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キリストの死を記念する ― なぜ,いつ,どのようにして,だれが,またどこでですかものみの塔 1977 | 3月15日
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キリストの死を記念する ― なぜ,いつ,どのようにして,だれが,またどこでですか
ヘブライ語聖書には,多くの意義深い,そして本当に感動的な出来事が記述されていますが,族長アブラハムが自分の息子イサクをささげたこともその一つです。
「どうか,あなたの子,あなたの深く愛するあなたの独り子イサクを連れ……わたしがあなたに指定する一つの山で,彼を焼燔の捧げ物として捧げるように」と,神が言われるのを聞いたとき,アブラハムはなんという試みに直面したのでしょう。(創世 22:2,3,新)アブラハムは,偉大な信仰を抱いていたために,その試みに耐えました。自分の子孫に関する神の約束が成就するよう,神はイサクを復活させることがおできになる,と確信していたのです。(創世 12:2,3; 21:12。ヘブライ 11:17-19)こうしてアブラハムは,エホバ神が同じく大いに愛しておられた独り子イエス・キリストをどのようにお与えになるかを,立派に予表しました。―ヨハネ 3:16。ガラテア 3:16。
しかし,そのときイサクも,一つの大きな試みに見事に耐えたことを,ご存じでしょうか。そのころのイサクは恐らくもう強い若者になっていたことでしょう。その気になれば,父親に反抗することも,逃げることもできたでしょう。しかし彼はそういうことはせず,父親に従順に従いました。その点イサクは,イエス・キリストが,「わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」と言って刑柱上の死に至るまで天の父のご意志に従われることを,よく予表していました。―マタイ 26:39。フィリピ 2:5-8。
イエスが天のみ父に従順に従われたことにより,なんと多くのことが成し就げられたのでしょう! ヨブ記 1,2章を見ると分かるように,悪魔サタンはエホバ神に向かって,あなたは自分に忠誠を保つ人間を地上に置くことはできない,と言って嘲笑しました。ヨブのような忠実な人たちは,悪魔が偽り者であることを証明しました。しかし,エデンにいたときの完全なアダムのように完全なもうひとりの人間は,アダムが失敗した点,すなわち非の打ちどころのない忠誠を保つということにおいて成功するでしょうか。アダムが失敗したのはだれのせいでしたか。神のせいでしたか,それとも人間のせいでしたか。イエスは,完全な人間として忠誠を全うされたがゆえに,次のことを証明しました。すなわち,アダムの永遠の命は彼の完全な服従に依存する,とされた点でエホバは公正かつ義であられたということです。アダムが罪を犯したのは,神のせいではなく人間のせいであったことを,イエスは証明されました。そうすることによってイエスは,ご自分の天の父が正当な主権者であることを,立証したのです。イエスが,死に至るまで忠誠を保つことによってみ父のために成し遂げられたのは,そのことでした。
では人類のためにはイエスは何を成し遂げられたのでしょうか。イエスはその死により,世の罪を取り除く,そして人類を完全な状態に回復するための基礎を設ける,なだめの犠牲を備えられました。(ヨハネ第一 2:2)この回復は,地上の楽園において,神の王国により実現します。(マタイ 6:10; 20:28)イエスはまた偉大な師として,ご自分の父の意志をわたしたちに教えてくださいました。その良い例は山上の垂訓です。(マタイ 5:1–7:28)そのうえにイエスは完全な手本を弟子たちに残されました。―ペテロ第一 2:21。
なぜ記念するか
イエスが非常な苦しみを味わわれたことに疑問の余地はありません。その証拠に,イエスはあるときこう言われました。「実に,わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが終わるまで,わたしはどんなにか苦しむことでしょう」。「強い叫びと涙をもって」神に祈られたことさえありました。(ルカ 12:50。ヘブライ 5:7)人間として地上におられたあの最後の夜,イエスはなんと大きな重荷を担っておられたのでしょう。イエスは,自分に対して天の父が何を意図しておられたかご存じでしたが,自分が試練の下で忠実を証明しなければならないこともご存じでした。それに失敗することもありえました。もしそのようなことにでもなっていたなら,それはみ父にとっては大きな恥辱となり,人類にとっては大きな損失となっていたことでしょう。しかしイエスは忠誠を全うされました。そうすることによってイエスは,エホバ神と人類のために多くのことを成し遂げられたのですから,イエスの死を記念することは,極めて適切なことです。
何度記念するか,またいつ?
キリスト教世界の教派の中には,キリストの死を毎日,または毎週祝うところ,あるいは年に四回祝うところがあります。しかし,大きな,意義深い出来事は年に一回記念するのが普通ではないでしょうか。エジプトの束縛からイスラエル人を解放することになった過ぎ越しの場合はそうです。過ぎ越しは,それが起きた当日,つまり聖書の月であるニサン14日を記念日として,毎年一回祝われました。イエスがご自分の死の記念式を制定されたのも西暦33年のニサン14日でした。そして同じ日の後刻イエスは死なれました。したがって,イエスの死を一年に一回その日に記念するのは道理にかなったことであり,ふさわしいことです。今年は,4月3日,日曜日の日没後が,ニサン14日に当たります。日没後というのはなぜですか。古い聖書時代の一日は日没に始まって日没に終わったからです。ですから,北方のある地域では太陽の沈むのが遅いかもしれませんが,それでも,記念のパンとぶどう酒を実際に回す時刻は日没後でなければなりません。
だれが祝うか
ご自分の死の記念式を制定するにあたり,イエスはパンの塊(実際には大きな丸いウエハース状の塊)を取り,それを割いて言われました。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。(マタイ 26:26)イエスはここでどの体を指して言われたのでしょうか。イエスご自身の肉と血の体です。なぜなら,イエスが世の命のために与えたのはイエスの肉体だったからです。パンにパン種が入っていなかったことは,イエスが罪のない方であることを表わしていました。したがって,記念式に用いるパンは,パン種の入っていない無酵母のもの,また小麦粉と水以外のものは何も入っていないものでなければなりません。―ヨハネ 6:51。コリント第一 5:7,8。ペテロ第一 2:22。
次にイエスはぶどう酒の杯を取り上げ,感謝をささげたあと,それを弟子たちに渡し,「あなたがたはみなそれから飲みなさい。これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪のゆるしのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです」言われました。(マタイ 26:27,28)この言葉からわたしたちは,イエスの流された血が二重の目的を果たすことを理解します。その第一は,それが人間を罪から清めるのに役立つ,ということです。(ヨハネ第一 1:7)第二は,ちょうど神とイスラエル民族との間の旧律法契約が,流された動物の血をモーセがふりかけることによって有効にされたのと同じく,イエスの流された血は,神とクリスチャン会衆との間の新しい契約を発効させる,つまり有効にするのに役立つということです。(ヘブライ 9:19,20)イエスが,ご自分の完全な人間としての生き血を表わすために,発酵した純粋の赤ぶどう酒を使われたように,今日でも,記念式に用いるぶどう酒は,添加物によって強くするとか,甘くするとか,あるいは風味を付けるなどしたものではなく,純粋の赤ぶどう酒でなければなりません。
だれがあずかるか
ではこれらの表象物にはだれが適切にあずかることができるでしょうか。イエスは,ご自分の11人の忠実な使徒だけがいるときに記念式を制定されました。その後イエスは彼らに,わたしはあなたがたのために天に場所を備えに行く,と言われました。(ヨハネ 14:1-3)また,王国のための契約を彼らと結んだとも言われました。(ルカ 22:28-30)したがって,主の晩さん ― 記念式はこのようにも呼ばれています ― にあずかる人は,天の王国においてイエスに加わることを期待している人々,また新しい契約に入れられている人々だけです。―ルカ 12:32。ヘブライ 8:10-13。コリント第一 11:20。
それら表象物にあずかる人については,さらに次のように述べられています。「霊そのものが,わたしたちの霊とともに,わたしたちが神の子どもであることを証ししています。さて,子どもであるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です。ただし,ともに栄光を受けるため,ともに苦しむならばです」。(ローマ 8:16,17)パウロはそのようなクリスチャンたちに,記念式を守る正しい方法について指示を与える手紙を書き送りました。そして彼らについてさらに,復活においてはあなたがたは不朽と不滅性を着けるのです,と述べています。(コリント第一 11:20-34; 15:50-54)ですから,この天的希望を持つ人々だけが,記念式のパンとぶどう酒に正しくあずかることができる,ということが理解できます。
ほかにだれが益を受けるか
イエス・キリストの追随者たちのためには二通りの定めがあります。このことを示唆しているのは,神の民が天の栄光と地上の楽園的状態とを楽しむ,と聖書が述べている事実です。(啓示 20:4,6; 21:3,4)イエスはこの二つの級のことを,ついには一つの群れとなる二つの囲いの中の群れと言われました。(ヨハネ 10:16)同様に,人間がせつなる期待をいだいて「神の子たち」の表わし示されるのを待っていることについても書かれています。(ローマ 8:19-21)この子たちはまた,「神と子羊に対する初穂」とも言われていて,さらに他の穂,つまりあとの「穂」もあることを示唆しています。(啓示 14:1,4)このことはさらに,イエス・キリストは,「わたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけでなく,全世界の罪のためでもあります」という,霊感による言葉の中にも示されています。(ヨハネ第一 2:2)この区別はまた,王国相続者たちが,地の全家族を祝福することになっているアブラハムの胤になぞらえられている点にも見られます。―創世 22:17,18。ガラテア 3:29。
ですから,地的希望を持ち,新しい契約に入れられていない「ほかの羊」の「大群衆」は,記念式のとき,パンとぶどう酒にあずかるべきでないことは明らかです。では彼らが出席することに何か意味がありますか。確かにあります。わたしたちはこれを,ある意味で,結婚記念日の祝いに例えることができるかもしれません。もちろん,その祝いは主にその夫婦に関係のあるものですが,それでも二人が,自分たちの幸せにあずかるように,友人や親族などを招待するのはもっともなことです。(啓示 19:6,7と比較してください)地的希望を持つ人々は,天的希望を持つ人々に関係する事柄に大きな関心を抱いています。それで自分も喜びをもって出席し,その式に敬意を表します。
確かにすべての人は,自分がどちらの希望を与えられていようと,出席することによって大きな益を受けます。この式はいつも,エホバ神が,わたしたちを贖うものとしてそのみ子を与えて示してくださった愛という偉大な特質を詳しく話す機会として用いられます。またこの式は,わたしたちのために命を捨ててくださったイエスの愛の深さと,ご自分の追随者たちのために残された立派な手本をも強調します。(ヨハネ 15:12,13。コリント第一 15:3)聖書がさらに示すところによると,主の晩さんは,出席者全員が自己を吟味する一つの機会ともなります。とりわけ互いに対する愛を吟味する機会となります。というのは,イエスがそのときこう言われたからです。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです」。確かに,エホバ神とイエス・キリストが極めて顕著にお示しになったこの愛という特質は,希望のいかんにかかわらずすべてのクリスチャンを見分けるしるしでなければなりません。―ヨハネ 13:34,35。
どこに出席するか
キリストの死の記念式は喜びの時です。というのは,あの記念すべき晩さんの席でイエスは使徒たちに,「わたしは世を征服したのです」と言うことができたからです。(ヨハネ 16:33)イエスが忠誠を保つことによって悪魔を偽り者とし神の真実さを証明されたのは確かに喜ばしいことです。まもなくエホバの証人は,世界中にある4万余の会衆で,イエスの死の喜ばしい記念式を執り行ないます。あなたも,エホバ神とイエス・キリストがわたしたちのためにしてくださったことに感謝している,あるいはそのことについてもっと知りたいと思っている人の一人ですか。ではどうぞ,1977年4月3日,日曜日の日没後,エホバの証人の王国会館においでになって,このキリストの死の記念式に参列なさってください。それはエホバ神への賛美となり,あなたご自身の霊的福祉となります。
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国際連合 ― 危険な野獣?ものみの塔 1977 | 3月15日
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国際連合 ― 危険な野獣?
聖書の中で,国際連合が危険な野獣として描写されているのをご存じでしたか。「世の苦難からの人間の救いは近い!」と題する384ページの本は,その理由を説明しています。この本の「人間の古い秩序が神の新秩序に道を譲る時!」という,興味深い章をお読みになってください。この本はわずか300円のご寄付でお求めになれます。郵送料は発行者が負担いたします。108 東京都港区三田5丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会(振替 東京 5-138022番)にお申し込みください。
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