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  • あなたはしんぼう強く待てますか
    ものみの塔 1971 | 7月1日
    • あなたはしんぼう強く待てますか

      待つ,それもしんぼう強く待つことを学んでおられますか。それは創造者,エホバ神が,地上の被造物であるわたしたち人間に教えたいと考えておられる教訓の一つといえるでしょう。それに神は,このことをその創造による自然と,霊感のもとにしるされた聖書という2冊の本をとおして教えておられるのです。

      人は日や季節や年を速めることはできません。地上の人間が何を行なおうと,365日と4分の1日で太陽のまわりを回る地球の公転速度を速めることはできません。だれも季節の到来を速めたり,地軸を中心とする地球の自転速度を速めたりすることはできません。あいかわらず1日は24時間かかるのです。

      農夫は種をまきますが,その後やはり待たねばなりません。どのみち,成り行きを速めることはほとんどできません。作物によっては,収穫まで何年も待たねばならないものがあります。弟子ヤコブは,農夫が示す忍耐をクリスチャンの模範として次のように指摘しています。「兄弟よ……耐忍べ。視よ,農夫は地の貴き実を,前と後との雨を得るまで耐忍びて待つなり。汝らも耐忍べ」― ヤコブ 5:7,8。

      しんぼう強く待つという点では,エホバ神ご自身がわたしたちに模範を示しておられます。たとえば,使徒ペテロはこう述べます。「ノアの時代に方舟の備へらるるあひだ,寛容をもて神(は)待ち給へ(り)」。同様に神は,「救ふべからざるに至(る)」まで,古代のわがままなイスラエルの民に関して忍耐されました。―ペテロ前 3:20。歴代下 36:15,16。

      神のみ子,イエス・キリストもしんぼう強く待つ,すぐれた模範を残されました。黙示録 19章から21章にある預言からもわかるとおり,彼は,神の敵すべてを一掃するのが自分に対する神の目的であることを知っておられました。そして,よみがえらされたとき,その敵を訴える意志も権能も持っていましたが,「神の右に坐し,斯て己が仇の己が足台とせられん時を待」たれたのです。―ヘブル 10:12,13。マタイ 28:18。

      しんぼう強く待つ,もう一つのすぐれた模範を残したのは,エッサイの子,ダビデです。一介の少年だったとき,ダビデはイスラエルの将来の王として,預言者サムエルにより油を注がれました。巨人ゴリアテをひとりで討ち倒した彼は,イスラエル最高の戦士であることを示し,ペリシテ人との戦いを通して,サウル王よりも10倍も多くの敵を討ちました。ねたんだサウルに犬か何かのように追われたとき,ダビデはサウルを殺害する好機に幾度か接したので,その気になれば,神から確約されていた王国を掌握することもできました。しかし,ダビデはそうせずに,『エホバみずから災禍をもてサウルを撃たまふ』時まで,喜んでしんぼう強く待つことにしたのです。

  • 悪の終わりをしんぼう強く待つ
    ものみの塔 1971 | 7月1日
    • 悪の終わりをしんぼう強く待つ

      このしんぼう強く待つという事柄は,正義を愛する多くの人が尋ねる,「神はなぜ悪を許しておられるのだろうか」という質問に直接関係しています。なかには,悪の存在は神が崇拝を受けるにふさわしくないことを証明する,と論ずる人もいます。そうした見解によれば,神は悪をとどめえないゆえに弱い存在であり,したがって,崇拝するに値しない。あるいは,神は悪をとどめることを好まないゆえに,公正かつ善良ではない。したがって,やはり崇拝するにはふさわしくないと論じます。

      こうした反論についてはどうですか。それは論議の余地のない,もっともな反論ですか。決してそうではありません。エホバ神は,悪を終わらせる予定の時を決めておられるのです。そのみことばは,神がノアの日の洪水で邪悪な者たちを滅ぼすのに時を定めておられたことを示しています。(創世 6:3)神は,イスラエル民族をエジプトにおける隷従から解放する時を定めておられました。エジプトの王パロが神の民の出国を拒否したとき,神が直ちにパロとその軍事力を粉砕しなかったのはそのためです。神みずからパロに言われたとおりです。「そもそも我が汝をたてたるは即ちなんぢをしてわが権能を見さしめ わが名を全地に伝へんためなり」― 出エジプト 9:16。

      同様に,神はご予定の時が到来してはじめて,そのみ子を地につかわされました。「時満つるに及びては,神その御子を遣し……律法の下にある者をあがな(う)……ためなり」。確かに,「天が下の萬の事には[神の]期あり萬の事務には時あり」と言わねばなりません。したがって,物事が生ずべき,神のご予定の時までしんぼう強く待つのは,まさに賢明なことです。―ガラテヤ 4:4,5。伝道 3:1。

      悪が終わることを保証するもの

      神は,確かに悪を終わらせるということを,そのみことばの中で明示しておられます。実に神は最初から,へび,サタン悪魔に対し,その頭が女のすえによって砕かれることを告げて,正義が勝利を得るとの預言を与えました。そのすえはイエス・キリストであることが明らかにされました。―創世 3:15。黙示 12:9。ロマ 16:20。

      したがって,神は詩篇作者を通して繰り返し保証のことばを述べておられます。「あしきものは久しからずしてうせん……されど謙だるものは〔地〕をつ(ぐ)」。「きたりてエホバの事跡をみよ……エホバは地のはてまでも戦闘をやめしめたまふ」。「〔エホバは〕悪者をことごとく滅したまはん」。そして,聖書巻末の書には,サタンとその代理者すべてが滅ぼされ,悪はもとより,悲しみ,苦痛また死さえも除去される,としるされているのです。―詩 37:10,11,〔新〕; 46:8,9; 145:20。黙示 20:1–21:4。

      ですから,「なんぢエホバのまへに口をつぐみ忍びてこれを俟望め」と述べて,しんぼう強く神を待つべきことをエホバ神がわたしたちに告げておられるのは,それ相当の理由があってのことなのです。今日,多くの人は邪悪な状態に反対して暴力をもって立ち上がっていますが,そうするかわりに,問題の解決をエホバにゆだねてください。預言者エレミヤがエルサレム崩壊後に語ったとおりです。「エホバの救極をのぞみて静にこれを待は善し」。―詩 37:7。哀歌 3:26。

      しんぼう強く待つための助け

      エホバが行動を起こして悪を終わらせるときまでしんぼう強く待つためのどんな助けがありますか。一つの大きな助けとなるのは,信仰に基づく希望です。信仰が強ければ強いほどわたしたちの希望は明るいものとなります。明るい希望を保つには,将来にかかわる神の約束に関して,わたしたちの思いを絶えず新たにしなければなりません。別の助けは,しんぼう強く待つことの知恵を正しく認識することです。ただむなしくいらだったり,問題を自分勝手に処理しようとしたりすれば,事態は悪化するだけです。―ロマ 8:24,25; 12:19。

      もう一つの大きな助けは喜びです。「エホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」とあるとおりです。喜びは強さをもたらします。忍耐して待つための強さをイエス・キリストに与えたのは喜びでした。そして,希望は信仰の上に築かれるものであるように,喜びは認識の上に築かれるものです。神の恵み,あなたが今得ている祝福,仲間のクリスチャンと交わる楽しみ,イエスが行なわれたとおりに神のみことばの真理を他の人々に告げる特権などを正しく認識すれば認識するほど,あなたは喜びを得,しんぼう強く待つことができるようになるでしょう。―ネヘミヤ 8:10。ヘブル 12:2。

  • 他の人々との関係においてしんぼう強くある
    ものみの塔 1971 | 7月1日
    • 他の人々との関係においてしんぼう強くある

      待つということには,ほかにも考えるべき面があります。それは日常生活の人間関係においても知恵の道となります。求愛中の若い男女の一方が結婚を急ぐかもしれませんが,不当に急ぐのは知恵の道でない場合があるのです。求愛期間は,ふたりがたがいをよく知り合い,互いに相手に合わせる仕方を学ぶすぐれた機会となります。“あわてて結婚,ゆっくり後悔”とはよく言ったものです。

      このことは,非常に勤勉で昇進を願い求める従業員についてもあてはまります。その場合でも,気短になっていらだつよりも,目前にある機会をのがさずに活用し,自分の真価を実証したり,自分の技術を向上させたりするほうが,さらにすぐれてはいませんか。多くの場合,もはやくよくよしたり,いらだったりせずに満足するようになると,より良い方向に向かう変化が生ずるものです。

      しんぼう強く待つことは,家族の中においても知恵の道といえます。仕事上の問題,あるいは交通渋滞その他どうしようもない事情のために夫の帰宅がおそくなるかもしれません。気短になっていらだつよりも,事態を善意に解釈するほうが,妻にとってどれほど良いかしれません。

      一方,ある事柄では妻がぐずぐずするため,夫がしんぼう強く待つことを学ぶべき場合もあります。怒ったところで,なんの助けにもなりません。夫は,妻が物事を組織的に行なって,時間をもっときちんと守れるよう助けることができるかもしれません。それにしても,計画が予定どおり運ばなくても,夫は使徒ペテロの助言に留意し,『自分の妻を自分よりも弱き器のごとくし,知識にしたがひて扱い,妻を尊ぶ』ほうがはるかにすぐれているといわねばなりません。―ペテロ前 3:7。

      あるいは,ともに奉仕している仲間のクリスチャンの弱点のため感情を害されていながら,相手はそのことに気づかない場合があるかもしれません。または,相手から再三迷惑をかけられ,いわば“77回”相手を許さねばならない場合もあるでしょう。ここでも,相手を忍び,時を待つことを学ぶのが賢明です。相手はあなたが期待するほど速く進歩しないかもしれませんが,何年かたてば,進歩が見られるかもしれません。同時に,この点でも神のみことばは賢明な助言を述べています。『寛容を用ひ,愛をもて互に忍べ』。―マタイ 18:21,22。エペソ 4:2,3。

      しんぼう強く待つのは確かに知恵の道です。それは自分自身とまわりの人々に益をもたらします。エホバ神は宇宙を律する法を持つとともに,ご自分の目的を成就するための,ご自身の時間表を持っておられます。神が時間表をわたしたちの都合に合わせて変更することはありません。それは,わたしたちが神に日や季節や年を変えさせたり,速めさせたりすることができないのと同様です。信仰と希望,喜びと認識をいだくなら,わたしたちは,しんぼう強く待つことを学ぶ知恵の道に従えるでしょう。

  • いちばん良い場所をえらんだ人たち
    ものみの塔 1971 | 7月1日
    • いちばん良い場所をえらんだ人たち

      親が子どもといっしょに読む特別な記事

      自分のためにいつもいちばん良いものをほしがり,われさきにそれをとろうとする人がいます。そんな人がいることに気づいたことがありますか。わたしは気づいていますよ。

      たとえば,食事のとき,おいしそうなケーキがいっぱいはいった大きなお皿がまわされるのを見たことがあります。そのお皿がまわってきたとき,みんなはケーキを見まわして,いちばん大きいのをえらんで取りました。そうするのは良いことでしょうか。また,わたしはこんなことも見ました。あるお父さんとお母さんが子どもたちをつれて,友だちをたずねたときのことです。友だちの家にはいるや,子どもたちはさきをあらそって,いちばん気持ちのよいいすにすわりました。それは良いことでしょうか。子どもたちはいちばん良い席にすわるべきですか。

      偉大な師が地上におられたとき,それと同じようなことがおきました。あるえらいパリサイ人の家のりっぱなふるまいに招かれたときのこと,イエスは,招かれたおおぜいのお客さんがその食卓の主人席の近くのいちばん良い場所をえらぼうとするのを見ました。人びとはほまれのある場所とされる席をのぞんでいたのです。イエスがそれらの人たちになんと言ったかを聞きたいとはおもいませんか。

      イエスはひとつの話をされましたが,その話のなかには,それらのお客さんだけでなく,今日のわたしたちにとっても良い助言が含まれています。

      イエスはいわれました。『だれかに婚礼

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