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霊的なパラダイスに関する約束世の苦難からの人間の救いは近い!
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6章
霊的なパラダイスに関する約束
1 (イ)死に直面していた時でさえイエスは人類のためのパラダイスのことを考えておられましたが,何がこのことを示していますか。(ロ)何年もの後,イエスはエフェソス会衆に向かってパラダイスについて何と言われましたか。(ハ)こうして言及されているのは両方とも同じパラダイスのことですか。
エホバ神のメシアなる僕は,わたしたちがパラダイスを勝ち得る上で非常に重要な役割を演じています。イエス・キリストはイザヤ書 53章12節の成就として違犯者たちと共に数えられていた,千九百年前のあの悲痛な日においてさえ,人類のためのパラダイスのことを考えておられました。イエスの両脇で杭につけられた二人強盗の一方が,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と言ったところ,イエスは,「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と答えられました。(ルカ 23:39-43。マルコ 15:25-27)63年後,復活させられたイエスは,小アジア,エフェソスのクリスチャン会衆に語りかけて言われました。「征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木から食べることを許そう」。(啓示 2:7)これらの約束は異なった種類の人たちに,つまり最初のはクリスチャンでない人,二番目のは勝利を得るクリスチャンになされた以上,ここでは二つの異なったパラダイス,つまり最初のは地的で,二番目のは天的なパラダイスを意味したに違いありません。エホバの「僕」はその両方と関係を持っています。
2 肉体的死や復活を経験することなしに,人は今日,イザヤの予告したどんなパラダイスを享受できますか。
2 これらのパラダイスはいずれもイエスが指摘した当時は将来の事柄でした。また,それはその方が亡くなり,神のご予定の時に死人の中から復活させられた後に初めて享受されることになっていました。ところが,今地上で生きている人たちの享受しているパラダイスがあるのです。人類の地上の環境はますます汚染され,地球の表面は今日パラダイスなどと言えるものではありませんから,エホバの崇拝者である真のクリスチャンが現在地上で享受しているのは比喩的,つまり霊的なパラダイスに違いありません。エホバのメシアなる僕に関するイザヤの預言は,エホバの忠実な崇拝者たちのためのこの霊的なパラダイスが確立されることを予告していました。
3 (イ)イザヤの予告しただれが,霊的なパラダイスを地上にもたらす点で重要な役割を持つことになっていましたか。(ロ)「神の子」として彼は,天的な組織全体とどんな関係を持っていましたか。
3 イザヤの預言によれば,そのメシアなる僕は霊的なパラダイスを地上にもたらすことと関係しています。彼はイザヤ書 53章で預言された地上でのご自分の役割を果たす以前,忠実な『神の子たち』で成るエホバの天的な組織の一成員でした。(ヨブ 1:6; 2:1; 38:7。ダニエル 3:25)霊者で成るその天的な組織は創造者なるエホバと結婚した「妻」の役割を演じています。これは仲介者モーセを通してエホバとの律法契約に入れられた古代のイスラエル国民がエホバと結婚した,その地的な妻として描かれたのと全く同様です。それで,エホバはこうした天的な婚姻関係において夫の役割を演じておられます。(イザヤ 54:5; 50:1。エレミヤ 31:31-34)天の『神の子たち』は神の天的な組織の成員であるゆえにその子供たちとみなされたので,天的な組織は彼らの母,つまり彼らの天的な父の妻と考えられました。ですから,イザヤ書 53章11節(新)で指摘されている僕は,彼女の子たちの一人なのです。
4 (イ)エホバの,天の母のような組織は,約束のメシアをどのようにして生み出しましたか。(ロ)イエスが油そそがれた時,また後に死人の中からよみがえらされた時,天ではどんな反応があったに違いありませんでしたか。
4 エホバはご自分の主要な天的な子を選んで,メシアなる僕として地上で奉仕させました。(イザヤ 52:13; 53:11)ゆえに,エホバの,天の母のような組織は,その方を彼女の夫の宇宙主権の最も重要な立証者として供しました。その方が地上にいた時,バプテストのヨハネの手でヨルダン川でバプテスマを施された後,彼女の夫エホバはバプテスマを受けたイエスにご自分の聖霊を注いで,イエスを油そそがれた者つまりキリストにしました。こうして,約束のメシアもしくはキリストが生み出されたのです。それは天的な母やその夫にとってどんなにか言いようのない喜びだったに違いありません。み使いである神の子たちは,ベツレヘム-ユダにおける赤子イエスの誕生を喜んだのであれば,こうして彼が約束のキリスト,つまり彼らの神エホバのメシアなる僕になった時,さらに大きな喜びを味わったに違いありません。(ルカ 2:10,13,14。マタイ 3:13-17。ヨハネ 16:21)彼の命が地から取られ,そして死人の中から復活させられた時,天の母のような組織は彼を「死人の中からの初子」として再び受け入れ,彼女の天的な子たちの一人としてもう一度迎えて歓喜しました。(コロサイ 1:18。啓示 1:5,17,18)それも,彼女の喜びは予告されていたのです!
5,6 (イ)イザヤ書 54章1節では,この天的な「女」が喜びを抱くべきどんな理由が述べられていますか。(ロ)彼女はどれほど多くの「子たち」の霊的な母になろうとしていましたか。
5 「『喜び叫べ』」と,イザヤ書 54章1節(新)は言います。「『出産しなかった不妊の女よ! 喜びの叫びをもって楽しみ,声高に叫べ,出産の苦しみを知らない者よ。見捨てられた者の子たちは,夫のような所有者のある女の子たちよりももっと大勢だからである』とエホバは言われた」。
6 クリスチャンの使徒パウロは霊感によるこの聖句を,バビロン流刑後のユダヤ国民にではなく,天のエホバの妻のような組織に適用しています。イザヤの預言によれば,神の天的な組織は,あたかも不妊のまま久しく待ち望んでいたメシアなるイエス以外に,もっと多くの子を持つことになっていました。ゆえに,彼女はメシアなるイエスの14万4,000人の提携者たちの霊的な母になろうとしていたのです。その方は彼女のそれら他の霊的な子たちの初子になることになっていました。彼女は初子,つまりメシアなるイエスを生む,もしくは生み出す時に喜び始めますが,しかしメシアなるイエスの王国共同相続者たち全部を生み出し続けるのです。使徒パウロはキリストの共同相続者になる見込みのあるそのような人たちの一人ですし,彼こそ霊感を受けでイザヤ書 54章1節を適用した人なのです。
7-9 ユダヤ国民を神の天的な組織と対比させた使徒パウロは,イザヤ書 54章1節をどのように適用しましたか。
7 モーセの律法契約によってエホバ神と結婚していた(が,イエス・キリストを退けていた)ユダヤ国民を神の天的な妻のような組織と対比させながら,使徒パウロはこう書いています。「たとえば,アブラハムはふたりの子を得たと書いてあります。ひとりは下女[エジプト人ハガル]により,ひとりは自由の女[彼の妻サラ]によってです。しかし,下女による[イシマエルと名づけられた]ものは実際には肉の方法で[アブラハムが交接不能になる前に]生まれ,自由の女によるもの[イサクと名づけられた]は[神からの]約束によって生まれました。これらの事は象徴的な劇となっています。この女たち[ハガルとサラ]は二つの契約を表わしているからです。一方は[モーセを通して]シナイ山からで,奴隷となる子どもたちを生み出すもの,すなわちハガル[奴隷女]です。そこで,このハガルは,アラビアにある山シナイを表わし,今日のエルサレムに当たります。彼女は自分の子どもたちとともに奴隷身分にあるからです。それに対し,上なるエルサレムは自由であって,それがわたしたちの母です。
8 「というのは,[イザヤ書 54章1節に]こう書かれているからです。『喜べ,子を産まない不妊の女[上なるエルサレム]よ。声を上げて高らかに叫べ,産みの苦しみのない女よ。見捨てられた女の子どもらは,夫のいる女の子どもらより多いからである』。そこで,兄弟たち,わたしたちは,イサクと同じように約束に属する子どもです。しかし,その当時,肉の方法で生まれた者[イシマエル]が霊の方法で生まれた者[イサク]を迫害するようになりましたが,今もそれと同じです。しかしながら,聖書はなんと言っていますか。『下女とその子とを追い出しなさい。下女の子が自由の女の子といっしょに相続人となることは決してないからです』。それゆえ,兄弟たち,わたしたちは,下女の子どもではなく,自由の女の子どもなのです。
9 「キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです」― ガラテア 4:22から5:1まで。
10,11 (イ)イザヤ書 54章13節は,「上なるエルサレム」がイエスだけでなく,もっと多くの霊的な子供たちを持つことをどのように示していますか。(ロ)イエス・キリストはその聖句をだれに適用しましたか。
10 偉大な造り主なるエホバをその「夫のような所有者」とする「上なるエルサレム」は,メシアなるイエスつまり彼女の初子以外にもっと多くの子供を持つことになっていました。だからこそイザヤ書 54章13節(新)で彼に向かってこう言われているのです。「そして,あなたの子たちは皆,エホバに教えられる者となり,あなたの子たちの平和は豊かになる」。
11 イエス・キリストはユダヤ人に向かって,「預言者たちの中に,『そして彼らはみなエホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者はみなわたしのもとに来ます」と言った時,その聖句をご自分の弟子たちに適用されました。(ヨハネ 6:45)イエスが「多くの兄弟たちの中で初子」となるのは,み父の目的とするところでした。(ローマ 8:29)「上なるエルサレム」はまた,イエス・キリストのそれら霊的な兄弟たちすべての天的な母なのです。してみれば,ついに彼女はメシアなるイエスはもとよりそれほど多くの霊的な子たちの母になるのですから,その「夫のような所有者」が,メシアを退けた地的エルサレムよりもむしろ彼女に呼びかけて,「喜び叫べ」『喜びの叫びをもって楽しめ』と求めておられるのももっともなことです。―イザヤ 54:1,新。
12 イザヤ書 54章は,それら霊的な子たちに対するどんな力強い激励の言葉で結ばれていますか。
12 「上なるエルサレム」に対する次のような言葉に表わされている通り,神からの保護や守護にあずかれるとの保証は,これら霊的な子たちのものです。「『何であれあなたに逆らって造られる武器はどれも功を奏さなくなる。また,裁きの際にあなたに逆らって立ち上がるどんな舌もあなたはそれを罪に定める。これはエホバの僕たちの相続所有物であり,彼らの義はわたしからのものである』,これはエホバのみ告げである」。「上なるエルサレム」に語りかけるイザヤ書 54章は,このような力強い激励の言葉で結ばれています。―イザヤ 54:17,新。
価値あるものを飲み,そして食べるようにとの招き
13 イザヤ書の次の章は,人の胸に訴えるどんな招きの言葉で始まっていますか。
13 あの見事な預言の成就に伴ってもたらされることになっているすべての良い事柄に照らしてみると,適切な招きの言葉が,聞く者すべてのために大声で叫ばれています。「ああ,渇いている者は皆,水に来なさい。金のない者も,来て,買って,食べなさい。しかり,来て,金なしで,また価なしでぶどう酒と乳を買いなさい。なぜあなたがたはパンではないもののために金を支払い続け,満足をもたらさないもののために労するのか。わたしの言うことをしっかり聴き,良いものを食べ,あなたがたの魂をして肥えたものに無上の喜びを見いださせなさい。あなたがたの耳を傾け,わたしのもとに来なさい。聴きなさい。そうすれば,あなたがたの魂は生き続けよう。そして,わたしは,ダビデに対する忠実な,愛のこもった親切に関する定めなく永続する契約を進んであなたがたと結ぶであろう。見よ,わたしは彼を与えた。もろもろの国民のための証人として,もろもろの国民のための指導者また命令する者として」― イザヤ 55:1-4,新。
14 (イ)その招きはだれから来るものですか。(ロ)それはだれに向けられていますか。なぜですか。
14 すべての命の源であるエホバ神お独り以外だれがこうした驚くべき招きや約束を発表し得たでしょう。それはエホバが「もろもろの国民のための指導者また命令する者」としてお与えになるメシアなる僕と関係があります。それらもろもろの国民は神からのその招きに関心を持つようにならねばなりません。しかし,まず第一に,その招きは,エホバと契約を結んでいながら不満足な境遇に陥っていることに気付く,エホバの民に向けられています。なぜですか。なぜなら,彼らは労して買って食べますが,引き続き望みのないまま死んでゆくからです。預言者イザヤはエルサレムの滅びとユダの地の荒廃,そして異教の地バビロンへのユダヤ人の流刑を予告しましたが,このことを思い起こすと,事情を知る手掛りが得られます。ユダの地が荒廃して原住民が流刑に処される期間は,西暦前607年から同537年までの70年間にわたることになっていました。
15 エホバはだれによってユダヤ人の解放を図ることを予告しておられましたか。その人の役割はわたしたちにとってなぜ特別の関心を引くものですか。
15 偽りの神々やその崇拝および帝国主義や商業主義をもってしてもバビロンは,流刑に処されたユダヤ人に何ものも提供しませんでした。生ける真の神の崇拝を彼らの故国で再び始める機会を伴う解放の希望を何ら差し伸べなかったのです。「この人[バビロンの王]は……捕えた者をその家に解き帰さなかった者」ですか。(イザヤ 14:16,17,口語)だれがこの世界強国バビロンの支配力をくじき,ユダヤ人の捕らわれ人を自由の身にして行かせ,彼らの故国に戻って,再興されたエルサレムの再建された神殿でエホバの崇拝を新たに行なわせることができたでしょうか。この神ご自身はそうすることができましたし,またそのために用い得る僕をも持っておられました。その地上の僕とは,生まれるずっと前にほかならぬその名をエホバが予告したペルシャ人クロスでした。(イザヤ 44:28から45:6)バビロンを下したこの古代ペルシャ人征服者は単なる歴史的人物だっただけでなく,彼はまたエホバが現代の大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国を倒して滅ぼすのに用いるメシアなる僕の預言的な予型でした。
16 古代の場合,流刑に処されたユダヤ人にとって霊的な意味で食べ物や飲み物のようだったのは何ですか。
16 食べたり飲んだりするもののために払う金のない人たちさえ,摂取して気持ちをさわやかにして生きてゆくための水やパンやぶどう酒や乳を入手できるのです! エホバ神がそう言っておられます。もち論,文字通りのそうしたものについて話しておられるのではありません。それらに対応するもののことを話しておられるのです。それは人を霊的に生き続けさせて,真の命,つまり生きる真の喜びや生きる目的のある永遠の命をもたらすものなのです。古代の場合,その肝要なものとは,流刑に処されたご自分の民をバビロンから救い出して,神から与えられた故国に復帰させるためにエホバ神が設けた備えでした。順番に挙げれば,まず,流刑囚の希望を強める解放に関する音信がありました。次いで,地上の僕によって出された,エホバ神の命令がありました。その解放命令に基づいて行動を起こさねばなりませんでした。それから,行動を起こすに至って,人びとは故国に帰還し,再び住むことになった愛する地で天与の輝かしい預言が実現することになったのです。こうして経験する喜びは,最上のぶどう酒を飲んで味わえる喜びに似ていました。―詩 104:15。
17 現代のバビロニア人とは事実上だれのことですか。彼らは何を食べて生きていますか。
17 今日,地上の何億もの住民は,単にいわゆる異教世界のみならず,キリスト教世界でも同様に大いなるバビロンの宗教的・倫理的・知的また社会的圧迫を受けていることに気付いています。彼らはさまざまの宗派や教団による宗教の商業化に応じて各自の宗教のために金を払っています。それらの宗教は人びとをこの世から離れさせるのではなく,この世の一部となって活動することを奨励し,是認するものとなってきました。また,人間や人間の立てた制度に頼るのを人びとに避けさせてはきませんでした。確かにキリスト教世界の人びとは,一層人間に頼って世の諸問題を解決し,救済を図ろうとする以外に何ら見通しを持っていません。事実上,彼らは現代のバビロニア人で,彼らが宗教上食べているのは真の満足や救済をもたらすものではありません。
18 (イ)エホバは今日,どんな契約によってご自分と関係を持つ民を持っておられますか。(ロ)この新しい契約を忠実に固守しているのはだれですか。
18 西暦前六世紀当時,古代バビロンの「捕らわれ人」となっていたのは,エホバ神と結ばれたモーセの律法契約に入っていて,そのような立場に陥るべきではなかった人たちでした。もし,愛をこめて神に対する自分たちの契約義務を履行していたなら,荒廃した故国のはるかかなたの異教の地バビロニアに流刑に処されてはいなかったでしょう。今日,エホバはやはり国家的契約によってご自分と関係を持つ民を持っておられます。この契約については,エホバのメシアなる僕が,預言者モーセよりも偉大な仲介者なのです。彼らの契約は,西暦33年にモーセの律法契約に取って替わった契約です。それはエレミヤ記 31章31節から34節で予告されていた新しい契約です。イエス・キリストはご自分の犠牲の死を記念する主の夕食を制定するに際し,その新しい契約に調印し,それを発効させる手だてを供するご自分の血について話されました。(マタイ 26:26-30。ルカ 22:19,20。コリント第一 11:20-26)エホバのクリスチャン証人は従順にこの主の夕食を毎年その記念日に祝っています。彼らはエホバの新しい契約を忠実に固守しています。
19 第一次世界大戦中,大いなるバビロンはどんな手段を講じてエホバのクリスチャン証人を支配しましたか。彼らの見通しはどのように見えましたか。
19 偽りの宗教の世界帝国としての大いなるバビロンはすべて,エホバのクリスチャン証人に絶えず反対してきました。そして,西暦1914年から1918年にわたった第一次世界大戦中,大いなるバビロンは彼女のこの世の世俗的な情夫たちによって証人たちを本当に支配しました。政治・軍事および司法上の権威によってそれらエホバの崇拝者たちに,彼らが聖書を研究するのに用いていた宗教文書に対する禁令を含め,あらゆる種類の迫害をもたらしました。聖書の良いたよりを公に広めるための彼らの組織はひどく損なわれました。エホバの見える組織の統治体の成員が告訴,投獄された時は特にそうでした。が,その訴訟は大戦後取り消され,法廷で破棄されました。それにしても,事態が変化する見通しは極めて暗たんたるもので,エホバの意志に甘んじて服従する気持ちを抱いて最悪の事態を待ち受けていました。公式の機関誌「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」は神意により,戦時下の事情にもかかわらず,同誌を入手する人たちを霊的に強化するため,引き続き月二回発行されました。
20,21 地上のエホバの崇拝者たちの事情はどのようにして,第一次世界大戦後の時代を,イザヤ書 55章1,2節を現代に適用する格好な時期にするものとなりましたか。
20 ところが,突然,第一次世界大戦が終わりました。同大戦は聖書研究者たちが期待していたように世界革命や無政府状態あるいはハルマゲドンにおける戦いを引き起こしはしませんでした。そして,仲介者イエス・キリストを通して神との新しい契約に入っていた,誠実なエホバの崇拝者たちは,依然自分たちが肉身で地上にいることに気付きました。しかし,依然として大いなるバビロンと彼女の政治・軍事および司法上の情夫たちに捕らわれたままでいたのです! それら崇拝者たちの前には,神のみ言葉の良いたよりの宣明を再開し,遂行する可能性を伴う,予期しなかった戦後の時代が開かれました。今やここに,大いなるバビロンによるあらゆる反対や圧迫にもめげず彼らが崇拝した神が彼らのため,またご自身のみ名のために何事かを行なう絶好の時が来たのです。それはまさに,生気を更新するイザヤの音信に相当する現代版のそれを発表すべき時でした。
21 「ああ,渇いている者は皆,水に来なさい。金のない者たちも,来て,[穀物を]買って,食べなさい。しかり,来て,金なしで,また価なしでぶどう酒と乳を買いなさい。なぜあなたがたはパンではないもののために金を支払い続け,満足をもたらさないもののために労するのか。わたしの言うことをしっかり聴き,良いものを食べ,あなたがたの魂をして肥えたものに無上の喜びを見いださせなさい」― イザヤ 55:1,2,新。
22 当時,エホバの現代の民にとって水やパン,ぶどう酒や乳のようなものとなったのは何でしたか。
22 確かにそのような音信が,エホバ神からのそのメシアなる僕イエス・キリストを通してもたらされました。それは意気消沈した消極的な精神状態からご自分の民を引き上げて,彼らに命と希望を吹き込むためでした。では,真実と義を求める彼らの激しい渇きをいやす水のようなものとは何でしたか。神に対する彼らの心からの専心の情を培って強めるパンとは何でしたか。健康をもたらす喜びをもって彼らの心を歓喜させるぶどう酒は? 生ける唯一真の神との関係を持つ彼らの幸福な状態を肥やして豊かにする乳のようなものとは何でしょうか。(詩 104:15)それはまさしく立てられた神のメシアの王国による大いなるバビロンからの救出という聖書的な音信でした! それは彼らが崇拝の自由のために戦い,また苦悩する全人類にとって祝福となる神の王国の良いたよりを世界中で宣明するために,大いなるバビロンの「友」であるこの世への隷従状態から救い出されたという音信でした。
23 この備えは「金なしで,また価なしで」あずかれるようにされたことが真実であることはどのようにして示されましたか。
23 エホバ神の圧迫された崇拝者たちは,この解放の音信のために何も払う必要はありませんでした! 大いなるバビロンに捕らわれた奴隷状態から逃れる道を買い取る必要はなかったのです! その音信はただで受け入れられるよう彼らに提供されたので,勇気と確信を抱いてそれに基づいて行動しなければなりませんでした! そうすれば,それはさわやかな水,力を与えるパン,喜びを得させるぶどう酒,そして太らせる乳のようになりました。「真理を知り,真理はあなたがたを自由にする」のです。―ヨハネ 8:32。
24 1919年の春には,その解放を示すどんな証拠がありましたか。
24 この解放を具体的に表わす事柄が,クリスチャンであるエホバの崇拝者の統治体の成員がアメリカ,ジョージア州,アトランタの連邦刑務所から釈放された,戦後の最初の年つまり1919年の春に到来しました。その後ほどなくして,それら告発されたクリスチャンに対する連邦裁判所における訴訟は取り消され,後日法廷で破棄されました。こうして,クリスチャンであるエホバの崇拝者たちの統治体の成員は,不法な市民つまり国家の治安上の危険人物であるという偽りの非難を除かれました。今や,エホバからその僕イエス・キリストを通してもたらされるクリスチャンの自由を感謝して,予期しなかったこの戦後の時期における神の民に対する神の意志は何かを確かめるため,聖書のさらに進んだ研究が行なわれました。
25 (イ)神の僕たちに勇気を吹き込むべく,1919年には何が行なわれましたか。(ロ)「黄金時代」という雑誌の刊行に関する発表は,何を示す徴でしたか。
25 聖書研究の結果,神の意志に関して不確かな点は何も残されませんでした。第一次世界大戦中の迫害や困難な時を生き残ったエホバの崇拝者たちの前途にあった王国のわざが誤ることなく指摘されたのです。それで,彼らの心に勇気を吹き込むべく,「恐れなき者は幸いなり」と題する二部から成る主要な記事が,「ものみの塔」誌1919年8月1日および15日号に出ました。この主題は同年9月1日から8日までの八日間オハイオ州シーダー・ポイントでそれら崇拝者たちのために開かれた一般大会の基調をなすものでした。彼らのためにさらに多くの霊的食物が用意されており,またもっと多くの,それもより大規模な仕事が前途にあることを示す徴として,1919年9月5日,ものみの塔聖書冊子協会の会長は6,000人の大会出席者に向かって感動的な発表を行ないました。どんな趣旨の発表でしたか。協会は「ものみの塔」誌のほかにもう一つの雑誌を発行する予定だということでした。隔週出されるこの新たな雑誌は「黄金時代」と呼ばれ,クリスチャンであるエホバの崇拝者たちの公式機関誌を補うものとして刊行されることになりました。同誌もまた,神の王国を告げ知らせるためのものでした。
26 その最初の号に述べられているように,「黄金時代」誌はどんな理由で発行されましたか。
26 この新しい雑誌は1919年10月1日に初登場しましたが,当時の背景をなす情勢を示しながら,最初の号の創刊のあいさつの言葉は一部次の通りでした。
当誌の目的は神の知恵に照らして現代の大きな現象の真の意味を説明し,人類が一層大きな祝福にあずかる時代が今や近づいたことを疑問の余地のない納得できる事柄として証拠を挙げて,考える人びとに証明することである。混乱という荒野で聞こえる声のように,その使命は黄金時代の到来を告げ知らせることである。
今日の世界には史上どの時代よりも多くの,心に悲しみを持つ人びとがいる。諸国家は壊滅的な戦争のために引き裂かれ,血を流して死ぬほどに苦しみを被った。大戦に伴って大規模な疫病並の流行性感冒が生じ,戦争の結果倒れた犠牲者の二倍の数の人命を奪った。過去数年間に何百万もの人が死地に下り,他の何百万もの人びとは愛する者を失って嘆き悲しんできた。
どこでも生活費はますます高騰し,現実の困窮と飢饉の事態が人びとの眼前に迫っている。世界のほとんどすべての商業界では労働者がストライキを行ない,あるいはそうしたりする恐れがあり,またそうすることによって通商機構の働きを止めている。至る所に全般的な不穏な事態が見られる。
金融業者は少なからず困惑している。……
「黄金時代」誌は動揺した思いに落ち着きを,悲しむ心に慰めを取り戻させるものとなる願わしい音信を人びとの家庭に伝えるであろう。我々はこれを人間の知恵で成し遂げることを期待してはいない。それはこれまでも試みられては失敗してきたことであり,そうした知恵はエホバのみ前では愚かなものだからである。しかし我々は,人間の事柄を再編成してあらゆる国民の真に望むものをもたらし,人びとに生命と自由と幸福を保証する,神の述べておられる解決策を明らかに示す,現代の出来事に照らして疑う余地のない明白な証拠に人びとの注意を向けさせるものである。我々はこの慰めの音信を,慰められることを願う人たちに伝えるわざに力を貸すよう,秩序を愛し,法を守り,神を恐れる人びとすべてを招くものである。
27,28 この雑誌はどんなすばらしい希望を指し示しましたか。しかし,まず最初に何が到来しなければなりませんか。
27 それで,この地にパラダイスを回復して全地に広げ,人種・皮膚の色・国家的素性などにかかわりなく,すべての人がそれを享受する時代を,恐れなく指し示す真新しい雑誌がここに登場したのです。とは言え,この文字通りの地的パラダイスが神のメシアの王国によって人類にもたらされる前に,今や神の恵みを受ける立場に回復された,クリスチャンであるエホバの崇拝者たちの中に霊的なパラダイスが確立されなければなりません。だからこそ,命を与える,神の備えにあずかるようにとの招待を差し伸べた後に,イザヤ書 55章は次のように述べたのです。
28 「あなたがたの耳を傾け,わたしのもとに来なさい。聴きなさい。そうすれば,あなたがたの魂は生き続けよう。そして,わたしは,ダビデに対する忠実な,愛のこもった親切に関する定めなく永続する契約を進んであなたがたと結ぶ。見よ,わたしは彼を与えた。もろもろの国民に対する証人として,もろもろの国民に対する指導者また命令する者として」― イザヤ 55:3,4,新。
永遠の王国契約
29 (イ)イザヤ書 55章3,4節にある招きに答え応じて耳を傾け,エホバのもとに来た人たちにはどんな効果がもたらされることになりましたか。(ロ)それらの祝福と「ダビデに対する忠実な,愛のこもった親切」との間にはどんな関係がありますか。
29 大戦後の年である西暦1919年に,耳を傾けてエホバのもとにやって来た人たちは,霊的な命を新たにされ,また今やエホバがご自分の民を招いてそれにあずかって楽しむようにされた霊的な備えによって支えられました。彼らの魂は霊的健康を得て生き続けることになったのです。クリスチャンである忠実な崇拝者たちのためのそうした回復の祝福すべてをもたらす経路は,「異邦人の時」の終わりである1914年に天で生まれたメシアの王国でした。(ルカ 21:24,欽。ダニエル 4:16,23,25,32。啓示 12:1-10)これこそ,王国宣明者たちを「ダビデに対する忠実な,愛のこもった親切に関する」定めなく続く契約を結ぶとのエホバの約束の意味するところでした。その神の愛のこもった親切は,王国を受ける権利がエルサレムのダビデ王の家系内で,しかもその最も傑出した子孫つまり約束のメシアの到来する時まで持続すること,次いでメシアの王国が永久にその方のものになるということを意味していました。
30,31 (イ)ダビデに対するそうした愛のこもった親切は「忠実」であることがどのようにして示されましたか。(ロ)ピシデアのアンティオキアで話をした時,使徒パウロはイザヤ書 55章3節の約束をどのように適用しましたか。
30 「忠実」であるという点で,ダビデに対するその愛のこもった親切は永続する,確立されたものでした。(サムエル後 7:11-16)この点を確証して,詩篇 89篇28,29節(新)はこう述べています。「定めなき時に至るまでわたしは彼に対する愛のこもった親切を保つであろう。わたしの契約は彼に対して忠実である。そして,わたしは必ず彼の胤を永久に,また彼の王座を天の日数のように立てるであろう」。(また,エレミヤ 33:19-21)ダビデ王に約束されたこうした神の愛のこもった親切は忠実なものであることが確かに示されました。それはメシアなる永遠の王となるべき方の上に完全に成就したからです。その方がだれかという点には疑問の余地がありません。使徒パウロはイザヤ書 55章3節の約束をイエス・キリストに適用しているからです。
31 小アジア,ピシデアのアンティオキアのユダヤ教の会堂で話をした使徒パウロは,聴衆にこう言いました。「わたしたちは,父祖になされた約束に関する良いたよりをあなたがたに宣明しているのです。すなわち,イエスを復活させたことにより,神は彼らの子どもであるわたしたちに,その約束を完全に果たされたということをです。詩編の第二番めに,『あなたはわたしの子,わたしはこの日にあなたの父となった』と書いてあるとおりです。そして,彼をもはや腐れに帰することのない者として死人の中から復活させたことについて,神はこう述べておられます。『わたしは,ダビデに対する忠実で愛のこもった親切をあなたがたに与える』。ゆえに,別の詩の中で,『あなたはご自分の忠節な者が腐れを見ることをお許しにならない』とも言っておられます。というのは,一方でダビデは,自分の世代において明示された神のご意志に仕え,死の眠りについて父祖たちとともに横たえられ,たしかに腐れを見たからです。他方,神がよみがえらせたかたは腐れを見なかったのです」― 使徒 13:32-37。
32 イザヤ書 55章4節はだれのうちにその成就を見ますか。
32 それで,1914年に天で建てられ,復活させられた朽ちることのないイエス・キリストの手中にあるあのメシアの王国は,今に至るまで機能し続けてきましたし,また地上のパラダイスで人類の祝福のため来たるべき一千年の間持続します。ですから,イザヤ書 55章4節(新)でさらに,「見よ,わたしは彼を与えた。もろもろの国民のための証人として,もろもろの国民のための指導者また命令する者として」と述べた時,エホバ神は今なお死んでいるダビデに言及しておられたのではありません。そうではなく,そこでエホバは,ダビデの約束の子孫イエス・キリストに言及しておられるのです。ダビデと結ばれた永遠の王国のための契約は,そのイエスのうちに落着するのです。
33 彼はだれのために「もろもろの国民に対する証人」となりますか。
33 この方はだれのために「もろもろの国民に対する証人」として与えられるのでしょうか。与え主エホバご自身のためです。イエス・キリストは地上では彼の証人,つまりエホバの証人でした。イザヤ書 43章9節でエホバは,諸国民の神々すべてに対し,彼らが前途の事柄を正確に予言できる本当に生きている神々であることを証明するよう挑戦しておられます。それら偽りの神々に証人を出させ,偽りの神々が預言して言ったことについてそれら証人を通して人びとに聞かせ,次いで「それは真理です!」と彼らに言わせなさい。偽りの神々はそうすることはできませんでした。しかし,生ける真実の神としてのエホバはご自分の側に立つ証人を出すことができます。かつて地上に現われた最大の証人はその独り子イエス・キリストでした。彼はイザヤ書 43章10節(新)で次のように語りかけられている国民の肉身の成員でした。「『あなたがたはわたしの証人』,これはエホバのみ告げである,『わたしが選んだわたしの僕である』」。
34 (イ)イエスは人間として地上におられた時,まず第一にだれに対する証人でしたか。(ロ)予告された通り,ほかにだれが彼の証しを聞くことになりますか。このことはどのようにして成し遂げられてきましたか。
34 完全な人間として地上におられたイエス・キリストは,天の父エホバ神のために証しをしていると再三言われました。当時,その証しは特にユダヤ国民に対するものでした。啓示 1章5節で使徒ヨハネは彼のことを「『忠実な証人』,『死人の中からの初子』,『地の王たちの支配者』であるイエス・キリスト」と言っています。また,啓示 3章14節では,復活させられて栄光を受けたイエス・キリストはご自身を小アジア,ラオデキアの会衆に次のように紹介しておられます。「アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う」。しかしエホバはメシアなるイエス・キリストを証人として単にユダヤ国民に対してだけでなく,『もろもろの国民に対して』も与えようとしておられました。メシアなる僕であるイエスがその神に関して行なった証しは,国籍や皮膚の色や人種を問わず全人類のためのものなのです。今日,イエスは地上の忠実な仲間の証人たちによってこの重要な証しを行なっておられます。そして今日,エホバのクリスチャン証人は二百余の土地や島々で『もろもろの国民に対して』,イエス・キリストがなさったのと同じ証しを行なうことを非常な喜びとしています。
35,36 (イ)イエスが証人として実証してこられた忠実さは,何についての保証を与えるものですか。(ロ)イエスが「指導者および命令する者」であられるという点については,ダビデの場合にどんな類似点が見られますか。
35 この証しを受けてきた人たちに対して処置が取られる前に,信頼できる真の証しがなされる必要があります。(マタイ 24:14)イエス・キリストは地上で神からの真理のための証人として忠実でした。(ヨハネ 18:37)そして,そのような真理のために死なれたのです。
36 わたしたちは彼が天で授けられている実務的能力の点でも同様に忠実であられることを確信できます。神は彼を「もろもろの国民に対する証人」以上の者として与えます。その後,神は彼を「もろもろの国民に対する指導者また命令する者」としてお与えになります。エホバはベツレヘム-ユダの一介の羊飼いの少年ダビデを起用して,神の民に対する「指導者」にしました。(サムエル後 7:8)ダビデはユダ族の成員でしたから,全イスラエルの王になった時,彼は王座に座したので,「命令する者の杖」はユダの子孫の足の間に置かれることになりました。(創世 49:10,新)以後,それはメシア,つまりシロもしくは「それを有する者」が来る時までユダの部族に所有される状態から決して去らないことになりました。
37 イエス・キリストはどんな「指導者また命令する者」となられますか。
37 約束のメシアつまりシロはダビデ王の子孫でしたが,ダビデ王よりも大いなる者となることになっていました。ダビデ王の主となることにさえなっていたのです。(詩 110:1,2)それにはメシアはまた,ダビデがその国民に対してそうであったように,ほかならぬ「指導者また命令する者」,しかもイスラエルに対してだけでなく,『もろもろの国民に対して』もそのような者となる必要がありました。これこそ,つまりエホバ神によりその真の代表者として与えられた「指導者また命令する者」こそ,あらゆる,国の人びとが必要としている者なのです。そうすれば,このメシアなる「指導者また命令する者」は人びとの永遠の福祉に資するよう神の意志と調和した仕方で人びとを指導し,指図を与えることを彼らは確信できます。これこそ,復活して栄光を受け,天で神の右に座したイエス・キリストのうちに彼らが持つものなのです。彼が今や天で,ししのような支配者と呼ばれているのもそのためです。天では,「ユダ族の者であるしし,ダビデの根が勝利を得た」と言われているからです。―啓示 5:5。
38 わたしたちはどうすれば,メシアの臣民のために契約によって定められていた永続する祝福を受けることができますか。
38 メシアなるイエスの証しを受け入れ,その指導に従い,その命令に服する人たちは祝福されます。このようなわけで,エホバが永遠の王国のためにダビデ王と結ばれた「定めなく永続する契約」は,喜んでメシアなるイエスの臣民となる人たちに対して効力を発します。このメシアの政府は彼らの上に建てられるのです。それで,エホバはご自分の約束した「ダビデに対する愛のこもった親切」を約束のメシアが来る時まで,そうです,西暦1914年秋における異邦人の時の終わりの時に至るまで忠実に固守されましたが,このことから彼らは永続する益を得ます。こうして,そのような愛のこもった親切が,メシアの臣民のために誓約されていたのです。それらの従順な臣民は,神の愛のこもった親切がもたらしたメシアの王国のすばらしい祝福を得ますが,天の王国でキリストと共に共同相続者となるそれら霊的イスラエル人の場合は特にそうです。
39 (イ)だれがその益を最初に,またどんな仕方で得ましたか。(ロ)ほかにだれが今,霊的な宴に共にあずかっていますか。
39 西暦1914年に天で生まれたこの王国の益を最初に受けたのは,来て,神が霊的な仕方で彼らのために備えておられた水やパンや乳やぶどう酒にあずかるように,との神からの招きに答え応じて西暦1919年に行動した人たちでした。(啓示 12:1-6,14)彼らが生まれて間もない,メシアの王国に服したことは,彼らにとって偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンからの解放を意味しました。第一次世界大戦中,大いなるバビロンのとりこになっていた地上の霊的なイスラエル人の残りの者は,自由の身となって王国の祝福という霊的な宴にあずかるようにとのエホバの心からの招きに最初に答え応じた人たちでした。1935年の春以後は,大いなるバビロンから自由の身となって真の神を崇拝しようと努めていた,あらゆる国籍の人びとの「大群衆」が霊的なイスラエル人の残りの者に加わって,すばらしい霊的な宴を共に享受してきました。(啓示 7:9-17)この事実からして,魂を満足させる宴にあずかるようにとの招待は,樹立されたメシアの王国と結び付けられていることが分かります。
神としてのエホバを探し求める
40 霊的なイスラエルのものではない,エホバの崇拝者たちが増加することを,聖書はどのように予告していますか。
40 聖書の神としてのエホバの崇拝者たちの増加は予言されていました。霊的イスラエルのものではない人びとの中から来る「大群衆」を含み,増加することになっていたのです。(啓示 7:1-8)イザヤ書 55章5節(新)はこう続けています。「見よ,あなたの知らない国民をあなたは呼び,あなたを知らなかった国民の者たちがあなたのもとに走って来る。あなたの神エホバのため,イスラエルの聖なる方のためである。その方はあなたを美しくされたからである」。
41 (イ)バビロンに捕らえられていた期間中,霊的なイスラエル人は,それら他の崇拝者たちを集めることについて知っていましたか。(ロ)霊的なイスラエル以外のところから来るそれらの崇拝者たちは,だれのもとに来るのでしょうか。
41 この約束は何と喜ばしい驚くべき事を示唆しているのでしょう。霊的なイスラエルの残りの者はバビロンに捕らわれている間,自分たち以外の「国民」を呼ぶことなど考えたこともありませんでした。当時の聖書に関する彼らの理解によれば,そのような国民のことなど知りませんでした。彼らが捕らわれていた間,そのような事は問題にならないように,また神の目的外の事のように思えました。にもかかわらず,神の予定の時に彼らは「国民」つまり霊的イスラエル以外の何らかの国民を『呼ぶ』つまり招くことになったのです。彼らがこうした招きを出すには,まず最初に彼ら自身大いなるバビロンへの捕らわれの身から解放される必要がありました! しかし,諸国民に対して無差別に出されるそのような招きに対する応答があるのでしょうか。とりわけ,「あなたを知らなかった国民」の人びと,つまりこれまで霊的イスラエルの残りの者を何ら正しく認めなかった人びとの場合,応答があるのでしょうか。あるのです。彼らは「あなたのもとに走って来る」と,イザヤ書 55章5節(新)は霊的イスラエルに語りかけています。そうです,彼らは第一次世界大戦を生き残った霊的イスラエルの残りの者のもとに急いでやって来るのです。
42 とは言え,預言の中で述べられているように,本当に人を引き付けるのはだれですか。
42 とは言え,どのようにしてそのような事が起こり得たのでしょうか。霊的イスラエルの残りの者が「あらゆる国民の憎しみの的」となるにもかかわらずそうなるのですか。(マタイ 24:9)それは「あなたの神エホバのために」起きることになっていました。霊的イスラエルの憎まれた残りの者自身ではなく,「あなたの神エホバ」が人を引き付けるのです。エホバは残りの者のためにある事を行なおうとしておられました。それは彼らが大いなるバビロンの偽りの神々を受け入れないで,崇拝すべき真の絶対者としてのエホバにあくまでも忠実だったからです。では,エホバは彼らのために何をなさるのでしょうか。それはさらにこう明確に述べられています。「イスラエルの聖なる方のためである。その方はあなたを美しくされたからである」。
43 (イ)エホバはご自分の霊的なイスラエル人をどのように「美しく」して,彼らを心の正直な人たちにとって魅力的な者になさいましたか。(ロ)こうして,神はご自分の地上の崇拝者たちをどんな状態の中に招き入れられましたか。それはなぜですか。
43 彼らはもはや大いなるバビロンの,食べる物にも恵まれず,ろくに着物をまとっていない,うなだれた捕らわれ人の様子をしてはおらず,それどころか今や霊的なイスラエル人としての魅力的な美しさを呈しています。これは彼らが「あらゆる国民の憎しみの的」でなくなるという意味ではありません。それは彼らがキリストにあって霊的に,自由な民になることを意味しました。イスラエルの聖なる方は今や彼らのために用意をしておられた霊的な宴にあずからせて,彼らを十分に養うことにより,彼らに霊的な美をまとわせます。彼らを,生まれて間もない,ご自分のメシアの王国の代表者にすることによって彼らに霊的な美をまとわせるのです。心の正直な人たちは彼らこそ崇拝すべき真の神を持つ民で,その神が彼らのうちにおられる民であることを認めます。彼らはその神の真理を得,あらゆる国の民に対して証しとして王国の良いたよりを伝える者となります。彼らは神に対する悔い改めを表わしたため,近年の失敗のために神の不興を受ける状態にはもはやないゆえに,大いなるバビロンの宗教状態とは全く対照的な霊的パラダイスに招じ入れられることになりました。こうして,国際的に憎まれたそれらの人たちは霊的な魅力を与えられ,エホバに賛美をもたらしました。
44 (イ)霊的なイスラエルの残りの者は,最初知らなかった「国民」をどのようにして「呼び」ましたか。(ロ)そうする際に,彼らは自分たちの神のみ名をどのように十分顕著なものとしましたか。(ロ)他の人たちは何に動かされて霊的なイスラエルの残りの者のもとに走って来て,エホバのクリスチャン証人となりましたか。
44 それで,西暦1919年以降,霊的なイスラエルの残りの者は,ますます多くの国の民に「王国のこの良いたより」を宣べ伝えることによって,最初自分たちの知らない「国民」を呼び始めました。(マタイ 24:14)彼らは自分たちが神の名によって呼ばれるゆえに忌避されることを恐れるどころか,幾年にもわたって神のために世界中で証しを行なった後,自分たちのためにエホバの証人,つまりそのクリスチャン証人という適切な名称を採用しました。これは1931年7月26日,日曜日,オハイオ州コロンバスで開催した国際大会で始まりました。キリスト教世界にさえ神のみ名に対する偏見があったにもかかわらず,神を探し求める大勢の人びとは霊的イスラエルの残りの者のもとに走って来はじめました。彼らは霊的なイスラエル人の残りの者のうちに,キリスト教世界や異教世界が見分ける,もしくは認めることをしなかった霊的な美しさを見たのです。そして1935年の春以降,幾百人もの群れをなして走って来るようになりました。彼らは,残りの者の成員がエホバの恵みを得る立場に回復されて以来享受していた霊的なパラダイスを享受したかったのです。そして,非難を恐れることなく,彼らもまた,エホバのクリスチャン証人という名称を受け入れました。
45,46 (イ)世界的紛争にもかかわらず,エホバの崇拝者たちの人数はどれほど増えましたか。(ロ)彼らは現在どんな祝福にあずかり,また将来のどんな見込みを持っていますか。
45 以来,これまでの年月中ずっと,あらゆる国籍の人たちが残りの者のもとに走ってやって来る事態は続いています。一層大きな世界的紛争となった第二次世界大戦さえ,崇敬と奉仕を受けるにふさわしい神を探し求める人たちが走ってやって来るのをとどめるものとはなりませんでした。彼らは残りの者を助けたので,「招き」の言葉はますます多くの土地や区域に広められ,「ああ,渇いている者は皆,水に来なさい」という威厳のある招きの言葉によって霊的パラダイスの霊的な宴に注目させられる人びとは幾千人となく増えています。
46 走ってやって来る人たちは増加して,最終的な人数の知られていない「大群衆」となっています。(啓示 7:9,10)イザヤ書 55章3節(新)が,「聴きなさい。そうすれば,あなたがたの魂は生き続けよう」と勧める通り,彼らは霊的に生きるようになりました。このことには,大いなるバビロンとこの世の事物の全体制が消滅する来たるべき「大患難」を肉身のままで保護されて生きて通過することも含まれていると考えられます。霊的なパラダイスは存続し,その幸福な住民は生き残って,エホバに賛美を,そしてそのメシアの王には誉れをもたらすでしょう。―マタイ 24:21,22。啓示 7:14。
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霊的なパラダイスに入るための必要条件世の苦難からの人間の救いは近い!
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7章
霊的なパラダイスに入るための必要条件
1,2 霊的なパラダイスに入るには,イザヤ書 55章6,7節に述べられているどんな必要条件を満たさねばなりませんか。
霊的なパラダイスに入る道は依然として開かれています! 入ってそれを享受するようにとの招きの言葉は依然として世界中で鳴り響いています! その招きの言葉を聞く人が入りたいと願う場合,何が求められますか。霊感を受けて記されたイザヤ書 55章の預言の言葉はさらに,その必要条件を次のように美しく述べています。
2 「あなたがたは,エホバを求めなさい。見いだせるうちに。近くにおられるうちに,呼び求めなさい。邪悪な人は己の道を捨て,害を加えようとする人は己の考えを捨て去りなさい。そして,エホバに帰りなさい。あわれみをかけてくださるであろう。わたしたちの神に帰りなさい。豊かに赦してくださるからである」― イザヤ 55:6,7,新。
3 (イ)なぜ今は「エホバを求める」べき時ですか。(ロ)どんな意味でエホバは「近くに」おられますか。
3 西暦1914年以来,わたしたちはこの世の事物の体制の「終わりの時」代に生活してきましたから,有利な仕方でエホバを見いだせる期間として残されている時間は,今や非常に短くなっています。それで,今こそエホバを求めるべき好機です。が,エホバを見いだすために遠くまで行くには及びません。依然として,誠実に求める人の届く近いところにおられるのです。ゆえに,今はまた,エホバを呼び求めるべき時です。声の届かぬ所におられるわけではありません。「〔エホバ〕の大いなる恐るべき日」の前の今は,「すべて〔エホバ〕の名を呼ぶ者は救われる」という励みを与える言葉が当てはまる時です。―ヨエル 2:31,32,口語〔新〕。ローマ 10:13。
4 (イ)「邪悪な人は己の道を捨て(去りなさい)」という必要条件の意味を説明しなさい。(ロ)『害を加えようとする考え』を捨て去ることには何が関係していますか。そうするのはなぜ重要なことですか。
4 こうしてエホバを求めるに際し,またそのみ名を呼び求めるためには何をすべきかをわたしたちは告げられています。自分の生活の仕方,また心の状態と大いに関係のある自分の考え方に注目しなければなりません。このことは,「邪悪な人は己の道を捨て,害を加えようとする人は己の考えを捨て去りなさい。エホバに帰りなさい」という勧告の言葉に示されています。(イザヤ 55:7,新)確かに,もし邪悪な人がエホバを求めて見いだし,エホバを呼び求めて受け入れていたたきたいと願うのであれは,その人は自分の邪悪な道を捨て去らねばならなかったでしょう。エホバは邪悪を憎まれます。邪悪な人はまた,害を加えようとしますから,その人の考えは他の人びとに危害を加えることを企てるものです。したがって,そのような人は,慈悲深い神であるエホバを求めるには,自分の考えを害を加えようとする意図のそれから,有用で有益な考え方に変えなければなりません。「邪悪な者たちの犠牲は忌むべきものである。まして,不品行を伴ってそれを持って来る時はなおのこと」という箴言 21章27節(新)の言葉の中で神が言っておられることを真剣に考えねばなりません。義の神の是認なさる道や考えこそ,神の崇拝者また僕たちの霊的なパラダイスに入るための必要条件なのです。
5 (イ)「エホバに帰りなさい」という言葉の示す必要条件は,流刑に処された古代のユダヤ人にどのように当てはまりましたか。(ロ)その必要条件に留意した人たちの前途にはどんな見込みがありましたか。
5 害を加えようとする邪悪な人については,こう言われています。「そして,エホバに帰りなさい」。これは害を加えようとする邪悪な人が,エホバから離れ去って悪くなっていたことを示しています。かつては,エホバと平和で親密な良い関係を持っていたのです。古代のイスラエルはバビロンに流刑に処される時までそのような状態でした。が,預言者イザヤはその預言の中で早くから彼らが流刑に遭うことを予言していました。それで,「エホバに帰りなさい」という勧告の言葉はそれが最初に,また直接適用されるものとしては,バビロンに流刑に処されていたユダヤ人に宛てたものでした。彼らは自分たちの故国の荒廃と異教バビロニアで流刑に処される事態をもたらした自分たちの不行跡や悪事を悔い改めねばなりませんでした。その故国は限られた期間つまり七十年間荒廃したままになり,次いでバビロンから解放されるユダヤ人の,神を恐れる忠実な残りの者が再びそこに居住することになっていました。バビロンから解放される定めの時が近づくにつれ,流刑の身のユダヤ人にとって,故国に帰ってそこをパラダイスに変える特権にあずかる人のひとりになるよう用意するのは,いよいよ望ましいこと,そうです,急を要することとなったでしょう。
6,7 (イ)預言者ダニエルはイザヤ書 55章7節と一致してどんな行動を起こしましたか。そのような行動はどうして適切でしたか。(ロ)ユダヤ人の残りの者とその僕たちはいつ故国に帰りましたか。
6 エルサレムとユダが荒廃する11年も前に流刑の身としてバビロンに捕らわれていた年老いた預言者ダニエルは,イザヤ書 55章7節の勧告の言葉を心に留めていました。ユーフラテス河畔の古代バビロンはペルシャ人征服者クロス大王の前に西暦前539年に倒れたばかりの時でした。クロスの同僚,メディア人ダリウスが今や一時的に王としてバビロンを支配していました。ダニエルはこう述べます。「その治世の第一年に,われダニエルは〔エホバ〕が預言者,エレミヤに臨んで告げられたその言葉により,エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを,文書によって悟った。それでわたしは,わが顔を〔真の神エホバ〕に向け,断食をなし,荒布を着,灰をかぶって祈り,かつ願い求めた。すなわちわたしは,わが神,〔エホバ〕に祈り,ざんげして言った」。(ダニエル 9:1-4,口語〔新〕)その祈りの中でダニエルは,自分も反抗的な国民の一員であって,神に対する同国民の悪行や不従順の責めの一端を負っていることを告白しました。
7 ダニエルは個人的には歩み方の点でよこしまでなく,害を加えようとする考えを持ってはいませんでした。それで,流刑に処されたユダヤ人のために捧げたその祈りは,神の目に恵みを得ました。ダリウス王,次いでクロス王に召しかかえられて仕えていた高齢のダニエルは,ユダの地に帰りませんでしたが,悔い改めて改心したユダヤ人の残りの者が,ユダヤ人ではない幾千人ものその僕たちと共に,エルサレムとその神殿を再建するため故国に帰るさまを見るという言いようのない喜びにひたりました。このことが起きたのは,七十年の荒廃の終わった西暦前537年のことでした。
8 第一次世界大戦の終わりの時分に霊的なイスラエルの残りの者が直面した事態は,生来のユダヤ人がバビロンに流刑に処された期間の終わりごろに遭遇した事態とどのように類似していましたか。
8 同様に,1918年11月11日に第一次世界大戦が終わった当時,霊的なイスラエルの現代の残りの者は自分たちの道や考えをある程度改めねばなりませんでしたが,地上でなお生き長らえて大戦後の時代に入りました。神の恵みを十分に受ける立場から追われて大いなるバビロンの領域に流刑に処された彼らの状態は,まさに終わろうとしていたので,当時は神への崇拝と奉仕に関して犯した失敗や間違いをよく考える適当な時となりました。彼らは第一次世界大戦の流血と暴虐のゆえに共同責任を負っていました。彼らはエホバを求め,祈りのうちにそのみ名を呼び求める必要がありました。神に向かうその運動と一致して,次の預言的な勧告の言葉が彼らに適用されました。「邪悪な人は己の道を捨て,害を加えようとする人は己の考えを捨て去りなさい。そして,エホバに帰りなさい」― イザヤ 55:7,新。
9 (イ)エホバを求めるに際して,霊的なイスラエルの残りの者はどんな行動を起こしましたか。(ロ)彼らはどれほどの期間神に仕える責任がありましたか。どんな仕事が行なわれる必要がありましたか。
9 霊的なイスラエルの残りの者は祈りのうちに神のみ名を呼び求めると共にエホバを求めるに当たり,聖書を再び調べ直しました。物事が聖書預言に関する自分たちのそれまでの理解の仕方とは違った形を取っていたからです。彼らは今や自分たちの前に開かれた予想外の新たな事態に合わせて自分たちの考え方や歩み方を再調整する必要がありました。彼らは西暦1914年あるいは1918年などという特定の年までではなく,永遠に自分たちの神のために「聖別されて」いたのです。そのため,神が彼らを地上で生き長らえさせてくださる限り,真の神に仕え続ける責任がありました。神はご自分の書き記されたみ言葉とその組織を通して残りの者に,新たに生まれたメシアの王国に関連して彼らのなすべき極めて重要な仕事があることを明らかにされました。それで,彼らは『エホバに帰る』べき十分の理由がありました。しかし,過去の失敗を考えれば,彼らのそのような努力はむなしく終わるのでしょうか。
10 過去の失敗を考えると,彼らは神に受け入れていただけると信ずるに足る何らかの理由がありましたか。
10 古代バビロンに流刑に処されたユダヤ人と同様,霊的なイスラエルの残りの者は気を取り戻し,神に向かうその運動の点で勇敢であるべき十分の理由がありました。どうしてですか。それはイザヤ書 55章7節(新)の励みのある言葉のためでした。「そして,エホバに帰りなさい。あわれみをかけてくださるであろう。わたしたちの神に帰りなさい。豊かに赦してくださるからである」。
神の赦しの豊かさ
11 神は流刑の身の生来のユダヤ人を「豊かに」赦されましたが,それはどうして真実でしたか。
11 神の赦しには出し惜しみをするところがありません。憐れみに富まれるゆえに「豊かに」赦してくださいます。神はバビロンに流刑に処されたユダヤ人に対して憐れみ深い奇跡を行なって,彼らに対するご自分の赦しを表明されました。神はバビロン帝国が彼らを捕らえておいた獄を打ち破って開き,七十年間も人も家畜も住まずに荒廃していた故国に彼らを帰らせる道を備えられたのです! これを見た周囲の諸国民は仰天させられました。諸国民はこの奇跡をイスラエルの神のせいにすることしかできませんでした。「その時,彼らは諸国民の中で言った。『エホバは彼らと共に行なった事において大いなる事柄を行なわれた』。エホバはわたしたちと共に行なった事において大いなる事柄を行なわれた。わたしたちは喜んだ。ああ,エホバよ,どうかわたしたちの仲間の捕らわれ人を元通りに集めてください。ネゲブ[干上がった土地]の川床のように」。(詩 126:2-4,新)過去の罪や違犯を考えれば,流刑の身のユダヤ人はそうされるに値しませんでしたが,誠実に悔い改めたがゆえに神は彼らを「豊かに」赦されたのです。
12 エホバは同様に,霊的なイスラエルの残りの者をご自分の恵みを得る立場に回復させましたが,何がその証拠となりましたか。
12 霊的なイスラエルの現代の残りの者の場合にも同様な事が当てはまりました。彼らの心からの悔い改めゆえに,神はより大いなるクロスつまり王イエス・キリストを用いて彼らを大いなるバビロンの力から自由にさせ,地上における正当な霊的状態,つまり神の恵みを得,平和な関係を持つ状態に戻らせました。そして,再び彼らを用いて,現代の音信,つまり「王国のこの良いたより」を全世界でふれ告げさせ始めました。こうして神は,大胆に活動する彼らを再び公の舞台に紹介されましたが,敵意を抱く諸国民はエホバ神が残りの者のためにある大いなる事柄を行なわれたことに気付きました。そのある事柄とは,神の恵みを得,神への奉仕にあずかる立場に神が彼らを回復させてくださったということです。
13 預言者イザヤを通してエホバは,それほどの著しい憐れみを示す理由をどのように説明しておられますか。
13 一方は古代バビロンから,他方はその現代の相対物からの救出というこのような行為は,人間の考えでは思いもつかない事柄でした。このすべては不完全な人間の考えとはあまりにも相反するものでした。現代のこの邪悪な事物の体制の人びとを扱う人間的な方法とは正反対でした。神に対してあれほどの罪が犯されたにもかかわらず,どうして神はそれほどの憐れみを示し,それほど豊かに赦したのでしょうか。神はイザヤを通して与えた預言がさらに述べる通り,こう説明しておられます。「『あなたがたの考えはわたしの考えではなく,あなたがたの道はわたしの道ではないからである』,エホバのみ告げである。『天が地よりも高いように,わたしの道はあなたがたの道よりも高く,わたしの考えはあなたがたの考えよりも高いからである。降り注ぐ雨が,そして雪が,天から下り,まさしく地にしみ込んで地にものを生み出させ,芽を出させ,また種がまさしくまく人に与えられ,パンが食べる人に与えられなければ,その場所に帰らないのと全く同様,わたしの口から出るわたしの言葉もそのようになる。それは成果を挙げずにわたしのところに帰っては来ない。かえって,それはわたしの喜ぶ事を確かに行ない,わたしがそれを送った事柄でそれは確かに功を奏することになる』」― イザヤ 55:8-11,新。
14 神の憐れみにつけ込むのはどうして危険なことですか。
14 わたしたちの考えや道は決して,創造者である神のそれと同じほど高くなれるものではありません。わたしたちが罪深い不完全な状態にある間は特にそうです。またそれゆえに,わたしたちの考えや道と神のそれとは比較になりません。とは言え,それを理由に神の憐れみにつけ込むことはできません。「わたしたちの神の過分のご親切を不品行の口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっている」「不敬虔な者」として,ユダの手紙 4節で述べられている偽善的な人たちのようになって責任を免れ得るものではありません。神の寛容さにつけ込んで無事に過ごせるものではありません。わたしたちは神から何ものも受けるには値しませんし,また神に何かを要求する権利も持っていません。与えられた神のみ言葉の許す事柄を越えることはできません。
15 (イ)神の憐れみの示し方はどんな記録と完全に一致していますか。(ロ)神の述べられたみ言葉はどのように天からの雨や雪と似ていますか。
15 エホバ神はわたしたちをそれほど憐れんで何を行なわれたにしても,そのためのみ言葉をあらかじめ述べて,聖書のご自分の預言の中に記させておかれました。エホバはご自分の言う事を本気で言い,また行なうよう意図した事を言われるのです。それで,述べられたみ言葉は信頼できます。天からの雨や雪が地上に蓄えられて,神の定めた目的を成し遂げる点で信頼できるのと同様です。その理由で,述べられたみ言葉が何も成果をもたらさないゆえにエホバにはね返って来ることはありません。エホバはもし言葉を述べたなら,それがご自分の全能の霊によって,またご自分の選んだ僕たちによって遂行されるよう見届けられます。ご自分の好まれる,もしくは喜ばれる事は,そのみ言葉にしたがって必ず行なわれます。エホバは使命を帯びさせてみ言葉を送り出されたのですから,それは単なるむだ話とはなりません。それはエホバがそれを送って述べられた使命の点で確かに功を奏することになります。
16 生来のイスラエルと霊的なイスラエルを扱う点で,エホバはご自分が「真理の神」であることをどのように証明されましたか。
16 ゆえに,み言葉に関連して神ご自身の誉れがかかっています。神はみ言葉がその目的を達し得ぬままに放置することはできません。それは神が全能でないことを意味するからです。それはご自分が真実ではなく,「真理の神」ではないことを意味するのです。(詩 31:5,新)神の言葉は流刑の身のイスラエル人をバビロン帝国から救出し,その残りの者を時をたがわず荒廃した故国に復帰させる段になった時,期待に背きませんでした。また,み言葉は現代でも霊的なイスラエルの残りの者を大いなるバビロンの力から救出して,西暦1919年以降地上で神の恵みを受け,神に仕える立場に復帰させる段になった時も,成果を挙げずに神のもとに帰ったりはしませんでした。イザヤ書 55章10,11節に述べられているみ言葉の真実性を証明しようと思えば,ほかにも古代および現代の数多くの実例を引き合いに出せます。
パラダイスに関する預言
17 エホバはそのみ言葉の成就の絶対的確実さを強調した後,イザヤ書 55章12,13節に記されているように何を約束しておられますか。
17 このようにエホバ神がみ言葉が適中する絶対的確実さについて言われた事柄は,今やまさに実現しようとしている輝かしい預言を確信を抱いて受け入れるよう,わたしたちを強めてくれます。神を求め,そのみ名を呼び,悔い改めて義をまとって神に帰る人たちに向かって神はその預言を述べておられるのです。(イザヤ 55:6,7)神はご自分の考えや道が死んでゆく不完全な人間のそれよりもいかに崇高なものかを明らかにして,こう続けて言われます。「あなたがたは喜びを抱いて出て行き,平和をもって導き入れられるからである。山と丘はあなたがたの前で喜びの叫びを上げて楽しみ,野の木々も皆,手を打ち叩く。いばらのやぶの代わりにねずの木が生える。とげのあるいらくさの代わりにミルトスの木が生える。そして,それはエホバのために有名なもの,断たれることのない,定めなき時にまで及ぶ徴とならねばならない」― イザヤ 55:12,13,新; ヤング; 新アリメカ聖書; リーサー。
18,19 (イ)そこではどんなすばらしい救出が描写されていますか。(ロ)だれが「喜び」を抱くことになっていましたか。詩篇 126篇1,2節は彼らの気持ちをどのように楽しく描写していますか。
18 この預言的な言葉は流刑に処された民の胸の躍るような救出と,その帰国が歓迎される様子を美しく描写しているではありませんか。エホバがご自分の気高い考えや道についてその民に述べたばかりの事柄を確証するものとして,「あなたがたは喜びを抱いて出て行(く)……からである」と言われています。彼らは解放された民としてバビロンから導き出されることになっていました。エホバの流刑に処された民に見せかけの同情を示す異邦諸国民ではなく,異邦諸国民が予期した,あるいは欲した事とはまさに正反対のこれほど目ざましい仕方でエホバが救出しておられた民にとって,この救出は喜びを伴うことになっていました。詩篇 126篇の冒頭の言葉は,異教の地バビロンからのこうした驚くべき解放の際にイスラエル人の残りの者をその献身的な仲間が抱いた喜びの感情をとらえて反映させています。
19 「エホバがシオンの捕らわれた者たちを元通りに集められた時,わたしたちは夢を見ている者のようになった。その時,わたしたちの口は笑いで満たされ,わたしたちの舌は喜びの叫びで満たされるようになった。その時,彼らは諸国民の中で言った。『エホバは彼らと共に行なった事において大いなる事柄を行なわれた』」― 詩 126:1,2,新。歴代下 36:20-23。
20,21 忠実なユダヤ人は西暦前537年に救出を経験した時,エホバがご自分の言葉の真実性を立証なさった強力な証拠をどのようにして確かめることができましたか。
20 西暦前537年についに救出された時,忠実なユダヤ人の残りの者は,それより2世紀前に霊感を受けて記されたイザヤ書 44章28節から同45章3節までの預言を調べて,油そそがれた僕であるペルシャ人クロスを神が用いて彼らを解放することにより,ご自分のみ言葉の正しさをどのように立証なさったかを確かめることができました。次のように報じているエズラ書 1章1-5節〔新〕の歴史的な記録はイザヤの預言と合致しています。
21 『ペルシャ王クロスの元年に当たりエホバさきにエレミヤの口によりて伝へたまひしその聖言を成さんとてペルシャ王クロスの心を感動したまひければ王すなわち宣命をつたへ詔書を出してあまねく国中に告げ示して云く ペルシャ王クロスかく言ふ 天の神エホバ地上の諸国を我に賜へり その家をユダのエルサレムに建つることを我に命ず およそ汝らの中もしその民たる者あらばその神の助けを得てユダのエルサレムに上りゆきエルサレムなるイスラエルの神エホバの室を建つることをせよ 彼は〔真の〕神にましませり その民にして生きのこれる者どものやどりをる処の人々はこれに金銀貨財家畜をあたへて助くべし そのほかにまたエルサレムなる神の室のために物を誠意よりさゝぐべしと こゝにユダとベニヤミンの宗家の長 祭司レビ人などすべて神にその心を感動せられし者どもエルサレムなるエホバの室を建てんとて起ちおこれり』。
22 ユダヤ人は決して無秩序にバビロンから逃げたのではありません。なぜでしょうか。
22 従って,ユダヤ人の残りの者とその仲間は西暦前537年にあわてふためいて,あるいは無秩序にバビロンから逃げたのではありません。預言通り「喜びを抱いて」出るのであれば,そうではあり得なかったでしょう。追っ手を見て恐れて金切り声を上げるようなことなく秩序整然と出て行きました。彼らを解放した神が先頭に立って彼らを導いて道を進み,後ろから彼らを守ってくださるとの全き確信を抱いて彼らは出て行きました。神はそのような趣旨の約束を与えておられました。『なんぢら去れよ されよ かしこをいでて汚れたるものに触るるなかれ その中をいでよ エホバの器をになふ者よ なんぢら潔くあれ なんぢら急ぎいづるにあらず 走りゆくにあらず エホバはなんぢらの前にゆきイスラエルの神はなんぢらの軍後となり給ふべければなり』― イザヤ 52:11,12。
23 (イ)彼らは無事目的地に着けるという確信を抱くべきどんな理由を持っていましたか。(ロ)彼らはいつごろまでに故国に帰りましたか。これはエホバのみ言葉が成果を挙げずにそのもとに帰ることはないという証拠となります。どうしてですか。
23 彼らは平和裏に,自分たちのうちに立派な組織を保って,古代バビロンを去りました。また,平和裏に,神の保護と指導の下で,目的地に着くことになりました。「あなたがたは喜びを抱いて出て行き,平和をもって導き入れられるからである」とあるように,それこそ絶対確かな神のみ言葉が彼らに保証した事柄でした。(イザヤ 55:12,新)彼らは七十年間荒廃していた故国に「導き入れられる」ことになりました。ヘブライ語本文のラビ・リーサーの翻訳が述べる通りです。「喜びのうちに汝らはいでゆき,平安のうちに故国に導かるべし」。あるいは,新アメリカ聖書はこう表現しています。「そうです,喜びのうちにあなたは去り,平和のうちにあなたは連れ戻される」。まさにその通りになり,西暦前537年の第七の月(チスリ)に帰還したユダヤ人の残りの者とその忠節な仲間は,自分たちの都市のあった場所に居を定め,自分たちの故国で彼らの神への崇拝を再興し始めました。(エズラ 2:68から3:2まで)雨や雪が天から下って神の目的を成し遂げるのと全く同様,エホバの預言的な言葉は成果を挙げて誉れをもたらさずにエホバのもとに帰ったりはしませんでした。―イザヤ 55:10,11。
24,25 (イ)目的地に着いた時,かつて流刑の身だった人たちは,故国がパラダイスとなっていたのを見ましたか。(ロ)神が約束しておられたどんな事が,彼らが仕事に取り組んだ後にやがて起きることになっていましたか。
24 ユダヤ人の残りの者と神を恐れるその仲間がバビロンを出て進んだのは,パラダイスを通るような道ではありませんし,その道沿いの地方が数か月にわたって旅をする彼らを元気づけるため,彼らの前で奇跡的にパラダイスに変わったわけでもありません。また,長年荒廃して,やぶの生い茂った故国が彼らの眼前で突然,パラダイスの外観を呈したわけでもありません。しかし,彼らが愛する故国に再び移されて,何らかの直接の奇跡で物事が一変することを期待せずに勤勉に仕事に取り組んだ後,神の約束によればどんな見込みがありましたか。そうです,そのことに関して,彼らの大祭司,ヨザダクの子ヨシュアや彼らの任命された知事,シャルテルの子ゼルバベルは,イザヤ書 55章12,13節(新)の人を鼓舞し,励ます言葉を彼らに読んで聞かせることができました。
25 「山と丘はあなたがたの前で喜びの叫びを上げて楽しみ,野の木々も皆,手を打ち叩く。いばらのやぶの代わりにねずの木が生える。とげのあるいらくさの代わりにミルトスの木が生える。そして,それはエホバのために有名なもの,断たれることのない,定めなき時にまで及ぶ徴とならねばならない」。―ハガイ 1:1もご覧ください。
26 預言に示されているように,その地を一変させた誉れはだれに帰されることになりましたか。それはなぜもっともなことでしたか。
26 確かに,長年放置され,耕されなかった土地が一変して美しくなるのです! とは言え,帰還させられた民がまず最初に熱心に,真剣に働かなければそれは生じないのです。それにしても,その驚くべき変化をもたらす誉れはエホバに帰せられるべきですし,また帰せられることになりました。エホバこそ彼らの誠実な努力を祝福なさった方だからです。必要だったのは,彼らの努力に対するエホバの祝福でした。もし彼らがエホバの崇拝を第一にして,自分たちが圧制的なバビロンから解放され,愛する故国に復帰させられた目的を成し遂げるなら,エホバの祝福が彼らに臨むことになっていました。
27 ユダの地は七十年間荒廃していた時,呪われた地のようになりました。何がそのことを示す証拠となりましたか。
27 彼らが故国に帰った時,長年顧みられなかったその地には確かにいばらのやぶがはびこり,とげのあるいらくさが繁茂していました。そのような植物は,人間の最初のパラダイスの著しい魅力的な特色を成すものではありませんでした。かえって,罪人としての最初の男女に刑を宣告してエデンの園の外で生活させることにした神は,その人にこう言いました。「地はあなたのために呪われた。あなたは命の日の限り,苦しんでその産物を食べるであろう。そして,いばらとあざみを地はあなたのために生えさせるであろう」。(創世 3:17,18,新)それで,ユダの地は七十年間荒廃していた時,呪われた地のようになっていました。「いばらやあざみを生じるなら,それは退けられ,のろわれたも同然になり,ついには,焼かれてしまいます」― ヘブライ 6:8。申命 28:15-18; イザヤ 24:6と比べてください。
定めなき時にまで及ぶ徴
28 ここに引用したイザヤ書 55章13節の言葉遣いは,神の民に対するその祝福が回復されたことをどのように反映させていますか。
28 さて,神を求め,悔い改めて悔い改めにふさわしい実を帯びて神のみ名を呼んだ,崇敬の念の厚い民に対する神の祝福が回復されたことを示す証拠に注目してください!「いばらのやぶの代わりにねずの木が生える。とげのあるいらくさの代わりにミルトスの木が生える」のです。(イザヤ 55:13,新)人が退ける,丈の低いとげだらけの植物の代わりに,丈が20メートルも成育するミルトスやねずの木のような常緑樹が生えるのです。それらの樹木には天の鳥が,こうのとりさえもが巣を作れます。(詩 104:16,17)復帰したイスラエル人は陰暦のチスリの月の第三週の間,仮庵(もしくは幕屋)の祭りを祝う際,ミルトスの木から葉の茂った枝を取って,自分たちのために仮庵を作ることができました。(ネヘミヤ 8:15,16。ゼカリヤ 1:8-11)とげのある厄介な植物の代わりにねずの木やミルトスのような常緑樹が生えるのは,何と目を喜ばせ,気持ちをさわやかにさせる変化でしょう!
29 「野の木々も皆,手を打ち叩く」『山と丘はあなたがたの前で喜びの叫びを上げて楽しむ』という約束の意味を説明しなさい。
29 再び手を加えられた土地を飾った樹木はほかにもありました。「野の木々も皆,手を打ち叩く」のです。それら樹木を生えさせる天の創造者をそれらの木々はほめたたえます。そして,野生の花を一面に咲かせる他の緑の草木と共に,山や丘の斜面を覆います。ユダの地のそれら高地は楽しげな様相を呈します。そして,賛美の音信を神に告げ,あたかも「喜びの叫び」を響かせるかのようになります。自然の環境は幸福そうな様子を呈し,エルサレムおよびユダの全地の至る所で神の民の崇拝の自由が回復されたことを喜ぶ神の幸福感を反映させます。(イザヤ 55:12)一変したこの地の住民はどうして楽しい気持ちを抑え,神への感謝と賛美の叫び声を上げずにおれたでしょう。
30,31 (イ)再び人びとが住んだその地の有様は,それを何と比べるよう人を動かすものとなりましたか。(ロ)その通りの事に関して神はエゼキエルに霊感を与えて何を預言させましたか。
30 再び人びとが住んだその地を最終的に飾ることになっていた麗しさは,その地とエデンの園つまり人間の最初の住みかとを比較させずにおけるものではありませんでした。かつて荒廃した地が美しくされたのを見た人たちは,今やそうした比較を行ないます。このことは,エルサレムとその神殿が西暦前607年に滅ぼされ,ユダの地が荒廃し始めた後,神がエゼキエルに霊感を与えて述べさせた預言の中で予告されていました。
31 『〔主権者なる〕主エホバかく言ひたまふ 我 汝らのもろもろの罪を清むる日にまちまちに人を住ましめ墟あとを再興さしめん 荒れたる地はさきに往き来の人々の目に荒れ地と見えたるに引きかへて耕さるゝに至るべし 人すなはち言はん この荒れたりし地はエデンの園のごとくに成り荒れ滅びくづれたりしまちまちは堅固なりて人の住むに至れりと 汝らのまはりに残れる国々の民はすなはち我エホバがくづれし者を再興し荒れたるところに栽植することを知るにいたらん 我エホバこれを言ふ これをなさん』― エゼキエル 36:33-36〔新〕。
32 イスラエルの民に関して起きていた事柄に神ご自身の名,その名声がどのように関係していましたか。
32 国際的にも憎まれ,流刑の身となったイスラエル国民のためにこうした物事の逆転をすべてもたらし得たのは,同国民と結んだ契約を守っておられた彼らの神だけでした。ですから,約束通りそのような状態をもたらすことによって神はご自身を全地で有名な方としました。神のみ名,名声,その声望がこの重大な事柄にかかっていました。このような事の成り行きに関係していた民は,神ご自身の名で呼ばれる民だったからです。彼らに起きた事柄は,神のみ名に影響を及ぼしました。神がご自分の民を激しく責め,懲らしめた仕方から異邦諸国民は誤った結論を下したので,それは改められねばなりませんでした。これはユダヤ人ではない諸国民がエホバをひとりの神とみなして取って来た見方に影響するものとなります。エホバは自尊心の点でも,またご自分の誉れのためにも,ご自身が約束を守る,信頼できる真の神であることを証明しなければならなかったのです!
33 (イ)神がご自分の民イスラエルをその地に連れ戻した主要な目的は何でしたか。(ロ)その地をパラダイスに変えることを可能にしたのは何ですか。
33 神はご自分の民を古代バビロンから解放し,七十年間の安息を与えた地に彼らを連れ戻しましたが,それは諸国民の間で神のみ名に恥辱をもたらした契約の民イスラエルのためではなく,おもにご自分のためでした。(レビ 26:41-45。歴代下 36:20,21)この安息の期間が西暦前537年に終わった時,神はその地の正当な耕作者を復帰させました。彼らを祝福することによって神はその地を美しい地に一変させ,その地は喜びのパラダイスつまりエデンの園のような様相を呈しました。このことには重大な意義がありました。その背後には目的があったのです。
34 イザヤ書 55章13節に述べられているように,その背後にはどんな目的がありましたか。
34 神は自ら次のように述べて,その背後の動機を知らせておられます。「そして,それはエホバのための有名な[字義通りには,名のための,ヤング]もの,断たれることのない,定めなき時にまで及ぶ徴とならねばならない」。(イザヤ 55:13,新)長年荒廃していた地はこうしてパラダイスのような麗しさをまとったので,これを見た異邦諸国民はそれを認めざるを得なくなり,エホバに対する尊崇の念は高められました。
35 イザヤ書 55章13節で指摘されている「徴」を理解するには,その地と住民について何を思い起こさねばなりませんか。
35 その地はそこにそのままあり,再び用いられ,美化されたので,極めて重要なある事柄の「徴」となりました。まず第一に,それは天与の地であることを忘れてはなりません。エホバはそれを西暦前15世紀にご自分の選民に,それも彼らの父祖アブラハム,イサクそしてヤコブ(あるいはイスラエル)に対する約束の成就として与えておられたからです。それから,ご自分の民がいつまでも不従順で不忠実だったため,いわばその地をなべのようにひっくり返し,その住民をすっかり出してバビロンの地へ流刑に処し,汚されたその地が七十年間安息を守る間,荒廃するままに任されました。(イザヤ 24:1-6。列王下 21:13)そして今や,人口稠密な地を再生させ,また長年流刑の身となっていたご自分の民を天与の地所に復帰させることによって,一国民を再生させました。では,その地をパラダイスに一変させたことは,だれの誉れの「徴」となったでしょうか。
36 (イ)その地がパラダイスに一変したことは,エホバに誉れをもたらす「徴」でした。どうしてですか。(ロ)何がそれを「定めなき時にまで及ぶ徴」にしましたか。
36 エホバは預言者イザヤの口により,次のように語って真の答えを与えておられます。「そして,これはヤハウェを有名にする。永久の,ぬぐい去り得ない徴である」。(イザヤ 55:13,エルサレム聖書)あるいは,「このすべてにより主は不滅の大いなる名を,前代未聞の徴を勝ち得るであろう」。(新英語聖書)エホバの場合,それは「神は死んだ」という主張の誤りを立証しました。その地に関するエホバの驚嘆すべき働きは,彼が生ける神であられること,またそのみ名エホバを署して述べた預言が真実であることを証明しました。こうしてご自身のために上げたそのみ名は大いなる輝かしいものでした。そして,再び人を住まわせた,パラダイスのようなユダの地はエホバの神性,その宇宙主権,その全能性,その忠実性,そしてエホバと契約関係にあった悔い改めた民に対する天に達するほどの憐れみの「徴」でした。それは今日に至るまでも「定めなき時にまで及ぶ」徴となりました。その徴はローマ軍が西暦70年にエルサレムを滅ぼし,ユダヤの地を荒れ果てさせた後でさえ断たれませんでした。なぜですか。なぜなら,神がご自分の預言を成し遂げた記録は,聖書の不滅の記録の中に収められたからです。
37 (イ)その「徴」の現代の相対物はどんな民と共にあることが分かりますか。(ロ)大いなるバビロンから救出された当時,彼らの象徴的な地はどんな状態でしたか。
37 これはぬぐい去り得ない不滅の徴,「定めなき時にまで及ぶ」徴ですから,わたしたちはその現代の相対物を期待します。古代の型に合うためには,それはより大いなる仲介者イエス・キリストを通して「新しい契約」に入っている霊的なイスラエルの現代の残りの者に関係することになります。現代の歴史は,その残りの者が西暦1919年に大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国から解放されたことを確証しています。大いなるバビロンとその政治・軍事および司法上の支援者により残りの者とその有効な組織に対して犯された略奪によって,彼らの地上の宗教的あるいは霊的状態は相当荒廃させられました。彼らの象徴的な地,つまり霊的な状態は,いわば無気味なものになりました。いばらのやぶや,とげのあるいらくさのようなものがその外観を台なしにしたからです。それは宗教心のある人びとを引きつけてエホバ神のそれら崇拝者たちに加わってその信仰や活動を共にさせるよう人を誘う魅力的な様相を呈しませんでした。
38 エホバが彼らの帰る道を開いた時,霊的なイスラエルの残りの者はどのように答え応じましたか。
38 にもかかわらず,生ける神が彼らのために道を開いた時,霊的なイスラエルの残りの者は大いなるバビロンへの隷従状態から「喜びを抱いて出て行き」ました。彼らは前途の宗教的発展の可能性を見て,希望に満たされました。とは言え,敵対する世をものともせずにそうした発展の可能性を利用するには勇気が要ることに気付きました。世界的な戦争は終わり,取り繕った平和が到来したので,残りの者は彼らの正当な霊的状態に「平和をもって導き入れられ」ました。彼らは神の恵みを受ける立場に回復され,神と和解し,新たに樹立されたメシアの王国の大使として神への奉仕に再びあずかることを認められるようになったのです。(コリント第二 5:20)そして,「事物の体制の終結」の際になされるものとしてイエス・キリストの予告した,すなわち「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられる」という前途の仕事のために組織を再編成しました。また,神の真の崇拝にとって妨げとなる好ましくないものを一掃し始めました。―マタイ 24:3,14。
39 世界的な霊的パラダイスは現代の神の民が住めるよう,どのようにして生じましたか。
39 エホバは書き記されたご自分の約束を忠実に守り,昔の原型と一致して,霊的なイスラエル人の回復された残りの者の努力を祝福なさいました。結果として,今日の世界的驚異である霊的なパラダイスが生じました。あたかも,彼らの霊的な状態という山や丘は彼らの前で喜びの叫びを上げ,産出的なキリスト教という木々が手を打ち叩いているかのようです。比喩的に言って,いばらのやぶや,とげのあるいらくさは,美しいねずの木やミルトスの常緑樹で置き替えられました。神から呪われたかに見えた外観は消え去りました! それはエホバの油そそがれた僕イエス・キリストの模範に本当に従う真のクリスチャンの住める場所となりました。そこにはまた,霊的なイスラエルの回復された残りの者の神エホバを求めていた,義を好む幾十万もの人びとがいます。それらの人は忠実な油そそがれた残りの者の忠節な仲間になりました。
40 霊的な残りの者の美しくされた状態は,どのようにエホバに誉れを帰す,「断たれる」ことのない「徴」となりましたか。
40 こうして残りの者の霊的な状態が著しい変化を遂げた結果,エホバは全地の至る所で有名になりました。神ご自身のみ名は世界中で知られるようになりました。霊的な残りの者の再興されて美しくされた状態は「徴」となっていますし,それは定めなき時に至るまで存続します。それは第二次世界大戦その他の世界的動乱や災難にもめげず今日まで持続してきました。それは現在に至るまで「断たれ」ませんでしたし,今後も決して断たれません。―イザヤ 55:12,13。
41,42 霊的なイスラエルの回復というこの問題で,物事はどのようにイザヤ書 55章8,9節で述べられている通りになりましたか。
41 特に,霊的なイスラエルの回復された残りの者の目には,これは皆,あまりにも不思議な驚嘆すべき事柄です。第一次世界大戦による圧迫を受け,また大いなるバビロンに隷従させられていた当時,このような事が起きようとは彼らは夢想だにしませんでした。聖書預言の彼らの理解の仕方によれば,このような事は思いも及ばぬことでした! 霊的なイスラエルの捕らえられ,流刑に処されたこの残りの者がなお地上にいる間に彼らに関してこうした事が起きるなどと期待したり,あるいは予言したりするとすれば,それはせん越なことと考えられたでしょう。確かに彼らの考えは神の考えと同じ高さに達してはいませんでしたし,彼らの行動の道は神の道と同列ではありませんでした。まさにエホバが述べた通りになりました。
42 「『あなたがたの考えはわたしの考えではなく,あなたがたの道はわたしの道ではない……』,エホバのみ告げである。『天が地よりも高いように,わたしの道はあなたがたの道よりも高く,わたしの考えはあなたがたの考えよりも高いからである』」― イザヤ 55:8,9,新。
43 だれがこの霊的なパラダイスの責任を持っているかについて,すべての証拠は何を示していますか。
43 すべてはこのような事が人間ではなく,全能の神によるものであることを証明しているようです。この点,西暦1世紀の使徒時代の当時,法律家ガマリエルがエルサレムのサンヘドリンに対して述べた通則は今日でも真実です。「このはかりごと,またこの業が人間から出たものであれば,それは覆され(ま)す。しかし,それが神からのものであるとすれば,あなたがたは彼ら[企て,あるいは業]を覆すことはできません」。(使徒 5:38,39)従って,今日までエホバのクリスチャン証人から断たれなかった霊的なパラダイスは,全能の神がその責任を持っておられることの「徴」です。全能の神はそれによって全地で有名になられました。ご自分のために大いなる名を得られたのです。見いだせるうちに神を求め,またこの「事物の体制の終結」の時の今,なお神が近くにおられるうちに神ご自身の名を呼び求めることにより,神が確立された霊的なパラダイスに入るための必要条件を満たした,神を恐れる人たちは皆,感謝できます。―イザヤ 55:6。マタイ 24:3。
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ねずの木のてっぺんの巣にとまっているこうのとり
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汚染された地にある霊的なパラダイス世の苦難からの人間の救いは近い!
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8章
汚染された地にある霊的なパラダイス
1,2 地球の汚染を少なくしようとする人間の努力はどの程度成功していますか。
この地上には今なお,小規模な地的パラダイスのような場所が幾か所かあります。しかし,その存続は脅かされています。過去20年間,全人類の自然環境の汚染に関する科学的研究が真剣に考慮されてきました。そして,土地や水や空気の汚染を少なくしようとする努力が払われてきましたが,汚染の作用は依然持続し,増大しています。
2 ある生態学的計画は非現実的なもの,あるいは経済的に問題にならない計画であることが分かりました。選定された地域の自然の美観や健全さを保存するためのさまざまの企画は,エネルギー危機のために生じた必要に道を譲らねばならなくなりました。地球全体は魚や鳥,陸生動物や人間の住みかとしてはますます危険な所となってきました。人間の生活の仕方や地球の誤った管理の仕方のために,この惑星上の生きとし生けるすべての被造物の存続が,環境汚染だけによっても脅かされているのです。
3 自然環境は汚染されているにもかかわらず,どんなパラダイスは,いつ以来広げられていますか。
3 一方,霊的なパラダイスは全地にわたる破滅をきたすこうした汚染の影響を受けることなく繁栄し,なお一層広がっています。それが拡張されてゆくにつれ,霊的な事柄に関心を持つさらに多くの人びとがそれを享受し,一層幸福な生活を送るようになっています。それらの人びとは汚染のない地上のパラダイスで永遠に生きる希望をさえ抱いています。無論,地的な自然のパラダイスはなお将来の事柄です。さもなければ,現在なされている人間の自然環境の汚染が続くのは許されないでしょう。人間の最初のパラダイスの住みかをこの地に回復することは,人間自身の能力や知恵の及ばない事柄です。しかし,第一次世界大戦後の最初の平和な年以来,霊的なパラダイスがこの地上に設けられてきました。確かにこれは,クリスチャンの使徒パウロが一世紀当時のギリシャ,コリントの会衆に宛てた第二の手紙の中で書いたパラダイスのことです。
4 このパラダイスについて使徒パウロはコリントのクリスチャンに宛てた第二の手紙の中で何と述べていますか。
4 一世紀の半ば近くの西暦55年ごろ,その手紙を書いたパウロは,仲間の信者のその会衆にこう言いました。「わたしは誇らねばなりません。なるほどそれは有益なことではありません。でもわたしは,主の超自然の幻と啓示のことに移ります。わたしはキリストと結ばれたひとりの人を知っています。その人は十四年前に ― それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません。神が知っておられます ― そのようなものとして第三の天に連れ去られました。そうです,わたしはそのような人を知っています ― それが体においてであったか体を離れてであったか,わたしは知りません。神が知っておられます ― パラダイスに連れ去られ,人が話すことを許されず,口に出すことのできないことばを聞いたのです。そのような人についてわたしは誇ります。しかし自分自身については……誇りません」― コリント第二 12:1-5。
5 (イ)パウロが言及している「キリストと結ばれたひとりの人」とはだれですか。(ロ)このことからすれば,「そのような人についてわたしは誇ります。しかし自分自身については…誇りません」と語った彼の言葉は何を意味しましたか。(ハ)そのような経験をした時の自分の状態について彼はなぜ,「それが体においてであったかどうかわたしは知りません。体を出てであったかどうかも知りません」と述べましたか。
5 使徒パウロはここで,だれかほかの人ではなく,自分自身のことを語っています。とは言え,神の特別の恵みを得た人として前述の特異な経験をした時の自分のことを述べています。大いに恵まれ,当然誇り得る立場に置かれた人としての自分について述べたのです。しかし,神からのそのようなまれな特権のない普通の人間としての彼自身のことは当然誇れるものではありません。彼の経験はあまりにも現実的なものだったので,あたかも肉体のままでその場にいるかのようでした。もっとも,彼は肉体のまま地上にとどまっていました。彼が経験したのは恍惚状態で,彼が聞いたのはそうした恍惚状態にあった時に聞いた事柄でした。もしその経験がコリント会衆に第二の手紙を送る14年前に起きたのであれば,西暦47ないし48年ごろバルナバを伴って行なった最初の宣教旅行より前の西暦41年ごろ起きたことになります。使徒パウロは彼の聞いた事柄が自分の知っているヘブライ語あるいはギリシャ語,もしくは人間の知っている言語には翻訳できない何らかの異質的な言語で話されたかについては明確に述べていません。
6 彼は「第三の天」に言及していますが,このことは何を示していますか。
6 第三の天に連れ去られた際,パウロは急に引き上げられて時の流れを下り,次々に続く一連の第三の天に連れて行かれたのではありません。彼は急に引き上げられ,垂直方向に運ばれたのです。三あるいは第三という数は聖書では強さ,もしくは強調の徴として用いられているので,「第三の天」は彼の高められた高さ,つまり高められた質を示すものです。天から下って来て,また霊の天に帰ったイエス・キリストは目に見えない天的な事物を知っておられますが,パウロはそのような意味で霊者たちの天の事物を知るようになったのではありません。比喩的に言って,彼は地上で仲間のクリスチャンと共に『キリスト・イエスとの結びつきにおいて天の場所に』既に座していたのです。(エフェソス 2:6)それで,「第三の天」に連れて行かれたとは,霊的にパウロが仲間のクリスチャンの霊的な立場以上に高く引き上げられたことを意味しています。そのために,かつて得たことのないような洞察を得ました。このことは彼の話し方また書き方からも証明されます。
7,8 (イ)パウロが言及している「パラダイス」はなぜ,啓示 2章7節で指摘されているものと同じではありませんか。(ロ)パウロが連れ去られて行ったあの「パラダイス」はどうして「エデンの園」ではありませんでしたか。
7 彼が「パラダイス」に連れ去られたことについて言えば,それはここで「第三の天」と結びつけられています。これはある霊的なものを示唆します。しかし,これはパウロが連れ去られて行ったパラダイスが,栄光を受けたイエス・キリストが小アジア,エフェソスの会衆に送った音信の中で指摘されているものであるという意味ではありません。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木から食べることを許そう」。(啓示 2:7)この「神のパラダイス」は,血肉では入ることができず,肉眼では見ることのできない,目に見えない霊の天にある比喩的なものです。(コリント第一 15:50)また,使徒ヨハネは目に見えない霊の天にある事物の象徴を見,それについて啓示 4章で述べていますが,そのような仕方で使徒パウロがそうした象徴を見たことを暗示するものは何もありません。それで,使徒パウロが「神のパラダイス」に連れ去られて,その「命の木」を見たとはまず考えられません。
8 最初の地的なパラダイスつまり「エデンの園」に関する限り,そのようなパラダイスについては被造物である人間にとって神秘的な事は何もありません。それは何ら人間の経験を超えたものではありませんし,またそれが神のメシアの王国のもとで地上に回復されることは聖書預言に従って多年理解されてきました。(創世 3:8-24)従って,使徒パウロはそれについて学び,また知るために「主の超自然の幻と啓示」を受けるには及ばなかったでしょう。―コリント第二 12:1。
9,10 (イ)使徒パウロに与えられた幻は,いつ存在する,どんなパラダイスに関するものでしたか。(ロ)パウロが聞いた「口に出すことのできないことば」は何に関係していましたか。そのような言葉を語ることは,何を意味していましたか。
9 とは言え,聖書はもう一つのパラダイスを預言的に描写し,ユダヤ人のバビロン流刑後のユダの地にその歴史的な原型を与えることさえしています。そのパラダイスこそ,使徒パウロが「第三の天」に,つまり超自然的な幻の中で「パラダイス」に連れて行かれた後の19世紀後の現代の霊的なパラダイスです。パウロがあの現実的な経験の中で聞いた事柄,つまり「人が話すことを許されず,口に出すことのできないことば」とは,当時なお将来のことであったこの霊的なパラダイスに関するものでした。キリストの真の弟子たちのこの祝福された状態は,「事物の体制の終結」の際のキリストの「臨在」つまりパルーシアの期間に存在することになっていました。―マタイ 24:3。
10 パウロは霊感を受けて,「わたしたちの主イエス・キリストの臨在」前にクリスチャン会衆に臨もうとしていた「背教」を予告しました。しかし,彼が人間としてこの霊的なパラダイスについて,つまり「口に出すことのできないことば」で述べられるのを聞いた事について語るのは不法なことではありませんでした。そうするのは,この霊的なパラダイスと関係のある聖書預言を解釈することを意味しました。―テサロニケ第二 2:1-3。コリント第二 12:1-4。
霊的なパラダイスへの「神聖さの道」
11 (イ)イエス・キリストの「臨在」はいつ始まりましたか。(ロ)その時,イエス・キリストは古代のどんな支配者のようになりましたか。それはどんな意味においてですか。
11 ものみの塔聖書冊子協会の以前の出版物の中では,神のメシアの王国が目に見えない天で誕生した1914年における異邦人の時の終わりに「わたしたちの主イエス・キリストの臨在」が始まったことが聖書的に証明されてきました。(啓示 12:1-10)その時,新たに即位したイエス・キリストは,バビロン帝国の征服者で,捕らわれていたユダヤ人とその忠節な非ユダヤ人の仲間たちの解放者であった,神の昔の油そそがれた「僕」,クロス大王のようになりました。その役割を現代的な仕方で演じたイエス・キリストは,西暦1914年から1918年にわたった第一次世界大戦中,大いなるバビロンとその世俗的な情夫たちによって捕らわれていた,ご自分の忠実な追随者たちを解放しました。そして,偽りの宗教のあの世界帝国の力を砕くことにより,西暦1919年に霊的なイスラエル人の残りの者の回復をもたらされたのです。このことは当時の全宗教界を仰天させ,悔しがらせました。―啓示 11:7-13。
12 霊的なパラダイスに関して,ここでどんな疑問が起きますか。
12 この本の読者の多くが,霊的なイスラエルのエホバの油そそがれた残りの者はどうして,またどのようにして西暦1919年以降初めて霊的なパラダイスに入ったのだろうかと尋ねるのももっともなことです。彼らは西暦1914年の第一次世界大戦の勃発前から地上の霊的なパラダイスに入っていませんでしたか。彼らは,例えば,西暦1879年7月に「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌が発行されて以来,神の恵みを受けた,そのような祝福された霊的状態を享受していませんでしたか。第一次世界大戦前もある期間生きていて,当時霊的なイスラエルの残りの者の一部となっていた,わたしたち年老いた者は,こうした問いに否! と答えることができます。どんな根拠に基づいてですか。
13 1919年以前,地上の神の僕たちが考えていた唯一のパラダイスとは何でしたか。
13 ところで,地上の霊的なイスラエルの残りの者のための霊的パラダイスというような事は聞いたことがありませんでした。考えられていた将来の唯一のパラダイスは文字通り物質界のパラダイスで,イエス・キリストの千年統治期間中に惑星であるこの地球に回復され,「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言われた,刑柱につけられた同情心のある悪人が復活させられて入るパラダイスでした。(ルカ 23:39-43)コリント第二 12章4節で使徒パウロが言及したパラダイスさえ,そのようなパラダイスつまり『回復された地』であると理解されていたのです。―1897年発行の「ハルマゲドンの戦い」と題する本の648ページの2節をご覧ください。
14 (イ)当時,パラダイスに関して古代のイスラエル国民に適用された預言は,どのように理解されていましたか。(ロ)それで,当時,それらの預言のどんな適用は見分けられていませんでしたか。
14 また,西暦前6世紀の昔,イスラエル国民の上に縮図的成就を見た聖書預言は,割礼を受けた生来のユダヤ人がパレスチナの地に再び集められることによって彼らの上に現代の最終的成就を見るものと期待されていました。(例えば,エゼキエル書 36章22-36節に関する,1892年の「ものみの塔」誌63ページをご覧ください。),あるいは,古代イスラエルの上に縮図的に成就した預言は,悪魔サタンが縛られて底なき坑に幽閉された後,キリストの千年統治期間中に主要な完全な成就を見るものと考えられていました。(例えば,イザヤ書 35章を取り上げてみてください。)それで,霊的なイスラエルの残りの者の上に起きた現代における成就は完全に見落とされ,はっきりと理解されず,見分けられませんでした。丁度,キリスト教世界の諸教会が今日までそのような状態にあるのと同様でした。事実,エホバのクリスチャン証人は1932年に至るまで,肉のユダヤ人がパレスチナに復帰し,ユダヤ人国家を確立することによって神の預言が成就するものと考えていたのです。
15 1914年,またその後は1918年に関して残りの者はどんな期待をいだいていましたか。
15 その上,霊的なイスラエルの残りの者は1876年以来何十年もの間,1914年の秋における異邦人の時の終わりを待ち望んでいました。彼らは神のメシアの王国がその時までには天で完全に樹立され,またその時,霊的なイスラエルの残りの者は天の王国でイエス・キリストと共に栄光を受けるものと期待していました。聖書の理解はすべて,そのような方向にゆがめられ,もしくはそうした考え方に合わせられていました。そして,第一次世界大戦のさなかに1914年が終わり,霊的なイスラエルの残りの者は自分たちがなおこの地上にいることに気づいた時,今度は異邦人の時が終わってから三年半後の1918年に栄光を受けるのではなかろうかと考える傾向がありました。(ルカ 21:24。ダニエル 4:16,23,25,32)第一次世界大戦中に禁令や迫害のもとで被った彼らの辛い経験は,その状態から第一次大戦後解放されることになっていたバビロンへの流刑とはみなされませんでした。世界的な証言の仕事をするために地上でエホバの恵みを十分に受ける立場に回復されることを期待してはいなかったのです。
16 1919年以降の事態のどんな進展を残りの者はその年以前に予見しませんでしたか。
16 このような訳で,1919年に解放される以前,霊的なイスラエルの残りの者は霊的なパラダイスのことなど全然自覚しませんでした。その年以来地上の最果ての場所に至るまで推し進められてきたそうした仕事など考えたことさえありませんでした! それまでの聖書研究によっては,エホバがご自分のために名を上げる時が来たことを依然悟っていませんでした。(イザヤ 63:14。エレミヤ 32:20。サムエル後 7:23)自分たちが,神ご自身のみ名を地のはるか隅々にまで知らせ,樹立された神のメシアによる王国をキリスト教世界内外の諸国民すべてに発表するために用いられる者であることに気付きませんでした。(マタイ 24:14)自分たちが目撃することになる聖書預言の驚くべき成就や,聖書に関して自分たちの得られる理会が増大し続けることなど予知していませんでした。あらゆる国の民の中から来る,羊のような「大群衆」を,神の恵みにあずかる自分たちの祝福された状態に集めるため自分たちが用いられようとは予想しませんでした。―啓示 7:9-17。
17 (イ)それで,残りの者は霊的なパラダイスの中にいるという意識を西暦1919年以前に持っていましたか。(ロ)しかし今や,彼らはイザヤ書 35章のどんな成就を認識していますか。
17 霊的なパラダイスの中にいるという意識は,解放と回復がもたらされたあの年 ― 西暦1919年に霊的なイスラエルの残りの者のうちにみなぎった訳ではありません。しかし,この事物の体制の「終わりの時」のこの末期の今日,彼らはイザヤ書 35章の預言が1919年以来自分たちの上にいかにすばらしい仕方で成就してきたかを認識することができます。あの輝かしい預言の中で描かれているように,彼らは人間が地を汚染しているにもかかわらず,『神聖さの街道』を通ってやって来て,霊的なパラダイスに入ったのです。
パラダイスにかかわる預言がよみがえる
18 どんな対照的な事柄のためにイザヤ書 35章の預言の美しさは増し加えられていますか。
18 イザヤ書 35章の預言はそれ自体美しい預言ですが,決して終わることのない極端な荒廃と荒野に関する厳粛な預言のすぐ後に述べられているだけに,その美しさは大いに増し加えられています。その陰気な状態は,イスラエル人の兄弟国である,あるふとどきな国民に対する神からの報復の表われとして生ずることになっていました。その国民とは,族長ヤコブあるいはイスラエルの年長の双子の兄弟エサウの子孫でした。エサウは一杯の赤いシチューのために長子相続権をヤコブに売ったため,エドム(「赤い」という意)というあだ名を受けましたが,この名はその子孫の国民につきまといました。(創世 25:30)古代のエドムの地は死海とアカバ湾の間の地で,アラバをまたいでいました。―イザヤ 34:5-17。
19,20 (イ)イザヤ書 35章1,2節では,だれの土地が一変することが予告されていますか。何がそのことを示していますか。(ロ)この預言はだれの上にその最初の成就を見ましたか。
19 イザヤ書 35章は詩的な美しさをもって次のように始まっていますが,この章の中では全く異なった荒野のことが指摘されています。「荒野と水のない地域は歓喜し,砂漠の平野は喜び,サフランのように花咲く。必ずそれは花咲き,本当に楽しみと喜ばしい叫びをもって喜ぶ。レバノンの栄光がそれに与えられねばならない。カルメルやシャロンの輝きも。そこにはエホバの栄光,わたしたちの神の輝きを見る者たちがいる」― イザヤ 35:1,2,新。
20 ここでは,ある土地が一変する,つまりパラダイスのような麗しさを取り戻すことが予告されています。だれの土地のことですか。この章の終わりの節で次のように述べられている者たちの土地です。「そして,エホバによって請け戻された者たちは帰って来て,確かに喜ばしい叫びをもってシオンに来る。そして,定めなき時にまで及ぶ喜びが彼らの頭上に臨む。歓喜と喜びを彼らは得,悲嘆と嘆息は逃げ去らねばならない」。(イザヤ 35:10,新)この預言の最初の成就,つまり古代における成就の場合,シオンつまりエルサレムに帰って来た請け戻された者たちとは,預言者イザヤ自身の民,すなわち古代のユダの地の民でした。イザヤの時代には,油そそがれた王がエルサレムの「エホバの王座」と呼ばれたものの上に依然として座していました。事実,イザヤは四人の歴代の王,ウジヤ,ヨタム,アハズそしてヒゼキヤの治世中預言しました。―イザヤ 1:1。
21,22 (イ)イザヤの時代にユダの地は荒廃した荒野となりましたか。(ロ)その地が荒廃したのはいつでしたか。どれほどの期間にわたりましたか。
21 イザヤの時代にはユダの地は彼の預言の35章で示されている状態に陥ってはいませんでした。アッシリア皇帝セナケリブ王がその地を侵略して多くの都市を征服し,相当の荒廃を引き起こしたのは事実です。この異教徒の侵略者が高慢にもエルサレムを攻略すると脅した時,エホバは奇跡的に彼の面目を失わせて故国に逃げ帰らせました。ユダの地は相当被害を受けましたが,アッシリア人によって住民が根絶されたままにされはしませんでした。それで,以前の住民はやがて流刑に処された地から帰り,再興されたシオンに戻って来ることになりました。
22 また,アッシリア人がユダの地から駆逐された驚嘆すべき出来事のゆえにユダヤ人が経験した「喜び」は「定めなき時にまで及ぶ」ものではありませんでした。なぜですか。なぜなら,次の世紀にエルサレムとその神殿は破壊され,ユダヤ人の王たちが占めた「エホバの王座」は覆され,ユダの全土は人も家畜も住まない廃墟と化したからです。国外に追放された生存者は,愛する故国がこうして七十年間荒廃した時,異国の地バビロンで大いに嘆き悲しみました。ですから,バビロンに流刑に処された彼らが帰還することこそ,イザヤが予告していた事柄でした。
23 (イ)その地が美化されることに関する預言はいつ縮図的成就を見ましたか。(ロ)その預言のより大規模な成就はいつ起こり始めましたか。古代のイスラエルの地と霊的なイスラエルの残りの者の霊的状態とを比べると,どんな類似点がはっきりわかりますか。
23 ユダヤの「荒野」や「水のない地域」や「砂漠」が美化される預言が縮図的成就を見たのは,流刑の身のユダヤ人が西暦前537年にバビロンから帰って来た後のことでした。より大規模な最終的成就,つまり霊的成就は,霊的なイスラエル人の残りの者が神の恵みを受ける立場を追われて大いなるバビロンに流刑に処された状態から西暦1919年に戻って来た後に彼らの上に起きました。最初の世界大戦が起こる前に大いなるバビロンの宗教的・政治的悪影響により苦しめられたほかに,霊的なイスラエル人の霊的状態は,第一次世界大戦によって荒廃した荒野や砂漠のようになりました。同大戦については大いなるバビロンがおもに責任を負っていましたが,霊的なイスラエル人の残りの者に敵して同バビロンはその大戦を利用しました。しかし,全能の神エホバがご自分の崇拝者の残りの者を1919年にバビロン的捕らわれから導き出し始めた時,地上の彼らの霊的状態の何という驚くべき変化が始まったのでしょう。
24 霊的なイスラエルの「地」は第一次世界大戦中,どうして干上がって不毛の状態と化していましたか。
24 第一次世界大戦中,神の祝福や表明された是認の雨がなかったため,自分たちの特権を享受したり,エホバ神に対する自分たちの責務を遂行したりする分野は干上がった不毛の領域と化していました。神は彼らが表わした人間に対するある程度の恐れや,それゆえに彼らに加えられた宗教的束縛を祝福することは決してできませんでした。彼らは世に染まることを許し,とりわけこの世の国際的紛争に対して厳正中立の道を取らなかったため,闘争する世の汚れをある程度受けましたが,神はそのような汚れた状態を祝福できませんでした。神は,新たに生まれたメシアの王国のために地上で彼らに行なわせようとしていた世界的な証言の仕事よりも,天の王国で栄光を受けるという約束に夢中になっていた彼らを祝福する訳にはゆきませんでした。こうした欠陥のある状態のもとでは彼らは,実を結ぶべき時に臨みながら王国の「実」を生み出すことができませんでした。―マタイ 21:43。
25 とは言え,聖書に示されているように,残りの者はどんな変化を遂げることが可能でしたか。
25 とは言え,霊的なイスラエル人の怠慢な残りの者は,自分たちの誤った道に注目させられた時,それを悔い改めることができました。取るべき正しい道を見分けるや否や,彼らは神の意志を行なう点での自分たちの欠点や失敗に注意し,次いで物事を正すことができました。そうしたために,神の不興を買う理由や,時宜にかなった祝福を神が彼らから差し控える理由は除去されることになりました。エホバの選民の回復に関する昔の預言はこう述べていました。『我 彼らおよびわが山の周囲のところどころに福祉を下し 時にしたがひて雨を降らしめん これすなはち福祉の雨なるべし』― エゼキエル 34:26。
26 (イ)それで,霊的なパラダイスが存在するには,その前に何が起きなければなりませんでしたか。(ロ)「レバノンの栄光がそれに与えられねばならない」という約束は,エホバの回復された残りの者の霊的な状態を正しく評価するのにどのように役立ちますか。
26 「荒野」「水のない地域」「砂漠の平野」と化していた,回復された残りの者の状態が何らかの変化を遂げられるようになるには,その前にこのような祝福の雨が降り注がねばなりませんでした。エホバの回復された残りの者の霊的な状態の偉観は今日,預言的な意味で用いられている比喩的な表現によって正しく評価できます。例えば,「レバノンの栄光がそれに与えられねばならない。カルメルやシャロンの輝きも」とあります。(イザヤ 35:1,2,新)その昔のころ,堂々とした常緑樹で覆われていたレバノン山脈のことを考えさえすればよいのです。そのような樹木に関してエホバはご自分の預言者に霊感を与えて言わせました。『レバノンの栄えはなんぢ[シオン]にきたり 松 杉 黄楊はみな共にきたりて我が聖所をかがやかさん われまたわが足をおく所をたふとくすべし』。(イザヤ 60:13)昔のレバノンは大変美しかったので,エホバはそれをエデンの園になぞらえ,レバノンに位置している都市ティルスの王に向かって,『汝 神の園エデンにありき』と言われたほどです。―エゼキエル 28:11-13。
27 『カルメルの輝き』という表現は情景に何を添えるものですか。
27 イザヤが比べ得た他の美しい情景は,「カルメルやシャロンの輝き」のそれでした。カルメルの連山は西方に延びて,末端はハイファの近くでほとんど垂直に地中海に落ち込む印象的な岬となって終わっています。ソロモンの雅歌に出てくる恋人は,愛するシュラミの娘に向かっていみじくも,『なんぢの頭はカルメルのごとし』と言うことができました。(雅 7:5。エレミヤ 46:18と比べてください。)カルメルという名称は「果樹園」あるいは「肥えた土地」を意味しています。エルサレムのウジヤ王の時代のように,この山はぶどう園その他の果樹園で飾られていた時分にはその名称とよく合っていました。―歴代下 26:10。
28 回復された残りの者の霊的な状態が「シャロンの輝き」のようであると聞かされると,何を思い起こしますか。
28 実際,昔は『カルメルの輝き』は広く知られていました。しかし,「シャロンの輝き」についてはどうですか。その名が挙げられると,海港ヨッパ(「美しい」の意)から北方に伸びている,色とりどりの草花の一面に咲き乱れた,海岸沿いの平野の光景がほうふつとして思い浮かべられます。(使徒 9:35)また,「わたしは海岸の平野[もしくはシャロン]のただのサフラン」と語った愛するシュラミの娘の言葉も思い出されます。(雅 2:1,新[欄外])エルサレム聖書はその言葉をこう訳しています。「わたしはシャロンのばら」。新英語聖書は,「わたしはシャロンのアスフォデル」と訳しています。確かに古代のシャロンは独特の「輝き」を持っていました。
29 こうして,預言者イザヤにより,残りの者の回復された状態に関するどんな情景が描かれていましたか。
29 美しい情景をありありと思い浮かべさせるこのすべてに,「荒野と水のない地域は歓喜し,砂漠の平野は喜び,サフランのように花咲く」という預言者イザヤの記した冒頭の言葉を加えると,「霊感を受けて記された精選された言葉によって実に美しい光景が描き出されます。(イザヤ 35:1,新)これこそ,霊的なイスラエルの残りの者のかって荒廃した霊的な状態が,エホバの恵みを受けられる立場に回復した後に呈する,一変した外観なのです。
30 (イ)この驚くべき変化をもたらした誉れはだれに帰せられますか。(ロ)その預言の成就を見,それゆえに神に栄光を帰しているのはだれですか。
30 様相を一変したこの状態は,だれの驚くべき行為を反映しますか。霊感を受けたイザヤは答えています。「そこにはエホバの栄光,わたしたちの神の輝きを見る者たちがいる」。(イザヤ 35:2,新)最高の審美感を持っておられる創造者なる神のみがこのような事,つまり七十年間荒廃した場所の悲しむべき有様を回復された一国民によって麗しい光景に変えることができました。復帰した古代のイスラエル人はこの預言の縮図的成就を見ました。今日,地球全体を包含する大々的な規模でその預言が成し遂げられるのを見てきたのは,大いなるバビロンへの宗教的捕らわれから地上における自分たちのあるべき霊的状態に回復させられた,クリスチャンであるエホバの崇拝者たちです。失意した古代のバビロニア人の目にとって,彼らが荒廃させたユダの地が美化されるのは喜ばしい光景ではありませんでした。現代の大いなるバビロンの人びとの目にとって,霊的なイスラエル人の油そそがれた残りの者の霊的な状態が美しくされるのはやはり愉快な光景ではありません。
31 「そこには……者たちがいる」という表現は,ほかにどのように解せますか。
31 ところで,「そこには……者たちがいる」という表現は,神の民の荒廃した状態の「荒野と水のない地域……砂漠の平野」のことを指しているとも解せます。これらの場所は大変長く,つまり七十年間も悲しむべき状態にあったため,より良いものをもう一度見られるとは決して期待しませんでした。ところが,その状態が変えられ,レバノンやカルメルやシャロンのそれのような栄光や輝きが与えられることによって,それらの場所は一変された状態のうちに,「エホバの栄光,わたしたちの神の輝き」を見たのです。
32 残りの者は自分たちの一変した状態のうちに,いつから「わたしたちの神の輝き」を見てきましたか。
32 それで,イザヤの預言には,一時的に自分たちの状態が荒廃した神の民のための何という希望の言葉が収められていたのでしょう。西暦1914年から1918年にわたる第一次世界大戦中,荒廃した状態にあった時,霊的なイスラエルの捕らわれた残りの者は,その預言の正しい適用の仕方を悟らなかったので,彼らのためにそこに含まれていた慰めをくみ取りませんでした。しかし今や,それも特に西暦1932年に発行された「立証」と題する本の第二巻でその預言が説明されて以来,彼らは自分たちの一変した状態のうちに「エホバの栄光,わたしたちの神の輝き」を見ています。
流刑後の王国の業に備えて強められる
33 イザヤ書 35章3,4節に記されている勧告の言葉はどうして特に適切なものとなりましたか。
33 希望をかき立てる預言者イザヤの言葉は,苦しめられた神の民にとって信じ難かったでしょう。それらの言葉の成就する定められた時が近づいた時は特にそうだったので,活動に備えて用意をする必要が生じました。従って,今や回復のもたらされる美しい光景の預言的描写を中断して次のような勧告の言葉が述べられるのは大変当を得たことです。「あなたがたは弱い手を強め,よろよろするひざをしっかりさせなさい。心で思い煩っている者たちに言いなさい。『強くあれ。恐れてはならない。見よ,あなたがたの神は復しゅうをもって,神は返報をもって来られる。彼が来て,あなたがたを救われる』」― イザヤ 35:3,4,新。
34,35 (イ)使徒パウロがその預言を引用した時,強める業はどこで必要としていましたか。(ロ)キリスト教に帰依したそれらのヘブライ人はどんな経験に遭っていましたか。
34 西暦1世紀の昔に早くも使徒パウロはエルサレムのキリスト教に帰依したヘブライ人にあの預言的な勧告の言葉を引用して書き送りました。「ゆえに,垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにしなさい。そして,あなたがたの足のためにいつもまっすぐな道を作って,なえたところが脱臼したりすることのないように,むしろそこがいやされるようにしなさい」。(ヘブライ 12:12,13)キリスト教に帰依したそれらヘブライ人は当時,こうした強める業を自分たちの間で行なう必要がありました。彼らはクリスチャンとして,相当の懲らしめとなる経験をしていたのです。パウロはそのことについてこう述べています。
35 「あなたがたは,啓発を受けたのち数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えたさきの日々をいつも思い出しなさい。ある時には,非難にも患難にも,劇場にあるかのようにさらされ,またある時には,そうした経験をしている人びととともに分かち合う者ともなりました。あなたがたは,獄にある人びとに思いやりを示し,また自分の持ち物が略奪されても,喜んでそれに甘んじたのです。自分たちに,さらに勝った,永続する所有物のあることを知っているためでした」― ヘブライ 10:32-34。
36 迫害者の手によるそのような処置はどうして天の父からの懲らしめに似ていますか。どんな目的を考えてのことですか。
36 使徒パウロは迫害者の手によるこうしたひどい処置を,天の父がそのような迫害を許すことによって地上のご自分の子供たちに施す,懲らしめになぞらえています。わたしたちの模範者イエス・キリストさえ,天の父からのこうした懲らしめを受けました。(ヘブライ 12:1-6)パウロはさらに説明し,こう述べています。「あなたがたが忍耐しているのは鍛練のためです。神は子に対するようにしてあなたがたを扱っておられるのです。父親が懲らしめを与えない子はいったいどんな子でしょうか。すべての者があずかる懲らしめを受けないとすれば,あなたがたは実際には私生児であって,子ではないのです。さらに,わたしたちには自分と同じ肉身の父親がいて,わたしたちに懲らしめを与えても,わたしたちはこれをつねに敬いました。霊的な命の父にはなおのこと服従して生きるべきではないでしょうか。父親は自分に良いと思えるところにしたがって数日の間わたしたちを懲らしめるのが常でしたが,彼は,ご自分の神聖さにわたしたちがあずかれるようにと,わたしたちの益のためにそうしてくださるのです。たしかに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに見えず,むしろつらいことに思えます。しかしのちには,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」― ヘブライ 12:7-11。
37 では,どうして彼らは互いに強め合うことを励まされましたか。
37 キリスト教に帰依したそれらヘブライ人が受けていた厳しい懲らしめのゆえに,使徒パウロは次にイザヤ書 35章3節を引用し,それを彼らに適用しています。こうして互いに強め合うことにより,懲らしめに耐えることをやめたりせず,神の予定の時に報いにあずかれたでしょう。―ヘブライ 12:12。
38 第一次世界大戦後,油そそがれた残りの者は弱い手を強め,よろよろするひざをしっかりさせることがどうして特に必要でしたか。
38 同様に,現代においても,霊的なイスラエル人の油そそがれた残りの者は,大いなるバビロンとその世俗的な連累者の手による迫害や虐待を耐えることによって,厳しい懲らしめの経験をしました。第一次世界大戦が1918年11月11日に終わり,彼らが当時どれほど続くか知らなかった戦後の時期に入った時,当然のこととして弱い手やよろよろするひざをしっかりさせる必要がありました。西暦33年のペンテコステ以来,クリスチャン会衆の歴史上最大の業が今や処理されようとしていたのです。彼らは二つの意見の間で迷うのではなく,神により正しい方向に導かれているとの確信を抱いて確固とした足取りで大戦後の仕事を始める必要がありました。異邦人の時は西暦1914年に終わりました。メシアによる王国は天で生まれましたし,増大する予告された徴はすべて,その事実を裏付ける証拠を供しました。今や,エホバのメシアによる王国の証人として一致団結して前進すべき時が来たのです。
39,40 (イ)1919年,油そそがれた残りの者はどのようにして,「強くあれ。恐れてはならない」と命じられましたか。(ロ)シーダー・ポイント大会の公開講演の際,恐れのない態度を示すどんな証拠がありましたか。
39 わたしたち年老いた者はよく知っていますが,キリストの王国の共同相続者であるこの残りの者に関してある驚くべき事が,つまり聖書預言に関する当時のわたしたちの理解からすれば全然期待もしなかった事が起きていました。わたしたちは『心で思い煩う』傾向がありました。ところが,わたしたちは本当に,「強くあれ。恐れてはならない」と言われたのです。(イザヤ 35:4,新)この勧告の言葉は,1919年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌に発表された,「恐れなき者は幸いなり」と題する二部の記事の中で力強く伝えられました。その上,1919年9月1日から8日までオハイオ州シーダー・ポイントで開かれた八日間の一般大会は心を鼓舞する経験で,同大会では「恐れなき者は幸いなり」という挑戦的主張が強調されました。
40 第一次世界大戦がなお猛威をふるっていた西暦1918年中に油そそがれた残りの者の開いた四日間の幾つかの地区大会では公開講演は宣伝もされず,行なわれもしませんでしたが,同大会の場合とはかなり異なり,1919年のシーダー・ポイント大会の大きな特色は,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードが行なった「苦悩する人類のための希望」と題する野外公開講演でした。その講演の中で講演者は,当時世界の平和と豊かな生活を確立するために提唱された国際連盟が神の不興を買うものとなることを恐れずに言明しました。同連盟はキリスト教世界の僧職者の主張する「地上における神の王国の政治的表現」ではありませんでした。オハイオ州シーダーポイントに集まったあの7,000人の聴衆のうち,1939年9月の第二次世界大戦勃発時まで生き残った人たちは,講演者が真実を語ったことを知りました。僧職者の後援を受けた国際連盟は世界平和の擁護者として失敗したからです。第二次世界大戦は同連盟に致命的打撃を加え,連盟を底知れぬ所に突き落としました。しかし,1914年に天で生まれた真のメシアの王国は引き続き統治を行ない,またエホバのクリスチャン証人により引き続き地上で宣伝されてゆくのです。
41 それで,1919年に,エホバの霊的なイスラエルの残りの者については何が起きていたことを証拠は示していますか。
41 ですから,1919年にエホバの霊的なイスラエルの残りの者は自分たちが大いなるバビロンから解放されたことを世界に向かって証明する時が来ました。彼らがエホバの恵みを受ける立場に復帰させられたこと,またエホバが彼らをご自分のクリスチャン証人と呼ばれたことを示す証拠は増大し始めました。一方,大いなるバビロンに対する神の不興を示す証拠も増え始め,ついに天に達するほどに積りました。彼女はたとえ戦時下でも二度と再びエホバのクリスチャン証人を流刑に処して彼らの王国の証言を沈黙させることはできなくなりました。
42 (イ)今や神がだれに対する復しゅうをもって来る時となりましたか。なぜですか。(ロ)この点で,霊的なイスラエルの残りの者はどんな役目を果たしますか。
42 人を強めるイザヤの預言の勧告の言葉は,次のような保証を伴っていました。「見よ,あなたがたの神は復しゅうをもって,神は返報をもって来られる。彼が来て,あなたがたを救われる」。(イザヤ 35:4,新)1919年にオハイオ州シーダー・ポイントで大戦後最初の一般大会が開かれ,また同年公の証言の業が再開されたことは,大いなるバビロンへの恐ろしい捕らわれから霊的なイスラエル人の残りの者をエホバ神が救ってくださったことを示す,目に見える明確な徴でした。ユーフラテス河畔の古代バビロンを通して悪魔サタンからもたらされる偽りの宗教のあの世界帝国に対する復しゅうをもってエホバが今や来る時となりました。これまで西暦何世紀もの間大いなるバビロンが神の霊的なイスラエル国民に行なった事柄ゆえに今やエホバが同バビロンに対する返報をもって来る時が到来しました。神は今や,ご自分の復しゅうの日と,大いなるバビロンおよびその政治ならびに軍事上の連累者に返報する仕方を宣明させるのに霊的なイスラエルの残りの者をお用いになるのです。―イザヤ 61:1,2。テサロニケ第二 1:6。
宗教上不具にされた者たちを一変させる
43 預言者イザヤは神がご自分の民のために起こす行動のどんな結果を予見しましたか。
43 預言者イザヤはしばらくの間「荒野」や「水のない地域」や「砂漠の平野」のような宗教状態に陥っていたエホバの崇拝者たちに伝えるのを常としていた,人を鼓舞する勧告の言葉に対するどんな反応を予見しましたか。神が来て,彼らを救う一方,同じ時に神が彼らの圧迫者や荒廃者らに復しゅうと返報をもたらす際,救われる彼らにはどんな影響が生ずるでしょう。預言者はこう答えます。「その時,盲人の目は開かれ,耳しいの耳は開けられる。その時,足なえは雄じかのようによじ登り,口のきけない者の舌は喜び叫ぶ。荒野には水が,砂漠の平野には急流がほとばしり出るからだ。暑さで干上がった地は葦の茂る池のように,渇いた地は水の泉のようになる。ジャッカルの住みか,彼らの休み場には,青草が葦やパピルスの水草と共にあるであろう」― イザヤ 35:5-7,新。
44 「盲人の目」が開かれるとはどういう意味ですか。このことは西暦前537年にどのようになされましたか。
44 暗い地下牢からの解放 ― これこそ盲人の目が開かれるということの意味する事柄でした! こうして解放されることにより目が明らかに見えるようにされること,これこそエホバがご自分のメシアなる僕に次のように述べてご予定の時に行なわせようとしておられた業だったのです。「わたしはあなたを保護し続けた。あなたを民のための契約[もしくは誓約]として与えるためで,地を復興させ,荒廃した相続所有物を再所有させ,囚人には,『出よ!』と言い,闇の中にいる者たちには,『姿を現わせ!』と言う」。(イザヤ 49:8,9,新)それで,西暦前537年,ペルシャ人征服者クロス大王の前に古代バビロンが倒れた後,神は流刑に処されたご自分の民を長年幽閉されていたバビロンから連れ出し,彼らの「相続所有物」つまり彼らの愛する故国で自由の光を見させました。
45 1919年には,「盲人の目」が開かれるどんな事態が起きましたか。
45 同様に,西暦1919年,エホバは大いなるバビロンに幽閉されたため盲目にされた,ご自分の油そそがれた残りの者を連れ出しました。それは彼らの回復された霊的な状態の中で神の恵みの光を彼らに見させるためでした。時がたつにつれて,彼らの目は自分たちの霊的な状態の増し加わる美しさをますます認めるようになりました。
46 彼らの耳はどんな点で『つんぼ』でしたか。しかし,彼らの耳が開かれた結果,どうなりましたか。
46 彼らの霊的な理解の耳について言えば,それは彼らが回復され,また大いなるバビロンから解放された後に携わる世界的な証言の業に関する聖書預言に対してつんぼでした。彼らはそのような預言の正しい意味が説明されるのを聞いたことがありませんでした。今や自分たちの再興された霊的な状態のもとに帰った後,神の組織を通してそれらの預言が説明されるのを聞き,今や成就を見ているそうした預言の意味を理解し始めました。『その日 聾者はこの書のことばをきゝ 盲者の目はくらきより闇よりみることを得べし 謙だるものはエホバによりてその歓喜をまし 人のなかの貧しきものはイスラエルの聖者によりて快楽をうべし』という神の約束は忠実に履行されてきました。(イザヤ 29:18,19)クリスチャンであるエホバの崇拝者たちの耳は今日に至るまで,明らかにされる預言のもたらす音信に対して開けられたままになっています。今や全地で行なわれねばならない王国の業に関して,書き記されたみ言葉から来る神の命令に対して彼らは自分たちの耳を開けられた状態に保っているのです。
47 (イ)残りの者はどんな足なえの状態を経験しましたか。(ロ)予告された通り彼らはどのようにして「雄じかのようによじ登り」ましたか。
47 「足なえ」に関しても霊的な奇跡が起きました。霊的なイスラエルの残りの者は大いなるバビロンにより,また彼女が地の政治・司法・軍事上の権威者を利用したために足なえにされてしまいました。正に公然と,また完全な信教の自由をもって行き巡る彼らの業はひどく妨げられました。しかし,イザヤを通して神の勧告の言葉が聞かされ,弱い手が強められ,よろめくひざがしっかりとさせられるに至って,答え応ずる霊的イスラエル人は確かな足取りで着実に,しっかりと歩めるよう回復されました。『足なえは雄じかのようによじ登る』と予告されていた通りです。エホバの王国奉仕の点で坂を登るような仕事に精力的に取り組んだのです。『王国のこの良いたよりを,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で』宣べ伝える点で行なわねばならない業に飛びはねるようにして参加したのです。(マタイ 24:14)比喩的に言って,それは王国の音信を家から家に宣べ伝えるため,回復された霊的なイスラエル人すべてを組織する一登りの仕事でした。
48 「口のきけない者の舌」は,いつ『叫び』始めましたか。どうしてそうなりましたか。
48 「口のきけない者の舌は喜び叫ぶ」。(イザヤ 35:6,新)このこともやはり,霊的なイスラエルの残りの者が大戦後の時代にそのあるべき霊的状態に回復されたとき成就しました。地上における自分たちの身分が一変するのを見た彼らには,自分たちの救いの神を賛美すべき理由がたくさんありました。自分たちの天の家を引き続き恋い慕うよりもむしろ,地上における自分たちの霊的状態のもとでの生活が一層しがいのあるものであることに気付きました。「荒野には水が,砂漠の平野には急流がほとばしり出る」からです。この地上で神への王国奉仕を行なう生活は,彼らを霊的にさわやかにするものとなったのです。神の霊によって聖書を一層理解できるようにされるにつれ,聖書から命の水が流れ出始め,聖書の預言の意味は一層十分に明らかになり,また胸の躍るほどに人を励ますものとなりました。ゆえにこれは,以前自分たちの直面した霊的荒廃ゆえに舌が「口のきけない」者のそれと化していた,回復されたエホバの崇拝者たちにとって,「喜び叫ぶ」ことを促す理由ではありませんでしたか。本当にその通りでした!
49 イザヤ書 35章7節で予告されていた通り,エホバがその民を祝福する結果,ほかにどんな事が生ずることになりましたか。
49 霊的なイスラエルの回復された残りの者の上に神が祝福の雨を降り注がせた結果として,イザヤの預言の喜ばしい特色となる事柄がさらに彼らの眼前で比喩的な意味でよみがえりました。「暑さで干上がった地は葦の茂る池のように,渇いた地は水の泉のようになる。ジャッカルの住みか,彼らの休み場には,青草が葦やパピルスの水草と共にあるであろう」― イザヤ 35:7,新。
50 (イ)「ジャッカル」のことが指摘されると,何を連想しますか。(ロ)『青草が葦やパピルスの水草と共に』ある様子はどんな変化を示唆していますか。
50 ジャッカルのことが指摘されると,廃墟の光景が思い起こされます。ジャッカルは淋しい荒れ地や砂漠のような所にさえ住む,腐肉を食べる一種の野生の犬です。その存在は乾燥した不毛の地のような所を連想させます。そのような乾燥した状態のままであれば,ジャッカルの住みかや休み場は人間が生活するには望ましくない場所となり,人が住んでいれば,水を,泉を,雨を叫び求め,祈り求めるでしょう。その種の灌漑が施されれば,くぼ地は葦の茂る池となり,そこにはパピルスの水草さえ生え,かつての砂漠の平野も青草のじゅうたんで覆われることになるでしょう。人間も移って来るでしょうし,もはやジャッカルのもの悲しい鳴き声やほえる声が深まる夜の闇に無気味さを添えることはないでしょう。西暦前537年にこのような驚くべき変化が始まったのです。
51,52 (イ)預言のこの部分は,流刑に処されたユダヤ人の故国の場合,どのように成就しましたか。(ロ)同様に,西暦1919年以来,何が起きてきましたか。
51 北方の道から下って来たバビロニア人によりユダ王国の地が荒廃させられる前に,預言者エレミヤはその到来の結果もたらされる事態を予告して言いました。「聞けよ,うわさのあるのを。見よ,北の国から大いなる騒ぎが来る。これはユダの町々を荒らして〔ジャッカル〕の巣とする」。また,彼はエホバの代弁者としてこう言います。「わたしはエルサレムを荒塚とし,〔ジャッカル〕の巣とする。またユダの町々を荒して,住む人もない所とする」。―エレミヤ 10:22; 9:11,口語〔新〕。
52 従って,流刑に処されたユダヤ人がバビロンを去り,人の住まぬ荒れ地として七十年横たわっていた故国に帰って来た時,そこにあったジャッカルの巣,その住みかや休み場は,周囲に葦やパピルスの水草が茂り得る穏やかな池のある,草の茂る所に変えられねばなりませんでした。それで,復帰させられたユダヤ人は荒れ地を征服し,ジャッカルは出て行きました。同様に,比喩的に言って,西暦1919年以降,霊的なイスラエルの解放された残りの者の霊的状態の外観は変化を遂げ始めました。その時以来,彼らの霊的な状態の汚染の原因として発見されたものはみな,除かれて清められました。しかし,世の諸国民は,かつてなかったほどに地球を汚染させています。こうした世界的汚染にもかかわらず,ご覧なさい,霊的なパラダイスはエホバのクリスチャン証人によって,神の祝福のもとで,またそのみ名に誉れを帰すものとして世話されてきました。
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1919年,オハイオ州シーダー・ポイントの大会で講演するJ・F・ラザフォード
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霊的なパラダイスへの「神聖さの道」世の苦難からの人間の救いは近い!
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9章
霊的なパラダイスへの「神聖さの道」
1 西暦前537年にバビロンを去ったユダヤ人の流刑囚たちの前にはどんな見込みがありましたか。
文字通りの意味でのパラダイスのような地! これこそ西暦前537年にバビロンを去ったユダヤ人の流刑囚たちが荒廃久しい自分たちの故国を変化させたいと望んだ姿でした。彼らの前には,自分たちの故国に関して預言者イザヤが次のように述べた輝かしい言葉の成就をはっきりと理解できる見込みがありました。「荒野と水のない地域は歓喜し,砂漠の平野は喜び,サフランのように花咲く。必ずそれは花咲き,本当に楽しみと喜ばしい叫びをもって喜ぶ。レバノンの栄光がそれに与えられねばならない。カルメルやシャロンの輝きも。そこにはエホバの栄光,わたしたちの神の輝きを見る者たちがいる」― イザヤ 35:1,2,新。
2 神は彼らが首尾よく無事故国に帰れるという保証をどのようにして与えておられましたか。
2 こうした実にすばらしい見込みを前にして,解放されたユダヤ人の残りの者とその忠節な仲間がバビロンを旅立ち,実際に帰国の途についた時,まさに心が満足するのを覚えたに違いありません。慰めとして,彼らは待望の故国に首尾よく無事に帰れるよう神が特別の道を設けてくださるとの保証を神から与えられました。預言者イザヤによる神の言葉はその趣旨のことを述べています。「そして,そこには確かに街道が,道があり,それは神聖さの道と呼ばれる。清くない者はその上を通ることはない。そして,それは道を歩む者のためのものであり,愚かな者たちはその上をさまよい回ることはない。そこには獅子はおらず,野獣の貪らんなものもその上に上ることはない。そこで見いだされることはない。買い戻された者たちはそこを歩まねばならない」― イザヤ 35:8,9,新。
3 (イ)ユダヤ人が去ったバビロンはどうして宗教的に汚れていましたか。(ロ)ユダの地に帰る道はどうして実際に「神聖さの道」になろうとしていましたか。
3 西暦前607年にエルサレムが滅んだ後,生き残ったユダヤ人が追放された異教の地バビロンは宗教的に汚れており,神聖ではありませんでした。その地は偶像と偽りの崇拝の神殿で満ちていました。解放されたユダヤ人が帰ることになっていた故国は,宗教的に清い地,聖なる地になろうとしていました。そこではエホバ神の神殿が元の場所に再建され,再び人の住むユダ州は生ける唯一真の神の崇拝の栄える土地になろうとしていたからです。それで確かに,帰る道は単に名称上だけでなく,実際に「神聖さの道」とならねばなりませんでした。神の備えたこの道を利用する帰還者には神聖な動機づけ,つまり荒廃久しい自分たちの故国に神聖さの神の清い崇拝を回復させたいとの動機づけがなければなりませんでした。それこそ彼らがバビロンから解放されたおもな理由だったのです。―エズラ 1:1-4。
4 (イ)予告通り,「清くない者はその上を通ることはない」という言葉はどのようにして真実になりましたか。(ロ)この点で,知事ゼルバベルや大祭司ヨシュアはどんな特別の責任を持っていましたか。
4 「清くない者はその上を通ることはない」のです。バビロンの宗教的汚れを受けた清くないイスラエル人には,ユダとエルサレムに戻る聖なる道を通る正当な通行権はありませんでした。バビロンの宗教的性格を持つものは一つとして,エホバ神に対する専心の献身が行き渡ろうとしていた神聖な土地に持ち帰り,移植してはなりません。エルサレムで再建されようとしていたエホバの神殿に戻すため,神聖な器物を持ち帰る者たちに対する神からの命令は次の通りでした。「立ち去れ,立ち去れ,そこを出よ。清くないものには何にも触るな。彼女[バビロン]のただ中から出よ。自らを清く保て。エホバの器物を運んでいるあなたがたよ」。(イザヤ 52:11,新)エホバの崇拝はバビロンの偽りの宗教と具合いよくなじめるものではありません。ゆえに,その神聖さの道は,偶像崇拝的なバビロンの宗教を,回復した故国に持ち込もうとたくらむ背教したイスラエル人によって汚されることがあってはなりません。そこで,ユダ州に帰る旅の世話をすることになった,ユダヤ人の知事ゼルバベルや,アロンの家系の大祭司ヨシュア(またはエシェア)は,悪事をたくらむ背教したイスラエル人がエルサレムに戻る本当に悔い改めた心の清い残りの者に同伴しないようにしなければなりませんでした。
5 イザヤ書 35章8節(新)で「道を歩む者」と述べられているのはだれのことですか。
5 「そして,それは道を歩む者のためのもの」です。それはだれでしたか。それはその道の通行を許されない汚れた人ではあり得ませんでした。そのような者が歩まねばならない道は神聖さの道なのですから,それは神が神聖であられる通りに自分も神聖であろうと努めながら,エホバの神聖さにふさわしく生活している人に違いありません。(レビ 11:44,45)無論,エルサレムの聖なる崇拝の山に向かう解放されたイスラエル人の先頭を進んでおられたのはエホバご自身でしたし,エホバこそ道を歩む者として際立っておられました。エホバは決して清くない道を歩みませんし,ご自分の民を清くない道を通るよう導くこともなさいません。(イザヤ 52:12)必然的に,エホバに従って道を進む者たちは,エホバのように神聖でなければならず,バビロン的な偽宗教にかかわる清くない事物に触ってはなりません。
6,7 神聖さの道をさまようのを許されなかった「愚かな者たち」とはだれのことですか。
6 このことは,神聖さの道から除外される者が何かを明らかにする次の節によってさらに示されています。「愚かな者たちはその上をさまよい回ることはない」。(イザヤ 35:8,新)ここで指し示されている「愚かな」者とは,無知のため賢明でない事を行なう,経験のない,全くの愚か者のことではありません。むしろ,強情にもあえて愚行に走る,手に負えない愚者を意味しています。
7 エホバはまさしくそのような愚かな人のことを描写して,預言者エレミヤにこう言われました。『わが民は愚かにして我を識らず拙き子どもにして暁ることなし 彼らは悪を行なふに智けれども 善を行なふことを知らず』。(エレミヤ 4:22)強情なまでの徹底した愚かさゆえに彼らはユダとエルサレムの荒廃に遭い,異教の地バビロンに追放される憂き目を見ました。ゆえに今や,忠実な残りの者が荒廃した故国に帰るに際し,そのような「愚かな」者たちはその神聖さの街道を勝手にさまよい回ったり,あるいはさすらったりすることは許されませんでした。
8 イザヤ書 35章9節で示されているように,ユダヤ人は故国に帰る途中,ほかに何を免れると約束されていましたか。
8 宗教的に汚れたバビロンからはるかに遠い彼らの故国に戻る道にそうした好ましくない分子は勝手に上れるものではありませんでしたし,その道を戻ってエホバの恵みにあずかろうとする者たちをえじきにしようとして,肉食の野獣がその道路の傍らに潜んで待ち伏せすることもありませんでした。神の約束によれば,「そこには獅子はおらず,野獣の貪らんなものもその上に上ることはない。そこで見いだされることはない。買い戻された者たちはそこを歩まねばならない」のです。―イザヤ 35:9,新。
9 この約束は単に動物による攻撃に対する安全を保証するものでしたか。それとも何を保証しましたか。
9 従って,人間を食べる野獣がその神聖さの道に出没することはありません。もしそうした危険な動物が,エホバへの崇拝をその選ばれた地で行なうべく戻る道を一層恐ろしい所にすることがないのであれば,獣のような人間あるいはそのような一群の人間が突如躍り出て,列をなして進む者たちを襲い,略奪したり殺したりすることは許されません。ゆえに,エホバが備えた道を通って帰国の旅路に今やつこうとしていたその民の解放された残りの者の心には恐れがあってはなりませんでした。勇敢に,また全能の神に全幅の信頼を置いて,残りの者はその道を切り開いて進むことを自ら申し出たのです。こう記されています。「買い戻された者たちはそこを歩まねばならない」。
10 その民はどうしてバビロニア人に「売られ」てしまいましたか。彼らは何に基づいて「買い戻され」ましたか。
10 それらの人びとは,エホバ神によって買い戻され,請け戻された者たちでした。エホバに対する不従順とその清い崇拝に対する反逆のゆえに,ユダ王国の民はバビロニア人に『売られ』てしまい,捕獲者らの地に追放されたのです。バビロンに追放されるずっと前,エホバは彼らに言われました。「わたしの債権者のいずれの者にわたしはあなたがたを売ったであろうか。見よ,自分の過ちのゆえにあなたがたは売られ,自分の違犯のゆえにあなたがたの母は追い出されたのだ」。また,「エホバはこのように言われた……『あなたがたは,ただで売られた。だから,あなたがたは,金なくして買い戻されることになる』」。(イザヤ 50:1; 52:3,新)つまり,エホバは彼らをバビロニア人に売ってもご自分は何の益も得ませんでしたし,彼らをその捕獲者バビロニア人の主人らの地から買い戻しても何ら物質上の益を受ける訳ではありません。
代償なしの解放
11 神がその選民を再び占有なさった時,バビロニア人は何らかの方法で支払いを受けましたか。
11 追放されたユダヤ人は買い戻してくださったエホバに何ら金を払いませんでしたし,バビロニア人に金を払って自分たちの自由を買い戻したりもしませんでした。彼ら自身の過ちや違犯ゆえに招いた結果から無私の気持ちで彼らを買い戻したのはエホバでした。エホバは捕らわれ人であるご自分の民を取り,彼らをその天与の地から除いたからと言ってバビロニア人に何も負っていませんでした。ゆえに,ご自分の選民を再び占有するからと言って,ご自身の聖都エルサレムとその神殿およびダビデの王座を略奪したかどでバビロニア人に復讐する以外,彼らに何も払う必要はありませんでした。―エレミヤ 51:11,36,37。歴代上 29:23。
12 現代の霊的なイスラエルの残りの者はどのようにして「金なくして買い戻され」ましたか。
12 同様に現代でもエホバ神は,西暦1919年に霊的なイスラエルの残りの者を大いなるバビロンとその世俗的な連累者の支配下から解放しましたが,同バビロンに何一つ負うところはありませんでした。また,油そそがれた残りの者も自分たちの解放を勝ち取ろうとして,大いなるバビロンや,同バビロンが共になって淫行を犯している世の王や支配者たちに金を払ったりはしませんでした。1919年に彼らを解放した誉れは,エホバにのみ帰せられるべきでした。と言うのは,エホバが油そそがれた僕イエス・キリストを通して,ご自身の公正の要求を満足させることにより,彼らの欠点の招いた結果から彼らを『買い戻し』たからです。
13 大いなるバビロンからの解放に続いて,何に関する残りの者の認識はいよいよ鋭敏になりましたか。そのことは何を意味しましたか。
13 こうして,霊的なイスラエルの残りの者は買い戻された民として,大いなるバビロンに背を向けて,その神聖さの街道に乗り出しました。彼らは過去の,とりわけ第一次世界大戦中の自分たちの落ち度や失敗や怠慢をますます認識するにつれ,悔い改めの態度を取りました。そして,自分たちの聖なる解放者に神聖さを示し,その方にこそ献身的に尽くさねばならないという彼らの認識はいよいよ鋭敏になりました。その結果,彼らはこの世,つまり悪魔の見える組織から離れていなければなりませんでした。西暦1914年に天で新たに生まれたメシアの王国のうちに今や表わされている神の主権に対して彼らは全き忠誠を尽くさねばなりません。従って,彼らは王国を全世界で宣べ伝え,宣伝しなければならないのです。
14 (イ)神の民は自分たちの生活からどんな汚れたしみを清める必要がありましたか。(ロ)神に仕えたいと願う人たちは行ないや態度を何に合わせるべきでしょうか。
14 その神聖さの街道は清い者たちだけのためのものでしたから,彼らは大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国への捕らわれ,また隷従状態に陥って被った汚れや汚点から清められる必要がありました。ゆえに,大いなるバビロンの宗教上の祭りを締め出しなさい! 同バビロンがその友となっているこの世の国家主義的な祭りも締め出しなさい!(ヤコブ 4:4)大いなるバビロンとその伝承に従うことを一切締め出しなさい! 神の神聖なみ言葉,聖書にこそ従うべきです。その教えにこそ従って自分の思いを改めて神の意志を悟り,思いと心の正しい態度を持つべきでしょう。
15 (イ)もし彼らが正しく身を処していれば,自分たちのただ中にいる強情なまでの「愚かな者たち」を大目に見た場合,何らかの相違をきたしたでしょうか。(ロ)獣のような人間は神聖さの街道を脅かすものとはなりませんでした。どうしてですか。
15 霊的なイスラエルの残りの者はそのような道を取ることによってのみ,神聖な聖書の神の十分の恵みを受け,神が彼らのために備えた霊的なパラダイスに入ることができました。いわゆるキリスト教の領域つまりキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分すべてが大戦後の期間「愚かな」道を進むにせよ,油そそがれた残りの者は,そうした「愚かな者たち」とは何のかかわりも持ちませんでした。神のみ言葉が,「愚かな者たちはその上[神聖さの街道の上]をさまよい回ることはない」と明確に述べていたので,残りの者は自分たちのただ中にいる「愚かな者たち」のだれをも大目に見たりはしませんでした。(イザヤ 35:8,新)その上,人間や人間の立てた組織が獅子あるいは何らかの貪らんな野獣のようにその神聖さの街道を脅かすようなことを許しませんでした。人をおびえさせる人間や組織に対する恐れに脅かされて,神の恵みを求める悔い改めた人びとがその神聖さの街道に入ってそこを通るのを妨げられるようなことはありません。特にエホバご自身が「道を歩む」主要な方,導き手であられたゆえに,エホバに対する恐れは狂暴な人間に対する恐れを最小限にし,あるいは消し去りました。
16 (イ)油そそがれた残りの者はいつその神聖さの街道を通り始めましたか。(ロ)彼らは自分たちが大いなるバビロンを後にして去っていたことに気付いていましたか。
16 大戦後の回復と復興のこの時期における自分たちのための神の要求に対する認識が増し加わると共に,エホバの「買い戻された者たち」は西暦1919年にその神聖さの街道を歩み始めました。彼らはあの宗教上の娼婦,大いなるバビロンとたもとを分かつ,あるいはその捕らわれから離れつつあることを確かに知っていました。と言うのは,第一次世界大戦中,彼女とその世俗的な情夫らの手でひどい仕打ちを受けた後,彼女を憎み,彼女に反対すべき理由をいよいよ知ったからです。そして,彼女が流血の罪を負って汚れていることを認めたので,宗教上何らかの親交を持って彼女に触れることを欲しませんでした。イザヤ書 52章11節の神の命令をよく知っていたのです。『なんぢら去れよ されよ かしこをいでて汚れたるものに触るるなかれ その中をいでよ〔主〕の器をになふ者よ なんぢら潔くあれ』。〔欽定訳〕(1918年11月1日号の「ものみの塔」誌の333ページの,「純潔は忠節な祭司に対する要求」―「主の器をになふ者よ なんじら潔くあれ」― イザヤ書 52章11節 ― と題する記事をご覧ください。)それで,油そそがれた残りの者はその命令を遂行しました。
17 (イ)使徒パウロはイザヤ書 52章11節の神からの命令をだれに適用しましたか。(ロ)それで,人は真のクリスチャンになる前にどんな行動を起こさねばなりませんか。
17 西暦前537年の昔,その命令は古代バビロンに捕らわれて流刑の身となったユダヤ人に適用されました。しかし,割礼を受けた生来のユダヤ人がメシアを退けたためにエホバによって見捨てられた西暦33年以後は,クリスチャンの使徒パウロは神からのその命令を霊的なイスラエル人つまりクリスチャンのイスラエルに適用しました。パウロはイザヤ書 52章11節を引用してアカイア(ギリシャ),コリントのクリスチャン会衆に手紙を書いて,こう言いました。『不信者と軛を同じうすな,釣合はぬなり,義と不義と何のあづかりかあらん……主いひ給ふ,汝らかれらのうちより出で,これを離れ,穢れたる者に触はるなかれと。さらば我なんぢらを受け,われ汝らの父となり,汝らわが息子・娘とならんと全能の主いひ給ふ』。(コリント後 6:14-18,欽)従って,西暦1世紀当時,信者は真のクリスチャンになる前に大いなるバビロンを去らねばなりませんでした。この西暦20世紀においても同様です。
18,19 西暦1923年に開かれたクリスチャンの大会で採択された決議で,大いなるバビロンの中にいる,神を恐れる人たちはどんな行動を起こすよう促されましたか。
18 人が真のクリスチャンになるためのこのような神聖な要求は,西暦1923年にはっきりと述べられました。同年の8月18日から26日にわたって,国際聖書研究者協会の幾つかの地区大会の一つが米国カリフォルニア州ロサンゼルスで開かれました。その大会の土曜日の午後,同協会の会長J・F・ラザフォードは(同大会に出席したおよそ2,500人の)群衆を前にして,「羊と山羊」と題する講演を行ないました。それはマタイ伝 25章31-46節(文)に記されているイエスの例えに基づく話でした。その講演の終わりに,講演者は適切な決議文を読み上げ,聴衆による採択を提議しました。二,三人の不賛成者を除き,聴衆はこの時宜にかなった決議に賛同して起立しました。同決議文の最後の二節は今特に興味深いものがあります。それは次の通りです。
ゆえに,我々は愛の霊をもって,分派的諸教会と交わっている,そうした平和と秩序を愛し,神を恐れる人たちすべてに対して警告を発し,また彼らは神のみ言葉をはねつけ,主イエス・キリストとその王国を否定する見せかけのクリスチャンのあの級の一部となることも親交を持つこともできないということを彼らに指し示すものである。我々は彼らが神のみ言葉に留意し,汚れたものから離れ(コリント後 6:17,文),主により「バビロン」と呼ばれている不義の教階制度から脱退し,『かれの罪にあづからず,彼の苦難を共に受けざらんため,そのうちを出る』ことを求める。(黙示 18:4,文)また,
我々は,そのような人々すべてがイエス・キリストを王の王,また主の主と認め,今や近づいたその王国こそ諸民族に希望と救いをもたらすものであることを認め,そして個人的にも,また集団的にも主の側に立って主の大義に賛同し,世の基が置かれて以来彼らのために神が用意された神の王国の祝福を受けられるよう用意を整えるよう,訴えるものである。
19 その後,この決議文は冊子の形で,幾つかの主要な言語で出版され,全地の至る所で何千万部も配布されました。―1923年11月1日号の「ものみの塔」誌の326,327ページをご覧ください。
20 (イ)1934年に,羊のような者たちが油そそがれた残りの者と共にその神聖さの街道に乗り出すのを助けるため,さらにどんな処置が取られましたか。(ロ)その羊のような者たちは,流刑の身のユダヤ人と共にバビロンを去ったどんなグループの人びとに対応しますか。
20 この決議文は,それら羊のような人びとがキリストを通して神に全く献身し,その献身の象徴としてバプテスマを受けるよう指示してはいませんでした。そのような指示は1934年に初めて出されました。(1934年8月15日号の「ものみの塔」誌の250ページ,34節をご覧ください。)それにしても,1923年の決議は,霊的なイスラエルの残りの者と共にやがて神聖さの街道に乗り出すに至る道を取るよう,羊のようなその級の者たちを用意させる漸進的な処置の一つでした。油そそがれた残りの者に対して善を行なう,それら羊のような人たちは,西暦前537年にバビロンの地を去って,生来のイスラエルの忠実な残りの者と共に荒廃したユダの地に,またエルサレム(またはシオン)のかつて位置していた場所に帰ったネテニ人(与えられた者たちの意)のようでした。それら古代のネテニ人はエルサレムの神殿に関連して卑しい仕事をしただけでなく,その聖都の再建にも参加しました。(歴代上 9:2。エズラ 2:43-54,58,70; 7:24; 8:17-20。ネヘミヤ 3:26,31; 7:46-56,60,73)昔のそれらの人たちのように,今日の羊のようなネテニ人もキリストの霊的な兄弟たちの油そそがれた残りの者にとって非常に有用な者となってきました。
喜びの帰還
21 イスラエル人の残りの者は西暦前537年にどんな精神的態度を抱いてシオンに帰りましたか。それはなぜ適切なことでしたか。
21 異教の宗教組織から解放され,生ける唯一真の神の新たな恵みと祝福のもとで清い崇拝が再開されるのは,正しい宗教を求める人にとってまさに喜びを引き起こさずにはおかない出来事であるはずです。西暦前537年当時のイスラエル人の残りの者に起きたのは,まさにその通りの事でした。預言者イザヤは霊感を受けて,その時の喜びを予告しました。「そして,エホバによって請け戻された者たちは帰って来て,確かに喜ばしい叫びをもってシオンに来る。そして,定めなき時にまで及ぶ喜びが彼らの頭上に臨む。歓喜と喜びを彼らは得,悲嘆と嘆息は逃げ去らねばならない」― イザヤ 35:10,新。
22 エホバはだれを用いて,(イ)西暦前537年におけるユダヤ人の残りの者の,(ロ)この二十世紀における霊的なイスラエルの残りの者の救出をそれぞれもたらされましたか。
22 古代のイスラエル人にとってはこの喜ばしい預言の縮図的な成就は西暦前537年つまりペルシャの王,クロス大王の治世の第一年に始まりました。(歴代下 36:20-23。エズラ 1:1-4。イザヤ 44:26から45:7)当時,エホバ神は予告された油そそがれた僕クロス王を用いて,バビロンからのユダヤ人の残りの者の救出と解放をもたらしました。それと全く同様,この二十世紀にはこの同じ神は大いなるバビロンからの霊的なイスラエルの残りの者の救出と解放を成し遂げるのに,より大いなるクロスつまり統治している王イエス・キリストを用いてこられました。―啓示 14:1-8。
23,24 (イ)イザヤ書 43章1から4節で言及されている「買い戻された者たち」のための代価は何ですか。(ロ)それで,クロス大王は生来のイスラエル人を故国に復帰させた代わりとして何を受け取りましたか。(ハ)霊的なイスラエルの残りの者は西暦1919年以来「買い戻された者たち」となっていますが,それはどうしてですか。
23 神聖さの街道を通ってシオン(もしくはエルサレム)に帰った人たちは,「買い戻された者たち」「エホバによって請け戻された者たち」と呼ばれました。(イザヤ 35:9,10,新)この場合の買い戻す,つまり請け戻すための代価は,イザヤ書 43章1から4節で預言的に次のように言及されていました。『ヤコブよ なんぢを創造せるエホバいまかくいひ給ふ イスラエルよ 汝をつくれるもの今かく言ひ給ふ おそるるなかれ 我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり 汝はわがものなり なんぢ水の中をすぐるときは我ともにあらん 河のなかを過ぐるときは水なんぢの上にあふれじ なんぢ火の中をゆくとき焚かるゝことなく火焔もまた燃えつかじ 我はエホバなんぢの神イスラエルの聖者なんぢの救ひ主なり われエジプトをあへてなんぢの贖ひ代となし エテオピアとセバとをなんぢに代ふ われみてなんぢを宝とし尊きものとし またなんぢを愛す このゆえにわれ人をもて汝にかへ 民をなんぢの命にかへん』。
24 クロス大王が故国に復帰させた生来のイスラエルの残りの者の代わりに,公正の神はクロスとその子孫にアフリカの地域とその民族や国々の民を征服させて与えました。それが買い戻す代価,請け戻す価,つまり贖いとなったのです。(エステル 1:1-4)現代のこの二十世紀においては,霊的なイスラエルの残りの者と,古代のネテニ人に似た羊のような者たちの「大群衆」のためにエホバはより大いなるクロス,イエス・キリストにこう言っておられます。「わたしに求めなさい。諸国民をあなたの相続財産として,また地の果てをあなたの所有物として与えよう。あなたは鉄の笏をもって彼らを砕き,陶器師の器のように彼らを粉々にするであろう」。(詩 2:8,9,新)従って,西暦1919年以来大いなるバビロンから解放された霊的なイスラエルの悔い改めた残りの者は,聖書的に言って,「買い戻された者たち」「エホバによって請け戻された者たち」と言うことができます。それで彼らは特別な意味で,キリストを通してエホバ神に属する者なのです。
25 (イ)流刑に処されたイスラエル人はすべて同じ時にバビロンからエルサレムに帰りましたか。(ロ)現代においては,霊的なイスラエルの残りの者を構成するようになった人たちすべてが1919年に大いなるバビロンを去りましたか。
25 西暦前537年にバビロンを去ってシオンに向かった流刑囚たちの最初のグループは多くても4万9,942名で,そのうち4万2,360人はイスラエル人,残りは奴隷や専門の歌い手たちでした。(ネヘミヤ 7:66,67。エズラ 2:64,65)それから69年後の西暦前468年には約1,500人の男子とその家族がアロンの家系の忠実な祭司エズラと一緒に,ペルシャ王アルタクセルクセス(ロンギマノス)の許可を得てエルサレムに帰りました。これは愛する故国に復帰して耕作に従事し,その地を美化すべく努力していた帰還したユダヤ人の流刑囚たちの最初の派遣団を大いに励ますものとなったに違いありません。(エズラ 7:1から8:15)現代の二十世紀においては,霊的なイスラエルの油そそがれた残りの者が偽りの宗教の世界帝国,大いなるバビロンへの捕らわれから離れ始めたのは西暦1919年以来のことです。第一次世界大戦後の年々,それも特に西暦1935年に至るまで,さらに多くの人が大いなるバビロンを去って残りの者を構成したので,油そそがれた残りの者の人数は増えました。ですから,今日の残りの者の成員すべてが1919年に大いなるバビロンを去って,エホバの恵みとエホバへの奉仕にあずかれる状態に回復させられたのではありません。1919年後の何年もの間引き続き個々の人びとは大いなるバビロンを脱出して,エホバの回復された残りの者のパラダイスのような霊的状態に入ったのです。
26 (イ)現代の残りの者はどのようにして大いなるバビロンを出て神聖さの街道を旅して霊的なパラダイスに入りましたか。(ロ)自分たちの変化した立場に対する彼らの喜びは初期のころどこに見られましたか。その喜びはどれほど長く続きましたか。
26 西暦前537年当時のユダヤ人の流刑囚の場合とは異なり,霊的なイスラエルの現代の残りの者は地上の一つの地理的な場所から他のそれへと旅行する必要はありませんでした。彼らは汚れた大いなるバビロンへの束縛を振り切るようにとの神の命令に従い,エホバの回復された残りの者の自由な霊的な状態のもとに立つことによって,大いなるバビロンを出て霊的なパラダイスに至る神聖さの街道を進んだのです。霊的なイスラエル人の残りの者はまさしく「喜ばしい叫びをもって」神聖さの街道を上って旅立ち,神の恵みを得る立場に戻り,『シオンに来ました』が,1919年9月1日から8日まで米国オハイオ州シーダー・ポイントで開かれた国際大会に出席しさえすれば,観察者はそのことを理解できました。エホバの崇拝者たちの大戦後最初のその一般大会の喜びと新たな熱意は,地上のあらゆる場所の献身した神の民の会衆に広まりました。大いなるバビロンから勝ち得た宗教的自由や天与の霊的な状態に復帰したことに対する喜びは,はかない一時的なものではありませんでした。イザヤ書 35章10節(新)が予告した通り,「定めなき時まで及ぶ喜びが彼らの頭上に臨む」のです。彼らは「王国のこの良いたより」を全世界で宣べ伝える努力を強化し,また自分たちの霊的な状態のうちに世話されていた霊的なパラダイスのことを一層理解するにつれ,増し加わる喜びを抱いて頭を起こしました。
27,28 西暦前537年にはイザヤ書 35章10節の後半の部分の成就として何が起きましたか。
27 神からの預言の言葉は成就しなければなりませんでした。「歓喜と喜びを彼らは得,悲嘆と嘆息は逃げ去らねばならない」のです。(イザヤ 35:10,新)西暦前527年,陰暦第七の月(チスリ)の初めに,復帰したユダヤ人はエルサレムに集まり,神殿のあった場所にエホバのための祭壇を再び建てて,そこでエホバへの犠牲の供え物を新たに捧げました。次いで,チスリの15日に,七日間にわたる仮庵の集りを祝い始めましたが,それは年中行事を記したユダヤのあらゆる暦の中でも最も楽しい恒例の行事でした。(エズラ 3:1-6)流刑の身から戻った後の二年目の,教暦の陰暦第二の月にエルサレムの神殿の基がモリヤ山上のその元の位置に据えられた時,彼らの喜びはなお一層高まりました。ある人びとは感激のあまり涙を流し,他の人びとは歓喜しました。
28 『こゝをもて人びと民の歓こびて呼ばはる声と民の泣く声とを聞きわくることを得ざりき そは民大声に呼ばはり叫びければその声遠くまで聞こえわたりたればなり』― エズラ 3:8-13。
29 霊的なイスラエルの残りの者の場合,「悲嘆と嘆息」はどのように逃げ去りましたか。
29 そのすべては霊的なイスラエルの回復された残りの者が大いなるバビロンから解放された後に得た言いようのない歓喜のほどを小規模に示した型でした。第一次世界大戦中,彼らが大いなるバビロンとその世俗的情夫たちの手から受けた苦しみのために味わった悲嘆は,一変した霊的な状態の祝福ゆえの喜びに飲み込まれました。宗教的捕らわれや拘束ゆえに抱いていた嘆息は逃げ去りました。第二次世界大戦時の恐怖や迫害をさえ含め,大戦後の時代の世の困難な事柄も,彼らの歓喜と,エホバとその統治するメシアの王国に対する喜びを抑えることはできませんでした。彼らはそのような世俗の事柄のために悲しみませんでしたし,また大いなるバビロンへの捕らわれに服して同バビロンによる一層の圧制を被って嘆くことも決してありませんでした。
30,31 (イ)西暦1935年を始めとして,神聖さの街道を進む残りの者にだれが加わりましたか。(ロ)啓示 7章16,17節で予告されていたように,彼らは喜ぶべき理由となるどんな事を経験してきましたか。
30 それとは逆に,エホバ神の羊のような崇拝者たちの増大する「大群衆」が彼らの側に群れをなしてやって来たので,彼らの喜びは強められました。古代イスラエルのネテニ人のような,「ほかの羊」のこの「大群衆」は,西暦1935年以来,油そそがれた残りの者に従ってその神聖さの街道を歩みだしました。(啓示 7:9-17。ヨハネ 10:16。マタイ 25:31-46)大いなるバビロンから逃れて来たそれら羊のような人たちは,エホバ神とそのみ子イエス・キリストによる天の王国に忠節を尽くして,霊的なイスラエル人の残りの者,つまり王イエス・キリストの霊的な『兄弟たち』に積極的な援助や慰めを差し伸べました。彼らも自分たちの得た宗教的自由のゆえに喜びにあふれ,一変した霊的な状態のうちにある油そそがれた残りの者の喜びに十分あずかっています。啓示 7章16,17節で「大群衆」について記されている通りです。
31 「彼らはもはや[霊的に]飢えることも[霊的に]渇くこともなく,太陽が[神からの不興を示して]彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。
32 「大群衆」と霊的なイスラエルの残りの者の前途には,「定めなき時にまで及ぶ喜び」をさらに抱くべきどんな理由がありますか。
32 子羊イエス・キリストの羊のような追随者のこの「大群衆」に対しては,世俗的なこの事物の体制が永遠の終わりを被る来たるべき「大患難」を生き残る希望が差し伸べられています。(啓示 7:14)彼らは霊的なイスラエルの油そそがれた忠実な残りの者と共に生き残って,神のメシアの王国のもとで治められる約束の新しい事物の体制に入ることを期待しています。このような経験をするのは彼らにとって喜びではありませんか。確かに,油そそがれた残りの者と「大群衆」の双方に関して,「定めなき時にまで及び喜びが彼らの頭上に臨む」と言えるでしょう。(イザヤ 35:10,新)地球は今日の利己的な人間のもたらす破壊的なものによってますます汚染されていますが,神により祝福された残りの者とその愛すべき仲間の「大群衆」の享受する霊的なパラダイスは,人を元気づける健全さを保って繁栄しています。
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霊的なパラダイスの,神を恐れる王世の苦難からの人間の救いは近い!
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10章
霊的なパラダイスの,神を恐れる王
1 今日,霊的なパラダイスに住むにふさわしい者とみなされる人たちに関して,アダムとエバがエデンから追放されたことから何を学べますか。
わたしたちの最初の二親,エバそしてアダムが不従順にも禁じられた実を食べた時,神は両人に死の宣告を下し,ふたりをエデンの園から追い出しました。楽しみのパラダイスは,その園を設けた所有者に反逆する者のための場所ではありませんでした。(創世 2:8から3:24)これはエホバ神が今日の霊的なパラダイスに住むにふさわしい者とみなす人たちに関する型となりました。
2 (イ)人は目に美しい状態の中で楽しく生活していてさえ,他の人びとの態度や行ないからどのように影響されますか。(ロ)それで,エホバはどんな分子を霊的なパラダイスから締め出しておられますか。
2 自然環境がたとえどれほどパラダイスに似ていようと,周囲の隣人が自己本位で,不法で,凶悪で,不敬虔な人びとであれば,それは住み心地の良い所でないでしょう。そのような人びとの生活は惨めで,不安で,霊性や敬虔さには不利な生活となりかねません。犯罪の増加する今日の地上の生活は,居住者が周囲を目に美しい場所にしようと努めている郊外地でさえそうなってきました。エホバ神は人類の最初のパラダイスをそうした望ましくない人間の分子に汚されないよう清く保たれました。今日,神は霊的なイスラエルの残りの者とその羊のようなクリスチャンの仲間の霊的なパラダイスを,そうした有害で破壊的な人間の分子のいない所として保っておられます。
3 (イ)霊的なパラダイスの居住者はどんな背景を持つ人びとの中から来ていますか。(ロ)従って,それらの人たちの中ではどんな変化が要求されていますか。
3 その霊的なパラダイスの居住者として認められる人たちは,霊的なイスラエルの残りの者,あるいは羊のような仲間の「大群衆」のいずれの成員かにはかかわりなく,当然のこととしてあらゆる人種,国籍,皮膚の色そして言語の人びとから取られています。(啓示 5:9,10; 7:9,10)アダムとエバの生来の子孫である彼らは,不完全さや罪深い性質を受け継いできました。また,それぞれそのもとで生まれて育てられ,道徳的影響を受けた環境に応じて,さまざまの態度や気質を培ってきました。そうした状況のもとで,神のメシアの王国に関する音信がそれらの人に届き,宣べ伝えられたのです。(マタイ 24:14)従って,タイプの点で非常な違いのある人びとが霊的なパラダイスの中で平和に,また愛をもって一緒に生活するには,まず第一にパラダイスの居住者を同質で,同じ思いや同じ気質を持つ人にする人格上の驚くべき変化が必要でしょう。そのような変化をもたらすには単なる人間的影響力以上のものを要します。何ものも抗しがたい神の霊が必要です。
4,5 (イ)そのような変化をもたらすにはどんな支配者が要るでしょうか。(ロ)その支配者は聖書のどんな預言の中で予告されていますか。使徒パウロはそれがだれであるかをどのように見分けていますか。
4 地上の霊的なパラダイスにおける生活のための人格の変化にとって極めて肝要なのは,自らもエホバ神の霊を持ち,またその霊をパラダイスに入るご自分の臣民に喜んで分け与えた支配者でしょう。パラダイスのそのような支配者は当然,パラダイスの居住者すべてがそのもとで神の意志に従って喜んで一致結束する,超人的な天的支配者でなければならないでしょう。全能の神はイザヤ書 11章1節から10節の霊感による預言の成就として,そうした天的な霊者である支配者を既に備えられました。ベツレヘムのエッサイの子,ダビデ王の繁栄した治世の三百年後に記されたその預言は,霊に満たされたそのような支配者が出てくる源を指し示していました。クリスチャンの使徒パウロはその論議の最高潮に臨んでイザヤ書 11章10節を引用し,ユダヤ人と異邦人の混じったローマの会衆に次のように述べた時,その支配者がだれかに関して疑問の全地を少しも残しませんでした。
5 「それは,あなたがたが同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです。それゆえ,神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,あなたがたも互いを迎え入れなさい。わたしは言いますが,キリストは実に……奉仕者となり……諸国民がそのあわれみのゆえに神の栄光をたたえるようにされたからです…書かれているとおりです。……そしてまたイザヤは言います,『エッサイの根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望を置くであろう』」― ローマ 15:6-12。イザヤ 11:10,七十人。
6,7 (イ)預言に示されているように,イエスはだれの子孫でしたか。(ロ)イエス・キリストが地上に登場した時,ユダヤ人の大多数はイエスのことをどのように見がちでしたか。(ハ)この世的な見方からすればメシアは印象的に映るものではないことを預言者イザヤはどのように示していましたか。
6 イエス・キリストは,ユダの部族の者であったエッサイの子ダビデ王の家系の出でしたから,彼はまたベツレヘム-ユダのこのエッサイの子孫でした。(マタイ 1:1-6; 2:4-6。ミカ 5:2)とは言え,イエス・キリストは,エルサレムのダビデの王国が西暦前607年にバビロニア人によって覆されてから六百年余を経た後に地上に出現しました。当時,ユダヤ人の大多数は彼がメシア,つまり彼を通して諸国民すべてが永遠に祝福される予告された油そそがれた者だとはなかなか考えようとしませんでした。それら不信仰なユダヤ人にとって彼は神のメシアによる王国の王権を受ける見込みのある者とはとても思えませんでした。彼らのこの世的な見方からすれば,あまり印象的な人物とは映らなかったのです。ところが,イザヤの預言は,そうなるであろうことを示してさえいました。地上の高慢で気取った様子の支配者たちと比べて,イエスはあまり頼もしい人物とは見えなかったのです。それで,こうした不均整な対称を明示するため,イザヤ書 10章の次のような最後の二節が同11章の冒頭に先行しているのです。
7 「見よ,真の主,万軍のエホバは,恐るべき衝撃をもって大枝を切り払う。丈高く成長したものは切り倒され,高い者たちは低くなる。そして,彼は鉄の道具で森の茂みを打ち倒し,レバノンは強力な者によって倒れる」― イザヤ 10:33,34,新。
8 (イ)イザヤ書 10章33,34節ではだれがレバノンの巨木にたとえられていますか。(ロ)「レバノンは強力な者によって倒れる」ということはどのように真実となりましたか。
8 イザヤの時代にはエルサレムおよびエッサイの子ダビデの王統の歴代の王にとって俗界からの最大の脅威をもたらしたのは,世界強国アッシリアでした。それで明らかにイザヤの預言は,アッシリアの王とその強力な軍勢をレバノン山脈の巨木になぞらえています。イザヤの生涯中,アッシリアのセナケリブ王とその恐るべき軍隊がユダの地を荒らしていた時,王都エルサレムさえ,貴重なものとしてセナケリブの手の届く所にあるように見えました。こうした危機に際して全能のいと高き神は行動を起こされました。「強力な者」,つまりひとりの天の使いによりエホバは一夜にしてセナケリブの18万5,000人の軍隊を死の眠りにつかせました。あたかもレバノン山の常緑樹の森林が倒れるかのような衝撃をもってアッシリアの「大枝」は切り倒され,卑しめられたアッシリアの王セナケリブは余儀なく故郷に逃げ帰り,やがて非業の死を遂げることになりました。―イザヤ 37:33-38。
9 ダビデの歴代の王の家系はだれによって切り倒されましたか。その結果,やがてどんな疑問が答えを要するものとなりましたか。
9 ですから,アッシリア人ではなく,後代の西暦前607年におけるバビロニア人によるユダの地の征服によって,ダビデ王の歴代の王位継承者の家系は,切り倒された木の切り株のようになりました。その象徴的な木の切り株の上に何世紀かが流れ去るにつれ,種々の疑問が焦眉の問題となりました。果たしてその木の切り株から何かが出てくるのでしょうか。その王統の木は,神により霊感を受けた預言が示すように,果たして再び成長するのでしょうか。王の笏はこれでついにユダの部族から永遠に離れ去ったのでしょうか。(創世 49:10)神はダビデと王国のための契約を結ばれましたが,その王国は永遠に限りなく続くのではなく,単に長続きするものに過ぎなかったのでしょうか。(サムエル後 7:8-16)イザヤの預言の11章は決して誤ることのない答えを与えました。
その上にエホバの霊のとどまる王
10,11 預言者イザヤはある「小枝」について何と述べましたか。それは小さいからと言ってどうして軽んずべきものなどではありませんでしたか。
10 神の取り決めの中では,小さなものの日を軽んじてはなりません。真のメシアのつつましい始まりを何ら大きな可能性のない事柄とみなすべきではありませんでした。アッシリア世界強国の「丈高く成長した」支配者たちが地に切り倒されたのと全く同様,全能の神は丈の低い小さな者を非常に高い者にして,多くの実を結ばせることもできました。レバノンの山の巨大なヒマラヤスギと比べられている小枝もしくはごく小さな若枝とは何ですか。それは実に取るに足りないものですが,イザヤ書 11章1,2節(新)はこう述べています。
11 「そして,エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が実を結ぶ。そして彼の上にエホバの霊が必ずとどまる。知恵と理解の霊,計り事と強大さの霊,知識とエホバに対する恐れの霊である」。
12 (イ)「小枝」や「若枝」はだれを表わしていますか。(ロ)イザヤの時代にはエッサイに根ざしたその王統の木はどんな状態にありましたか。しかし,それは西暦前607年にどうなりましたか。
12 「小枝」と「若枝」とは全く同一のものを表わしており,両者ともある人物を表わしています。このことはその預言が「彼の上にエホバの霊が必ずとどまる」と述べていることからも明らかです。同一の源から出る「小枝」や「若枝」はエホバ神の霊で油そそがれる王つまりメシアを表わしています。預言者イザヤの時代にはダビデ王の父エッサイに根ざす王統の木はなお,切り株と根だけを地に残して切り倒されてはいませんでした。その王統の木はダビデ王家の歴代の王で構成されており,それは西暦前607年まで立っていました。次いで,バビロニア人がその王をバビロンに追放し,王都エルサレムを滅ぼすに至って,その木はバビロニア人により切り倒されました。その時,ダビデ王朝のあの最後の王,ゼデキヤに対する神からの次のような命令が,やむを得ず遂行されました。「かぶりものを取り除き,王冠を取り去れ。これは同じではなくなる。低いものを[一連の異邦人世界強国を次々に]高く上げ,高い者[ダビデの家系のメシアによる王国]を低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはそれを生じさせる。これはまた,正当な権利を持つ者が来るまでは確かにだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」― エゼキエル 21:25-27,新。
13 西暦前537年にゼルバベルは,「小枝」や「若枝」に関する預言を成就しましたか。
13 西暦前537年に,バビロンの征服者,ペルシャ人クロス大王は流刑の身のユダヤ人をユダの地に復帰させましたが,ダビデ王家のゼルバベルは王冠を受けて,再建されたエルサレムの王座で即位した訳ではありません。クロス大王は彼を単にペルシャ領ユダヤ州の知事にしたに過ぎません。(ルカ 3:27-32。マタイ 1:6-13)従って,ゼルバベルは王のかぶりものや王冠と共に王国を受ける正当な権利を持つ者ではありませんでした。彼はエッサイの切り株や根から生え出る「小枝」や「若枝」に関する預言を成就しませんでした。
14 (イ)「小枝」や「若枝」はいつ出て,実を結ぶようになりましたか。それはどうしてですか。(ロ)その後まもなくナタナエルは,イエスが油そそがれて任命された職責について何と言いましたか。
14 その「小枝」や「若枝」はいつ,またどんな人物となって出て,実を結ぶようになりましたか。それはゼルバベルの後,五百年余を経たローマ皇帝チベリウス・カエサルの治世の西暦29年のことでした。その年の初秋,ダビデ王家の一人の子孫,すなわちベツレヘムのマリアの子イエスがバプテストのヨハネによりヨルダン川でバプテスマを受けました。その時,このイエスは神の霊的な子となりました。その時,神の霊が彼の上に下り,神の声が天からこう言うのが聞こえたからです。「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:13-17)こうしてイエスは神の霊によって生み出されて神の霊的な子となったにとどまらず,神の霊によって油そそがれてダビデ王の家系の指名された王となりました。それから二か月ばかりの後,イエス・メシアの弟子となる見込みのあったナタナエルはこの事を認識して,イエスにこう言いました。「ラビ,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」― ヨハネ 1:29-49。
15 (イ)イエスの地上での生活の終わりごろ,ペテロはイエスがだれであることを見分けたと言いましたか。(ロ)西暦29年に現われた「小枝」もしくは「若枝」が,十分に成長した木となったのはいつでしたか。その時,何が起きましたか。
15 イエスは地上で人間として生活した三十三年半の最後の年に,イエスがだれであることを見分けたかについて十二人の使徒に尋ねました。シモン・ペテロはすぐさま答えました。「あなたはメシア,生ける神の子です」。(マタイ 16:13-16; マルコ 8:27-30; ルカ 9:18-21,バイイングトン)それでペテロはイエスを「神のメシア」と呼びました。ギリシャ語を話した人たちは彼のことを「神のキリスト」と呼びました。新たに油そそがれたメシアつまりキリストであるこのイエスこそ,象徴的な『エッサイの切り株からの小枝』で,「切り株」を通してエッサイの根から出た象徴的な「若枝」でした。その「切り株」は依然何世紀ものさらに長い期間,西暦1914年の初秋に至るまで幹がないままでしたが,その時,あの「小枝」あるいは「若枝」は本当に,十分成長して実を結ぶ木,統治する王,統治するメシアとなりました。その時,異邦人の時が終わって,物事の逆転する時が到来したからです。西暦前607年に「高く上げ」られだした一連の異邦人世界強国は再び低くならねばならず,他方,ダビデ王の家系の『低くされた』メシアの王国はもう一度「高い者」とならねばなりません。―ルカ 21:24,欽定訳,文。
16 (イ)イエスは油そそがれた時以来,エホバの霊によってどんな特質を分け与えられましたか。(ロ)それ以前に,神の霊によって同様の特質がだれかに分け与えられましたか。
16 イエスが水のバプテスマを受けた後,油そそがれた時以来,エホバの霊はまさしく彼の上にとどまりました。それは確かに「知恵と理解の霊,計り事と強大さの霊,知識とエホバに対する恐れの霊」でした。(イザヤ 11:2,新)エホバの霊によってイエス・キリストに分け与えられたそれらの特質は,預言者モーセの時代に聖なる会見の天幕の建設者に分け与えられた特質と類似しています。出エジプト記 31章1節から3節でこの事に注目できます。『エホバ,モーセに告げて言ひたまひけるは 我ユダの支派のホルの子なるウリの子ベザレルを名指して召し 神の霊をこれにみたして知恵と了知と知識ともろもろの類の工に長し(む)』。(また,出エジプト 35:31。1907年11月15日号「シオンのものみの塔」誌,349,350ページをご覧ください。)さて,もし崇拝の神聖な幕屋の建設者ベザレルが知恵や了知や知識や工の点で神の霊を必要としていたのなら,イエス・メシアがさらに責任のある王の職責の点でそれと同様の特質を必要とするのはすこぶる確かなことです。
17 ダビデおよびイエスの上には,それぞれ油そそがれてから神の霊が働きましたが,このことにはどんな類似点が見られますか。
17 わたしたちは,預言者サムエルがベツレヘムの羊飼いの少年ダビデに油をそそいでイスラエルの指名された王とした後,サムエル前書 16章13節(新)が伝えているように,「エホバの霊がその日以降ダビデの上に働き始めた」ことを思い起こします。同様に,イエスがヨルダン川で神の活動力をもって油そそがれた後,神の霊は特に彼の上に働くようになりました。
18 イエスの行なった事柄には,神の霊によって特別の知恵や理解や知識がイエスに分け与えられていたことを示す証拠がありました。その実例を挙げなさい。
18 「さて,イエスは聖霊に満ちて,ヨルダンから去って行かれた。そして,霊によって荒野をあちらこちらと導かれて四十日におよび,その間悪魔の誘惑を受けた。そのうえ,それらの日のあいだ何も食べなかった」。ところがイエスは神の霊によって分け与えられた知恵や理解や知識をもって,悪魔が誘惑しようとして述べた提案に首尾よく抵抗しました。「それからイエスは霊の力に動かされてガリラヤに帰られた。すると,彼の評判は周囲の全地方にあまねく広まった。また,彼は人びとの会堂で教えはじめ,すべての人から敬われた」。(ルカ 4:1-15)ナザレの会堂では以前の仲間たちはイエスの話に驚き,「この人は,これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。これはあの大工の息子ではないか」といぶかりました。(マタイ 13:53-55。マルコ 6:1-3)イエスの特別の能力は今や彼のものでした。それは前に彼らに告げた通り,神が聖霊をもってイエスに油をそそぎ,彼をメシアにしたからです。―ルカ 4:16-22。
19 (イ)使徒ペテロやパウロは,み子の上に臨んだ神の霊の働きをさらにどのように強調しましたか。(ロ)それで,神の霊の働きの結果,かつて印象的なところのない「小枝」であった方は何になられましたか。
19 イエス・キリストの死と復活と昇天の何年か後,使徒ペテロはみ子の上に臨んだ神の霊の働きを強調してこう述べました。『神は聖霊と力をもって彼に油をそそぎました。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです』。(使徒 10:38)使徒パウロは天の栄光を受けたイエス・キリストについて書き,こう述べました。「あなたがたがキリスト・イエス,すなわち,わたしたちにとって神からの知恵……となられたかたと結ばれているのは,[神]に帰すべきことなのです」。(コリント第一 1:29,30)誇り高い今日の頭脳時代のいわゆる知者の哲学は,栄光を受けたイエス・キリストの知力とは比べものになりません。「彼のうちには,知恵と知識とのすべての宝が注意深く秘められている」からです。(コロサイ 2:3,8)それで,彼の上に臨んだ全知の神の霊のゆえに,印象的なところのない『エッサイの切り株からの小枝』として地上で存在し始めたその方は,イスラエルの内外を問わず地上のこれまでのあらゆる支配者に勝るメシアなる王となられたのです。
20,21 イエス・キリストの油そそがれた追随者たちもまた「若枝」と言われていますが,だれの「若枝」ですか。
20 神から見れば,「小枝」もしくは「若枝」が重要で価値があるかどうかについては,すべてそれがどの木のものかにかかっています。エホバ神にとっては,神のその僕がベツレヘムのエッサイの根からの「若枝」であったということが極めて重要だったのです。だれの「若枝」ですか。この問いに対する答えこそ,問題を決するものとなります。油そそがれたその僕の足跡に従う人たちの場合もそうです。
21 その僕と彼の弟子たちは神の宇宙的な組織つまり神の比喩的な「女」もしくは「妻」の成員なので,神はその成員,それらの弟子たちに関して彼女にこう言っておられます。「そして,あなたの民は,彼らは皆,義にかなった者となり,定めなき時までも彼らは地を所有しよう。彼らはわたしが美しくされるための,わたしの植えた若枝[ネツァル],わたしの手の業。小さい者が[若枝のように]千となり,小さな者が強大な国民となろう。その時には,わたしが,エホバがそれを速めるであろう」。(イザヤ 60:21,22,新)このような理由で,その僕も,またその忠実な弟子たちも,古代バビロンの最後の王朝のような「忌みきらわれた若枝」とはなりません。―イザヤ 14:19,新。
22 メシアなる王はあたかも自分より位の高い方に申し開きする必要などないかのように行動する無責任な支配者とはならないことを,どうして確信できますか。
22 このメシアなる王は人類家族を治める無責任な支配者のように振る舞うことはありません。彼はサタン悪魔とその悪霊たちが縛られて底知れぬ所に入れられた後,人類家族を千年間統治するよう任命されています。(啓示 20:1-6)この王の上にとどまっている霊は,あたかも彼が自分より位の高い方に申し開きする必要などないような仕方で支配することには逆らって働きます。彼の上に臨んでいる霊は単に知恵や理解や計り事や強大さの霊であるだけでなく,知識や「エホバに対する恐れ」の霊でもあります。彼はエホバを恐れますから,メシアとしての支配権の行使の仕方はそのような恐れによって制御されます。
23 彼ご自身はこの「エホバに対する恐れ」をどう見ておられますか。
23 そのような「エホバに対する恐れ」はこの王にとって,王としての拘束されない自由な行動を妨げる厄介なものではありません。彼はこのような恐れを持つことを楽しみとしていますし,またご自分の民の心にそのような「エホバに対する恐れ」があるのを見ることは喜びなのです。イザヤの預言はさらにこう述べています。「そして,彼の楽しみはエホバに対する恐れのうちにあるであろう」。(イザヤ 11:3,新)バイイングトンの翻訳はこう訳しています。「そして,彼はエホバに対する恐れによって薫るであろう」。エルサレム聖書は,「ヤハウェに対する恐れは彼の息である」と訳しています。ロザハムの翻訳はこう訳しています。「ゆえに彼はヤハウェに対する尊崇のうちに芳香を見いだす[息を吸う]であろう」― 欄外。
虐げられた人たちを解放する審判者
24,25 イザヤがさらに描写しているように,メシアなる王はどんな審判者となりますか。
24 エホバ神に対する恐れを抱いて判決を下す審判者には,正当な取り扱いが行なわれるよう取り計らってもらう点で頼ることができます。全地の義を行なう傾向のある人びとはそのような審判者を待ち望み,求めてきました。それこそエホバのメシアなる王がなるところの審判者なのです。その王の,「エホバに対する恐れ」について語った後,預言者イザヤはこう続けて述べます。
25 「そして,彼はその目にする単なる外見によって裁かず,単にその耳で聞く事柄に従って戒めることもしない。また,義をもって彼は必ずへりくだった者たちを裁き,廉潔さをもって必ず地の温和な者たちのために戒めを与える。そして,彼はその口のむちで必ず地を打ち,そのくちびるの霊で邪悪な者を殺すであろう。そして,義が必ずその腰の帯となり,忠実さがその胴の帯となる」― イザヤ 11:3-5,新。
26 「彼はその目にする単なる外見によって裁かず,単にその耳で聞く事に従って戒めることもしない」ということは,どのように公正を保証しますか。
26 ここで描写されているような世界的な審判者,高められたイエス・キリストを持つ時,地がどうなるかを考えてもみてください! 彼をだませるものではありません。彼は物事の内面を,あらゆる見せかけの裏面を見通すことができます。弁護士のもっともらしい議論による場合のように,欺まん的な話で惑わされることはありません。彼にとって単なる言葉は重きをなしません。重要なのは心の状態です。しかも,それを読み取れるのです。彼は審理を受ける者が有罪か無罪かを定めるのに不完全な男女の小陪審や大陪審を当てにすることはありません。偽善的なアナニアとサッピラの欺まん的な外見や言葉を見抜いて,神の聖霊に対してうそをつこうとしたゆえに死ななければならない旨二人に告げたクリスチャンの使徒ペテロの場合に働いたあの同じ霊を持つのです。―使徒 5:1-11。マタイ 22:15-22と比べてください。
27 彼が裁く時,「へりくだった者たち」や「地の温和な者たち」はどのように益を受けますか。
27 このメシアなる審判者は「へりくだった者たち」や「地の温和な者たち」のために神から授かった方です。彼は現在の事物の体制下の無防備な人たちを虐げる者を恐れずに戒めます。虐げる者たちの弁明しようとする議論を論ばくし,彼らに対してその誤っている不公正な点を証明します。そして,物事を正し,そのあるべき道に合わせます。これは虐げる者たちにとって不公平なところのない,義にかなった事,なすべき廉潔な事柄です。その統治下では組織的犯罪を支配するギャング団は栄えません。彼は組織犯罪を粉砕します。
28 メシアなる審判者が邪悪な者たちに向ける「その口のむち」や「そのくちびるの霊」とは何ですか。
28 メシアなる審判者の下す判決は,効力を生じます。それは施行し得ないもの,高等裁判所に上訴して無効にし,廃棄できるものではありません。(ヨハネ 5:22-24)悪行者に刑を宣告するその口から出る事は,処罰のむちのようになり,それは必ず,また即刻執行されることになります。有罪の者たちはそれを痛感します。また,そのくちびるの間から出るのは,それに対して邪悪な者たちが身を守る手だてを持ち合わせていない,死をもたらす活動力のようなものです。そのくちびるが死刑を宣告すると,そのくちびるの間から出て来るあの霊の働きのために彼らは死にます。悪はもはや許されなくなります。メシアなる王である審判者は悪と結託してはいません。
29 義と忠実さはどのようにして彼にとって帯のようになりますか。その活動にどんな影響を及ぼしますか。
29 エホバの霊がとどまっている,その審判者を強める倫理的特質は,その腰あるいは胴のための帯のようです。それは義の帯や忠実さの帯です。彼は不義の傾向という点で弱点を持っていません。彼を支配し,その動機付けとなっているのは,神の完全な規準にのっとった義です。彼はエホバ神から委ねられた責任に対して忠実で,最高審判者エホバに対する忠実の道以外のものは知りません。完全な人間としてこの地上にいた時,彼は極めて不当な仕方で死んだにもかかわらず,それでも神に対する忠実さを実証なさいました。こうして,長年エホバの崇拝者たちに逆らうものとなってきたうそを,大いなる偽りの非難者サタンの顔面に投げ返しました。悪魔サタンは,エホバの最高の役員であるそのみ子がもし神やみ使いや人間の主要な敵対者によって極限まで試されたなら,神に対して忠実ではなくなるだろうと主張していたのです。―ヨブ 1:1から2:5。
30 異邦人の時が終わった時,メシアなる審判者はまず最初だれに対して行動を起こしましたか。どんな結果が生じましたか。
30 ゆえに,地上のもっと弱い邪悪な者たち,つまり“小者ども”を追う代わりに,メシアなる審判者はまず最初に,組織化された邪悪な事柄すべての強力な首位支配者,サタン悪魔を追いました。それこそ,西暦1914年に異邦人の時が終わるや否やメシアによる王国が天で誕生した直後,天で起きた事柄でした。どこで行動を起こすべきかをまさしくご存じだった就任したメシアなる王は,悪魔サタンとその使いである悪霊たちと戦いをまじえました。その戦いはそれら邪悪な者たちを神聖な天から放逐することによって終わりました。今や勝利を収めた王は,彼らをこの地球の近辺にとどめています。彼らがそこに拘束されている『短い時』が終わるや否や,メシアなる王は彼らを鎖で縛って,この地の近くから底知れぬ所に幽閉します。―啓示 12:7-13; 20:1-3。
31 その王は霊的なパラダイスの外にいる者たちに対して,さらにどんな行動を取りますか。
31 神を恐れるその王は組織化された邪悪な事柄すべての悪魔的な首謀者たちをこのようにして処置する以上,当然どうなりますか。物事を完結させるには,その王は,罪の点でかたくなになって悪魔の見える組織にしっかりとしがみついている人たちを地上で処刑しなければなりません。こうして,エホバの崇拝者たちの霊的なパラダイスの外にある不敬虔な人間の社会は,審判を行なうこの王の口の「むち」によって加えられる一撃を思い知らされます。その王の下す処罰の判決は彼らに対して執行されます。王に本来備わっている義は,帯のように彼を強めて,この事を行なわせます。そうする点で,義の神に対する忠実さは帯のように彼を支えるでしょう。
32 (イ)その行動は,今霊的なパラダイスの中にいる人たちにはどんな影響をもたらしますか。(ロ)今でさえ彼らは自分たちの霊的なパラダイスを美しくするために何をしますか。
32 天と地の組織化された邪悪な事柄すべてに対するこの勇敢な行動は,今霊的なパラダイスの中で神の恵みと保護を享受しているエホバの崇拝者にとって大いなる救済を意味します。彼らは自分たちの霊的なパラダイスを治めるこのような義の王を備えてくださったエホバに感謝しています。彼らはこのメシアなる王の上に神の霊がとどまっていることを示す証拠となる特質を自分自身のうちにもさらに培うよう努め,こうして自分たちの霊的なパラダイスを美しくするのです。
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霊的なパラダイスでは傷つけることも損なうこともない世の苦難からの人間の救いは近い!
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11章
霊的なパラダイスでは傷つけることも損なうこともない
1 霊的なパラダイスを治める王であられる方は,だれの倫理的特質を反映していますか。
人間の政府の倫理的特質は,支配される人民のひととなりを表わすと言われています。これはこの世の政治家が観察して得た所見です。とは言え,これは主権者なる主エホバが地上のご自分の崇拝者のために確立された霊的なパラダイスに今居住している人たちには当てはまりません。宇宙の主権者としてのエホバこそ,彼らの支配者つまり王を彼らの上に立てた方なのです。彼らが自分たちを治める王を,つまり彼らを模倣する王,従って彼らの唯物主義的で利己的な罪深い生き方を大目に見る王を選んで就任させたのではありません。むしろ,霊的なパラダイスの中にいる人たちはエホバ神の像を映す王を欲していますし,また自分たちの天与の王に倣いたい,そのようになりたいと願っています。倫理的にも宗教的にも彼らは自分たちの天与の王のひととなりのゆえに,自分もそうでありたいと願っています。そうです,自分たちのひととなりが,メシアなる王のそれを表わして王に誉れを帰したいと願っているのです。
2,3 イザヤ書 11章6節から8節は,メシアなる王の臣民のうちに起きた人格の変化をどんな言葉遣いで描写していますか。
2 メシアなる王の人格は霊的なパラダイスの中にいる臣民を築き上げる優れた仕方でその人格に影響を及ぼします。イザヤの預言はそのような方向を示しています。エホバ神によって起こされたメシアなる王の特質や行動を述べた直後,預言者イザヤはこう言葉を続けています。
3 「そして,狼はしばしの間雄の子羊と共に実際に宿り,ひょうが子やぎと共に横たわり,子牛やたてがみのある若い獅子やよく肥えた動物はみな一緒で,ほんの小さい少年が彼らを導く者となる。そして,雌牛や熊が草をはみ,その若いものたちは一緒に横たわる。また,獅子でさえ雄牛のようにわらを食べる。そして,乳飲み子は確かにコブラの穴の上で遊び,乳離れした子供は実際に自分の手を毒蛇の開いた孔の上に置く」― イザヤ 11:6-8,新。
4 (イ)その描写は,特に野獣に関してどんな点が特異なものですか。(ロ)そのような状態はかつて存在したことがありますか。
4 その驚くべき預言的な光景の中では,何かが動物に,それも特に原野の野獣に根本的な影響を及ぼしています。野生動物はもはや家畜をえじきにしたり,むさぼり食べたりはしません。肉食の性質を捨てて,危害を加えないおとなしい草食動物になっているのです。むろん,地上では,そうです,エデンの園では,エホバ神が完全な人間の男女をそこに置く以前,そのような状態でした。また,アダムとエバは動物の群がっている地のただ中で創造されたとは言え,動物に悩まされはしまいかと恐れたりはしませんでしたし,ふたりはまた,菜食者でした。では,どうして動物界のそうした変化が預言の中で描写されているのでしょうか。危害の心配のないこうした安全な光景が預言的に描かれているのはなぜでしょうか。
5 この楽しい描写には明らかにどんな目的がありますか。
5 それは明らかに,メシアなる王,天で即位したイエス・キリストの支配を受ける時に人間の社会で生ずる事柄を描写するためでした。しかし確かに,動物界の物事と人間の世界のそれとが異なる訳ではありません。一方は必ず他方を反映します。下等な生き物の領域は高等な生き物の領域を必ず反映します。パラダイスに見られる関係は,それら両者の間でも通用しなければなりません。
6 (イ)そのような変化はどこで起きてきましたか。いつからですか。(ロ)その変化は何によるものですか。
6 久しく受け継がれてきた生来の特質のこのような変化は,動物界ではまだ起きていません。メシアなる王が西暦1914年における異邦人の時の終わり以来統治しておられるとは言え,やはり起きていません。しかし,動物界におけるそうした特質上の変化は,人類社会で起きる変化を反映させるものとして記されたのです。その意図と調和して,預言が動物界に関して予告したような変化が,回復されたエホバの崇拝者たちの霊的なパラダイスの中で実際に起きてきました。このことは彼らが流血の罪を負う大いなるバビロンから西暦1919年以降救出されて以来,真実となってきました。このような変化はすべて,「エホバの霊」の働きによることですし,それはまた,霊的なパラダイスの居住者が,「エホバの霊」のとどまるメシアなる王の統治を受けているからです。―イザヤ 11:1,2,新。
7,8 (イ)今霊的なパラダイスにいる人たちの多くは,かつてどんな性癖を持っていましたか。何がそのような状態を助長しましたか。(ロ)エフェソス 2章1節から3節は,霊的なパラダイスにいる人たちにどのように当てはまりますか。
7 神の恵みを受ける霊的なパラダイスに今住んでいる人たちはすべて,以前から子羊や子やぎや雌牛その他の肥えた家畜のような平和を好む人だった訳ではありません。多くは,恐らく大半の人は捕食性の狼やひょう,たてがみのある若い獅子や熊やコブラその他の毒蛇のような性癖を持っていました。それも世界が全地球的な規模の世界大戦の勃発で特徴づけられた1914年に,いわゆる「暴虐の時代」に入って以来特にそうです。同大戦は人びとの性癖や傾向を全体として改善させるのに役立ちませんでしたし,立派な道義さえ今日の状態にまで衰退し始めたのです。それで,霊的なパラダイスに住んでいる人たちすべてに対して,千九百年前の小アジア,エフェソスのクリスチャン会衆に対すると同様にこう言うことができます。
8 「あなたがたは自分の罪過と罪にあって死んでいました……あなたがたは,この世の事物の体制にしたがい,また空中の権威の支配者,不従順の子らのうちにいま働いている霊にしたがって,一時はそうした罪のうちを歩んでいました。そうです,それら不従順の子らの中にあって,わたしたちはみな,一時は自分の肉の欲望にしたがって生活し,肉と考えとの欲するところを行なって,ほかの人びとと同じく生まれながらに憤りの子どもでした」― エフェソス 2:1-3。
9,10 使徒パウロはコリントやローマのクリスチャン会衆の人びとの以前の生活の仕方に関して何と述べましたか。
9 ギリシャ,コリントのクリスチャン会衆の成員がかつてはこの世のどんな人びとであったかをはっきりと述べた使徒パウロは,彼らにこう書き送りました。「あなたがたは,不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者,盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。でも,あなたがたの中にはそのような人たちもいました。しかし,あなたがたは洗われて清くなったのです。神聖なものとされたのです。わたしたちの主イエス・キリストの名において,またわたしたちの神の霊をもって,義と宣せられたのです」― コリント第一 6:9-11。また,コロサイ 3:5-8をもご覧ください。
10 また,以前のこの世的な道に逆戻りしないようクリスチャンに警告した使徒パウロは,ローマの会衆に宛ててこう書きました。「あなたがたは時節を,すなわち今がすでに眠りから覚めるべき時であることを知っているのですから,そのゆえにもこれを行ないなさい。今や,わたしたちの救いは,わたしたちが信者になった時よりも近づいているのです。夜はずっとふけ,昼が近づきました。それゆえ,やみに属する業を捨て去り,光の武具を着けましょう。浮かれ騒ぎや酔酒,不義の関係や不品行,また闘争やねたみのうちを歩むのではなく,昼間のように正しく歩みましょう。そして,主イエス・キリストを身に着けなさい。肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」― ローマ 13:11-14。
11 (イ)今霊的なパラダイスの中にいる人たちの多くは一時は,捕食動物の特徴に似た特性をどのように反映させていましたか。(ロ)彼らの人格にはどんな変化が生じましたか。
11 それで,今日神が備えておられる霊的なパラダイスを享受している二百万人余のうちの多くの人は大抵,捕食的性癖つまりイザヤ書 11章6節から8節で述べられている捕食性の動物と関係のある動物的傾向をかつて持っていましたし,今なおそのような傾向と闘わねばなりません。世界大戦の時代である現代において,それらの人たちの一部の人は世界大戦や大戦間の小規模な戦いに文字通り参戦し,飢えた野獣のように実際に同胞を殺したり,また殺そうとしたりしました。また,他の人びとは犠牲者に肉体的あるいは精神的痛手を加えようがそれにはお構いなく,犠牲者の弱みにつけ込んで利己的な収益を追求する企業や事業に携わりました。ところが,今やエホバの聖霊の助けを得た彼らは,人格の変化を経験しました。霊的なパラダイスの任命された王,つまりエホバの霊のとどまるメシアなる王は,エホバの崇拝者たちのこの霊的な状態の中で互いに相手をえじきにするような動物的な行為を許すことはなさいません。(エフェソス 4:20-24。コロサイ 3:10,11)そのパラダイスにはクリスチャンの兄弟愛が行き渡っているのです。
12 マタイ 18章1節から4節に記されているイエスの言葉は,霊的なパラダイスの中にいる人たちにどのように影響を及ぼしてきましたか。
12 こうして比喩的な仕方で,おとなしくなった狼は子羊と共に横たわり,またひょうは子やぎと共に,子牛やよく肥えた動物はたてがみのある若い獅子と一緒にいつでも混じり合います。熊は雌牛やその若いものをえじきにする代わりに,熊や雌牛やその若いものたちは一緒に植物を食べて生きます。獅子でさえ,雄牛のようにわらを食べる様が見られます。霊的なパラダイスの中で人びとは王イエス・キリストの言葉に留意してきました。「身を転じて幼子のようにならなければ,あなたがたは決して天の王国に入れません。それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです」。(マタイ 18:1-4)それで今や,ほんの小さい少年が野の野獣を導く者となっているかのようです。
13 聖書のどんな規則を適用したために,彼らは預言者イザヤの予告した状態をもたらすよう助けられてきましたか。
13 霊的なパラダイスでこうして穏やかに,また動物的に互いに相手をえじきにし合うことなく暮らしてゆくのに助けとなるのは,その居住者が自分たちは世のものではないという規則に従って生活していることです。(ヨハネ 15:19; 17:14-16)西暦1914年から同18年にわたった第一次世界大戦中,霊的なイスラエルの残りの者の中には,交戦中の軍隊の非戦闘員の勤務を受け入れ,こうして戦争で流された血に対する連帯責任にあずかったため流血の罪を負った人もいました。しかし,第二次世界大戦が勃発した1939年には,霊的なイスラエルの残りの者はすべて,また羊のような仲間の「大群衆」の人たちも国籍のいかんを問わず,この世の紛争すべてに対して厳正中立を守る旨言明しました。「ものみの塔」誌1939年11月1日号は「中立」と題する記事を掲げて彼らの立場を明らかにしました。以来,この立場を一度もくずしたことはありません。また,この事と一致して彼らは決していかなる国家の政治にも干渉しませんし,参与することさえしませんでした。世の政治に関しては,多くの泥試合が演じられ,おびただしい敵対心や,分裂を招く憎しみが引き起こされているのです。
14 霊的なパラダイスの中ではどんな実が培われていますか。これはイザヤ書 11章6節から8節で予告されている事柄の成就にどのように寄与しますか。
14 使徒パウロの助言に従って,エホバの霊の実が培われています。「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲および欲望とともに杭につけたのです。もし霊によって生きているのであれば,また霊によって整然と歩んでゆきましょう。自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」。(ガラテヤ 5:22-26)競争や対抗や野心的に自分を他の人より高めることなどがないので,悪意ある陰口をきいたり,恨みを抱いたりすることがありません。毒のある蛇,それもコブラさえ不安を感ぜず,恐ろしい毒液を使おうとしない場合のように,乳飲み子はコブラの穴の上で遊び,乳離れして間もない子供は毒蛇の住みかの開いた孔の上に手を置くのです。
命を与える知識が行き渡る
15,16 ほかにイザヤ書のどこに類似した預言が見いだされますか。そこには預言の成就する時を示すどんな事柄がありますか。
15 霊感を受けて記されたイザヤ書の類似した預言を調べれば,この平和で安全な霊的パラダイスの存在する時代を見定めることができます。問題の預言の成就の時機を知るには,それに類似した預言を述べるに至る何節かの箇所も考慮しなければなりません。そこにはこう記されています。
16 「『以前の苦難は忘れられるからであり,それらはわたしの目から実際に隠されるからである。ここにわたしは新しい天と新しい地を創造する。以前の事物は思い出されることもなく,心に上ることもない。しかし,あなたがたは歓喜し,わたしが創造するものを永遠に喜びなさい。ここにわたしはエルサレム,喜びのいわれを,またその民,歓喜のいわれを創造するからである。そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。そこではもはや泣く声やもの悲しい泣き声は聞かれなくなる……彼らはむだに労することもなく,子を産んでも動揺を招くこともない。彼らはエホバの選ばれた者たちで成る裔であり,その子孫も彼らと共にいるからである。そして,必ずや,彼らが叫ぶ前にわたしが答え,彼らがまだ語っているうちに,わたしは聞く。狼と子羊は一つのように草をはみ,獅子は雄牛のようにわらを食べ,蛇はと言えば,塵がその食物となる。わたしの聖なる山のどこにおいても,彼らは傷つけることもなく,損なうごともない』とエホバは言われる」― イザヤ 65:16-25,新。
17 この預言はいつその最初の成就を見ましたか。当時,「喜びのいわれ」となったのは何でしたか。
17 この壮大な預言の最初の,もしくは縮図的な成就は,この預言の最終的,全面的な成就を予示する預言的な型として役立ちます。問題のイザヤの預言の小規模な,あるいは縮図的な成就は,ペルシャ人征服者クロス大王の時代に流刑の身のユダヤ人が故国ユダの地に復帰した後に生じました。その後やがてエルサレムは元の場所に再建され,またエホバの神殿が以前の場所に再建され,再興されたエホバの崇拝が復帰した祭司やレビ人によって再開された時,その聖都は「喜びのいわれ」となりました。このことに関する記述はエズラおよびネヘミヤの書に収められています。
18 この預言が最終的成就を見るのはいつですか。その時,何の働きによって,予告された変化がもたらされますか。
18 ですから,主要な最終的成就は同様の回復の時期に生じます。霊的なイスラエルの残りの者が現代の大いなるバビロンの捕らわれから解放され,エホバの新たな恵みを得て自分たちの正当な霊的状態に回復された時代に生じます。この事は二十世紀の歴史によれば,第一次世界大戦の終わった次の年に起きました。西暦1919年に「王国のこの良いたより」を全世界で公然と自由に宣明する業が勇敢にも再興されたことは,霊的なイスラエルの解放された残りの者が彼らの地上の天与の霊的な状態に復帰したことを示しています。神からの祝福およびエホバの聖霊の働きのもとで,油そそがれた残りの者のこの霊的な状態は,霊的なパラダイスに変えられました。そのような状態の中でこそ,エホバ神はその崇拝者たちの霊的な美しさによって光輝を添えられており,またそこにこそ兄弟同志の平和と一致と安全が見られるのです。
19 預言のこの最終的成就における「喜びのいわれ」であるエルサレムとは何かを明らかにしなさい。
19 エホバ神が「喜びのいわれ」として創造し,ご自分も喜んでおられるエルサレムとは,ユダヤ人のイスラエル共和国の首都ではなく,霊的なイスラエルの残りの者が近づいている天のエルサレムのことです。(ヘブライ 12:22-29)それは西暦1914年における異邦人の時の終わりに際して天で生まれたメシアの王国の中心地です。(啓示 12:1-5)その都は天のシオンの山,エホバの「聖なる山」に位置しており,メシアなる王イエス・キリストは王権を持ってそこに立っておられます。―詩 2:6。啓示 14:1-5。
20 霊的なイスラエルの残りの者の側では,1919年以降,聖書預言の彼らの理解の仕方に関してなぜ種々の是正が行なわれましたか。
20 従って,動物の性質が一変することに関するイザヤの預言の成就する時代は,大戦後の年,西暦1919年に始まりました。これは,聖書預言は成就されて初めて最もよく理解できるという見地に立って,書き記された神のみ言葉の教育を行なう時期の始まりを印づけるものとなりました。それで,わたしたちの以前の見方は是正される必要がありましたし,霊的なイスラエルの生き残った残りの者は大戦後の事実や好機に面して再調整される必要がありました。「王国のこの良いたより」を宣べ伝える業は今や,来たるべき天の政府ではなく,1914年秋における「[異邦]諸国民の定められた時」の終わり以来今度は天で樹立された神のメシアによる王国を宣べ伝える業とならねばなりませんでした。解放された残りの者は今後,主なる神,つまりそのキリストの王国によって1914年に偉大な統治権を執られた方の証人にならねばなりませんでした。(マタイ 24:14。ルカ 21:24。啓示 11:15-17)聖書教育のこの改正されたプログラムは残りの者に絶大な影響を与え,彼らの業を正しい方向に向けさせるものとなりました。
21 この教育的な業の影響はイザヤ書 11章9節でどのように予告されていましたか。
21 人を変化させる影響力と共にこの教育的な業は,イザヤの預言のさらに別の所でも次のように言及されています。「わたしの聖なる山のどこにおいても,彼らは傷つけることもなく,損なうこともない。水が海を覆っているように,地は確かにエホバを知る知識で満たされるからである」。(イザヤ 11:9,新)この節の「彼ら」という代名詞は,すぐ前の三節で言及されている野獣を指していると考えられます。それらの節では,狼やひょうや獅子や熊やコブラそして毒蛇が家畜にも,また無邪気な子供たちにも傷つけるようなことをしないものとして描写されています。
22 このような教育を受ける結果,もはや傷つけたり損なったりしない者たちとは,実際にはだれのことですか。
22 とは言え,危害を加える恐れのあるそれらの動物は,ここでは預言の点での例えとして用いられているに違いありません。そのような動物は,エホバを知る知識で地が満たされても知的影響を受けられるものではないからです。それで「彼ら」というその代名詞は実際には,地上にいる霊的なイスラエルの回復された残りの者のための神の霊的なパラダイスの居住者に当てはまります。それら神を恐れる知的な人びとこそ,「エホバを知る知識」を受け入れることによって性癖や仕事の点でひととなりが変えられる人たちなのです。
23-26 (イ)預言と一致して,ものみの塔の出版物はどんな名を一層強調しましたか。(ロ)このことを1919年8月1日号の「ものみの塔」誌の例で説明しなさい。
23 従って,以前は主あるいは主なる神という一般的な名称を用いてうんぬんされていた方がだれであるかを一層はっきりと示すため,ものみの塔協会の出版物の中で,いと高き神の固有の名,エホバが前面に出されるようになりました。例えば,「ものみの塔」誌1919年8月1日号の「恐れなき者は幸いなり」と題する主要な記事の6節で,霊的なイスラエルの解放された残りの者の状況は,モーセの後継者ヨシュアの指導のもとにまさにヨルダン川を渡って約束の地に入ろうとしていた古代のイスラエルの状況になぞらえられました。イスラエル人は前進するよう激励される必要がありました。その節はこう述べています。
24 「ヨシュアはモーセのごとく温和な人であり,自分の力にはあまり頼らず,かえって神に対して大いなる信仰を持ち,前進するよう民を励まし,神が彼らに約束したものを手に入れるよう激励して,その信仰を表明した。しかしヨシュアは激励を必要としており,彼が導くことになった民もエホバが彼らの前に示した業を行なうための激励を必要としていた。神は次のように述べて,そのような激励を与え始められた。『然れば汝いま…起ちてこのヨルダンをわたり……』」。
25 同じ記事の8節(228ページ)は裁き人ギデオンの得た勝利についてこう述べています。「イスラエル人はエホバに対する信仰と従順の点で怠慢であったため,ミデアン人がやって来るままにし,彼らの土地の最も肥沃な所を占領される脅威にさらされた。イスラエルの方が忠実であれば,この不穏な侵略は阻止されたであろう。ミデアン人は兵力20万余の大軍で襲来し,イスラエル人と戦うため野営を張った。エホバはご自分の民のそれらの敵に対して大勝利を博し,約束の地から彼らを追い払うことを意図された。……エホバはイスラエルを救出するためのみ手の器となる誉れをギデオンに与えられたのである。……そこでエホバの指図のもとでギデオンはミデアンの大軍と戦う志願者をイスラエル人の中から募った……」。
26 次の節は,特に選ばれた300人の志願者で成るギデオンの小部隊についてこう述べています。「総勢300人のこの小部隊は,エホバに喜ばれる特性という現実の要素を持っていた」。その記事はさらに続き,最後の節は一部こう述べています。「愛の全き者とは,心の清い者だけである。ゆえに,イエスの言葉によれば当然,恐れなき者 ― 愛の全き者 ― 心の清い者こそ,王国に迎え入れられ,エホバを見る者なのである」― 233ページ。
27 (イ)イザヤ書 11章9節で予告されている,エホバを知る知識で満たされる「地」とは何ですか。(ロ)「エホバを知る知識」がこのように増大することは,新しい契約のどんな特色と合致しますか。
27 こうして,「エホバを知る知識」は広まって地に,すなわち霊的なイスラエル,「神のイスラエル」の回復された残りの者の霊的な状態のうちに満ちるようになりました。(ガラテア 6:16)この残りの者は,イエス・キリストの仲介により神と霊的なイスラエルの間で成立した新しい契約に入っています。この勝った契約の特色の一つは次のような預言的な言葉の中で示されています。『人おのおのその隣とその兄弟に教へて汝エホバを識れとまたいはじ そは小より大にいたるまでことごとく我をしるべければなりとエホバいひたまふ 我彼らの不義を赦し その罪をまた思はざるべし』。(エレミヤ 31:31-34。ヘブライ 8:7-12)従って,「神のイスラエル」のクリスチャンの残りの者の霊的な状態のうちに,『水が海を覆っているように,エホバを知る知識』が満ちるのは極めてもっともなことです。
28 (イ)「エホバを知る知識」を有する個々の人はそれによってどのように影響されますか。(ロ)イザヤ書 11章9節で指摘されている,彼らが傷つけたり損なったりすることのない「聖なる山」は何を表わしていますか。
28 「エホバを知る知識」は,その所有者に対してかなり重要なことを行ないます。イザヤ書 11章9節(新)のエホバの言葉によれば,「わたしの聖なる山のどこにおいても,彼らは傷つけることもなく,損なうこともない」のはそのせいであると言われています。その「聖なる山」とは政府の所在地で,ダビデ王が「エホバの王座」に座したシオンの山によって予表されていたので,「わたしの聖なる山のどこにおいても」という表現は,表象的な仕方で用いられています。それは単に天のシオンの山を指すだけでなく,この地上の霊的なイスラエルの領域全部を意味しています。それは西暦1919年以来解放され,回復された残りの者の現在の霊的な状態を意味しています。彼らは主なる神がその「聖なる山」である天のシオンの山で即位させた,かつての『エッサイの切り株からの小枝』をメシアなる王として認めて従っています。―イザヤ 11:1,新。ヘブライ 12:22。詩 2:6。
29 「エホバを知る知識」はなぜその所有者の人格を変化させますか。
29 「エホバを知る知識」は霊的なパラダイスの住民を,傷つけたり損なったりすることのない者に変えますが,それはどうしてでしょうか。それには単にエホバに関する情報を得る以上の事があるからです。エホバを知るとは,その意志に従って生活するほどにエホバを認めることを意味します。クリスチャンの使徒ヨハネはこう述べています。「わたしたちが彼のおきてを守りつづけるなら,それにより,彼を知るようになったことがわかるのです。『わたしは彼を知るようになった』と言いながらそのおきてを守っていない者は偽り者であり,真理はその者のうちにはありません。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。それでわたしたち自身,神がわたしたちの場合にいだいておられる愛を知り,[それを]信じたのです。神は愛であり,愛にとどまっている者は神と結ばれており,神はその者と結びついておられます。そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛だからです。でも,そのおきては重荷ではありません」― ヨハネ第一 2:3,4; 4:8,16; 5:3。
エホバを知らないゆえにもたらされる結果
30 エホバを知っている人たちとは対照的に,エホバを知らない人びとについてエレミヤは何と述べましたか。
30 エホバを知らず,また認めず,エホバに注意しないために当然生ずる結果は,その預言者たちの口によって明らかにされています。例えば,エルサレムとその神殿が滅ぼされ,生き残ったユダヤ人がバビロンに追放されるまでの最後の四十年間,エホバは預言者エレミヤの口を通してこう言明されました。『我が民は愚かにして我を識らず 拙き子どもにして暁ることなし 彼らは悪を行なふに智けれども善を行なふことを知らず』。(エレミヤ 4:22)『誇る者はこれをもて誇るべし すなはち明哲して我を識る事とわがエホバにして地に仁恵と公道と公義とを行なふ者なるを知る事これなり 我これらを悦ぶなりとエホバいひたまふ』― エレミヤ 9:24。コリント第一 1:21。
31,32 それよりも前に,神を知る知識がイスラエルで欠如した結果について預言者ホセアは何と言いましたか。
31 また,十部族のイスラエル王国が西暦前740年に世界強国アッシリアによって覆される少し前のこと,預言者ホセアは霊感を受けてイスラエル人にこう言いました。『イスラエルの子らよ エホバのことばを聴け エホバこの地に住める者と争ひたまふ そはこの地には誠実なく愛情なく神を知る〔知識〕なければなり [結果はどうなりましたか。] たゞ詛ひ 偽り 凶殺し 盗み 姦淫のみにして互ひに相襲ひ 血血につゞき流る このゆえにその地うれひにしづみ これにすむものはみな野のけもの空のとりとともにおとろへ 海の魚もまた絶えはてん わが民は知識なきによりて亡ぼさる なんぢ知識を棄つるによりて我もまた汝を棄てゝわが祭司たらしめじ 汝おのが神の律法を忘るゝによりて我もなんぢの子らを忘れん』。
32 『このゆえにわれ預言者らをもてかれらを撃ち わが口のことばをもてかれらを殺せり わが審判はあらはれいづる光明のごとしわれは愛情をよろこびて犠牲をよろこばず 神を〔知る知識〕を悦ぶこと燔祭にまされり』― ホセア 4:1-3,6; 6:5,6〔新〕。
33 霊的なパラダイスの事情は,預言者ホセアの描写した古代イスラエルの事情とは大いに異なっています。なぜですか。
33 十部族のイスラエル王国とユダ王国は『神を知る知識』を退けたために,重大で悲惨な結果を招きました。こうして極めて肝要な知識を退けた結果もたらされた悪い副作用を見てみると,霊的なイスラエルの残りの者の霊的なパラダイスに住んでいる人たちの間には傷つけたり損なったりすることがなぜないのかをよく理解できます。それは水が海を覆っているのと全く同様,健全な「エホバを知る知識」が彼らの祝福された霊的な状態のうちに満ちているからです。この知識は地球全体を取り巻く「七つの海」のように,海ほどに,大洋ほどに深いものです。
34 父に捧げた祈りの中でイエスは,永久の命を得るための主要な必要条件として何を強調しましたか。
34 忠実な使徒たちのために祈りを捧げたイエス・キリストは,いみじくも天の父エホバにこう語りました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)今日のパラダイスの中ではその居住者はなおも,エホバとそのメシアなる王イエス・キリストを知る知識を取り入れています。従って,エホバを知っている人たちのパラダイスのような状態のもとでの霊的な生活は平和で安全です。
「もろもろの民のための標識」
35 (イ)霊的なパラダイスには,油そそがれた残りの者のほかに今ではだれがいますか。それは特にいつからですか。(ロ)イザヤ書 11章10節の言葉遣いは,このような事が起きることをどのように示唆していますか。
35 今では,それも特に,注目すべき年である西暦1935年以来,人間や動物を傷つけたり損なったりすることのないこの比喩的なパラダイスの居住者は,霊的なイスラエルの油そそがれた残りの者だけではありません。今や,エホバを知る知識を求めてひととなりを変化させた,増加の一途をたどる,羊のような人たちの「大群衆」もやはり,残りの者と共にいるのです。イザヤの預言はさらに,このような事が起きることを予告していました。霊的なパラダイスの美しい描写に続いて,イザヤ書 11章10節(新)はこう付け加えています。「そして,その日必ずや,もろもろの民のための標識として立ち上がるエッサイの根がある。諸国民も彼に頼り求める。彼の憩う所は必ず栄光に輝くようになる」。
36 (イ)「その日」という表現はどの時代を指していますか。(ロ)この預言の中で指摘されている「エッサイの根」とはだれのことですか。
36 異邦人の時が西暦1914年に終わって以来の「その日」にこのことは必ず起きます。象徴的な「エッサイの根」とは,栄光を受けたメシアなる王イエス・キリストです。このことに関してクリスチャンの使徒パウロは疑問の余地を残していません。彼はギリシャ語セプトゥアギンタ訳の訳文に従ってイザヤ書 11章10節のこの預言を引用し,非ユダヤ人の諸国民のための壮大な希望を差し伸べた神の寛容と寛大さを示しているからです。それで,ローマ 15章12節でパウロはこう書いています。「そしてまたイザヤは言います,『エッサイの根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望をおくであろう』」。a
37 一世紀当時でさえ使徒パウロがイザヤ書 11章10節を引き合いに出したのは,どうして適切なことでしたか。
37 使徒パウロがイザヤ書 11章10節のその預言を非ユダヤ人つまり異邦人の信者のために引用して用いたのは適切なことでした。それはカエサレアのイタリア人の百人隊長コルネリオがキリスト教に改宗してから約二十年後のことでした。彼が改宗した時,エホバ神は異邦人の信者がクリスチャン会衆に入るのを許すことになりました。それで,割礼を受けたユダヤ人の信者は異邦人つまり非ユダヤ国民の人びとに対する従来の偏見を抑えて,彼らをイエス・キリストの弟子たちの会衆の兄弟たちとして歓迎しなければなりませんでした。
38,39 (イ)しかし,予告されたように,「エッサイの根」が『立ち上がった』のはいつですか。(ロ)イエス・キリストは本当に「エッサイの根」であるとどうして言えますか。
38 とは言え,この預言はもっと厳密には「その日」に適用されます。わたしたちは西暦1914年に神のメシアの王国が天で誕生して以来「その日」にいます。その時,栄光を受けたイエス・キリスト,「エッサイの根」は,地上の諸国民すべてを取り扱うため王国の権威を得て立ち上がりました。(マタイ 25:31,32)イエスはダビデ王を通してエッサイの子孫となりましたが,それでも彼を「エッサイの根」と正しく呼ぶことができました。というのは,ダビデの父エッサイに発する王統がイエスのうちに現実のものとなったからです。エルサレムのダビデの王家がバビロニア人によって覆されてから六百年余の後に到来したイエス・キリストがいなかったなら,エッサイから出た王統は早晩絶えてしまったことでしょう。そして,イエス・キリストが天で即位した西暦1914年には,西暦前607年にダビデ王家の王座が覆されて以来の異邦人の時(2,520年)が満了しました。
39 こうしてイエス・キリストはエッサイに端を発する歴代のメシアなる王の家系に新たな生気を与えました。それに,イエス・キリストが「わたしは復活であり,命です」と言われたことを思い起こすと,彼はエッサイを死人の中からよみがえらせてエッサイにとって命を与える「根」とならねばならないことが分かります。―ヨハネ 11:25。
40 同様に,イエスはどうして「ダビデの根」ですか。
40 同様の理由で,西暦96年ごろ使徒ヨハネに与えられた啓示の中でイエス・キリストは,「わたしはダビデの根また子孫であり,輝く明けの星である」と言って,エッサイの子ダビデとご自分の関係について述べることができました。(啓示 22:16)亡くなって久しいダビデの希望は,星のようなこの子孫また裔,その終身後継者イエス・キリストにかかっていました。
41 イエス・キリストはどうして1914年以来「もろもろの民のための標識」として立ち上がらされたと言えますか。
41 西暦1914年以来,現行の王国の権威を執ったイエス・キリストは立ち上がり,『もろもろの民のための標識として立って』います。天で王を任ずる方であるエホバ神は,そのイエスを地のあらゆる氏族や国民がそのうちにあって祝福されるメシアなる王として立ち上がらせて,もろもろの民すべてに見えるようにさせました。平和で幸福で安全な生活をもたらす義の政府を望むのであれば,彼こそもろもろの民すべてがそのもとに集まらねばならない方なのです。
42 しかし,国々の民は肉眼で見ることのできないこのメシアなる王のもとにどのようにして集まれるのでしょうか。
42 しかし,エホバ神が天のシオン山頂に標識柱のように立てた,身分の高い「エッサイの根」のもとに国々の民はどのようにして集まれるのでしょうか。肉眼で彼を見て,彼を焦点としてそのもとに集まれる訳ではありません。それで,この高められた標識が指し示され,その方に関する情報が彼らに与えられて,理解と信仰の目で彼を見ることができるようにならなければなりません。西暦1世紀にイザヤ書 11章10節を適用した使徒パウロは,このことをよく知っていました。従って彼は,非ユダヤ人つまり異邦諸国民のもとに行って,神のメシアの王国の良いたよりを宣べ伝えよとの神からの使命を受け入れました。彼が伝統的なユダヤ教からキリスト教に改宗した時,栄光を受けたイエス・キリストは彼についてこう言われました。「わたしにとってこの者は,わたしの名を諸国民に,また王たちやイスラエルの子らに携えて行くための選びの器……です」― 使徒 9:1-15; 22:6-21; 26:12-18。
43 使徒パウロはどのようにして,第一次世界大戦以来の油そそがれた残りの者のための立派な模範を残しましたか。
43 使徒パウロはその手紙の中で,ローマのクリスチャン会衆の異邦人の成員にこう書きました。「そこで諸国の人たちに言います。わたしは実際には諸国民への使徒なのですから,自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとします」。(ローマ 11:13)こうしてメシアなる「エッサイの根」の名を非ユダヤ人の諸国民に伝えた点で,この「諸国民への使徒」は,1918年11月11日における第一次世界大戦終了以後の霊的なイスラエルの油そそがれた残りの者にとって今日模範となっています。今は「もろもろの民のための標識」関するイザヤ書 11章10節(新)の預言が主要な最終的成就を見る時代です。使徒パウロは「もろもろの民」のもとに,つまりアブラハム,イサクそしてヤコブ(イスラエル)の生まれながらの子孫である,割礼を受けた生来の肉のユダヤ人とは対照的な生来の異邦人のもとに遣わされました。パウロはそれら異邦人の信者が,あらゆる民のための王なる標識となる,メシアなる「エッサイの根」に信頼と希望を置くよう助けました。それらの信者はまた,マタイ 28章18,19節のキリストの命令に従ってバプテスマを受け,そのようにして一世紀のクリスチャン会衆つまり霊的な「神のイスラエル」の成員となり,同時にメシアの王国の共同相続者となりました。
44 それで,1919年以来,残りの者は良いたよりを宣べ伝える業をどんな領域に押し広げましたか。
44 霊的なイスラエルの残りの者は1919年以来,「また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」と語ったイエス・キリストの預言を今こそ成し遂げるべき時であるという強烈な認識を抱いて,その公の活動を精力的に再開しました。(マルコ 13:10。マタイ 24:14)これは新たに生まれた,神のメシアによる王国の「良いたより」が生来のユダヤ人のみならず非ユダヤ人の諸国民にも宣べ伝えられなければならないことを意味しました。と言うのは,不信仰な生来のユダヤ人は捨てられてしまい,もはやエホバ神の選民ではなかったからです。特に西暦36年に異邦人コルネリオが改宗して以来,神の前でユダヤ人は割礼を受けていない生来の異邦人と同等の対等の立場に立っています。
45 (イ)西暦1919年から1935年までに,宣べ伝える業に答え応じてだれが集められましたか。(ロ)1935年にはエホバのクリスチャン証人の注意はどのようにしてもう一つの群れの人びとに向けられましたか。
45 マタイ 24章31節のイエスの預言によれば,この「終わりの時」,この「事物の体制の終結」の期間中に霊的なイスラエルの残りの者の成員がまず集められなければなりませんでした。(マタイ 24:3。ダニエル 12:4)解放された残りの者は16年間,つまり西暦1919年の春から同35年の春まで,樹立された王国について証言する業に努力を集中しました。そして,その期間に霊的なイスラエルの残りの者を大体集める業をほとんど完了できました。そこで今度は,集められた残りの者の注意は特に,別の種類の者を集める業,当時まさに行なわれようとしていた集める業に向けられました。それは啓示 7章9-17節で予告されている「大群衆」を集める業でした。1935年の春,米国のワシントン特別区で開かれたエホバのクリスチャン証人の大会の際,啓示 7章9-17節を詳しく論じた主要な講演が行なわれ,ものみの塔聖書冊子協会の当時の会長は問題の「大群衆」の実体を明らかにしました。それは以前考えられていたような,天に行く霊的な級のクリスチャンではありませんでした。従って,この「大群衆」は啓示 7章1-8節で指摘されている級の者である霊的なイスラエルの残りの者に属してはいませんでした。
46 (イ)聖書はこの「大群衆」の前にどんなすばらしい希望を置いていますか。(ロ)イスラエル人ではない諸国民に関する特定の預言はどうしてこの「大群衆」に適用されますか。
46 それどころか,この「大群衆」は立派な羊飼いイエス・キリストの「ほかの羊」で構成されることになっていました。彼らの希望は,近づく「大患難」を生き残って,栄光を受けた神のみ子のメシアの王国のもとで地上で完全な命を享受する地的な希望でした。霊的なイスラエル人の油そそがれた残りの者と比べれば,その「大群衆」の人たちは皆,比喩的に言って異邦人です。啓示 7章9節は彼らのことをそのような者として類別し,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」と述べています。それでこれと一致して,イスラエル人ではない諸国民(異邦人)に関する特定の聖書預言は,この「大群衆」に正しく適用できました。
47 予告されていたように,「諸国民」はいつからメシアなるその標識に頼り求めてきましたか。
47 この事からすれば,天のシオン山上のメシアなる「エッサイの根」は今やかつてないほどに『もろもろの民のための標識として立ち上がって』いました。以来,イザヤ書 11章10節(新)の後の部分も成就し始めました。「諸国民も彼に頼り求める。彼の憩う所は必ず栄光に輝くようになる」。第二次世界大戦が起きたにもかかわらず,ますます多くの国々の民がこの王なる標識に頼り求めてきました。彼らは霊的なイスラエルの油そそがれた残りの者による王国に関する証言のゆえに信仰の目であのメシアなる標識を見付けたのです。
48 神の定めた必要条件に関する疑問の答えを得るに及んで,「諸国民」からのそれらの人びとは適切にもどんな行動を取りましたか。
48 「王国のこの良いたより」を宣べ伝えることによって人びとの注意が問題の標識に向けられている207の土地から寄せられる報告によれば,二百万余の人びとが答え応じました。それらの人たちはエホバの今や就任したメシアなる王の是認された臣民となるための,神の定めた必要条件について尋ね,抱いている疑問に対する満足と確信の得られる聖書的な答えを得るに及んで,メシアなるイエスを通してエホバ神に献身しました。そして,水によるバプテスマを受けて公に献身を表わしましたが,その人数は1974奉仕年度だけで29万7,872人に達しました。―マタイ 28:19,20。
49,50 (イ)その霊的なパラダイスにはだれがいますか。また,何がありますか。(ロ)それで,メシアなる標識の「憩う所」はどのようにして栄光で輝くようになりましたか。
49 メシアなる羊飼いであるその「標識」のもとに群れをなしてやって来るそれら「ほかの羊」は皆,霊的なイスラエルの残りの者が西暦1919年以来住んでいる霊的なパラダイスに導き入れられてきました。生活や人格は変えられ,傷つけたり損なったりすることのないこの霊的なパラダイスにはエホバのクリスチャン証人の会衆が今や3万5,000以上もあります。メシアなる「エッサイの根」つまり王なる「標識」が霊によってそこに住んでおられるので,彼の「憩う所」つまり所在地は本当に栄光で輝くようになりました。(マタイ 28:20)この栄光に満ちた状態は,次のようなハガイ書 2章7節(新)のエホバの預言の成就に伴ってきました。「『わたしはあらゆる国民を揺り動かす。あらゆる国民の望ましいものが必ず入って来る。そして,わたしはこの家を栄光で満たす』と万軍のエホバは言われる」。エホバの「家」つまり霊的な神殿は,それら「あらゆる国民の望ましいもの」すなわち「大群衆」の成員が導き入れられることによって栄光で満たされてきました。こうして,その神殿はかつて一度もなかったことですが,今や「すべての民のための祈りの家」となっています。―イザヤ 56:7,新。
50 その霊的な「祈りの家」で,「大群衆」の人たちは日夜エホバ神に聖なる奉仕を捧げています。(啓示 7:15)彼らはそこで,「エッサイの根」であるイエス・キリストを通して神に受け入れられる祈りを捧げます。彼らはそこでイエスの名によって神の前にひざまずき,あらゆる舌が公に『イエス・キリストは主であると認めて,父なる神に栄光を帰し』ます。―フィリピ 2:10,11。
51 霊的なパラダイスの中であなたが経験するどんな状態から考えて,そのパラダイスは想像上のものではないことがはっきり分かりますか。
51 霊的なパラダイスは想像上のものではありません。それは現実のもので,霊的なイスラエル人の回復された残りの者を既に集められた「大群衆」の人たちの霊的な状態として今日存在しています。これら両者の人びとは皆ともにエホバのクリスチャン証人です。(イザヤ 43:10-12; 44:8)現在のこの事物の体制の地的な人間社会で営まれている生活の様式や質とは著しく違って,霊的なパラダイスの中の生活は本当に祝福されています。ここでは,「エホバを知る知識」に満たされた,キリストのような住民によって傷つけられたり損なわれたりすることは全くありません。ここはまた,詩篇 91篇で述べられているような霊的に安全な所です。堕落したこの人類の世を悩ましている霊的また道徳的な災いや脅威が霊的なパラダイスを侵して,神により保護されているその住民を宗教的また道徳的に病気にさせ,神の非難と不興を被らせることは許されません。それは神の聖霊の実が豊かに生み出されている霊的に健全な所なのです。―ガラテア 5:22,23。
52,53 霊的なパラダイスはどれほどの期間持続しますか。それは何の前触れですか。
52 エホバの崇拝者たちの霊的なパラダイスは安定しています!エホバがそれを喜んでおられるゆえに,今や迫った,そして人類の世がかつて一度も経験したことのないような「大患難」の際にも,このパラダイスは地から滅ぼされることはありません。(マタイ 24:21,22。ダニエル 12:1)それは地を汚染したり損なったりする者たちがその「大患難」で滅ぼされ,またエデンの人間の最初のパラダイスに罪を入り込ませた者が縛られて,その一群の悪霊たちすべてと共に底知れぬ所の獄に投げ込まれた後に,文字通りの地球に栄光と美をまとわせる有形の地的なパラダイスの前触れです。―啓示 19:11から20:3。詩 37:37-40; 67:5-7。
53 その時,霊的なパラダイスと文字通りの地的なパラダイスは結合し,全地は「ほかの羊」の「大群衆」がその天の牧者イエス・キリストの祝福された王国のもとで生活する極めて気持ちのよい場所となるでしょう。
[脚注]
a チャールズ・トムソンによるギリシャ語セプトゥアギンタ訳の英訳(1954年改訂版)によれば,イザヤ書 11章10節は次の通りです。「ゆえに,その日,エッサイの根があるであろう。諸国民を支配すべく立ち上がる者である。諸国民は彼に信頼を置くであろう。そして,彼の憩う所は栄光に輝くであろう」。
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