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神にしたがって命と血を尊重するものみの塔 1969 | 8月15日
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今は,どこにいる人も命について神と同じ見方をもたなければなりません。このことはかつてなく緊急な問題です。人は命を救うためにエホバ神ご自身が設けられた備えについて学ぶ必要があるのです。エホバ神は御子イエス・キリストをつかわし,信仰を働かせる者たちのために御子自身の命の血を流させ,そののち御子を死から復活させました。(ヘブル 13:20,21)救いは,輸血によってではなく,イエスが流された血に対する信仰によってのみ得られるのです。そして,この古い事物の体制が終わる前の今,その信仰を得,それを実際に働かせることは緊急な問題です。
この愛のある備えについて学んだなら,わたしたちはそれについて他の人に伝えたいと思うはずです。そして,他の人々の命に対して神と同じ心づかいをもつなら,そのことを熱心かつ大胆に行なうでしょう。(エゼキエル 3:17-21)この責任を引き受け,すべての人が聞く機会を持つまでそれを行ない続けるなら,わたしたちは使徒パウロのように,「わたしはすべての人の血について潔白である。神の助言を,はばかることなくすべてあなたがたに伝えたからである」と言うことができるでしょう。―使行 20:26,27,新。
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社交的な行事 ― クリスチャンには節度が必要ものみの塔 1969 | 8月15日
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社交的な行事 ― クリスチャンには節度が必要
昔のユダヤ人の婚礼の祝宴は,音楽や踊りや飲食の行なわれる楽しい行事でした。聖書のヨハネ伝 2章を読むと,イエス・キリストとその弟子たちがガリラヤのカナでそのような祝宴に出席したことがわかります。聖書にはイエスが,右の事柄すべてに参加したことは明示されていませんが,ぶどう酒,つまり人を喜ばせる飲み物を奇跡的につくって,その祝宴をいっそう楽しいものにされたことは確かです。―詩 104:15。ヨハネ 2:1-11。
これはイエスが社交的な行事で,“何をしてもよい”とお考えになったという意味ですか。そうではありません。テモテ前書 3章2節によれば,クリスチャンの監督奉仕者は会衆の他の人々に手本を示す人であり,「習慣には節度を守(る)」人とされています。そしてイエスは“放縦”のゆえにパリサイ人を非難されました。―マタイ 23:25。
クリスチャンは「幸福な神」に仕える幸福な民です。(テモテ前 1:11,新)彼らは徳を高める交わりを楽しみます。忙しい生活の中にも,社交的なつどいで互いに交わることを喜びます。もちろん,そうしたつどいで人間の不完全さのゆえにまちがいが起こり得ることを知っており,節度を保って,そのようなことを避けるように努めます。
社交的な行事に参加するとき,クリスチャンはどんな仕方で節度を表わさねばなりませんか。結婚に関する社交的な行事を検討し,その正しい見方を実例をとおして考えてみましょう。
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