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  • 「あなたの業をエホバの上に転がしなさい」
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • た。それでエホバがその仕事を行なわれました。確かにわたしたちの問題はモーセが直面した問題以上にむずかしいものではありません。

      19 だからこそ聖書はわたしたちに「絶えず祈りなさい」,「たゆまず祈りなさい」と助言しているのです。この方法でわたしたちは『自分の業をエホバの上に転がし』,わたしたちの計画を確立させてくださるよう常にエホバを頼みにしていることができるのです。(テサロニケ第一 5:17。ローマ 12:12)そうすればわたしたちは,イエスと同じように,エホバのみ名を神聖なものにし,実際に結果を生み出すのがエホバであることを認め,成し遂げられた事柄の誉れをエホバに帰し,エホバを賛美することになります。

  • クリスチャンの施しはどれほど重要ですか
    ものみの塔 1978 | 8月1日
    • クリスチャンの施しはどれほど重要ですか

      イエス・キリストの忠実な弟子たちはいつの時代でも,物質的に,また霊的に困っている人々に対して積極的な関心を示してきました。例えば西暦33年のペンテコステのすぐ後,エルサレムにいた多くの人々は自分の財産を喜んで売り,貧しい仲間の信者たちに分配されるようその収益を使徒たちに差し出しました。こうした信者の中には,ペンテコステの祭りに参加するため遠方からやって来て,その時にクリスチャンとなった人々がいました。これらの新しい改宗者は,兄弟たちの寛大さのおかげでエルサレムに滞在する期間を延ばし,引き続き使徒たちの貴重な教えから益を得られるよう助けられました。―使徒 2:41-47; 4:34,35。

      見倣うべき模範

      霊的および物質的施しの重要性を深く認識していた人の一人に,使徒パウロがいました。彼はローマにいる仲間の信者にこう書きました。「ギリシャ人にもバルバロイ[非ギリシャ人,ギリシャ人が外国人一般,特に他の言語を話す人々を表わすために用いる名称]にも,賢い者にも分別のない者にも,わたしは負いめのある者です。それで,わたしには,ローマにいるあなたがたにも良いたよりを宣明したいという強い気持ちがあるのです」― ローマ 1:14,15。

      なぜパウロは自分を,あらゆる人々に負いめのある者,彼らを霊的に助ける義務を負う者とみなしましたか。人類の世がイエス・キリストの貴重な血によって買い取られたことをパウロは知っていました。神とキリストの所有物であるゆえに,すべての人はこのことが彼らにとって何を意味するかについて確かに知る必要があります。あらゆる場所に住む人々が悔い改め,み子の犠牲に基づいて神との是認された関係に入る,神のご予定の時が来ていたのです。そのような是認された立場は,人々の生活に真の意義や目的を与え,彼らを永遠の命へと導きます。(使徒 17:30。テモテ第一 2:6。ヘブライ 2:9)こうした重要な知識を個々の人々に伝えるための時間は限られていました。なぜですか。それは人間の寿命が非常に短く,いつまで続くか分からないからです。(ヤコブ 4:13,14)それでパウロは,自分が生きている間にできるだけ多くの人々に「良いたよりを宣明」したいと切に願っていました。パウロが,命を与える知識を他の人々に分け与えることを自分の義務と考えたのは正しいことでした。彼にはそうする義務がありました。人々はやがて死んでゆくので,「良いたより」や,それが差し伸べる数々のすばらしい機会を彼らに緊急に知らせる必要のあることをパウロは認識していたのです。そのように考えていたのは使徒パウロだけではありません。このことは,クリスチャン会衆の発足から30年たたないうちに同使徒が,「その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」と書き得た事実から明らかです。(コロサイ 1:23)つまり,クリスチャンの霊的な施しの業は,当時知られていた世界で広範囲に行なわれていたということです。

      使徒パウロや一世紀の他の献身的なクリスチャンは,霊的に与える面で確かに今日のわたしたちに立派な模範を示しました。しかも彼らの与える業は,霊的なものだけに限られていたのではありません。彼らはまた,貧困に陥った兄弟たちを物質的に援助する面でも熱心でした。例えばマケドニアとアカイアのクリスチャンたちは,エルサレムにいる貧しい仲間の信者を助けるのに使うようにと,パウロに基金を託しました。

      パウロはこの救援の業を非常に真剣に考え,ローマにいる兄弟たちに,それが成功するよう彼のために祈ることを求めました。―ローマ 15:25,26,30,31。

      エルサレムへ向かう途中,パウロは様々な場所で仲間の信者に出会いましたが,そうした際に神の霊が直接パウロの上に働くか,あるいは他のクリスチャンの預言者の上に働くかして,彼はなわめと獄とがエルサレムで自分を待っていることを知らされました。(使徒 20:23; 21:11)それにもかかわらず,パウロはしりごみして,エルサレムの貧しい兄弟たちのためにできる事柄を差し控えることはありませんでした。涙を流している仲間の信者に,彼は勇敢にもこう語りました。「あなたがたは泣いたりわたしの心を弱めたりして,何をしているのですか。わたしは,縛られることばかりか,主イエスの名のためにエルサレムで死ぬ覚悟さえできているのです」。(使徒 21:13)考えてみてください,パウロは困っている兄弟たちに物質的な援助を与えるというこの問題を非常に重要なこととみなしていたので,その任務を果たす際,自分に与えられた自由だけでなく命さえも危険にさらすことを覚悟していたのです。

      なぜそれほど重要か

      クリスチャンにとって施しをすることは,実際には愛の表われです。この愛がなければ,神とキリストの前で是認された立場を得ることは決してできません。他の人の福祉に積極的な関心を示さない人が,自分は神に受け入れられる崇拝を行なっていると考えるなら,それは自分を欺いていることになります。神の言葉はこう述べています。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。ヨハネ第一 3:16-18。

      助けを必要としている人に対して利己的にも援助を差し控える人々の上に,主イエス・キリストは厳しい裁きを下されます。このことは,“羊”と“やぎ”に関する例え話の中ではっきり示されています。イエス・キリストがご自分の右側,つまり恵みの側に置かれる“羊”とは,キリストの兄弟のうち「最も小さな者」,すなわち最も取るに足りない者に対して積極的に善を行なう人々のことです。キリストの兄弟がだれであっても,食べ物や着る物や泊る場所がなく困っているのを見るなら,“羊”は彼らを助けるためにできる事柄を行ないます。また,キリストの兄弟が病気になったり,獄に入れられたりして苦しむなら,喜んで,また熱心に彼らを援助します。“やぎ”は利己的にも,キリストの兄弟の実際の必要に答えようとしないため,「永遠の切断」という裁きを下され,命を失います。―マタイ 25:34-46。

      これは,他の人に対し正しい態度を持つことの重要性をわたしたちに銘記させるものです。自分ではどうしようもできない状況のために不幸な経験をしている人々を見るとき,そうした人々を気の毒に思いますか。非常に多くの仲間の人間が霊的に惨めな状態にあることをはっきりと認識していますか。このことから,「良いたより」を熱心に宣明するように動かされますか。

      わたしたち一人一人は,心から霊的に,また物質的に与えたいと願うべきです。そうした施しが神の目から見て真に価値あるものとされるには,それを愛の動機から行なわねばなりません。人に注目されようとして行なうべきではありません。イエス・キリストは次のように忠告しています。「あわれみの施しをするさいには,偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように,自分の前にラッパを吹いてはなりません。あなたがたに真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けているのです。しかしあなたは,あわれみの施しをするさい,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたのあわれみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるのです」― マタイ 6:2-4。

      一世紀と同様,今日でも神の献身的な僕たちは大規模な救援活動を行なっています。また,崇拝の場所を維持し,世界中の真理に飢え渇く人々を霊的に助けるために基金が用いられています。エホバの証人の間では,救援活動や,神の言葉の正確な知識をできるだけ大勢の人々が得るよう援助する業を調整し監督するために,ものみの塔協会が重要な役割を果たしています。

      時折り当誌の読者の中には,この重要な業に役立てるためお金を寄付できないものだろうかと考える方がおられます。こうした目的のための寄付金は,ものみの塔聖書冊子協会(Watch Tower Bible and Tract Society,124 Columbia Heights,Brooklyn,New York 11201)もしくは他の国々にある同協会の支部事務所へ送っていただくことができます。そうした寄付金が懇願されることは決してありません。

      確かに,物質的な援助や霊的な援助を他の人に差し伸べることは,クリスチャンであるための基本的な事柄です。しかしそうした施しは,自発的に惜しみなく,また他から強制されてではなく愛の気持ちからなされるときにのみ,神に価値あるものとみなされます。クリスチャン使徒パウロはこう書きました。「ほかの者たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がないなら,わたしにはなんの益にもなりません」。(コリント第一 13:3)それで,霊的および物質的な施しが神への純粋な愛に動かされて行なわれますように。

      [27ページの図版]

      霊的施しや物質上の施しは真のキリスト教精神の根本をなすもの

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