-
地獄は熱い所ですか今ある命がすべてですか
-
-
ハデスはシェオールと同じ
しかし,イエス・キリストが地上に来たことによって問題は変わったのではないか,と問う人がいるかもしれません。しかしそうではありません。神はご自分の性質や義の規準を変えたりはされません。ご自分の預言者マラキによって神はこう言われました。「わたしはエホバであり,変わってはいない」。(マラキ 3:6)エホバは,不従順に対する刑罰を変えておられません。人々に対して辛抱しておられますが,それは,人々が,責め苦をではなく,滅びを免れるためです。使徒ペテロは仲間の信者にあててこう書いています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:9。
不従順に対する刑罰は依然死であるという事実と一致するものとして,クリスチャン・ギリシャ語聖書(一般には「新約聖書」と呼ばれる)が死者の行く所として説明しているものは,ヘブライ語聖書の述べるシェオールと異なりません。(ローマ 6:23)この点は,ヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシャ語聖書を比較することによって明瞭に示されます。ハデスと音訳されるギリシャ語は全部で十回出ていますが,基本的には,ヘブライ語のシェオールと同じ意味を伝えています。(マタイ 11:23; 16:18。ルカ 10:15; 16:23。b 使徒 2:27,31。啓示 1:18; 6:8; 20:13,14。[ご使用の聖書がこれらの箇所で「地獄」や「ハデス」という語を使っていなくても,代わりに用いられている語には,やはり,責め苦の場所という意味合いのないことに気づかれるでしょう。])次に挙げる例について考えてください。
詩篇 16篇10節(15篇10節,ドウェー訳)にこう記されています。「あなた[エホバ]はわたしの魂をシェオール[地獄]に残して置くことはされないからです。あなたはご自分の忠節な者が穴を見ることを許されません」。使徒ペテロの講話の中で,この詩篇の言葉に預言的な意味のあることが示されました。ペテロはこう語りました。「[ダビデ]は預言者であり,その腰の実のひとりを彼の王座に着かせると,神が誓約をもって誓ってくださったことを知っていたので,キリストの復活を先見し,それについて,彼がハデス[地獄]に見捨てられず,その肉体が腐れを見ることもないと語ったのです」。(使徒 2:30,31)ヘブライ語シェオールの代わりにギリシャ語ハデスが使用されている点に注意してください。シェオールとハデスは互いに対応する言葉なのです。
フランス聖書協会の「ヌーヴェル・ヴェルション」(新訳)にある小用語解は,「死者の住まい」という表現に関してこう述べています。
「この表現はギリシャ語ハデスの訳である。ハデスはヘブライ語のシェオールに対応する。それは,死者が自分の死から復活[の時]までいる所である。(ルカ 16:23。使徒 2:27,31。啓示 20:13,14)幾つかの翻訳はこの語を『地獄』と訳しているが,それは正しくない」。
地獄の火に関する教えはどこから来たか
こうして明らかなとおり,シェオールやハデスに関する聖書の説明は,火の燃える地獄の教理を支持していません。カトリックの定期刊行物「コモンウイール」(1971年1月15日号)はこの教理がキリスト教的なものではなく,キリスト教の精神に反するものでさえあることを認めて,こう述べています。
「幾人かの哲学者を含む多くの人にとって,地獄は人間の想像上の必要に答えるものとなっている。これはサンタクロースの逆版とも言えるものであるが……義なる人々で,不正な者がなんらかの衡平的処罰を受けることを好まない者がいるだろうか。そして,もしこの世で受けないなら,なぜ次の世で受けてはならないだろうか。しかしながら,このような見方は,人を命と愛に呼び招く新約聖書の教えと相入れないのである」。
次いでこの雑誌は,この教理の出所とみなされるものについてこう示しています。
「地獄に関するキリスト教の伝統的な概念の背後にあると思われる別の要素はローマ世界に見いだされる。ギリシャ哲学においては本然的な不滅性ということが中心的な前提であったが,ローマ人の間では,公正ということが主要な徳とされた。キリスト教が栄え始めたころは特にそうであった。……これら二つの精神,つまりギリシャ人の哲学的精神と,ローマ人の公正を追求する精神との結合が,天国と地獄,つまり,善人の魂が報いを受けるのであれば悪人の魂は処罰されるという,神学的対称性をもたらしたと言えるかもしれない。不義の者に対する公正な裁きに関する信仰の裏付けとして,ローマ人はウェルギリウスの『アエネーイス』を取り上げ,祝福されてエリシュウムの楽土にいる人々と,のろいを受けてタルタロスにある者たちとについて読みさえすればよかった。そのタルタロスは,火によって囲まれ,処罰に対する恐怖の満ちあふれた所であった」。
こうして,火の燃える地獄に関する教えは,真の神から離れた人々の奉じたものであることが認められています。それはまさに,「悪霊の教え」と呼ぶことができます。(テモテ第一 4:1)なぜなら,それは,人は実際には死なないという偽りに由来するものであり,また,悪霊たちの病的で残酷でよこしまな気質を反映しているからです。(マルコ 5:2-13と比較)この教理は,人々を不必要な恐れや恐怖で満たしてきたのではありませんか。それは神についてはなはだしく誤り伝えてきたのではありませんか。そのみ言葉の中で,エホバは,ご自分が愛の神であることを明示しておられます。(ヨハネ第一 4:8)しかし,火の燃える地獄に関する教えはこのエホバに対する中傷であり,想像しうる最も残酷な行為を偽りにも神に帰するものです。
したがって,地獄の火の教理を唱える人は神に冒とくとなる事柄を語っているのです。聖書の示す証拠に十分に通じていない牧師がいるかもしれませんが,それはあるべき姿ではありません。彼らは,神の音信を語り告げる者と自ら唱えていますから,聖書の述べる事柄を知る務めがあります。彼らは,自分の話したり行なったりする事柄が,彼らに教導を仰ぎ求める人々の生活を大きく左右しうることは十分に知っています。これは当然,自分の教える事柄の真偽を確かめるよう,慎重な態度を取らせるはずです。神について何か誤った事柄を伝えるなら,人を真の崇拝からそらせ,人に危害をもたらすことにもなるからです。
偽りを教える人々をエホバ神が是認されないことは明らかです。古代イスラエルの不忠実な宗教指導者に対して,エホバは次の裁きを宣告されました。「あなたがたがわたしの道を守ら……なかったことのゆえに,わたしとしてもまた,必ずあなたがたをしてさげすまれさせ,民すべての前に卑しめる」。(マラキ 2:9)今の時代の偽りの宗教教師に対しても必ず同様の裁きが下されることになるでしょう。聖書は,そうした人々が世界の政治勢力によってまもなくその地位と影響力とをはぎ取られることを示しています。(啓示 17:15-18)偽りを教える宗教機構を支持し続ける人々もまたそれと同様の運命をたどるでしょう。イエス・キリストは,「盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込む」と言われました。―マタイ 15:14。
こうした点を考えるとき,あなたは,火の燃える地獄の教理を教える宗教組織を引き続き支持してゆくことを願いますか。自分の父親がだれかから悪意の中傷を受けたとすれば,あなたはどのように感じますか。その中傷者を自分の友として引き続き迎え入れてゆきますか。むしろ,そうした人々との交わりをいっさい断つのではありませんか。わたしたちの天の父を中傷する行為をしてきた人々との交わりについても,同様のことを求めるべきではありませんか。
責め苦に対する恐れは神に仕えるための正しい動機ではありません。神はわたしたちの崇拝が愛に根ざしたものであることを求めておられます。これはわたしたちの心に訴えるはずです。死んだ人々は全く意識がなく,死んだ人類すべてに共通な,生命のない沈黙の墓に眠っているのであり,燃えさかる炎の中,叫びと苦痛の満ちる所にいるのではありません。この点を理解するなら,愛を抱いて神に仕えるさいの妨げは除かれます。
-
-
富んだ人とハデス今ある命がすべてですか
-
-
第12章
富んだ人とハデス
ハデスが死んだ人類の共通の墓にすぎないものであるとすれば,なぜ聖書は,ある富んだ人がハデスの火の中で責め苦に遭うことについて述べているのですか。これは,ハデスが,あるいは少なくともその一部が,火の燃える責め苦の場所であることを示しているのでしょうか。
地獄の火について教える人々は,この記述こそ,悪人の前途に責め苦の場所の地獄が控えている明確な証拠である,としきりに指摘します。しかし,そのようにしつつも,そうした人々は,「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」と聖書が繰り返しはっきり述べている点を無視します。(エゼキエル 18:4,20)そしてまた,「死者は,なんの意識も全くない」と述べられているのです。(伝道 9:5)「失われた魂」が火の燃える地獄で責め苦を受けるという考えを,これらの言葉が支持していないことは明白です。
それゆえ,死者の状態に関する聖書の教えは,キリスト教世界
-