだやかに導くのです。それにしても,自分の生活をエホバへの従順の道に従わせようとする,家族のかしらのいだく喜びに,家族の他の成員は深い関係をもっています。柔和やもの静かさ,そして愛を反映する家庭,また,夫の数々のまちがいを見過ごし,欠点を並べたてたりせず,夫は欠点を直さないで同じことを何度も繰り返す,と言っては,絶えずあれこれと思い出させるようなことをしない妻のもとに,毎日帰れる,一家の扶養者は,なんと深い満足感を味わうことでしょう。聖書に,「かれ(妻)はその家の事をかんがみ(る)」と述べられているように(箴言 31:27),妻が家族の世話をする者としての責任をにない,家の中をきれいに,そして整頓し,健康に良い食事を整え,また,自分の手でいろいろなものを作り出すなら,夫に大きな喜びをもたらすでしょう。シャツにボタンを取りつけるといったたぐいの,ささいではあっても,重要な仕事を妻は行うことができるのです。

16,17 (イ)夫に対して,妻は他にどんな配慮を示せますか。(ロ)手早くことを処理するために,愛を示すことや霊的食物を取り入れることを軽んじてもよいですか。

16 夫に対して示すべき,たいへん徳を高める態度とは,積極的な態度です。まず,夫の考えに見られる良い点を認めなさい。不必要な経済的負担を夫にかけて,神経をすりへらす職場で,余分に夫を働かせることをしないように注意してください。あまり高価でないもので満足し,人をうらやむ気持ちを捨て,夫が満足していることに感謝の念をいだけば,夫に経済的な成功の最高位に登ってもらいたいとの欲望を消し去れるでしょう。『頂上には立つ余地がある』と言われていますが,しかし,そこに幸福を見いだせますか。人は,クリスチャンであってさえ,競争の精神に取り囲まれ,名誉のある高い地位や高い給料,また,少なく働いて「楽しい時」を過ごせる仕事を追い求める人々に取り巻かれているのです。およそ,そのような所にいる人は,自分の信仰を守るために,絶えず警戒していなければなりません。

17 職場で1日じゅう絶えず緊張してみれば,それだけでひどく疲れてしまいます。ですから,愛のある妻は,夫のそうした緊張をほぐせるようなふんい気や態度によって,家庭内の喜びを増し加えることができます。夫の直面する問題がどれほど多くても,また,夫の敵がどんなに強大であろうとも,聖書は,愛を行使することを勧めています。「目を覚し,堅く信仰に立ち,雄々しく,かつ剛かれ,一切のこと愛をもて行へ」。(コリント前 16:13,14)会衆の活動においても,兄弟たちが他の人々を取り扱う場合,いつも愛を行使すれば,幸福を保てます。大会がやってくる際,準備のために短期間しかなく,未熟さのゆえに手早くしようとあせるようなことがあっても,それは愛をたな上げにすべき時ではありません。いろいろな事柄に次から次へと押しまくられて,信仰を保つための時間がほとんどなくなるようなことになれば,その時は自分の生活を吟味すべきです。神のことばに対する従順が第一であり,従順であることに幸福を見いだすためには,人はエホバのことばによって,自分を養いつづけねばなりません。緊急な問題があるから,研究はまたあとでしよう,という言いわけをして,自分を養うわざを一時的にわきに押しやることはできません。イエスは次の点を強調されました。「人の生くるはパンのみによるにあらず,〔エホバ〕の口より出づるすべてのことばによる」― マタイ 4:4,〔新〕。

従順な子どもたち

18 子どもたちに見られる相違点は,どうしてわたしたちを非常に楽しませるのですか。

18 子どもを育てることには,数々の祝福がありますが,子どもが生まれると,従順という重大な問題が生じます。初めてうぶ声を上げた時以来,子どもには愛ある導きが必要です。おとなと違って,子どもは,多くの点で親に依存しています。幼い時期には,子どもの性格を作るのは容易です。子どもはおとなよりも自然で,好奇心に富み,まわりのできごとを一生けん命に知ろうとし,物事がどうしてそうなるのかを考えます。全世界は,いわば研究の対象でもあるかのように,彼らの前に横たわっており,たいてい子どもは,その身近な部分に深い興味を示します。また,他の人々と交わることを楽しみ,互いにすぐ打ちとけて遊びます。おとなから教え込まれさえしなければ,人種,社会的な地位,その他,家族に影響を与えるどんな背景の相異にも容易に順応します。同じ家族の子どもでも,気質はそれぞれ異なっており,互いによく似たふたりの子どもを見いだすことは,めったにありません。親が,違った仕方で子どもたちを取り扱い,異なった方法で懲らしめを与えるのは,そのためです。子どもは,しっかりした,それでいて愛のある親を望みます。そして,複雑な事柄にかかわりを持たない簡素な生活を楽しみます。また,「なぜですか」とすぐ尋ねます。公平に取り扱われると,物事にすぐ応じ,愛情に恵まれると,すくすく育ちます。そのほか,子どもには,おとなと異なる興味深い特質が,数多く見られるでしょう。

19,20 (イ)子どもを養育する際,多くの人々が取る道を説明しなさい。(ロ)家庭における訓練が必要であることを,現代の諸事実はどのように実証していますか。

19 子どもの養育の問題ほど意見を異にするものはありません。ちょっとした指針程度のものから,堅苦しい厳格な規則に至るまで,養育に関する意見は人によってみな違います。よく知られている,人生経験の反復は,次のような例を使って説明できるでしょう。何年も前,朝早くから夕方暗くまで,しかも,たいてい1週間の七日,農場で働かねばならない家庭で,ある少年が成長しました。楽しく遊んだり,周囲の土地の興味深い物事を調べたりする時間はなく,明けても暮れても,仕事と業務に追い回されました。農場の務めを果たすために学業もしばしば,あとまわしにされました。少年は,自分が大きくなって家庭を持ったら,自分の子どもには,骨の折れる仕事や,つらい義務を課したりせずに,若い時代を十分楽しませてやろう,と誓いました。時が流れ,少年はおとなになって家庭を持ち,子どもたちに苦労をさせまいとして,長時間,一生けん命に働きました。子どもたちは学校に通い,毎日,昼に帰宅し,母親の作った昼食を取り,そのあとは,急いで宿題をすませ,テレビやボール遊びその他を自由に楽しみました。仕事や義務はいつもありません。そのために,落着きが失われ,退屈感がしのび込み,これといって頭を使うことがなく,手もちぶさたなため,悪事に走るようになりました。遊びが重視されすぎたため,感覚が鈍ってしまいました。なんと,この家族の若者も,次のことを誓いました。自分が大きくなって家庭を持ったら,子どもたちに仕事をさせ,物事を成し遂げ,かつ,責任をになえるように訓練しなければならない,というのです。これが人生の反復の一つの型を成し,何度も繰り返されてきました。多くの家族は,親の過去のつらい経験に基づいて,養育されています。

20 最初はわずかなひび割れが,やがて深いみぞとなる別のまちがいは,親が子どもの養育を他の人々にゆだねることです。将来おとなとなる子どもたちの考えや性格を形づくるのにきわめてたいせつな世話を,教師・学校・子もり・夏期キャンプ・養育団体・親せきなどにまかせっきりにする親がいます。公立の学校に通う子どもは,長期間にわたり,親の影響外に置かれるので,個人的に家庭教師を雇って,問題を克服しようとする親もいます。ある宗教団体は,独自の学校を経営して,信仰を異にする人々との交わりを除去しようと努めています。しかし,そうした考えはいずれも,わが子の成長を見守る親に幸福をもたらすものとはなりませんでした。それどころか,種々の問題や,さまざまな悲劇のために,家庭はだいなしにされています。

21 (イ)神の子たちはすべて良い者となりましたか。(ロ)エホバの忠実な御子の働きと態度について論じなさい。

21 子どもたちは,すべて同じように,あるいは,りっぱに成長するとはかぎりません。エホバの天の家族には,聖書の中でわたしたちの注目をひく,ふたりの著名なむすこがいました。そのひとりは悪い者,つまり,みずからサタン悪魔となりました。(ヨブ 1:6。コリント後 11:3,14。ヨハネ 8:44。ヨハネ第一 3:8。黙示 12:9)一方,イエスは,忠実な愛あるむすことしての立場を保ち,その歩みは,はかり知れない祝福を人類にもたらすものとなりました。天の父とともに歩んだ,その道は,コロサイ書 1章15節にこうしるされています。「彼は見得べからざる神の像にして,万の造られし物の先に生れ給へる者なり」。ピリピ書 2章5-8節(口語〔新〕)は次のとおりです。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを,あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは,神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事とは思わず,かえって,おのれをむなしうして僕のかたちをとり,人間の姿になられた。その有様は人と異ならず,おのれを低くして,死に至るまで,しかも〔刑柱〕の死に至るまで従順であられた」。ヨハネ伝 5章19節にはこう書かれています。「イエス答へて言ひ給ふ。『まことに誠に汝らに告ぐ,子は父のなし給ふことを見て行ふほかは自ら何事をも為し得ず,父のなし給ふことは子もまた同じく為すなり』」。エペソ書 1章7節: 「我らは彼にありて恩恵の富にしたがひ,その血に頼りて贖罪,すなはち罪の赦を得たり」。ヨハネ伝 3章16節: 「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」。ヨハネの第一の書 4章9,10節: 「神の愛われらに顕れたり。神はその生み給へる独子を世につかはし,我らをして彼によりて生命を得しめ給ふによる。愛といふは,我ら神を愛せしにあらず,神われらを愛し,その子をつかはして我らの罪のために宥の供物となし給ひしこれなり」。また,黙示録 7章9,10,14-17節はこう述べています。「この後われ見しに,視よ,もろもろの国・族・民・国語のうちより,誰も数へつくすこと能はぬ大なる群衆 しろき衣をまとひて手に棕梠の葉をもち御座と羔羊との前に立ち,大声に呼はりて言ふ,『救は御座に坐したまふ我らの神と羔羊とにこそあれ』……『かれらは大なる患難より出できたり,羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり。このゆえに神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神に事ふ。御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし。彼らは重ねて飢えず,重ねて渇かず,日も熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいます羔羊は,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目よりすべての涙を拭ひ給ふべければなり』」。それらのむすこはいずれも,エホバに忠実に仕えて,自分たちの父とその家に,世々かぎりなく誉れをもたらす機会を持っていました。イエスの場合に見られる訓練と従順の結果に注目してください。コロサイ書 1章16,17節およびヨハネ伝 1章1-3,10節の次のことばによれば,イエスはエホバのなされた創造に際し,エホバに用いられました。「万の物は彼によりて造らる,天に在るもの,地にあるもの,見ゆるもの,見えぬもの,あるひは位,あるひは支配,あるひは政治,あるひは権威,みな彼によりて造られ,彼のために造られたればなり。彼は万の物より先にあり,万の物は彼によりて保つことを得るなり」。「太初に言あり言は神とともにあり,言は神なりき。この言は太初に神とともにあり,万の物これによりて成り,成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。……彼は世にあり,世は彼によりて成りたるに,世は彼を知らざりき」。彼は,たとえ真理が人気のないものであっても,真理を熱心に語り告げました。(マタイ 23:13,16,23; 15:1-9)イエスは奇跡を行なうことができ,また,実際に行ないましたが,決してわがまま,あるいは高慢にはなられませんでした。(ルカ 5:17-25。ヨハネ 5:19。マタイ 11:28,29; 21:5)彼は人々のもとに出かけて行って,彼らに話をされたのです。(マタイ 19:14; 9:35-38)そして,当時の人々は真の益を受け,今日のわたしたちは祝福を得ているのです。

22 (イ)この模範をどのように人間の家族に適用できますか。(ロ)父親がどんな質問を考慮するなら益が得られますか。

22 したがって,ここに,愛ある天の父と従順なむすこの,たいへん力強い模範と,その模範が他の人にもたらす祝福が見られます。こうした模範は,今日の父親を励ますものであり,また,家族を養育する唯一の安全な道に従う人々のために差し伸べられている益を認識する助けとなります。その安全な道とは,エホバのことばを家庭生活の基盤とする道です。箴言 1章33節は,この点を次のように重視しています。「されど我に聞くものは平隠に住ひかつ禍害にあふ恐怖なくして安然ならん」。むすこに,りっぱな人になってもらうのは,どれほど価値のあることですか。あなたは子どもを訓練し,懲らしめるのに,どれほど多くの時間をさくことができますか。有意義な目標をお子さんに教え込むことができますか。従順の道を幸福な道にする方法を見いだしましたか。あなたのお子さんは,エホバに仕えるのが望ましい道であり,その道を限りなく歩みたいと願うようになっていますか。

子どもを養育する価値

23-25 (イ)恥をもたらすような子どもを育てあげないため,両親はどのように努力できますか。(ロ)古代イスラエルでは,反抗的な子どもに何がなされましたか。しかし,それはどうすれば避けられましたか。(ハ)マタイ伝 11章29,30節は,どんなことを思い出させますか。

23 家族に訓練を施し,物質的また霊的な食物を備えるために費やされる時間は,銀行にあずけられたお金のようなものです。しかも,日ならずして配当を生む投資と言えます。とは言っても,子どもたちを教えるのは,お金を銀行にあずけるような機械的な事柄ではありません。子どもは各自異なっており,さまざまな種類の懲らしめに応じます。家庭でも学校でも,親はきびしくしすぎていた,と考えられた時代が,かつてありました。それで,種々の制限が緩和され,より多くの自由が若者に与えられました。教育者に言わせれば,それは,子どもがいっそうひとりだちでき,また,成長するためでした。その結果について,つまり,その成果を示す諸事実また証拠について論ずる必要がありますか。どこを見ても,それが刈り取っているものは,箴言 29章15節の次のことばの真実性を実証しています。「鞭と譴責とは知恵をあたふ任意になしおかれたる子はその母を辱しむ」。イスラエルの時代には,申命記 21章18-21節によれば,不従順な子どもは,町の長老たちのもとに連れてゆかれ,石打ちの刑に処されましたが,そうした子どもを長老たちの所に連れてゆくのは,親にとってどんなにかつらいことだったでしょう。こうしるされています。

24 「人にもし放ままにして背もとる子ありその父のことばにも母のことばにも順はず父母これを責るも聴ことをせざる時は その父母これを執へてその処の門にいたり邑の長老たちにつき邑の長老たちに言べし 我らのこの子は放ままにして背もとる者 我らのことばにしたがはざる者 放蕩にして酒に耽る者なりと しかる時は邑の人みな石をもてこれを撃殺すべし 汝かく汝らのうちより悪事を除き去るべし しかせばイスラエルみな聞ておそれん」。

25 この事で問題を徹底的に解決するための処置を講ずるのは,親にとって容易ではなかったでしょう。それでも,愛ある懲らしめを施せば,そうした問題は回避できたのです。「もし,言うことを聞かないなら,おまえを,町の長老たちに引き渡しますよ」と言って,母親が子どもをおどしたりしたなどとは考えられません。箴言 19章18節で,親がそうした徹底的な処置に訴えるのを避けるには,どうすればよいかをさとした,賢明な記述者が,何を考えていたかは,容易に理解できます。「望ある間に汝の子を打て」としるされているのです。わたしたちが自分の子どもを訓練する際にも,この同じ助言が思い起こされます。他の人々を取り扱う際の最善の知恵は,イエスからもたらされました。しかも,それは確かに家族の場合にもあてはまるものです。人を取り扱う際のご自分の態度に関し,イエスは言われました。「わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」。(マタイ 11:29,30,新)イエスはすべての人から従順を求めておられました。したがって,そうした態度が,幾千人もの人たちを,愛に基づく従順のうちにイエスに引きつけるのであれば,その同じ態度を取る,愛のあるかしらに家族は,いっそう密接に引きつけられるはずです。

26,27 (イ)若い人々であるみなさんを,時の流れの中で現在に至るまで育てあげるのに,どれほどのものが必要でしたか。(ロ)若い人々は,親に対して何を示すべきですか。

26 物事を論理的に考えだす年ごろの人をも含めて,若い人たちであるみなさん,おとうさんの導きになおも依存しているあなたがたは,今,すべての事実を調べて,よく考えてください。あなたはどれほど価値がありますか。あなたの親は,あなたの価値をはかろうとさえするかもしれませんが,あなたをこれまで育てるため,忍耐強い世話に要した時間や,物質上のものの総計を一々書き留めておきませんでした。それは膨大な投資でした。今この問題を考えてみて,あなたは親と家族の他の人たちに,なんらかの益をもたらしていると言えますか。賢明な投資をすれば,配当を受けます。あなたは賢明な投資といえますか。

27 100年余を経た,1冊の聖書の中から,新聞の小さな切り抜きが見つかりました。それには,筆者の名前も資料の出所もしるされていませんでしたが,次のことを述べた,その数行のことばは,長い年月を経て,いっそう深い意味を帯びています。「少年は10歳になると,自分の父親はたいへんな物知りだと考える。15歳になると,自分は父親と同じほど物を知っている,20歳になると,父親の2倍も多くの事柄を知っていると考える。30歳になると,父の助言を快く受け入れ,40歳になると,父が知っているのは,やはり大したものだと考えはじめ,50歳で,父の助言を求めるようになり,60歳になって,つまり,父親の死後,自分の父はこれまでのだれよりも利口だった,と考えるものである」。この世に生まれて生活をするうえで,たいへん世話になった人の尊さを正しく理解するのに,長い年月がかかったのです。あなたの親は,その気になれば,生まれたばかりのあなたを無視して,あなたをだれかほかの人に引き渡し,食と住を与えてもらい,そのうえ,教育を施してもらうこともできました。確かに,ある子どもたちは施設に収容され,施設が後見人の役をしています。しかし,そうした施設の最善のものにさえ,父母の愛が欠けているのです。

28 若い人々は,親が備えてくれる導きや生活に対して,どうすれば認識を深めることができますか。

28 あなたがた若い人たちは,時として,自分たちの家庭に不満を感じたり,物事の運び方に多くの欠点を見いだしたりするかもしれません。では,もっとよい考えを持っていますか。ただ考えているだけで,事態を改善するために手伝うことをしてはいないのではありませんか。両親から生を受けた以上,仮にあなたがいま家庭を管理するとすれば,同じような欠陥が見られるのではありませんか。教育方法が改善されたので,自分ならもっとよく物事を行なえる,と考えますか。でも,ちょっと待ってください。この世界の頭脳の明晰な人々は,自分たちの直面する諸問題を除去できないでいるのです。高等教育や複雑なコンピューターも,人類家族を平安と満足の宿る生活に導く手段とはなっていません。自分の親の価値に疑問を感ずる場合は,いつでも,次のように友だちに尋ねてみてください。赤ちゃんが最初のうぶ声を上げてから,成年に達するまで,衣・食・住を与えて養育し,教育や懲らしめ,また娯楽を与えて世話をする責任を引き受けるとすれば,どれほどの報酬を請求しますかと。こうした仕事に要するお金は莫大なものです。しかも,その中には,お金では買えない他の特質,つまり愛が含まれていないことを忘れないでください。

29 箴言 23章22節は,すべてのむすこや娘にどんな正しい態度を取るよう勧めていますか。

29 あなたがた若い人たちは,聖書が箴言 23章22節で,なぜ次のように語っているかを,容易に理解できるでしょう。「汝を生る父にきけ汝の老たる母を軽んずるなかれ」。

30 人生は遊びにすぎない,とみなすべきではありません。なぜですか。

30 人生は遊びである,と言い,人生を単調なものにしないため,おもしろおかしく過ごしたい,と考える人がいます。しかし,人生はまじめな営みであり,楽しく遊んで過ごせるのは,せいぜい数年にすぎません。かつて,円熟したひとりの人は,他の人たちにこう語りました。「すべてまじめなこと……を考え続けなさい」。(ピリピ 4:8,新)「同様に,女たちは,まじめで……あるべきである」。(テモテ前 3:11,新)「年をとった男は,……まじめでありなさい」。(テトス 2:2,新)したがって,円熟した父親が,「謹厳をつくして」自分の子どもたちを訓練するのを,エホバが期待しておられるのは,少しも不思議ではありません。(テモテ前 3:4,新)人生は決して遊びだけではありません。あなたの思いとからだの中には,すぐれた数々の特質が秘められています。それらを発達させないで放置しておく結果,幾多の幸福が伴うべき歳月を送りそこなうのは,賢明ではありません。懲らしめと訓練,仕事と愛は,そうした特質を引き出して,あなたの福祉としあわせをもたらすのです。

31,32 いろいろな技術を身につけるための訓練に,なぜ関心を示すべきですか。

31 いろいろな事柄を成し遂げるのは,なんという喜びでしょう。教えと指導を受けたのち,あなたは家具を作って,家族を喜ばせる楽しみを味わえるかもしれません。あるいは,母親の訓練のおかげで,家で使う掛け布やカーテンを作る機会に恵まれるかもしれません。料理・上手な買い物,絵・音楽・機械技術・大工仕事・庭園の世話・造園技術・建築・洋裁などの面で能力をみがいたり,その他,たいへん有益で楽しい数多くの事柄を成し遂げることができるでしょう。そうした活動は,あなたにとって楽しいばかりか,家族にも益をもたらすのです。そうするあなたは,実際には,親から投資されたものに対する配当を,親に払っていることになるのです。

32 あなたは,それが親にどれほどの喜びをもたらすか,もちろん理解できるでしょう。8歳と9歳そして10歳の3人の娘は,そのために非常に深い満足感を味わいました。その娘たちは,家族と大ぜいの訪問客すべてのための食事をすっかり整えたのです。両親は,娘たちの働きにたいそう喜びました。ある十代の少年は,自分の家にペンキを塗る仕事を実に上手にしたので,普通よりもはるかにすぐれたできばえだとしてほめられました。あるふたりの少年は,裏庭に野菜を作り,一夏のあいだ,家族に野菜を供給しました。ふたりは,小さな種から,食用に供せるに至るまでの野菜の生長を見守りました。仕事を正しくかつ,りっぱに行なうため,仕事の質の改善に努めるなら,他の人たちができない仕事を,あなたは任せられるでしょう。今日,そのような仕事は,あらゆるところに見られる“どうにか働けばよい”式の仕事とは著しい対照をなしており,それは確かに,あなたやあなたの家族のひととなり,および生活上のあなたの関心事が何かを反映します。箴言 13章20節(新)が明示している原則は,あらゆる点でわたしたちの生活にあてはまるということを忘れないでください。こうしるされています。「賢い人々とともに歩いている者は賢くなるが,愚かな者たちと関係をもっている者は,うまくゆかないであろう」。

従順はどうみなされているか

33 懲らしめはどのようにみなすべきですか。

33 ほかにも,考えるべき問題があります。あなたは,この従順という問題をどう考えていますか。親から懲らしめを受ける場合,あなたは憤りを感じますか。確かに,「すべての懲戒,今は喜ばしと見えず,反って悲しと見ゆ,されど後これによりて練習する者に,義の平安なる果を結ばしむ」とあるとおりです。(ヘブル 12:11)それにしても,わたしたちには,先頭に立って事を進め,教えを与え,手本を示す人が必要です。もし,あなたがほったらかしにされていたなら,今なおミルクびんから乳をすっていたことでしょう。親が弟や妹に対して異なった懲らしめを与えていることに気づく場合,あなたは動揺しますか。自分は弟や妹とは違う,ということを最初に断言するのは,あなたのほうです。しかも,その点で,あなたの主張は正しいのです。では,なぜ異なった取り扱い方に異議を唱えるのですか。親は,あなたがた各人の能力に応じて教えようとしているのです。ですから,その場合にこそ,あなたは従順を自分にとって望ましい道とし,またそうすることにより,それを家族の他の人たちのためにも喜ばしい道とすることができるのです。

34 率先と信用の特質はどうしたら示せますか。

34 たとえば,あなたに割り当てられている,家のまわりの種々の雑事を考えてみましょう。毎回言われなくとも,進んでするのは,たいへん気持ちのよいことです。やり方を改善しよう,という考えをもって仕事をすれば,率先という特質をつちかうことになります。それらの仕事を毎日,きちんと処理して,家族のみんなから感謝されるほどであれば,いわゆる信頼性があるというものです。それは,あなたが成長していることの強力なしるしです。何かをこわしたり,まちがいをしたなら,損害がもたらされたことをみずから認め,まっ先に直接親のもとに行って,事情を話してください。それは,あなたが正直で信用できることを示します。あなたがつちかっている特質には他にもたくさんあります。しかも,そうした特質は,家庭生活の一部を成している,あなたの幼い時期につちかわれはじめるのです。そうした特質の幾つかは,聖書のガラテヤ書 5章22-23節(新)に列挙されています。次のとおりです。「一方,霊の実は愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制である。そうした事柄を禁ずる律法はない」。

35 若い人の持っている好奇心をどのように用いれば,益が得られますか。

35 同時に,改善を促す助言に機敏に応ずるなら,生活はいっそう容易になります。親が,絶えず繰り返し懲らしめを与えて,懲らしめのたいせつさをあなたに銘記させたり,時には,きびしい罰を科したりしなければならないというよりも,自分で物事を考えて,改善を図り,徹底的な処置を講じられないですむようにしてはどうですか。若い人たちは,身辺のできごとに対する好奇心が著しくおう盛です。では,こう自問してはどうですか。「これをするように,と親からいつもやかましく言われているのに,これをしないなら,わたしの家族には何が起きるだろうか。わたしの行動は他の人たちにどう影響するだろうか」。たとえを用いて,この事を考えてみましょう。どんな分野にも2種類の人々,つまり参加者と傍観者がいます。傍観することよりも参加することのほうが,喜びが深く,より多くの知識が得られ,また,いっそう活動的です。家庭では,あなたは傍観者ですか,参加者ですか。傍観者のような態度で人生を送る人を見いだすのは容易ですが,そのような人は,ほんとに生活を楽しんでいるのだろうか,とあなたは疑問に思うことがあるでしょう。ところが,聖書を見ると,そこでは,人生は行動と結びつけられています。たとえば,使徒行伝 17章24,25,28節(新)にはつぎのようにしるされています。「世界とその中のすべてのものとを造られた神は……すべての人に命と息とすべてのものを与えておられる。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからである」。

36,37 人はどのように創造物を研究し,それから学ぶことができますか。

36 多くの若い人たちにとって,研究はつらい仕事のように思えます。それは実際につらい仕事です。しかし,報いと成果,知識と幸福をもたらします。研究とは探求の世界です。物事は考察することによって,満足のゆくように実証できます。このことに関する箴言 18章15節(新)のことばに注目してください。「理解力のある者の心臓は,知識を習得し,賢い者の耳は,知識を尋ね求める」。

37 確かに人間は,科学・技術の知識の分野で進歩し,電話・テレビ・ラジオ・コンピューター・望遠鏡などの数多くの発明のおかげで,わたしたちは情報を入手することができます。しかし,人間は今なお神の創造物また,その中にある事物を研究しているのです。近代的な機械の進歩を見る前に,人々はそうした事物を研究しました。そのような人は学者でした。あなたも学べるのです。そして,神が創造した事物を単に傍観するのではなく,探求することによって,それらに対する深い認識をほんとうに身につけることができるのです。動物やこん虫,鳥や魚を取り上げて,その働きや特徴,その生活と他の生き物との関係を調べてごらんなさい。そうすれば,多くを知って驚嘆させられるでしょう。概して人間は,この地に表明されている,知恵の壮大な現われといえるものを傍観はしても,わざわざその探求に参加しようとすることは,めったにしません。ロマ書 1章20節でパウロはこう語っています。「神の見るべからざる永遠の能力と神性とは造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ,彼ら言ひのがるる術なし」。きたるべき長い年月にわたって,探求しつづけても,資料にことかくことはないでしょう。伝道之書 3章11節は次のことをわたしたちに思い起こさせているからです。「彼[つまり神]はすべてをその時に応じて,みごとに作られた。彼は,定めのない時を彼らの心臓に入れられた。真の神が始めから最後まで行なわれたわざを,人間が決して見つけ出すことがないためである」。

38 神のことばの研究から,どんな益が得られますか。

38 聖書の研究についても同じことが言えるのに気づかれるでしょう。たいていの人は,おとなしい傍観者にすぎず,聖書が良い本であり,ベストセラーで,りっぱな手本で,文学作品であり,神について語る本であることは認めます。しかし,物事に参加する人は,聖書を掘り下げて,それが知恵に富むものであることを知ります。箴言 2章4-6節が述べるとおりです。「銀のごとくこれを探り 秘れたる宝のごとくこれを尋ねば 汝エホバを畏るることをさとり 神を知ることを得べし そはエホバは知恵をあたへ知識と聡明とその口より出づればなり」。さて,好奇心,つまり物事を知ろうとする,あの欲求に満たされている若い人としてのあなたは,挑戦を受けているのではないでしょうか。実際のところ,もし,あなたが人生は単調なものだと感じているなら,単調なのは,あなた自身なのです。なぜなら,あなたは,決してつきることのない,変化に富んだ世界を,実際に歩んでいるのだからです。

39 海の例から示されるとおり,家庭のふんい気はどうあるべきですか。

39 ゆえに,従順の道は,人の歩むべき望ましい道です。それは常に,幸福と密接に結びついている道とも言わねばなりません。親のみなさん,賢くあってください。そして,次のように語ったキリスト・イエスの手本に従ってください。「わたしは気質が柔和で,心臓からへりくだっているからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは快く,わたしの荷は軽いからである」。(マタイ 11:29,30,新)懲らしめをおくらせてはなりません。愛をもって,懲らしめてください。現代の世界には,すぐれた機械装置がいっぱいあるため,そうしたものを購入して,支払いに追われるようになるおそれがあります。機械製品を家の中にいっぱい取り入れてそうした物品のために親が疲れたり,気力を失ったりするあまり,愛をもって家庭を包む時間を失うべきですか。寄せ波が岩に砕け,大波がしだいに高さを増して,勢いよく押し寄せ,岸に砕けては引き返し,また再び迫ってくるさまを見ると,絶えずせわしく動く海に,近づきがたいものを感ずるかもしれません。しかし,同じ海でも,場所によっては,とてもおだやかで,波がひたひたと岸辺を洗っているところもあるのです。そのような海には暖かさを感じ,思わず立ちどまるでしょう。平穏な海の様は,それがかもしだす満ち足りたふんい気に何度も見る人の思いを引きつけます。愛ゆえに,従順が望ましい道となるとき,あなたの家庭も満ち足りたところとなるでしょう。

[626ページの図版]

トマスが,ある集会に出なかったとき,イエスは彼をしかって,従順のもたらす喜びを奪おうとはされず,必要な信仰を得るようトマスを助けた

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